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想い出

東中 辻 甚作(六十三歳)

私は、昭和十四年四月三十一日に富山県永見市から現住所へ移住して参りました。
当時の私は、若冠二十四才、それも支那事変に召集され、南京、徐州と転戦し、病に侵されて召集解除になり、故郷の永見に帰って僅か何日にして移住を決意し、直ちに実行致した訳です。

今にして想えば無鉄砲な事を致したものだとも思います。その理由は、私の父は大正八年に渡道して居り、永見には祖父母と、私の妻きみ子と長男昭男(当時数え三才)が留守を守って居た訳です。
その父が、私が軍隊から帰ると言う事で、遠く北海道から私を迎えてくれ、祖父母も寄る年波だし、此の際、北海道で一緒に暮らしたらと言う事で、私も戦地から九死に一生を得て帰郷したばかりでしたので、それこそ米の飯とお天当様は、どこでもついて廻ると希望に満ちて渡遺した事が、つい此の前の様な感じが致しますが、もうすぐ四十年になる訳です。

元々、私は永見で約一町歩程の水田農家でしたが、北海道での営農には、さんざん苦労を致しました。当時は耕起も代掻きも、総て馬でしたが、私は馬を使った事も無く、その上、大分年を取った馬に充分なエン麦も与えず駆使する物ですから、馬だって働ける筈も無く、幾時もジャメて手古摺らせられました。
その上、排水も非常に悪く、地表から約五〇センチ程の処に柴を束ねて埋めると言った、全く幼稚な暗渠で、あちこちで馬がぬかり、倒れた馬を起こすのにも大変な苦労をした事、又、田区も約五町歩で百七十枚近く、その小さな田の中に開墾当時から取り残された木材や、その根にプラウが当り、胸を打って痛いやら、口惜しいやらでへ卜へ卜になって、田の畔にひっくり返って居た事等、又、昭和十六年には大東亜戦争の勃発で昭和十六年八月再度樺太に召集される等、その為の人手不足で五月中旬に実蒔した水稲の除草がお盆になってもまだ、一回も手が入らないので、小さな稲にその倍もの丈のヒ工が、我が物顔でのさばっていたあの頃、そうした苦労の末、秋ともなれば、なけなしの稲を収穫し、つららのさがった水車でボトボトと脱穀した。

あの頃を想い起こし、今日の一貫した機械化体勢での営農を思う時、全く今昔の感ひとしおであります。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛