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往時を省みて

元上富良野町農業協同組合長 高木 信一

私が上富良野村東中十一東部落の一番奥地で、現在の島貫武さんの隣地に移住いたしましたのは大正十二年でした。当時東中では畑作が主で現在の十一東、十一西、十二の三部落は総称して培本と言いました。西谷牧場、長野農場、山加農場の一帯で、今の自衛隊の演習地がほとんど畑で、九線十三号から斜線周辺は(東一線北十八号に)店が二軒ありましたが、上富良野村市街まで畑地続きでした。水稲耕作地も今の二分の一位で、三分の二は湿地と葭原小笹が生えていて、今の自衛隊の裏門のところのヌッカクシ川(当時はガンビ川)から市街まで落葉松雑木林に一面の萱原で、日中でも東中から街まで一人で買物に来るには心細く淋しいところでした。

富良野盆地を流れている富良野川、ガンビ川、三線川、五線川、ベベルイ川、と各河川の両岸は鬱蒼とヤチダモやハンの木、ヤナギ等私達が抱えきれないような大木が林立していて、山の上からは見渡せましたが、平野からは全く見通しは出来ませんでした。私の現住地東五線北十八号からは木立ごしに十勝岳を仰ぎ見る有様でした。
生活程度も、住宅は掘立小屋で草屋根と葭がこいで、入口は蓆の戸、母屋に下屋を出して馬屋にしていた等、馬と人間との同居生活を二年半過ごしました。
馬も古来からの道産駒で、背丈は小さく四尺五寸位から五尺ともなれば大物でした。しかし原産馬だけあって寒さには非常に強く丈夫でしたので、道産駒と言うより通称ガンジョウ馬と呼んでいましたが、其の後昭和初期頃からガンジョウ馬も姿を消しはじめて、体格のいい洋種がほとんどでした。

特筆にあたいするのは大正十五年五月二十四日の十勝岳大爆発で、当地有史以来の大惨事で、村では多くの尊い人畜生命が、経済共に致命傷にあたいする痛手だと存じました。
当時三重団体でしたが、全面積が一面の泥沼で大木大石と手の施しようもない有様で、私達青年団員として連日使役に出た記憶が今も新しく、怖さが蘇がえります。

食生活も当時は夏はトウキビ、南瓜、芋、ビルマ豆、冬はソバ粉、屑米の粉団子が常食で、麦飯豆飯で、米ばかりの御飯は年に何回しか食べられませんでした。
それでもお正月には、私の家も餅米一俵をついて、小箱のみかん三箱位でしたが、早朝、一家揃って父母の後にかしこまって、神様仏様に心からの礼拝を済ませていただいた和やかな食事の味は此の上ない楽しいものでした。尚私の十二才頃まで囲炉裏で、大きな根かぶを入れて、昼も夜も焚き火の農家が相当ありました。又、農作物も畑では今作られていませんが、除虫菊と亜麻が富良野平野の畑作の半分位耕作されていて、除虫菊の開花期は東山も西山も白一色で美事なものでした。
水稲の品種も珍古坊主、大坊主、赤毛、二〇号、栗柄餅などで、反当三俵から四俵で、五俵取る農家は精農家でした。

こうして書かせて頂くと衣服も粗末なもので、履物も藁が主で、現在とは話になりませんし、特に想い出されるのは冬の極寒で、永点下二十四度〜五度は普通で、三十五度以上四十度となると、夜中にイタヤ(楓)の木が凍って裂けた事もありました。早朝、山に行って見ますと木の裂けたところに木の液が凍って棒状になっているのを取って食べた薄甘い舌の感触は、私より年上の方は味わっていられると思います。

今想い出しますと、よくあの様な原始生活に堪えて来られたと存じます。尚私の経て来ました農業の一生は、馬耕で終始しましたが、馬との生活が五十年と言う事になります。最近の生活環境と比較して頂きながら御笑読賜りますれば私の望外の喜びと存じます。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛