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上富良野の店のはじまり

西富区 金子 全一(七十一歳)

明治31年に当上富良野村が出来てから、村の人々は米や味噌、日常品を買う為に、一泊で旭川まで行かねばならなかった。鉄道もなく、道らしい道もない所を数人で、熊の襲撃を恐れながらの買いものは大変だったらしい。そこで二代目村長の田中勝次郎さんの親の常次郎さんは、旭川の花輪商店(現在の花輪商事)へ買いものに行った時に、使用人の中で誰か上富良野に店を開いてくれる人は居ないかとたのんだそうだ。そこで白羽の矢が立ったのが、入店して一年半そこそこの金子庫三であった。彼は岩手県日詰町で南部藩の御用商人をつとめる幾久屋(きくや)の四男として生まれたが、明治維新で幕府がほろびるとともに、「いろは」の順で蔵が四十八棟もあったと言う家も没落して、彼は15才で北海道へ家出し、岩内町のニシン場で四〜五日働いた後、花輪商店の店員として住み込んで居た。彼の働きぶりがあまり熱心なので、主人に怪しまれる程だったそうだが、たのまれて上富良野の商店開店の第一番目の人となった。米や味噌、農機具、その他、村の人の必要なものは一切取扱った。仕入や支払いは、ハダカ馬にのって旭川へと言う毎日、戸はむしろ一枚と言う所に一人でくらした。
最初の店は元の創成小学校の近くの西谷さんのそばだった。明治33年に鉄道が敷かれ、駅の位置も町の方になると言うので、店を移し現在のマルイチきくやの所へ新築した。
後に雑貨店、金物店を分離し、妻の実家の為にマルイチ薬局の場所を提供して、現在のマルイチ十字街を形成した。昭和のはじめは、米の出荷も手かげ、上富良野産の米をマルイチ特選米として十勝方面に販売し、町の景気の向上にも務めた。その名残りが今日帯広千秋庵の「らんらん納豆」と言う菓子の「特マルイチ選」に残っている。
(聞き手) 金子 隆一

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛