郷土をさぐる会トップページ     第36号目次

編集後記

編集委員長 北向 一博

 表紙絵は、山の絵美術館『江幌小屋』の佐藤 喬氏にお願いした。氏は、上富良野の現在地に一九九七に移住されたが、移住以前からも含めて、多くの風景画を書き溜めておられ、この中から『住みかの記憶(上富良野編)』として二十作品をポストカードにされている。既刊の郷土をさぐる誌の表紙には、この中の多くを使用させていただいている。本号では、掲載の金子隆一氏投稿の「マルイチ幾久屋」に関わる記事にちなんで、カードの中から「旧呉服店キクヤの石蔵」を選ばせてもらった。

 記事の巻頭は、「先人の声を後世に語り継ぐ事業」シリーズとして、『名誉町民 故 尾岸孝雄の生涯』を特集した。第三十四・三十五号で故酒匂佑一氏、第三十五号で菅野學氏と、名誉町民の称号を持つ歴代町長の就任順に特集しており、現時点でこの最後となる故尾岸孝雄氏は、歴代九人目として二〇一〇(平成二十二)年十二月議会で称号授与が議決された。一九九六(平成八)年十二月から勇退するまでの三期十二年間の上富良野町長としての功績をたたえる称号であり、氏の波乱に富んだ生涯と多数の功績を、当さぐる会中澤良隆編集委員を中心に、公私に関わりの深い四氏の取材・執筆・編集作業によりまとめられた。特に、平成バブル経済の崩壊によって悪化した町財政の、建て直しとして行われた行財政改革については、助役・副町長として、先導する尾岸氏を補佐した田浦孝道氏により詳述されている。

 同じく「先人の声を後世に語り継ぐ事業」シリーズとして、「文化賞受賞者 葛本美智子」氏に執筆を依頼し、『私の八十年の歩み』と題する寄稿を戴いた。
 江花の農家に生まれ、戦前戦後の厳しい生活環境の中で育った子ども時代、厳格な家庭で葛藤を抱えながらの青春期を経て、成人式直後に豆腐店を営む葛本家に嫁入り、生活は一変したが民謡を愛する音楽一家の中で、厳しい商家の慣わしに戸惑いながらも、民謡舞踊という新たな芸能分野を切り開かれた。
 ご主人の故葛本武志氏も民謡の活動功績により、平成元年度町文化賞(第十二号)を受賞されており、大きな影響と支えを受けて、美智子氏も平成十年度に第十八号の町文化賞を受賞、稀代の夫婦功績となったのである。

 次に、当さぐる会の三原康敬編集委員の研究報文『小銃射撃場監的壕』である。
 富良野・美瑛観光の立ち寄りポイントとして、広く知られている日の出公園の一角に、三原氏の子どもの頃に「防空壕」と呼んでいたコンクリートの建造物がある。調査を進める中で、この施設は昭和十三年に、小銃の射撃訓練のために在郷軍人会が設置したものと判明し、同様な施設が近隣市町村にも存在することをつきとめた。この場所は『的』を設置した場所であり、それではどこから、どのように射撃をしたのか、聞き取り調査の中から次第にこの謎が解き明かされていった。

 続いて、倉本千代子氏による『上富良野に生きて』と題する連載の第二回は、豊かな自然環境の下での家庭生活や、児童・生徒としての学校生活を通じ、太平洋戦争前後の世相も含めて、ヤンチャながらも思慮深い?普通の子供とはチョット違う視点から、当時を振り返っている。
 昭和十六年三月旭野尋常小学校を卒業し、上富良野国民学校と名を変えた上富良野小学校高等科へ進学すると、一挙に通学距離は十キロメートル余りになり、最初は徒歩、後に自転車を使えるようになったが、通学だけに時間と体力を消耗する毎日、いつの時代にもいるのかと思わせるいじめっ子の存在など、厳しい日々の中にあっても知恵と工夫を凝らして過し、やっと社会人になったけど…。軽快な筆が、面白さを倍増させる。

 次は、この編集後記の冒頭にも記した、金子隆一氏による『マルイチ幾久屋創業一二〇年に思うこと』と題した投稿である。さぐる誌第二十号掲載の「ふらの沿線初めての商店 マルイチ幾久屋物語」に続く近況編と言う内容だが、記事の接ぎ穂の関係で記述内容が重複してしまうのは、やむを得ないところである。この前作『幾久屋物語』はホームページから検索・閲覧できるため、出身の「岩手県の金子」につながる「岐阜県の金子」氏から、隆一氏の知らない「金子一族」の資料を手に入れることになった。
 これもきっかけの一つに、「岩手幾久屋(金子)」につながる一堂が、平成三十年十月に一族墓所の岩手県紫波町来迎寺で法事を催した。この集いで、隆一氏は、岩手幾久屋一族の「十一代目」を指名されたのである。

 次に、『十勝岳温泉開発をめぐる背景「会田久左エ門氏 苦闘の歴史」』と題して、随分長々しいタイトルの記事が、当さぐる会野尻巳知雄副編集長から寄稿された。文章も長く、本号と次号の二分割掲載も検討したが、結果として一挙掲載に決定した。
 十勝岳温泉は、今でこそ全国に知られる「温泉・景勝の地」また「登山・山岳スキーの拠点」として知られる。同じ十勝岳地区の吹上温泉地区は、明治三十年代末から吹上温泉旅館・白銀荘・勝岳荘と、官民が途切れることなく温泉宿泊施設を経営しており、栄枯盛衰はあったが、『吹上温泉』の名称は古くから出版物にも記録されている。しかし、『十勝岳温泉』にはどのような歴史があるのか、知る人は少ない。これを解明する人物が『会田久左エ門』であり、久左エ門氏が主筆した週間新聞『上富週報』にこの全てが記録されている。この『上富週報』の記事を時系列で拾い出して、『十勝岳温泉』誕生の経緯を解き明かす。

 最後は、右記野尻氏よりもさらに長いタイトルの、郷土をさぐる会中村有秀会長の「十勝岳の大正噴火『山津波 五日後の現地』報告と、その背景(九十二年前の一僧侶の記録)より」と題する記事である。中村会長の几帳面さを象徴するタイトルである。タイトルだけで、大体の内容が推測できるようになっている。私ならと言うことで、もしも『大正大泥流 一僧侶の残した報告』とタイトルを修正して筆者校正に回付すると、必ず赤ペンで元に戻されて返ってくる。余談が過ぎたようだ。
 さて、この「一僧侶」について。上富良野開拓のはじまりを担ったのが明治三十年四月に始まる三重県からの団体入植で、主要な入植者に真宗高田派門徒が多かったため、翌三十一年一月に真宗高田派説教場が置かれ、大正三年には真宗高田派専誠寺として寺号公称を許可された。
 この専誠寺と門徒の大半が、この十勝岳噴火泥流を被災した。当時この高田派本山札幌別院が被災情報を聞きつけ、末寺の専誠寺と、連なる門徒の慰問と調査に、「札幌別院僧侶 千草壽磨師」を派遣した。
 千草師が本山へ提出した報告書が、三重県津市に住む千草師の娘「竹内令」氏により整理、復刻された。この冊子が上富良野町へ届けられ、町内関係者に配布、これを目にして、中村氏が記事を執筆するきっかけになったのである。

 前三十五号の次号予告において、「故 竹谷愛子氏(平成十七年社会貢献賞)」「故 上村重雄氏の寄稿と詩歌」の二編を掲載予定としていましたが、いずれも私編集長の不手際により、掲載できるまでの完成度に至ることが出来ませんでした。楽しみにしておられた読者の方々には、伏してお詫び申し上げます。          
平成31年3月末日(北向記)

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀