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十勝岳温泉開発をめぐる背景
「会田久左エ門氏 苦闘の歴史」

郷土をさぐる編集委員 野尻 巳知雄(八十二歳)

※ 文中の敬語は適時省略させていただきます。
一、「十勝岳温泉」名称の由来
 「十勝岳温泉」の名称はいつ誰が付けたのか?そしてその背景にあった事柄について考察してみたい。
 十勝岳地域(上富良野地区)に温泉が発見されたのは吹上温泉が早く、昭和二十年発行「北海道温泉地案内」(北海道景勝地協会発刊)の記事「温泉の沿革」によると、
『明治三十五年に発見され、三十九年頃より中川某氏に経営され、昭和五年吹上(ふきあげ)温泉株式会社の経営するところとなり現在に至る。
旅館では、吹上温泉旅館(宿泊料一泊二・五○円、自炊の便もある)他に村営ヒュッテ勝岳荘(しょうがくそう)がある。(宿泊一夜○・五○円、食事一食○・三○円)
白銀荘(はくぎんそう)は、一般のスキーヤーの宿泊は許されない。尚旭川営林区署の監視小舎もある』(原文のまま)
と記載されている。
 十勝岳地区の温泉で最初に利用されたのは翁(おきな)温泉が早く、明治三十八年から四十年頃に硫黄採掘の関係者によって、仮設小屋が建てられ利用されていた記述が残っている。
 なお、参考までに大雪山国立公園の指定を受けた昭和九年の「上富良野村政一覧」「十勝岳名勝案内」には十勝岳の紹介を次のように記載している。
『東洋一のスキー場十勝岳ハ当村東部ニ聳立(しょうりつ)シ四六時中白煙ヲ噴出セル十勝岳ハ大雪山ト共ニ国立公園ニ指定セラレ支峰上ホロカメトツク富良野岳ト共ニ其ノ雄姿ハ北海アルプスノ称ニ恥ジズ山岳家ノ憧レノ的トナツテ居ル風景眺望共ニ壮絶ナリ中腹ニハ湧出量豊富ナル吹上温泉アリ夏季登山スレバ避暑湯治ト併セ三大快味ヲ満喫シ得ベク冬期間ハスキー場トシテ十勝独特ノ雪質ト変化アルゲレンデトニ於テ山岳スキーヤーニ羨望セラルル處(ところ)ニシテ往年スキーノ巨人《ハンネスシュナイダー氏》ヲシテ世界的スキー場ノ賛辞ヲ放タシメタル斯界ノ独断場ナリ
吹上温泉ニハ冬季スキー期間中合宿ノ便アリ又十勝岳ヒュッテハ昭和七年十二月道庁ニヨリ建設セラレ佐上長官閣下ヨリ白銀荘ト命名セラル』
 「登山案内」には、
『上富良野駅ヨリ吹上温泉及十勝岳ヒュッテ迄約四里半夏季ハ自動車、冬季ハ馬橇ノ便アリ
吹上温泉ヨリ 十勝岳頂上迄約一里十八丁途中約一里ニシテ大噴火口アリ
  仝(おなじ) 上ホロカメトツク迄約二里
  仝     富良野岳迄約二里半
  仝     旧翁温泉迄約一里(付近一帯噴出セル大湯沼ナリ俗称湯河原(ゆがわら)ト云ウ)
  仝     旧噴火口迄約一里面積約十町位至ル處ノ小気口ヨリ熱湯及硫黄ヲ噴出ス一名地獄(じごく)谷(たに)ト云ウ 以下略』
 この案内文から、
@十勝岳が東洋一のスキー場である
A風景眺望は「北海アルプス」の名にふさわしい
B湧出量豊富な吹上温泉は避暑湯治に適し、スキー合宿に便利である
C白銀荘の命名者は佐上北海道長官である
と述べている。
 「昭和二十五年の村勢要覧」「登山案内」では、
『上富良野駅より十勝岳吹上温泉及十勝岳ヒュッテ迄約四里半、夏季は自動車、冬季は馬橇の便あり。
◎白銀荘 定員九名 宿泊浴場の設備完全
 宿泊料 一○○円
◎勝岳荘 定員 六十名自炊寝具の設備完全
 宿泊料 五○円』
 このように、この時期に貨幣価値の大きな変動があったために、昭和二十年に比較して二十五年には、勝岳荘の宿泊料が百倍にもなっていることが分かる。また、戦後になり初めて白銀荘が一般開放になったことが記載されている。
 「十勝岳温泉」の名称は、標高千三百メートルの高所に開業した「凌雲閣(りょううんかく)」の創始者会田久左エ門(あいたきゅうざえもん)氏が、昭和三十四年五月三日に旧噴火口下流に温泉源を発見し、同年十一月十五日付で厚生省に申請した「国立公園宿舎事業執行認可申請書」に記載した「十勝岳温泉宿舎事業」の名称から生まれたものである。
 「十勝岳温泉」の開発経過については、「郷土をさぐる」第九号『十勝岳温泉を開発した 故 会田久左エ門氏』で金子全一氏が、第二十三号―石碑が語る上富の歴史(その十二)―「会田久左エ門の歌碑」で中村有秀氏がそれぞれ詳しく記述されているので、ここでは省略させていただく。

掲載省略:(写真)昭和29年頃の白銀荘(中央奥)と勝岳荘(左手前)
掲載省略:(写真)會田久左エ門肖像
掲載省略:(写真)會田久左エ門の歌碑 昭和50年8月8日建立(安政火口への入口付近)
二、十勝岳開発と上富週報
 会田久左エ門氏が当時未開発であった風光明媚なまま眠っている十勝岳の開発を、新聞の力で促進させようと発刊した「上富週報」(昭和三十三年四月創刊。最初は『旬刊新聞 あゆみ(昭和三十一年十二月創刊)』の名称であったが、岩田悌四郎氏が発刊していた「上富良野新聞(昭和二十五年九月創刊)」と合体)の記事から、氏の十勝岳開発に注いだ熱い情熱の想いを引用する。
 なお、昭和三十一年十二月に発刊した「あゆみ」の創刊号から三十四年十二月発行の第百四十九号までの「上富週報」は残念ながら残っていない。
 その想いを記載した記事は昭和三十五年一月一日発行(第百五十号)の「上富週報」に次のように掲載されている。(記事抜粋)
『新聞発刊するに至った動機は、十勝岳の開発を好奇心が底を流れておったのであります。
 頭初「あゆみ」は「十勝岳が開発されたら止めるんだ」と予定して始めたものでしたが、昨年旧噴火口下流で温泉源を発見し、十勝岳温泉を自身で開発する運命に成ろうとは真に思いもやらぬ事であり感激無量なものがあります』
 このように上富週報が十勝岳開発の啓蒙に役立てようと発刊されたことが記述されている。また、
『十勝岳開発を志して今年で十一年目です。昨年の暮れの臨時町議会に商工会より提出された「十勝岳産業道路開発の件」に満場一致で採択された時は、止めどなく溢(あふ)れ出る涙に声も出ませんでした。単に温泉地に道ができると言う喜びでなく、十年来唱えてきた十勝岳の中心に直通する将来の大幹線となる中茶屋より旧噴火口直通の道、上富良野町でなければ出来得ない十勝岳まで最短距離で直通する将来のバス道路は十年来の悲願であったのです。
 近年世界的に観光客の往来が激しくなってまいりました。上富良野町に眠っている天然資源十勝岳を開発して世界の観光客を呼び寄せるまでになった時に始めて十勝岳を持つ本町の自然の立地条件を謳歌する時が来ると信じます』
 この文章を読むと、十勝岳の自然景観を世界に向けて発信しようとする心意気がひしひしと伝わってくる気がする。
三、十勝岳開発道路をめぐって
 昭和三十五年一月二十九日付上富週報(以下「上富週報」を省略。)(第百五十四号)には、「十勝岳産業道路開発について」関係機関、団体などの関係者による会合が開かれた記事が掲載されている。
『一月二十五日午後一時半より町長室で会合が持たれ、町長、富良野営林署長、穂積担当区主任、駐屯地司令代理坂本三佐、三○八施設部隊長山崎三佐、山本商工会頭、山内上富良野駅長、福家議長、宮野、佐藤両議員、唯浦土木課長、菅野豊治、会田久左エ門、その他関係者による審議が進められ、道路については今春下調査の結果道路用地の借地手続きを取り、正式測量許可の次第着工に移す見通しである』
との記事が載っている。この時期、会田久左エ門氏は温泉源を発見し、一日も早い宿舎事業の開始を望んでおり、機材運搬に欠かせない道路の開削が一日千秋の思いで完成されることを願っていたことと思われる。
 二月十九日発行第百六十号には、
『上川支庁長須田政美氏が総務課主事阿戸源右エ門氏同伴で非公式に来町され、町長、菅野豊治氏、会田久左エ門氏(会田氏と菅野氏は須田支庁長とは在満時代に面識があった)と面談し、海江田町長からは十勝岳の開発についての陳情があり、菅野豊治氏は十勝岳観光資源開発、産業道路の重要性、会田氏は旧噴火口の硫黄資源開発、褐鉄鉱の開発、温泉源発見による観光開発の重要性について陳情したが、支庁長は六月頃町村知事同伴で現地視察する旨約された』
と記事が掲載されている。
 また、同号には「猛吹雪の中を湧源調査行」の表題で温泉湧出箇所の冬期間の湧出状況の調査した記事が掲載されている。
『第一回目は一月十五日に、二回目は二月六・七日に亘って中茶屋まで役場の車で行き、営林署管轄の中茶屋事業所に一泊し、会田氏外四名で出発したが、翁温泉付近から猛吹雪に会い吹雪と闘いながら調査が行われた。「温泉箇所は夏同様多量の湯が流れているが、谷全体に八尺以上の吹き溜まりがのしかかっている。昨秋配管した岩の所は人が三・四人入れる程の洞窟となり中に入れば暖かい』
 同じく二月十九日付の同号で、会田久左エ門氏が新聞を立ち上げた目的とも言える「観光事業に対する啓発」の記事が載っている。
『観光事業の再認識(一部抽出)
白金温泉(編集注:昭和二十五年開業の当時の美瑛町営白金温泉旅館のこと)は開発以来十年目で六百万円の黒字をだしたと言う。層雲峡の場合は温泉宿の固定資産税、入湯税合わせて九百万円が町税として入る訳である。客層を見ると内地の団体客が圧倒的で土産品が大きな資源をなしているそうだ。本町の場合十勝岳の雄峰を持ちながら大方は他町の利用に任せている事は周知の事実であるが、十勝岳産業道路の開発により無尽蔵の硫黄資源が開かれ、永続的な鉱産税が約束される。温泉客の誘致に対しては全国的にも稀に見る有効成分があり全道からの湯治客により繁盛する事は約束出来るものである。本町としては農業資源も限度に来ており、十勝岳の開発する外は資源開発の道がない状態にまで迫っている。富良野町(編集注:当時の南富良野村の誤りか?)では金山ダムを観光資源として計画しており富良野岳より清水に向かう道路の開発の計画も進めている。本町も大自然の環境を極度に利用する計画が急を要する問題である』
 このように新聞を通じて広く町民に観光開発を訴えようとしている事が理解できる。
四、十勝岳開発構想
昭和三十五年五月二十七日付(第百六十八号)
『町村知事の来町を請い 《十勝岳爆発三十五年祭(★)(記事のまま)を》有志の間で計画立案中
大正十五年五月二十四日の十勝岳爆発は我が町の歴史に大きな足跡を残している。三十五年の大自然への闘いの勝利を讃えると共に多くの犠牲者の冥福を祈る為に十勝岳爆発三十五年祭を催し全道に呼びかけ町村知事の来町を願い山の観光開発の促進を図り資源開発に乗り切ろうとするものである』
六月十日付(第百七十号)
『十勝岳の褐鉄鉱開発《日鉄鉱業で三○ヶ所にボーリング計画、現地に仮設宿舎建設小山組と契約》
十勝岳翁地区の褐鉄鉱開発について調査が進められていたが六月六日、日鉄鉱業株式会社北海道鉱業所技師福岡政晴氏、小坂尚之介の両氏が来町、本年度実施計画として三○ヶ所にボーリングを施工し明年より採掘が進められる模様である。小山組と機材の搬入と仮設宿舎建設の契約を締結した』
 この記事から、褐鉄鉱の開発に向けて動き出した様子が解る。(六月二十四日付では、翁地区でボーリング着工の記事が載っているが、結果褐鉄鉱の鉱脈が少なく採算が合わないために採掘が中止となった)
 同号には十勝岳関連で「十勝岳産業道路現地測量―町開発分四千二百七十九米―終点より旧噴まで三百米」の見出しで六月二日・三日の二日間に行われた現地調査の記事が載っている。
『第一日目は酒匂助役外土木課、産業課、観光係、観光協会役員等八名で中茶屋より測量を開始し翁温泉で昼食、既設道路の分は二千三百米それより新設道路は千二百二十米で滝上に至り時間も四時になったので下山した。
 翌日は及川氏(写真家)も参加し白銀荘まで登行し将来白金温泉、白銀荘、旧噴、富良野岳、原始が原を結ぶ観光道路の参考として三段山中腹の雪渓を横断し、大内氏の温泉源地を通り、三段山崖尾根の一本松に至り、南面のハイ松地帯を下り前日の最終点で昼食とした。此処より測量を開始し旧噴火口より三百米(三段山分岐点まで七百米)の測量を完了した。この道路が完成されれば噴火口付近までバスによる登山が可能となり上富良野口登山者が急増するものとして将来を期待されるものである』
 この時点では旧噴火口付近まで道路の開削が計画されていた模様である。

七月二十二日付(第百七十六号)
『月の裏側化している十勝岳…厚生省認識不足 十勝岳観光協会役員より
 厚生省が指定した大雪山国立公園の施設に対して我が町の十勝岳は完全に視認されている現状である。
 七月十二日旭川での会合に酒匂助役が出席し「旧噴火口、ヌッカクシフラヌイ川上流の集団地区指定」を陳情したが、厚生省係官として列席していた北海道庁林務部林政課の堤文雄氏は、厚生省では集団施設として車道、駐車場、宿泊施設の増強等を白金はじめ各地区に指定しながら十勝岳には避難小屋と歩道が記されているばかりで、一度も見たことが無く机上プランでは是(これ)位(ぐらい)は必要であろうとして記入されたものだと言う。国、道の指定と言うようなものは熱心な運動によって決定される場合が多く、天下の十勝岳を持つ本町の運動不足が結果として中央部では十勝岳は開発価値の無い山と見なされる事に成った訳である。時代の波は観光ブーム登山ブームでありながら我が町の十勝岳は月の裏側化していたのである。厚生省の不明と言うよりも我が町の啓蒙運動が道庁にさえも達していなかった結果によるものである。町ではこの計画に乗せてもらうために大急ぎで十勝岳の開発案と将来の見通しを明細に記入し、付近の写真を添えて提出した。上富良野町の観光では他町より観光客を誘致する事は誠に微々たるものである。施設の無い山は如何に優秀な山でも町に恩恵を与えない。撒(ま)かぬ種は生えぬの例の通りである。昨年発見した旧噴火口下流の温泉を十勝岳温泉に仕上げるべく奮闘中であるが、将来入湯税として地元町村を潤すものである事を認識されて町民各位の御声援を希うものである』
 この記事では、当時の十勝岳観光に対する厚生省や道の認識の現状を知ることが出来、会田氏の無念の思いや開発に対する情熱、今後に寄せる明るい希望が伺われる。
五、観光事業取り組みの不熱心
昭和三十五年八月五日付(第百七十八号)
『上富良野町の観光事業は「全道一不熱心」
      道林政課 堤技師談
 大雪山国立公園施設に対し厚生省案の十勝岳認識の不備を是正すべく会田氏は道庁林務部林政課公園係技師堤文雄氏を訪問した。
 十勝岳の資料を持ち上富良野の立場を考えて行った処氏は先に上川支庁で開かれた大雪山国立公園の観光施設協議会の翌日美瑛町の要請により、役場の人々と共に十勝岳を踏破し十勝岳の良さは十分知っておられた。「観光事業については自分の山が良いからすぐ何とかしてくれと言うのは無理な相談である。各町村共永年に亘り猛烈な運動が続けられている。お宅の役場では此の頃力を入れて来たが熱がないことは全道一だろう」とおほめに与(あずか)った。
 美瑛町では本年になって課長や係長が七回も来て運動を続けているのに一度も顔を出したことが無い町長が年に一度位は道庁に来られるだろうから顔だけでも出すようにしてもらったほうが良いと教えられた。其の土地の熱の入れ方によって優先的に事が運ばれる場合がある。全道の観光連盟にも加盟していないのでは無いか?と指摘された。十勝岳開発について道路の新設が挙げられ議会も承認し実施段階にあり、中央部に対して強く要請がなされているものと思っていたので記者も次ぐ言葉も無く今後の発展にご協力をお願いした。十勝岳温泉に就いては正式認可が近々厚生省から来ることであろうとの事であった。上富良野町の立地条件から現場調査も要請があれば来町される旨語っておられた。道路新設に対して特別区であるため厚生省の認可が必要であり営林署より土地の貸入れもせねばならぬ。六月に調査したのみで地図も出来ていない模様である。堤氏の言葉通り上富良野は自分の都合ばかり強調するがそう思った通りに簡単に出来ないと言う。道路の開発も又遅れて行く事であろう』
 このように、当時の上富良野町に対して痛烈な批判の記事を掲載している。
六、温泉元発見と観光道路の開発
昭和三十五年九月九日付(第百八十二号)
『九月十四日須田上川支庁長来町
   「十勝岳登山決定 旧噴地区を視察」
 十勝岳観光開発の視察を目的に上川支庁長が来町される決定の連絡があった。行動範囲は中茶屋新道を通って翁地区に進み目下工事を進めている十勝岳温泉建設地付近を視察し、旧噴火口に至る予定である。
 十勝岳温泉も七月一日よりの努力で湯元より四百米の引湯に成功したので、展望の良い滝上高台に仮設浴槽を設け旧噴火口、三段山、富良野岳の高山の紅葉を一望の内に入れつつ野天風呂の快味を満喫するよう準備を進めており道路の新設も迅速な進展があるものと期待されている』
 この記事から、上川支庁長の十勝岳視察が実現した様子が解る。

九月十六日付(第百八十三号)
『 「十勝岳温泉明年完成へ」
 昭和三十四年五月旧噴火口を水源とするヌッカクシフラヌイ川流域に温泉源を発見し十勝岳温泉として開発に努力してより既に一年半を過ぎ紅葉する秋風の中にようやく希望の台地(勝鬘滝(しょうまんのたき)上)に湯けむりが上がったこの地は十勝岳中第一の絶勝の地である。又是(これ)だけの地もよく知る人は少ないのである。旧噴に通ずるバス道路は明春着工の見通しがついて来た。温泉宿舎も明春早々に建設に着手すべく各官庁を通じて準備を進めている』
 温泉源からの引き湯に成功した喜びと道路完成への期待が文面から知ることが出来る。
 九月二十三日付(第百八十四号)には、町長以下町の有志十三名が出席して温泉通水式が挙行された模様が掲載されている。

十月十四日付(第百八十七号)
『「十勝岳産業道路施設隊にて測量開始」
中茶屋より二千五百米は経済林道として幅員四米五十の立派な車道として営林署によって出来上がっており、残工事となっている千六百米の幅員拡張も営林署によって測量済みである。是(これ)に接続し翁温泉跡、十勝岳温泉建設予定地を経て旧噴火口に通ずる道路予定地が今回の測量実施地で、測量完成と共に設計図及び書類を整備し町より自衛隊に施工方について申請書が提出され、早春に着工される事となろう』
 この記事により、産業道路の途中経過と今後の動きが解る。全長九キロの測量事業は十一月上旬に完成を見ている。

十月十四日付(第百八十七号)
『「日本一の壮観と絶賛」
     北海道地下資源調査所長来町
 十四日に十勝岳温泉現況調査に来町された北海道地下資源調査所の斉藤所長は、部員二名と共に登山し川井温泉現場、吹上地区、翁地区、十勝岳温泉建設地を調査され、「自分はほとんどの日本中の温泉を調査し見て廻っているが此処程豪壮なバックを持つ温泉は無いだろう、日本一だろう、将来の発展は間違いなしですよ、どんと人がきますよ!」予定地に引き湯と飲料水も引かれてあったので非常に喜ばれていた。飲料水も保健所の分析で飲料適とされ道路完成の見通しもつき温泉宿舎完成の見通しがついた』
 この当時の喜びが目に見える様である。
七、十勝岳温泉厚生省認可
昭和三十五年十二月九日付(第百九十五号)
『 「十勝岳温泉厚生省認可」
 待ちに待った「十勝岳温泉宿舎事業の認可」が昭和三十五年十一月十六日付で厚生大臣中山マサから公布されたが、条件として昭和三十六年十二月三十一日までに工事を完了し施設の供用を開始することと成っており、許可から一年で工事の完了を条件に付けている事はやや疑問に感ずる』
 昭和三十六年一月一日付(第百七十九号)元旦号には新年の所感として次のような記事が載っている。
『昭和三十六年、それは希望に満ち溢れる年である。町長を始め町民各位の深い御理解と駐屯地部隊の御支援により十勝岳に新登山道路が拓(ひら)かれる年であるからである。山男の希望の夢が実を結ぶ年であるからである。(中略)「牛の歩みよりも遅くとも」前紙あゆみを発刊して十勝岳開発を叫んで以来ようやく希望の道がつく。奇しくも昭和三十六年丑年である』
 まさに会田久左エ門氏が願った新聞発刊の試みが成功に向けて大きく前進したことを述べている。
 二月十日付(第二百二号)には「十勝岳温泉建築概要」と北海道立衛生研究所による「温泉分析書」が掲載され、十勝岳温泉簡易宿舎の内容と温泉分析による効能が記載されている。愈々(いよいよ)温泉宿舎事業が動き出してきた事が伺われる。

三月十七日付(第二百七号)
『十勝岳産業観光道路費 四百五十万円---中茶屋より四粁今春着工---
 多年の懸案であった十勝岳産業観光道路は自衛隊の協力を得て三十六年着工の計画で三十八年度まで三年計画である。本年度は中茶屋より四粁余を第一期工事として予算四百五十万円を計上している。幅員五米五○に拡幅されバス通行可能な道路が建設される』
五月十二日付(第二百十四号)
『三段山観光道路バス路線調査
 十勝岳開発は先ず道路からと中茶屋からの工事の準備が進められているが、旧噴付近で是(これ)に連絡する循環道路として白金、吹上を結ぶ三段山の環状道路も同時に計画されており、五月八、九、十の三日間に亘って役場関係職員四名、三○八施設部隊から大西一尉外三名と記者(会田氏)の八名により測量が実施された』
 その同行記が二週にわたって詳しく掲載されている。

掲載省略:(写真)昭和36年十勝岳産業道路自衛隊部外工事着工式
八、温泉宿舎事業開始
昭和三十六年六月二日付(第二百十七号)
『 「十勝岳温泉建設作業」
     六月七日より資材運搬開始
 十勝岳温泉宿舎建設事業は残雪の状況を見て諸般の準備を進めていたが六月七日より中茶屋から六千五百米の旧製錬所跡まで引き揚げ中継所とし、残りの二キロ米は馬車で現場まで運搬する事に予定されている。今年は現場付近に作業小屋を設置し、湯本の整備、宿舎敷地を整地し基礎工事及び石積作業をなし建物の地階部を完成する』
 いよいよ宿舎事業の本格化である。
 六月二十三日付(第二百二十号)、『十勝岳温泉開発工事記録(1)』
 この号から三回に亘って十勝岳温泉開発工事の模様が詳細に記事として掲載されている。この号では、温泉宿舎建設に必要な資材の運搬を会田氏外四名で試みたが、昨年行った道路工事が砂利不足で車の腹がつかえ、破損個所を補修しつつ砕石予定地からは温泉現場まで二千七百米を各自背負って荷揚げした事が載っている。
 「十勝岳温泉開発工事記録(2)」は六月三十日付(二百二十一号)で、「十勝岳温泉開発工事記録(3)」は、七月二十八日付(第二百二十五号に、「十四日の豪雨に二年の成果一瞬に流失」の表題で当時の状況を記している。
『・・・全員総力を挙げてせまい岩間を掘り岩石を砕いて七月十三日遂に第一、第二湧出湯引き揚げに成功した。七月十四日作業は順調に進んだが三時頃から大雨と変わってきた。午後七時に突如として川面を激流が襲いかかってきたので急遽高所に避難した。渦巻く黄色い泥水は二屯、三屯の岩石を押し流し、ゴウゴウと滝の如く流れ下る。十五日朝起きてみると川面は大きく掘り取られ昨日の姿は見られない。湯も止まり水道も切れて仕舞ったのである』
八月十一日付(第二百二十六号)
『 「二十六日の豪雨に湯元岩床露出」
 七月十四日の旧噴一帯に降った集中豪雨の為湯元の施設は流出したが早速復旧作業に掛り後事を託して十九日に下山した。二十四日より降り出した富良野一帯の豪雨は二十七日に水勢も衰えたので急遽登山する。湯元は一米以上の岩石が累積し人力での移動は不可能であったが、二十六日の豪雨の威力は付近の岩石を完全に一掃して岩床を露出させ、四十度以上の温泉が豊富に湧出しているのである。此の二回の豪雨は色々なことを教えてくれた。此の湯元の復旧に十五日間を費やした』
九月一日付(第二百二十九号)
『 「登山の際は注意」
 今十勝岳の旧噴火口、新噴火口、新々噴火口の三大火口の火山活動が活発に成って来ているため旭川気象台では噴火口の中に入る事を禁止しているため登山の際は注意する事』
九月十五日付(第二百三十一号)
『 「十勝岳開発道路一里進む」
  温泉施設形出来上がる―町民の協力により―
 開発道路は中茶屋分岐点より旧噴火口近くまでの一三、五〇〇米、道幅六メートル五〇センチの道路工事が着々と進んで来ている。十勝岳温泉現地の方は二度流された湯元をコンクリートで固めて石積に掛っており六割程度終え十月の初め頃には屋根の無い外側だけの建物として出来上がる訳である』
 同じ号に「年々高まる登山熱」---観光協会の協力を望む---の見出しで次の記事が載っている。(抜粋)
『山々も紅葉の時期となっているが、まだまだ十勝岳への登山は盛んである。今年の十勝岳に登山した人数は三万三千人を超えると営林者では見ている。上富良野口からは五、三〇〇人程、白金温泉からは二五、八〇〇人と言われているが、上富良野駅から発するバスは九月十日から運行されず登山客もぐんと減ってくる。これから二・三年後には観光道路も出来上がり登山客も二万人を超えるのではないかと思われる。
 観光熱も年々増して来ており、この際当町の観光協会が主力となり十勝岳の観光に力を入れ、十勝岳を一大観光地として全国に広げて欲しいものである。美瑛町の観光ポスターは良く見るが当町のポスターはあまり見られない。白銀荘、勝岳荘のヒュッテが有るにもかかわらず今迄観光熱が薄かった事が残念である』
 観光協会への活動の不満については、十一月二十四日付第二百四十号「大雪山観光連盟理事会に出席して---なぜ十勝岳の開発が遅れたか---でも
『観光協会の上部機関として上川管内観光連盟があり、北海道観光連盟とも繋がっておることと、旭川周辺の市町村観光協会が連携しながら各観光地を結ぶ観光道路の開発を協議していることに気づき、富良野沿線でも各市町村の観光協会が連携して活動しなければならないと記述している』
 また、三十七年三月二十三日付(第二百五十五号)でも「十勝岳開発と観光協会の在り方」と題して、観光協会の組織構成の在り方について、
『行政だけの観光協会ではなく商工会を始め民間の観光事業関係者も加えた協会でなければならない』
と意見を述べている。

 昭和三十六年十月二十七日付(第二百三十七号)
『「町長上京交渉結果報告」―観光道路の件―
 町長は村上副議長、宮野議員と十月一日上京、開発庁に熊本事務官を訪ねて十勝岳開発道路を国費によって建設されたい旨を申し入れた処「町が自衛隊の協力を得てやっているのであればそれで良いのではないか」との話であったが、佐々木代議士が口を副えられて「町は開発道路と言っているが実際は観光道路であろう、大雪山国立公園内の道路であれば、当然開発庁で建設されるべき性質のものであるから国費で建設するべきである」「三十七年度の予算も決済済みであり、開発庁五カ年計画の中に組み入れるにしても何かと調査費だけでも出したい」との事で実施まで尚数年掛かる模様である』
九、国民温泉保養地の指定と国民宿舎事業
昭和三十六年十月二十七日付(第二百三十七号)
『---国民温泉保養地指定の件---
 厚生省の国立公園部では本道に五ヶ所の枠を持っており北湯沢のホロホロ荘、ニセコの山の家、オロフレ荘の三個所が指定を受けているが、保養温泉地であるから環境が浄化されていなければならない事、温泉の湧出量が豊富で湯温は人口的に加熱の必要の無い四十度以上の高温である事、最初は宿舎施設だけで良いが公共施設(保養者に対する娯楽設備、散歩道、駐車場、医療施設、電話、電燈施設)に就いては計画図を作り申請する事等の話し合いをされ、第一回の瀬踏み的なものであった』
十一月十日付(第二百三十九号)
『「十勝岳開発道路第二期工事計画通り遂行」
 十勝岳産業開発道路第一期施工の四、一〇〇米は自衛隊の大機動力によって完成十一月六日に受渡式が終了したが、第二期、第三期として三年計画として未開発の分の施工方法について議員協議会で協議の結果、年次計画として町予算の許す範囲で継続することに決定した』
昭和三十七年一月一日付(第二百四十五号)
『随想 「今年こそ温泉元年の年」
 十勝岳温泉工事も四年目を迎えた。一年目はイノシシの如く体当たりしてようやく温泉元を発見し、二年目はネズミの如く掘り進み、三年目はじっくりと牛の様に山に取り組んだ。今年は寅年、一日千里を走る虎の年である。例年にない雪不足は春の工事が早期に掛れる公算が大きい。宿舎完成は八月と目標を樹立した限りは虎の勇を振るわねばならない年である』
三月三十日付(第二百五十六号)
『十勝岳開発促進委員会第一回会合
「国民宿舎建設計画を審議」---早期完成を推進---
 十勝岳開発促進委員会は上富良野町が大雪山国立公園特別地域内の十勝岳一帯の産業開発並に観光開発の促進を図るために実施する事業を健全且つ発展的に計画する協議機関でその第一回会合は三月三十日に開かれ、国民宿舎建設計画について イ、温泉開発 ロ、宿舎建設計画 ハ、開発道路問題今後の見通し等につき審議を進め、特に宿舎建設後の収支については現在各温泉地の動向等も検討し健全運営を基礎として吹上地区に国民宿舎建設に全員賛成した。この国民宿舎は道の要望もあり一般登山者、スキー客を対象とし、国民年金より六千万円の融資を仰ぎ二階建鉄筋コンクリート造り収容人員百五十名のもので建設着工は三十八年度になる模様である。委員は議会から福家敏美、佐藤敬太郎、宮野孫三郎、村上国二、一色正三、仲川善次郎、学識経験者からは山本逸太郎、会田久左エ門、菅野豊治と町長の十名である』
四月六日付(第二百五十七号)
『 「上富良野十勝岳産業開発道路新設工事施工に関する陳情書」
 陳情書には十勝岳産業開発道路の必要性と施行に当たっての財源確保が昨年の集中豪雨による災害復旧事業等に多大な財源が必要で町費のみでの開発道路の施工は困難なことから、北海道開発庁長官宛に国費を以ての施工を願い出たものである』
五月四日付(第二百六十一号)
『十勝岳温泉五月一日より着工』
五月十八日付(第二百六十三号)
『 「吹上地区に国民温泉宿舎建設計画」
      ---二百人収容の豪壮なもの---
 吹上温泉地区に建設を進めている国民温泉宿舎は、延五六二坪宿泊人員二〇〇名を収容出来るもので、工事総額八千万円にのぼる見込みで本町の第三次産業として十勝岳観光に大きな役割を果たすものとして期待されている』
『 「十勝岳開発道路第二期工事第一○四施設隊によって着工」
 十勝岳開発道路第二期工事は、北部方面第一○四施設大隊第二中隊によって六月一日から八月末までの三か月間を以て、昨年度完成された地点から翁地区まで二○五○米の工事が施工される』
六月八日付(第二百六十五号)
『 「十勝岳温泉開発記」
     ---二十七日夜半火山地震起る---
 十勝岳温泉宿舎の木材切込は予定通り五月末に完了し、中茶屋新道の終点まで運びこまれたが其の奥地に当たる所はジェーエムシー車(JMC六輪運材車)で旧製錬所跡まで運び上げることとなった。作業を終え飯場に入った五月二十七日の夜中の二時頃と暁方に二度の地震があった。二十八日の朝ラジオ放送に耳を傾けたが地震の放送は無い。これは十勝岳の火山活動による地震に違いないと思った』
 この後、十勝岳の噴気活動が活発化し、美瑛町の「大正火口周辺」で硫黄採取を行っていた『磯部鉱業十勝硫黄鉱山』では地震などによる施設崩壊などが頻発するようになったため、六月二十七日に北海道管区気象台と旭川地方気象台では緊急観測の担当職員が、大正火口のすぐ側の鉱業所の元山宿所に寄宿した。
 二日後の六月二十九日に十勝岳が大噴火を起こすとは誰もが、思っても見なかったのである。
十、十勝岳爆発と開発事業
昭和三十七年六月二十九日付(第二百六十八号)
『 「十勝岳大爆発」---役場に対策本部を作る 五日間一切の登山を禁止---
 六月二十九日十勝岳が爆発すると共に町長始め消防団、自衛隊、営林署、警察署、農協等全町的対策本部を設置すると共に中茶屋口に検問所を設けて登山禁止の処置を取り、危険地域として清富方面の婦女子の退避を指令し清富小学校に集合を命じる等万全の策を取った』
七月六日付(第二百六十九号)
『 「気象庁勧告 本年度中登山禁止」
気象庁は本年度中登山者の登山を全面的に禁止することとした』
『 「爆発火口動態」
 六月二十九日午後十時四十三分に爆発した個所は大正火口の南側火口よりに春より発達していた噴気孔と推測され噴石を飛ばし三百米北方にある磯部鉱業所に落石す、宿泊していた従業員の内退避しようとした四名は即死、一名行方不明者を出した』
『 「十勝岳温泉現場---旧噴火口異常無し」
 旧噴火口の活動!十勝岳温泉の異常等の流言が飛んだが七月三日現地調査により何ら異常は認められず降灰もしていない。十勝岳温泉は危険区域外と見られ、七月七日より作業員を登山させ作業を続行する』
八月十七日付(第二百七十四号)
『 「十勝岳開発道路 二期工事完成」
        ---天野師団長来町---
 当町が三ヶ年計画で自衛隊の協力を基にして進められて来た十勝岳開発道路の第二期工事二千米がこのほど完成し、二十日午前九時より翁地区に於いて引き渡しが行われる事になり、旭川自衛隊駐屯地より天野師団長が来町する予定である』
九月七日付(第二百七十七号)
『 「町村知事来町 十勝岳開発道路・国民温泉宿舎を陳情」
 町村道知事が五日午後一時にバスで来町し役場に立ち寄った。町長始め議員、町有志の人たちが出迎えに出た。この折に清富ダム、十勝岳開発道路、国民温泉宿舎の建設等を陳情した』
『 「十勝岳温泉来月中旬に完成予定」
 十勝岳旧噴火口下今日工事している十勝岳温泉が九月二日に上棟式を終え関係者を安心させた。今年は十勝岳の爆発等により工事が予定より一ヶ月半遅れているため、今では完成工事に拍車を掛けている次第。工事完成は十月中旬に完成する事に成っている』
十一月十六日付(第二百八十七号)
『 「十勝岳温泉明年度営業」---本年度はスキー客のみ宿泊---
 本年度中の営業を予定されていた十勝岳温泉宿舎は、雨天続きの悪天候と悪道路の為に宿舎の完成が遅れていたが、この程八割程度完成し室に畳が入る状態になり、十二月からスキー客の宿泊が出来るようにされている。本年度は完全営業で無い為と荷揚げ運搬困難とあってスキー客が各自自炊してもらう方針が強い』
十一月二十三日付(第二百八十八号)
『尻切れトンボ「開発道路明年続行か」
          ---町民の関心の的---
 町議会のある議員から「十勝岳開発道路は思ったより費用が掛かり今日の町勢では学校校舎や他の道路問題で経費が必要とされ、開発道路は国、道に陳情し国、道で十勝岳開発道路を作ってもらった方が良い。折角国、道に陳情しているのに上富良野町でそのような道路を付けると国、道では《自分たちの町にそれだけの力があるのになぜ陳情した》と言う事になり陳情問題を無視する。それよりも年数が掛かるかも知れないが開発道路に手を付けずに国、道に陳情した方が良い」との意見が出された。』
 会田氏にとっては開発道路の遅れは、今までの苦労が水泡に帰し観光客の誘致に大きな障害となり、死活問題にも成りかねない事態である。ここに新聞の強みを生かし、町民の声を広げ町議会に反映すべく、商工会長他役員一同の連名で「十勝岳開発道路新設工事促進に関する陳情書」を議会に提出し、議員協議会で審議され全員賛成で継続事業として三十八年度も続行され、尻切れトンボの状態が解消される事になった。(十二月十四日付上富週報)

昭和三十八年五月十七日付(第三百九号)
『三○八施設隊二十二日から「十勝岳開発道路の下調査に入る」
 自衛隊上富良野駐屯地三○八施設隊は、二十二日十勝岳観光開発道路の本年度工事一、三○○米の下調査に入る事になった。調査隊は、十五名で十勝岳温泉に宿泊し二十八日までに下調査を終わらせ下山する事になっている』
五月三十一日付(第三百十一号)
『 「上川観光に顔を出した十勝岳温泉」
---山開き前に宿泊準備-
 十勝岳温泉が、上川観光案内パンフレットに顔を出し、道内各地から関心を持たれている。
この十勝岳温泉に一月から五月下旬までに立ち寄った人員は、白金廻りや本町からの登山数で約六百名とされている。また六月に入ると田植え時期も終わりのんびりと温泉に浸かろうと旭中、東中、西中地区の住民を始め婦人団体の人たちも計画し、六月下旬に登山予定である。十勝岳温泉では、山開きまでに調理室、室内便所の整備、発電施設の準備を行うほか温泉前広場の整備に全力を注いでいる』
掲載省略:(スクラップ)昭和37年6月29日発行「上富週報(第268号)」
十一、温泉宿舎落成
 昭和三十七年六月末の十勝岳噴火により、工事を遅延せざるを得なくなったため、八月にはスガノ農機の菅野豊治などの出資を得て十勝岳温泉株式会社を創立し、資本増強を行って開業に邁進したのであった。凌雲閣フロントには現在でも「会田久左エ門」と並べて恩人「菅野豊治」の肖像写真が掲げられている。

昭和三十八年六月二十八日付(第三百十四号)
『七月十日十勝岳温泉に於いて「温泉宿舎落成式」
 十勝岳温泉がこの程道庁より温泉建物の許可が下りた。十勝岳温泉株式会社では、六月二十六日総会を開き七月十日に道庁、上川支庁を始め沿線各市町村長、各団体役員を招待し十勝岳温泉に於いて落成式と共に開館する事になった』
『七月一日より「十勝岳温泉行きバス時間変更」
 旭川電気軌道富良野営業所では、六月十日の山開き以降から、十勝岳温泉行バスを毎週土曜、日曜日に二往復運行させていたが、七月に入り登山客も多くなることもあって、全日運行する事になり平日は二往復すると共に土曜、日曜日は三往復となり、登山者にとっては便利になる。上富良野駅前より中茶屋を通り翁温泉跡までの十八粁を往複する』
九月六日付(第三百二十二号)
『 「観楓客を待つ十勝岳温泉」
 十勝岳温泉凌雲閣では九月下旬から十月上旬にかけて温泉地区の紅葉時期であるため、これらの美しい紅葉時期を全道に知らせ様とチラシ一万枚を印刷し全道各地に配布する。
 この地区から十勝岳に登山した人達は昨年吹上地区からの登山者四千人の二倍以上で今年中には一万人の人達が登山するのではないかとされている』
九月十三日付(第三百二十三号)
『 「十勝岳温泉-旧噴より湯を送水―冬期間の暖房を目的に」
 十勝岳温泉凌雲閣では、浴場の温度を上げると共に温泉宿舎に各部屋の冬の暖房施設に重点を置き、旧噴火口より六十度の湯を引く計画をし工事に当たっている』
 十月四日付の週報で「凌雲閣で旧噴から送湯完成---町温泉関係で大きな期待」の記事が載っている。

掲載省略:(写真)菅野豊治氏肖像
掲載省略:(写真)昭和38年7月開業したばかりの凌雲閣の初冬
十二、国民宿舎建設の気運
昭和三十八年十月四日付(第三百二十六号)
『 「十勝岳温泉地区に国民宿舎建設か」
   ---次議会で決まるか?---
 九月三十日町長始め各議員達は、十勝岳産業開発道路工事の三十八年度分を視察する為登山した。視察後一行は凌雲閣で休憩を取った。
 視察で議員達は、今年道路工事中一帯から上富良野町や富良野岳が望まれ風光明媚であると共に紅葉時で美しくなっている事に驚愕すると共に吹上地区に建設予定されている国民温泉宿舎を十勝岳温泉地区に建設してはどうかと言う話が出ている。また宿舎の湯も今日凌雲閣で四十三度の湯に旧噴火口から六十度以上の湯を送管したら、十勝岳温泉から翁温泉地区に掛けての湧出されている低温度の湯が多く利用出来る。また吹上地区は水、湯に対してなかなか困難な地区であるとされており、今日湯の解決のついた十勝岳温泉地区に国民温泉宿舎を建設した方が良いのではないかとされている。また飲料水もこの地区はボーリングを打つことによって解決出来、冬期間の除雪問題もこれらの施設が一方に集まった方が便利であるとされており、国民宿舎の建設位置は十勝岳温泉と翁温泉地区の中間に建設される見込みが強くなっている』
十一月二十九日付(第三百三十四号)
『雪だより「十勝岳温泉---下界より一足先にスキーを楽しむ---」
 二十八日より降った雪も十勝岳では五十センチから七十センチの積雪となり、下界より一足先に初冬のスキーを楽しむ客もいる。冬期間バスの運行中止の十勝岳開発道路の積雪もスキーを滑るのに適量とあって同温泉ではスキーを用いて翁温泉まで下山している』
 この頃から十勝岳温泉のニュースはスキーコースの紹介が多い。(昭和三十九年一月十七日付「雪だより---雪不足で子供スキー大会は二月に延期」。二月二十一日付「雪だより---四粁の十勝岳温泉スロープ」。三月二十日付「雪だより---三月上旬に十勝岳産業道路も除雪され、昨年のバス運行終点まで自家用車の運行が可能になり春山スキーを楽しむ客が増えている」)

昭和三十九年四月十九日付(第三百五十号)
『 「国民宿舎建設問題---五月一日の臨時議会が山場---町内出資と町との公社設立案」
 多年の懸案である国民宿舎も財政難から八千万円の豪華版では建設は至難であり、準備委員による他町の国民宿舎の経営状況や融資の在り方等を調査の結果建設は出来るだけ額を減少し、融資の返済義務の軽減を計り経営の合理化と健全経営に持って行くべきだとの方向に進み、収容人員は百名〜百五十名、規模は延四百坪とし総工事費四千万円で施工する計画である。議会としては将来の健全運営を考え町内有志と町との合弁会社(公社)資本金一千万円〜二千万円の公社を設立し、国民年金融資も三千万円に止め是(これ)を公社に融資し、その返済充当額を家屋の賃貸料として公社に納入せしめる。建設場所は十勝岳温泉下三百五十米付近が第一候補にあげられている』
 五月一日付でも「難行続ける国民宿舎建設問題---融資申込の受理は五月八日」の見出しで宿舎問題を取り上げている。

五月一日付(第三百五十二号)
『上富良野町発展の基礎 新得町に通じる「十勝岳横断道路の構想」…五月中旬現地調査…
 本町を中心とする十勝に通ずる十勝岳横断道路の構想は、本町を交通上の要衝として今から計画を推進せしめる必要がある。現在新得町側から十勝川沿いに七十粁の森林鉄道が敷設されており是(これ)と並行して五十粁のトラック道路が開設されている。是を十勝岳開発道路と結ぶ十勝岳横断道路の建設を新得町との握手により国、道に呼びかけようとするものである』
 十勝岳横断道路関連記事は七月三十一日付、八月二十一日付、同月二十八日付、九月十一日付、同月十八日付、同月二十五日付でも記述されている。
十三、自衛隊『山の家』建設構想
昭和三十九年五月二十二日付(第三百五十五号)
『防衛庁で十勝岳温泉付近に「山の家建設か」
 前年度から噂話となっていた自衛隊娯楽センター『山の家』がこの程具体化されると共に話も進み町駐屯地では、その設置場所の調査に乗り出しており二十一日に旭川第二師団長が来町、山の家予定地を視察に十勝岳に登山し現地を視察した』
五月二十九日付(第三百五十六号)
『 「明年度中に温泉宿舎関係建設工事着工か」
 産業観光開発道路も今年度五百米の延長工事で来年度は十勝岳温泉まで道路開通となることが明白となった。四十年度には町立国民宿舎が建設着工の見込みである』
 国民宿舎、開発道路関係記事は昭和三十九年六月十九日付、同月二十六日付、七月三日付、同月十日付、同月十七日付、同月二十四日付、同月三十一日付、八月二十八日付、九月四日付でも記述され、最後に十勝岳観光開発株式会社設立総会が開かれている。

昭和四十年一月十五日付(第三百八十八号)
『 「今年の本町事業に大きな期待---国民宿舎は八月中完成予定---」
 昭和三十六年より町費で着工された十勝岳開発道路新設工事が、五年目を迎えた本年、十勝岳温泉凌雲閣前まで完成する予定とされているだけに関心を持つ人達も多く、老人達も若い時の様に旧噴火口まで行けると期待している。またこの地域に国民宿舎を雪解けと同時に着工し八月中には完成したいとの町の意向である。またこの温泉地に自衛隊の休養施設宿舎計画も目下積極的に進められている』
二月十九日付(第三百九十二号)
『 「雪だより」
 今年は全道的に雪の量も多く土曜日、日曜日等を利用してスキーや登山を楽しむ人達が多い様である。十勝岳開発道路は今年は大雪とあってジープの運行は不可能となっている。毎週土曜日、日曜日にスキー客が有るとあって十勝岳温泉の中古ブルドーザで中茶屋から四粁地点までは除雪しているが、それより以上は中型ブルでは除雪不可能となっているだけに、今日のスキー客も二時間余りを徒歩と言うのが現状である。この様な事が原因で思ったよりスキー客もなく、冬期間の旅館経営は赤字状態ではあるが、十勝岳温泉としては今年の十勝岳温泉地区に国民宿舎、自衛隊保養所が建設される予定とあって、「後一歩頑張れ」との意気込みで上富側の十勝岳でもスキーは出来るのだと言う事を全道的に宣伝する事を目的として頑張っている。また凌雲閣の積雪は地下に当たる食堂、風呂場は雪の中となっている』
十四、観光協会に対する不満
昭和四十年四月二日付(第三百九十五号)
『 「雪の中から」
 札幌で全道観光大会が催され道産業振興に重要なポイントとして観光事業が採上げられ、町村知事が陣頭に立って観光事業の開発が叫ばれているのである。道内の新聞に連日観光宣伝の広告が見られる昨今本町の観光は役場内だけの計画であろうが、全町を結集する様な動きは更に見られない。観光事業推進の中心組織とも言うべき観光協会も有名無実であり、昨年審議された観光協会の組織替えも早一年を経過しても実現しておらず役員会も開かれておらず、大雪山観光連盟や上川観光連盟の会議に町長や企画課長が単独出席してその結果さえも町民には何ら知らされていないのも不思議なものである。道の観光大会には富良野町は町長、商工会長を始め業者六名が出席、美瑛町も同様であるが本町からは町長のみで商工会さえも知らされていないのである。美瑛町では観光協会にホテル業界、商店街、ハイヤー、銀行、各企業などが会員となり会費四十五万円で運営しており、役場には商工課が独立し七名の職員が商工業・観光事業を受け持っている。本町は役場は役場で独自な立場を保持し町民の協力体制を取ろうとしないようだ』
五月七日付(第三百九十九号)
『 「観光上富に脚光---十勝岳観光協会新発足を協議---」
 十勝岳観光協会の新発足を意味する協議会が発起人海江田武信、中西覚蔵、石川清一、山本逸太郎、金子全一、鹿間富二の六名の連名で開催され、参加者は富良野営林署長を始め自衛隊側や町内有志五十名の参加を得て熱心な協議が進められた。十勝岳観光協会は全町民が協会員とされ町費のみで運営されてきたが、本町の観光事業も観光道路の整備、十勝岳温泉の発見、国民宿舎の建設等観光事業を全国的に働きかける必要から全町民の協力を得て観光事業に寄与する必要があり、組織内容を全町有志に計って会員制とし活発な観光事業を促進する事となったのである』
五月二十一日付(第四百一号)
『 「国民宿舎建設地---地ならし始まる---」
 今年九月完成予定の国民宿舎では、木材の切込も終わりに近づいているが、まだ現場は雪も多く工事会社は除雪を行っている』
 国民宿舎の関連記事は六月二十六日付週報にも掲載されている。

五月二十八日付(第四百二号)
『 「十勝岳開発道路工事始まる」
 本町の継続事業であった十勝岳開発道路の第五期工事が五月下旬より旭川施設大隊二中隊によって着工された。今回の道路工事は、国民宿舎より四百米上から十勝岳温泉凌雲閣までの五百米程が行われる事になっており、凌雲閣前までバスが運行できると共に車の駐車も出来るようになる予定である』
 同関連記事は六月四日付の週報にも掲載され、六月末か七月には完成予定と記載されている。
 残念ながら「上富週報」の昭和四十年六月十六日付から昭和四十二年三月十日までの発刊の資料は残っていない。
 なお、会田久左エ門は昭和三十八年四月三十日から四十六年八月二十四日まで町議会議員を務めている。この任期中の昭和三十八年四月三十日に執行された選挙では、定数二十六人のうち十四人新人という激戦となったが、自衛隊に対する十勝岳開発道路の工事委託に関する村上町長の専決処分に際して議会は承認はしたものの、裏付財源の手当期日が前後反転していたことが判明、結果として予算が伴わない専決処分を承認したということで、僅か三ヶ月ばかりの八月一日に専決承認の責任を取って議員が総辞職した。
 議会議員の再選挙は、町長の通常選挙と同時の八月二十五日に執行された。会田久右エ門は再選されたが、当選者のうち新人が九名、元議員が三名となり、半年足らずの間の二回の選挙で、町議会議員の勢力関係が一新した事も、資料が残っていないことに、何らかの影響があったのかも知れない。
 その間の記事を町広報「かみふらの」、十勝岳泥流災害九十年回顧録「十勝岳」、大雪山国立公園指定五十周年記念号「北海道大雪山」、かみふらの「歴史年表」から関係する記事を抜粋する。
『 「国民宿舎カミホロ荘完成」(昭和四十年町広報)
 国民宿舎の建設計画は昭和三十六年に建てられていた処、三十七年十勝岳爆発によって中断され、昨年いよいよ建設の機運が盛り上がって着工の運びとなり、冬は電気架設工事、電話線の架設工事、融雪を待って本格的な屋体工事、温泉源のボーリングなどを推進し、各関連工事も順調に進み十月八日完成落成式をあげることとなった』
『 「十勝岳開発産業道路五カ年施工事完成」
 十勝岳開発道路は五カ年継続事業として総延長約十キロ、原始林を切開く難工事であったが標高千二百メートル地点まで自衛隊施設隊の支援によって施工完成し、七月二十七日に現地で引き渡し式が行われた。(七月四日旭川電気軌道バスが、新設道路十勝岳温泉凌雲閣前まで運行を開始されている)』
 カミホロ荘が開業したその冬に、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王と三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王ィ子(やすこ)内親王(当時)が十勝岳カミホロ荘に宿泊してスキーに来町した。この際に凌雲閣に立ち寄り、久左エ門氏家族・従業員一同と写した記念写真が、平成六年十二月に改築後の凌雲閣フロント横に額装して掲げられている。

掲載省略:(写真)昭和38年8月第6回議会選挙当選者と町長等行政幹部、会田久左エ門(在任S38.4.30〜46.8.24)は後列左から3人目
掲載省略:(写真)昭和40年10月8日完成落成した国民宿舎「カミホロ荘」(町報から)
掲載省略:(写真2葉)市来駐屯地指令と海江田町長による十勝岳開発道路の受渡しと開通式(上)、完成道路の終点に建つ凌雲閣付近(下)
掲載省略:(写真)高松宮宣仁親王と三笠宮崇仁親王ィ子内親王、凌雲閣スタッフ記念写真
十五、安政火口の名称
 十勝岳泥流災害九十年回顧録「十勝岳」には、
「昭和三十八年、会田久左エ門道庁折衝中『旧噴火口』を咄嗟の思い付きで『安政火口』と呼称した」
などの記事が載っている。
 大雪山国立公園指定五十周年記念号「北海道大雪山」には、昭和三十五年十一月「勝岳荘(ヒュッテ)再建築」、昭和四十二年「十勝岳国民保養温泉地に指定」の記事が掲載されている。
 引き続き「上富週報」を見ると

昭和四十二年五月二十六日付(第三九七号)
『 「防衛庁十勝青年の家 十月半に完成予定」
   ---凌雲閣も大広間を新設---
 この防衛庁共済組合の宿舎施設は北海道に於いてニセコに次いで二番目となっており、凌雲閣建設に伴い防衛庁でも豊かな観光資源と景勝地に注目し宿舎建設が計画されていたもので、名称を「十勝青年隊の家」に改名、五月初めより工事が行われ十月半に完成となっている』
十月十三日付(第四百十七号)
『 「波のあった十勝岳温泉---登山客は二割増」
 十月の予約客はカミホロ荘、凌雲閣とも満員状態となっており前年比二割増しとなっている。この為登山者の要望としては現在三回の登山バス運行に対し、大きな不満が感じられ少なくとも五回のバス運行が必要と言われている。それだけにこれからの十勝岳温泉開発は交通面に力を入れて欲しいと言われると共に、現在の道路も傷んできており車を運転するにもなかなか苦労が多いとされ、町としても現在吹上温泉の道々が舗装工事が行われており、これが中茶屋まで完成する前に道々に昇格し、白金温泉まで開通させ一大観光スカイラインにと夢が持たれており現在町や観光協会が道に陳情中である』
十六、道立総合スキー場の誘致
昭和四十三年一月十二日付(第四百二十六号)
『 「道立総合スキー場に十勝岳地区など」
  ---三カ所が候補に上がる---
 十勝岳温泉地区の観光客も年々増加の傾向にあったが、冬期間の観光客誘致にはどこの観光地も頭を悩ませていた。北海道は四年後の札幌オリンピック開催に向けて大規模なスキー場の整備を検討していたが、その候補地にニセコ、無意根山、十勝岳の三カ所が選ばれ検討される事となった』
 リフト、ゴンドラ、ロープウエイなどの施設を持たない十勝岳温泉地区ではぜひとも誘致したい施設であった事が週報の記事でよく解る。
 同件の記事は、
・一月二十六日付(第四百二十八号)「夢に消えるか?十勝道立スキー場」---今後の道の動きが注目---
・二月九日付(第四百二十九号)「道立スキー場誘致に期成会を結成」---猛運動を展開
・二月十七日付(第四百三十号)道中部にも必要と---沿線市町村も賛同---「道立スキー場誘致運動展開」
・二月十七日付同号---「十勝岳に道立スキー場を誘致する意義---
・三月一日付(第四百三十二号)---十勝岳道立スキー場誘致に西田氏(オリンピック団長)に陳情---
・「三月八日付(四百三十三号)---富良野地方総合開発連絡協議会本町で開催---十勝岳道立スキー場誘致に積極的---
・「三月二十九日付(第四百三十三号・注:号重複)道立スキー場問題---西田参議に再度陳情---
などなどの記事が掲載されている。

四月五日付(第四百三十四号)
『 「白銀荘の管理十勝岳観光協に委託」
    ---山男の和田氏は担当区に---
 富良野営林署の管理下にある十勝岳のヒュッテ「白銀荘」と「勝岳荘」の管理が四月一日より十勝岳観光協会に委託する事となった』
六月二十一日付(第四百二十二号)(抜粋)
『十勝岳観光協会より---白銀荘---道央観が管理
 十勝岳観光協会では、白銀荘と勝岳荘の両ヒュッテの管理を道央観光開発会社に管理させることに決定した』
 この後も上富週報では、十勝岳温泉の利用状況や夏山登山客の動向、紅葉の時期と初雪のたより、全道十勝岳大回転競技大会の開催記事、道路状況とバス運行の様子など、十勝岳温泉に関する記事は利用者にとっても非常に参考になっていた事が伺われる。
 また、不安定な温泉元を安定化させるためのボーリング試験や、冬季観光客誘致と安定した利用客の確保に大型スキー場誘致と開発に夢を馳せ、十勝岳温泉の開発に人生を掛けて取り組んだ会田久左エ門氏の生涯は六十九年と言う短い年月で、十勝岳温泉湯元の見回り中に幕を閉じてしまったのである。
 此処に氏の十勝岳開発に注いだ情熱と苦難の道を乗り越えた行動に心から敬意を表し、残された多くの功績に対して賞賛と感謝の意を捧げたいと思います。
◇資 料
・上富週報(昭和三十五年〜四十三年各号 編集人会田久左ヱ門)
・北海道温泉地案内(北海道景勝地協会 昭和二十年発行)
・上富良野村政一覧(上富良野村 昭和九年)
・町報かみふらの(関連月号 上富良野町)
・昭和二十五年村勢要覧(上富良野村 昭和二十五年)
・郷土をさぐる誌(第九号・第十八〜二十号・第二十三号・第二十四号 上富良野町郷土をさぐる会)
・かみふらの一一五年歴史年表(上富良野町郷土をさぐる会 平成二十五年)
・十勝岳泥流災害九十年回顧録「十勝岳」(上富良野
町郷土をさぐる会 平成二十九年)
・大雪山国立公園指定五十周年記念写真集「北海道大雪山」(記念事業推進協議会会長上士幌町長 昭和五十九年)
 ===お読みいただく上でのご注意===
 本文中では、「引用・転載」を多用していますが、旧字体漢字や旧文体は、支障が出ない最小限で書き換えを行い、明らかな誤植は訂正しています。書き換えが困難なものは、ルビを振りましたので辞書等で意義を確認下さい。読みが不明確な固有名詞にもルビを振り、現代では常用されていない「読み」の漢字は「ひらがな」(例:「居」→「い」又は「お」)に、また「言」の代字「云」は表記外字なので「言」に置き換えました。
 当時でも、口語表記では「拗音(ようおん)」「促音(そくおん)」を「小書き」にしていましたが、一九八八(昭和六十三)年七月の「内閣法制局通知」により、法令文についても「小書き」になったため、国内総ての文書の「小書き」が徹底されました。しかし、昭和六十三年以前の文書については「小書き」と「大書き」がしばしば混在(活版の小書き活字が十分に無かったからか?)することもあり、この場合は「小書き」に修正して転載しています。

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀