郷土をさぐる会トップページ     第36号目次

マルイチ幾久屋 創業一二〇年に思うこと

上富良野町宮町三丁目
金子 隆一 昭和十二年三月二日生(八十二歳)

一、岩手県から北海道へ 函館―旭川―上富良野
 昨年、平成二十九(二〇一七)年、入植一二〇年を記念した当町は、明治三十(一八九七)年に三重団体の人達が入植して始まりましたが、日用品を買うのに働き手の男達が一泊して旭川まで行かなければならず、大変困って何とか日用品や食糧を販売するお店をやってくれる人が求められていた。
 祖父の金子庫三(かねこくらぞう 旧名忠四郎)は岩手県紫波郡日詰村(現在は紫波町日詰)の出で、家は代々南部藩の御用商人を営んでいた。庫三は八代目の十人兄妹の四男として明治九(一八七六)年に生まれたが、南部藩は幕府方であったため、明治維新により何かにつけ商売が立ち行かなくなり、間もなく倒産してしまった。
 それまで十人の子供達は各々に乳母と子守がついて育てられましたが、倒産したら世間は『貧乏人のツラッコ見てやれ』と馬鹿にされ、庫三は悔しくてコツコツお金を貯め、明治二十七(一八九四)年十八歳の時、貯めた五円足らずのお金を持って北海道へ家出した。しかし、函館まで来た所でお金がなくなり、駅長に相談したところ、その当時ニシン漁で沸いていた岩内へ行くことを勧められたのである。当時のニシン場は大変な賑わいで、ニシンの入った畚(もっこ)を担いで食事も歩きながらのニギリめし、ほとんど寝る間もなく働かされた。これでは死んでしまうと一ヶ月ほど働いて、その給金で旭川へ出たと言うことである。働き口を探して、後に石油販売や商店も手広くやっていた花輪商店と言う所で雇ってもらった。庫三があまり一生懸命働くので、当主は何か悪いことでも企てる気なのではないかと、怪しんだと言う。

掲載省略:(写真)祖父母の金子庫三、妻トミ
二、富良野村での「マルイチ幾久屋」の創業
 庫三は、当時の富良野村、今の上富良野町でお店をやってくれる人を探していると聞き、岩手の親類からお金を借り、今の草分の富良野川に架かる『ふうらい橋』の西側土手の上、前田満氏宅と川の間あたりにムシロ戸の掘立小屋を建てて商売を始めた。一二〇年前の明治三十一(一八九八)年六月が、「マルイチ」が屋号の、当「マルイチ幾久屋」の創業となった。
 高畠家から嫁をもらい男の子が生まれた。しかし、寒さと厳しい生活で妻は亡くなり、庫三はその子を背負って、リヤカーのような荷台に商品を積んで商いをしたと言う。しかし、その子供も厳しい生活環境の下で三歳を待たずに亡くなった。明治三十五年一月二十五日、旭川で氷点下四十一度を記録した、その頃のことである。また、当時草分地区に入植した三重団体と同じように庫三は馬で一泊で旭川へ仕入れに行っていたと言う。

掲載省略:(写真)明治32年市街地に開店当時のマルイチ幾久屋商店
三、マルイチ十字街の始まりと「店舗・石蔵」
 明治三十二(一八九九)年頃から鉄道工事が始まり、駅が今のスーパーふじ付近と言うことだったので、庫三は錦町三丁目の四つ角の土地を求め、雑貨を主とする店を始めたのである。古い人たちは知っていると思うが、今の石造の倉庫と庭のある角は衣料品を、その北向の今のローソンの所は庫三の亡妻の妹で後妻として迎えたトミの弟の高畠隆郎に食品と雑貨の店を任せ、その向かいの元高畠薬局はトミの実家の高畠に土地を提供してその後に薬局を開店した。その南向かい角は今売り地になっているが、庫三の弟の裕五郎が早くに亡くなったので、その娘ヒサを日詰から呼んで、婿むこの浩三と一緒にさせて金物店を持たせたものである。
 後に全一の妹トヨの娘婿、小次郎に任せたマルイチ幾久屋精米場は、庫三が島津地区の米を島津一帯の土地の管理人の海江田信哉さんからまとめて分けていただき、そこで精米していた。後に小樽で東北の米を船ごと買い上げ、それをここで昼夜連行で精米し、マルイチ特選米として米のできない帯広、釧路方面へ出荷して財を成した。その時精米を入れたカマスは写真のように六花亭の『らんらん納豆』の包装に、デザインは後で少し変えられたが残っている。
 現在山崎歯科の横の石造りは、当時庫三が本で勉強して元の遠藤工務店の先代、遠藤藤吉さんを指揮して建設した倉庫である。村の会合の帰りなど、羽織袴のままで砂ぼこりだらけになって、現場で指図していたと言う。米が湿らない最高級の倉庫として当時の国の食糧庁からお墨付きを得たものである。小次郎一家は昭和五十六(一九八一)年に旭川に転出し、山崎歯科にその倉庫や近くの木造倉庫などすべて売却した。
 ちなみに錦町二丁目に残っている石蔵はそれよりも先の大正三(一九一四)年に建てられた。外壁は美瑛軟石を使用、内部も太い木材を使って天井裏にも防火の砂と石を敷いてある。富良野沿線で一番古い石蔵である。倒れないようにとか言うことで亡父全一は、勧められるまま四隅に鉄の枠を付け、それを支える為とか言って内部は鉄の金具が張りめぐらされる工事を行い、倉庫としては実質的に使用出来ない状態になってしまったことは大変残念に思う。
 なお現在は、幾久屋金物店とマルイチ薬局は後継者がないことから廃業、また、十字街を通る道々瑠辺蘂上富良野線の拡幅整備に伴って幾久屋呉服店は町内宮町に移転、幾久屋雑貨店はこれを機にローソン参加のコンビニに業態を変更して現地に残っているが、マルイチ十字街も当時の面影は全くなくなってしまった。

掲載省略:(写真と図)昭和42年頃のマルイチ十字街
掲載省略:(写真)六花亭の『らんらん納豆』包装
掲載省略:(写真)大正初期のマルイチ幾久屋商店
掲載省略:(写真)平成9年宮町に移転新築したマルイチ幾久屋店舗(左から金子隆一と妻満代、金子益三と妻美佐)
四、マルイチ幾久屋の大繁盛とお宝物
 庫三はその東北の米を釧路・帯広に出すことで得た財で、例えば東京と浦和に宅地三五〇〇坪、名寄に一戸一二〇坪の宅地を五〇戸分、その他に札幌、小樽方面などにも沢山の土地を得ており、高速道路の工事でかかった分として補償も僅かだが戴いた。しかし、残念なことに戦後の農地法で不在地主として判断された所有農地はほとんど失い、自家用の畑として耕して使っていた西町の二ヘクタールほどと山林が残っただけである。
 紫波町日詰の幾久屋四代目が得たお宝の分散したものを庫三は探し出して買い戻したのもこの頃である。それらのお宝は幾久屋四代目の金子七郎兵衛(保憲)が、本来南部藩のお殿様になるはずのない側女の子息を早くから蔭ながら応援し、たまたまその方がお殿様になったので、その為か藩からの商いを一手に引き受けるようになり、山崎歯科の所の倉庫のような大きい石蔵が、いろは…と七棟建て又独力で日詰の北上川に大きな橋も建設している。昭和八(一九三三)年、旭川で全国仏教博覧会があった時、「日蓮上人の曼荼羅(まんだら)」を出品し日蓮総本山の新聞にも載って、その新聞も現在大切に保管している。又庫三、全一の遺骨も納めてある京都浄土宗の本山「知恩院」の中の知恩院文化財研究所という所から、先に「法然上人(源空)の書」の写真を送ったところ、そこから現存している源空の四点目の書である鑑定を得たので、にわかにマルイチ山にお寺を建てる話も取りざたされる。知恩院からはその時、現存している他の八〇〇年前の法然上人の三点の写真も送っていただいた。いずれも国宝級なので、しかるべき所に預けられている。その他雪舟の絵、池大雅堂(池大雅の雅号のひとつ)の絵と書もあるが、いずれもニセモノの判定であった。
 本家幾久屋は、明治維新のあおりで祖父庫三の父の八代目で倒産したが、その十人の子供の八番から十番まで、岩手県出身の古河電工の創始者古河市兵衛が学資を出して下さり、八番目の金子利八郎大叔父は一ツ橋卒業後独自の経済理論を立て名を馳せ、九番目のおみや大叔母は御茶ノ水大卒業後海軍中将の藤吉俊と結婚、十番目の金子永十郎大叔父は東大冶金科卒業後、古川電工に入り何かと話題の多い足尾銅山の南口の所長になっている。彼の妻のトヨは学習院の先生で高松宮妃殿下は教え子である。
 明治九年の明治天皇東北御巡幸から六十周年に当たる昭和十四年、紫波町の休憩地に金子家で「明治天皇聖蹟」記念碑を建てた際の記念写真が残っており、父全一も列席した。

掲載省略:(写真)「明治天皇聖蹟」記念碑建立の記念写真。2列目右端が金子全一(紫波町ふれあい公園・昭和14年)
五、かみふ物語・郷土をさぐる誌との関わり
 私は昭和十二(一九三七)年三月二日生まれで、本稿執筆時で八十二歳になる。四十二歳の厄年の時、故平山寛さんを会長に、私と眞田守之副会長=眞田さんは現在相模原市に在住で、眞田幸村(覚寿院かくじゅいん)の十二代を引き継ぐ元陸上自衛隊上富良野駐屯地副群長だった人=など厄年会の皆さんで、記念に当町の歴史が忘れ去られないようにと『かみふ物語』を作った。父はこれは良いことだと仲間を募り、有志の皆さんで『郷土をさぐる会』を結成、当町の歴史を語り継ぐ『郷土をさぐる誌』を年一回の割りで発行を継続していて、ついにこれで第三十六号の発刊と継がれている。
六、私の「高校―大学」時代について治
 私はラッキーなことに上中の卒業と富良野高の入学をどちらも一番で、例えば入学式では宣誓文など読ませていただいた。二年生で旭川東高校へ転校したら、いきなり二百番くらいまで落ちたが、必死に勉強したら三年の三学期、同志社大学の推薦入学で肺結核が見つかった。しかたなく休学して名寄の母の実家の深山医院で療養に入ることになった。深山家には後に道議会議員を五期勤めた深山和圀(みやまかずくに)叔父がおり、彼も脊髄カリエスを病んでいたので、よく健康の為にと魚つりに連れて行ってもらった。一年の闘病後健康を回復して、北大経済学部に入学した。
 余談ながら、和圀叔父の父の竹松は奈良県十津川出身の七代目の医師で、叔父の兄、姉二人を含め私の従兄弟、さらに姪など十人が医師になり、深山杏里ちゃんが深山家十代目を継いでいる。
 父全一の弟の元三叔父は旧制一高卒で北大理学部の教授(彼は後に勲三等旭日中授章の叙勲を受けた)をしていたことから、この叔父の家に寄宿してお世話になった。
 四年生になると、卒業に必要な単位はほとんど取ったので、道議会議員の和圀叔父が札幌での活動用に借りていた部屋に同居させてもらった。
 私はその頃、親から借りた金を元手に株で儲け、それを資金に二ヶ月、日本中を回りスーパーマーケットを経営する研究をした。ジャスコ(今のイオン)の岡田卓也会長さんにも店の二階でコーヒーをご馳走になり、お話を聞かせてもらった。銀座に日本セルフサービス協会があり、そこの紹介状をもらって大学の卒業論文を書くという名目だったので、細かい営業数値も教えていただけた。ダイエーも神戸市三宮の裏道の倉庫で店を開いていた時代である。

掲載省略:(写真)高校・大学時代 昭和30年代初めの初売りの賑わい
七、社会人の第一歩は「金市館」に入社
 店の跡継ぎで就職はダメといわれていたので、学生時代は休み毎に金市館で働かせてもらい、卒業と同時に腰掛のつもりで入社した。希望の売り場や支店めぐりもして商売の勉強をした。ラッキーなことに入社二年目の二十三歳で室蘭支店長に選ばれた。
 当時金市館の高卒月給は七五〇〇円で、他より高いと言われた頃、支店長手当なども加えて毎月五万円をいただいた。今の百万円くらいでしょうか。引き止められましたが、実家の跡を継ぐため室蘭支店に二年ほど勤めて家へ戻りました。その間業績も良く店舗も三度増築して、社員も男性五名、女性六十名のデパートを任されていた。
八、金子家一族の系譜が明らかに
 さて、「郷土をさぐる誌」の二十号(平成十五年四月発行)に、当社の歴史や戦後のことなど詳しく寄稿させてもらったが、「郷土をさぐる会」の役員の方がインターネットに入れてくださっていたので、それを見たと言う幾久屋ゆかりの方で、現在横浜在住の金子征史さんから連絡があった。金子一族は岐阜県関市在住の幾久屋の先祖で、関の孫六こと金子孫六(現二十八代)を当主とする刀鍛治で有名だが彼はその研究をされており、私が以前二十七代の孫六さん(本名金子達一郎さん)を再三訪ねて親交があったことから、金子征史さんも知っておられ、彼の編纂した『関の孫六(孫六兼元)の系譜』=祖から末裔へ=の著書を送っていただいた。
 本書は二百頁を超えるもので、写真も多く良くも調べたものと感心するとともに将来とも貴重な資料になるものと感動している。
九、「幾久屋」の「第十一代目」となる
 私を含め、金子征史さん、日詰の幾久屋を守っている一族の木村晶典さん、庫三の姪めいの子供に当たる沼田次郎さんが発起人になり、「東金子」と呼ばれる東京在住の一族を加えた十五人以上が、平成三十年十月十三日に金子一族の墓所である岩手県紫波町日詰の来迎寺に集まり、法事を行った。来られた一族の方からの基金の提供もあり、これから毎年法事を行えるようになった。
 お世話下さった前記三名の方々には本当に感謝です。実はその時私に「幾久屋十一代目」を引き受けるようにとの皆様のお話があり、八代目の傳蔵の弟の庄三郎は関家へ婿むこに行ったこともあり、十代目の晁さんの了解も得てこの集まりで皆様に祝福されて来迎寺のご先祖様の前でお受けした。身の引き締まる思いである。
十、「丸一山公園」の拡大整備と桜の植樹
 さて当社が明治三十一(一八九八)年六月創業以来一二〇年になるに当たって、先述の丸一山公園もごみの捨て場になっていた。自衛隊戦車OBの伊藤力さん、瀬田克己さん、吉居実さんなど多くの人達のお力を戴き今年で十四年目。面積も隣地を買い増して元二ヘクタール(六千坪)が、六・八ヘクタール(二万坪)になり、道庁OBの方々の『北海道に森を創る会(会長石子彭培さん)』やニトリ、ローソンなどからの支援で、昔から自生していた桜も含め二十二種類、二千五百本近くの桜の山になった。駐車場予定地も約三千坪用意した。
 平成二十七(二〇一五)年十二月十五日道庁で、歴代北海道知事さんも列席される中で、この桜の植樹活動により『丸一山花と緑の会』(名前をつけたのは仲間の元上高校長で北大後輩の高口勤さん)が林業関係功労者として北海道社会貢献知事表彰を受け、さらに平成二十九(二〇一七)年四月十二日、全国十グループの中に選ばれて『丸一山花と緑の会』として、国会議事堂隣の憲政記念館で公益財団法人日本さくらの会の大島理森会長(衆議院議長)から表彰された。会場にいた伊達忠一参議院議長さんも、北海道からの表彰に、手をにぎって喜んで下さった。

掲載省略:(写真)平成27年度北海道社会貢献賞表彰式(後列右から2人目)
十一、丸一山雑木林に樹木葬
 前述の『北海道に森を創る会』では、森林保全や森づくりへの寄与活動の一環として、東京大学を卒業、ドイツの大学で博士号を取得し現在北海道大学観光学高等研究センター准教授である上田裕文氏と連携して樹木葬の普及活動も行っている。上田准教授は早くから丸一山の植樹活動を承知されており、既存の雑木林部分での樹木葬を勧めてくださっている。上田先生は、今年平成三十(二〇一八)年八月に著書「こんな樹木葬で眠りたい〜自分も家族も幸せになれるお墓を求めて」(旬報社)を発行されており、樹木葬の熱心な推進者である。
 林の中の直径一メートル程の穴に、何年か経つと自然に分解してしまう器に遺骨を納める。小さな木の札を付けるだけで、草木を植えるのは自由である。日本で初めての樹木葬は岩手県一関市の知勝院に於いて、当初五反歩から始まったものだが、全国から希望が集まり、現在では二百町歩にもなっている。現在の法律では、墓地の許可を得なければならないため、周辺住民の方には賛否両論が予想されるが、地元の人ではなく、他からの希望を募ることが、観光と町の発展につながるのではと思うところである。

掲載省略:(写真)日本さくらの会大島理森会長から表彰
掲載省略:(写真)著書「こんな樹木葬で眠りたい」(旬報社)
十二、帝展特選「上野山清貢」画伯との関わり
 実は私の母の一番上の姉、フジノ伯母は名寄高女の先生として赴任していた「上野山清貢」と結婚した。彼女は、父竹松にお願いして彼の絵を何枚も買ってもらったのである。その絵が百号を含め七点ある。彼は六回結婚し森田タマ(札幌市生まれの随筆家、元参議院議員)とも結婚したことがある。その時既に男の子と女の子を連れていた。当然伯母は離婚し、原田佑四郎さんと再婚し男二人、女二人の子供を授かって東京に住んでいたが、彼女が九十歳で亡くなった時に、その男の子と女の子が葬儀に来ていた。
 洋画家「上野山清貢」は後に帝展(今は日展)の第七回から九回で連続特選に入り、更に帝展の審査委員長にもなって昭和天皇に絵を二点献上している。
十三、「上野山」の絵と「宝物」の展示への夢
 「上野山清貢の絵」と「法然上人の書」、「日蓮上人の書」、「日蓮総本山の新聞」などを、いつか丸一山に「幾久屋記念館」を建ててお飾りしたいと思っている。旭川東高同期で札幌で設計事務所を開いていた鉄川昭君(故人)は上野山の絵を二十点程持っていて、これを継いだ奥さんの恭子さん(彼女も東高で同級生)とも相談していつかその絵と一緒に飾ることを夢見ている。国宝や上野山清貢の絵、それに二十二種類、二千五百本の桜やもみじ、こぶしなどを背景に、用意した三千坪の駐車場に隣地を買収して道の駅を作り、そこに当町名物の『サガリ』やおみやげ、農産物販売のコーナーなどを集めて、富良野沿線発祥の地である当町にふさわしい道の駅として、又当町誕生一二〇年を記念して、開拓に汗を流した先祖に恥じないものを作ろうなどと夢想している。  [完]

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀