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小銃射撃場監的壕

三 原 康 敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十八歳)

郷土館ボランティアの日
 郷土館の日曜・祭日ボランティアをしていた日、郷土館の収蔵品の中に古い文献があり、事務室の書棚から『村報・我村(わがむら)』という文献を出して読んでいると、興味をひかれる記事が目にとまった。子供のころ、石垣づくりの出入口がある「防空壕」と呼んでいた日の出公園のコンクリートの建造物のことを思い出した。平成四年十月一日、日の出公園エントランスゾーンの完成時、遊歩道の一部として使われ、トンネルとしか思えない構造の施設として溶け込んでいる。子供のころ、日の出に住む同級生にその近くで拾ったという銃弾を見せてもらったことがあり、あまり気を留めていなかったが、その銃弾は、「防空壕」と呼んでいた付近で拾われていた。
 「防空壕」にしては天井部分に四角い穴が開いており、空からの攻撃から逃れる施設としては、似つかわしくない構造であることに気付いた。「防空壕」と思っていた建造物は射撃訓練場の施設で、小銃の射撃に使われていた施設であった。
 昭和十三年七月二十五日発行の『村報・我村(わがむら)』第二十八号七頁に「射撃場工事落成式に報告された概況報告次の通り」という記載があり、経費節減のため、在郷軍人会の労力奉仕と村民の寄付金で築造されたと書かれている。大正十年、東二線北二十七号に木造で構築されたが、この後、経年劣化により、昭和十三年に石垣組み、コンクリート築造の永久的な施設として造られたことが、昭和十三年七月二十五日発行の『村報・我村(わがむら)』の記載から分かった。かみふらの一一五年歴史年表(平成二十五年四月一日発行)では、『大正十三年、東二線北二十七号に在郷軍人会が新設「射撃壕」築造設置』となっている。歴史年表は年号が誤っていて、昭和十三年であり、改築というのが正しいものと思える。
落成式の概況報告
 『村報・我村(わがむら)第二十八号』に、落成式の概況報告が次のように記載されている。
工事設計=山部村分会、鈴木重兵衛氏
(事前に、昨年構築の富良野町、山部村の施設を調査。)「監的壕」の構築位置は、距離、地形において現在地に優る所がない。距離、地形を考慮。
構築位置地主   岡田甚九郎 氏
射場地主     林下 武治 氏
工事材料置場地主 菊池 万助 氏
工事請負     遠藤 藤吉 氏
   経費節減のため、在郷軍人会の労力奉仕
   三月十一日から四日間、空知川の洗砂利と洗砂を約十五坪運搬。
   延べ人員百六十八名、馬百六十頭。
   四月二十六日着工、六月九日竣工、六月二十三日落成式。
現場監督     久野 春吉 氏
埋戻し工事    青年学校生徒の労力奉仕
収入の部(寄付金)  一、九九七円四八銭
支出の部       一、八八〇円八〇銭
  内訳
   一一一円二五銭  空知川産洗砂利六坪、洗砂三坪五合
     五円     運搬のため道付けに出張した汽車賃
     八円     砂及び砂利置場に使用した莚其の他
    三〇円     設計者への謝礼
 一、七〇〇円     工事請負金
    二二円     標的六個及び腰掛二個代
     四円五五銭  雑費
差  引         一一六円六八銭
          昭和十三年六月二十三日
          帝国在郷軍人会上富良野村分会
小銃射撃場が存在した
 このような施設が遺構として現存していることから、訓練場について詳しいことを知るため、陸上自衛隊を退職後、公民館に勤務している水野賢さんを訪ねて、「監的壕」であるか聞いたところ、的(まと)を置いてある「的壕(てきごう)」と教えてもらった。
 平成二十八年に亡くなった、郷土をさぐる会の元会長菅野稔さんを訪ねて、小銃射撃場について覚えていることを教えてもらった時、奥さんの富栄さんが、この施設の近くに当時住んでいた林下さんから嫁がれていて、母屋から畑の方に行った小高い傾斜地から銃を撃っていて、スキーのジャンプ台のような構造物があったと話され。射撃をする時、的の上がり下がりと旗の合図があったことを記憶している。このことから、林下武治宅の近くに「射撃壕」が確かにあったことがわかった。この時は漠然としか聞いていなかった。

現在の的壕、銘板は終戦時取り外されたのか?
 平成三十年一月、名古屋市に住み、戦争遺跡研究会で在郷軍人会等が建設した戦前の「村の射撃場」を調査している人から、『郷土をさぐる』第十二号に佐藤輝雄さん(元公務員・北海道開発局、本町)が書いている小銃射撃場について教育委員会に照会があり、郷土をさぐる会に対応の依頼があった。中村会長の了解を得て、できる限り応じることになった。
 「射撃壕」の位置を確かめるため、札幌に住む菅野富栄さんに電話で問い合わせ、東二線の現在の的壕、銘板は終戦時取り外されたのか?
 実家前を通り、畑にある納屋の先にあったことがわかった。ここは現在も小高い傾斜地で、斜面を利用して掘り込んで、「射撃壕」を造り、日の出山の斜面に構築された「的壕」に向けて射撃したことが分かった。
 この土地の現在の所有者である佐藤輝雄さん(農業のかたわら狩猟をしている熊打ち名人、東町)から、当時、射撃壕のあった所へは長谷部さんから人一人が通れる小道がついていて、数年前に畑の春起しをしていた時、偶然、壕のあった場所で銃の弾を込める挿弾子に付いた空薬きょうを掘り起し保管していることが分かった。
 このことから射撃場所の位置がはっきりした。射撃の的を置いた「的壕」は射撃した小銃弾が的に当たらずに逸(そ)れても、周囲に影響しないように日の出山の斜面を利用して構築されており、地形を利用して理想的な場所に造られていた。
戦時下の射撃訓練
 菅野稔さんは、自分が徴兵で入営する前年の昭和十九年四月中旬、里仁青年学校の小銃射撃訓練で日の出山の小銃射撃場に行ったと話された。訓練当日の朝、美馬牛駅に集合。在郷軍人会指導員である江幌の山川武雄氏の引率の下、列車で上富良野駅に向かい、駅から日の出山の訓練場へは徒歩で移動した。青年学校の生徒、二十歳と十九歳が参加。訓練に使用した銃は「三八式歩兵銃」で、二十歳の十二名が射撃を行い、射撃は各人一発で、入営前に実弾射撃を経験させるものであった。
 菅野さんは十九歳なので他の二名と「的壕」に入って旗振りの係をしたと語った。「射撃壕」は丘から伏せ撃ちで、銃を構える位置が少し高く、人が横ばいになる場所が少し掘ってある構造であったと記憶している。
 当時の射撃場近辺には、菊池巳吉さん、林下武治さん、田中榮三郎さん、長谷部金治さん、守田七蔵さん、廣瀬義一さん、浦島捨三さん、横山政一さんなどが住んでいた。銃の暴発とか流れ弾の危険と隣り合わせだが、射撃場の設置に反対することなく快く応じていたようだ。

掲載省略:(図)小銃射撃基本姿勢と築造法


在郷軍人会

 在郷軍人会は軍隊経験者で現役を離れた予備役・後備役軍人によって全国的に編成された組織で、傷痍軍人・軍人遺族の相互扶助などを目的に発足した戦前の組織であった。事業として、国民的な式典の協力、戦没者・戦死者の遺家族慰労。社会公共の治安維持ならびに救護活動。召集事務・徴兵検査の協力。入営予定者の予備訓練などを担った。
 大正十五(一九二六)年の大正噴火の時、上富良野の「在郷軍人会」分会員が、救護活動に従事した記録が残っている。
 菅野さんたち、里仁青年学校の生徒が、応召を前に予備訓練を行った際江幌に住む、「在郷軍人会」分会員の山川武雄氏が引率と指導に来て、入営予定者の教育訓練を行って、郷土出身兵の資質向上に寄与したのも、この戦前の組織が目的としたものの一つと考えられる。
 小銃射撃場について、江幌地区に住んでいる人に話を聞くと日の出山に射撃場があるのを知っていた。青年学校なので軍事教練は受けたが、射撃訓練は行っておらず、年上の兵隊検査に合格した入営前の人が射撃をしていたと語った。
 小銃射撃場の近くに住む人は、終戦後、壕の周りで土にめり込んだ銃弾を拾った記憶があり、今も周辺にあると思うと話されている。また、子どものころ、壕の場所へ祖父に散歩がてら連れられて行った経験があり、銃の射撃訓練に使われていたこと、現在、土で覆われているが、壁面に銃弾の当った凹みの傷跡があることを教えられている人がいる。

掲載省略:(写真)山部町史の射撃場写真、構造の特徴がよく似ている
小銃射撃場は各地にあった
 富良野地方の小銃射撃場は、『村報・我村』による山部町史の射撃場写真、構造の特徴がよく似ていると、上富良野のほかに、山部と富良野にあったことが記載されている。
 山部の射撃場は、山部町東二十線堤防地に昭和十二年六月着工、昭和十二年十月完成。石いし工く、毛内蔵之助氏により築造された記録が残っている。
 この射撃場は、昭和三十七年八月二日〜四日の台風九号の洪水で流出破壊されたという記述が『山部町史』にある。
 富良野の射撃場は、富良野市下五区、朝日ヶ丘東部に的壕があり、空知川の堤防付近から射撃をしたという記述が『富良野市史(第一巻)』にある。現在、この施設は残っていないので、調べ方が足りないが、戦後処理で破壊したか、川べりにあったので、山部と同じく水害などで流出したものと考える。山部の射撃場について調べるため、富良野市生涯学習センターに行き、学芸員の澤田氏に尋ねたところ、富良野地方に、詳細な場所は分からないが、他に、布礼別・東山地区(神社山)・鳥沼小学校近く、また、南富良野町金山地区、中富良野町にもあったと教えてもらった。上富良野に射撃場があったことは、これまで、まったく知らなかったと話された。
 中富良野町の射撃場は『中富良野町史』(昭和六十一年刊行)によると、大正十三年、新田中入口に設置され、昭和九年、旭中地区(東十線北十号)に移転となり、昭和十一年、福原地区(西一線北十二号)と移って、最後は北星山の山中に移転。終戦によって、必要がなくなったという記述がある。
 隣町の美瑛町美馬牛地区にあった、旧陸軍美瑛演習場の跡地に、トーチカと呼ばれる史跡がある。
 ここは、主に旧陸軍第七師団砲兵隊の射撃演習で使われ、大砲の砲弾が標的に命中したか、弾着を観測するための施設で、周囲が土盛りされたコンクリート造の施設である。現在、私有地の農地になっているが、取り壊されることなく現存している。この射撃観測壕は旧日本陸軍の軍事施設であるが、小銃射撃場の保存に関連して参考に触れておく。

掲載省略:(写真)台風9号の空知川洪水写真(山部町)
平和教育
 近年、負の遺産ともいうべき戦争遺跡の見直しが行われている。戦争を歴史的に解明して平和教育に結びつけ、戦死者の慰霊の在り方など、戦前の人々の日常生活の中にあった軍隊の位置付けを、否定的にとらえるのではなく、歴史観として近・現代史の空白を埋めるようになりつつある。
 太平洋戦争が終戦となった昭和二十年、敗戦処理が行われて、軍事施設の破壊とか戦争に関連した書類が廃棄・処分されてしまい、ほとんど現存するものはない。平和教育に役立つ資料は乏しく、戦争に関する貴重な資料などが皆無と言っても良い状態にある。
 日本各地に残っている戦争関連施設・遺跡が書かれた書籍に、上富良野に存在する「東中尋常高等小学校御真影奉置所」の建物が残されていることが載っている。「小銃射撃場」は、日本各地の戦争関連施設・遺跡として現存するものは見当たらず、軍隊が使用した「小銃射撃場」は、国有地の演習場内にあったと思うので、施設は破壊されることが無かったろうし、人々の眼に触れる状態にないと考える。
 日の出公園に現存する小銃射撃場の「的壕」は、現在、町有地の公園内となっているが、当時の地主から用地の提供を受けて、私有地に築造されたことが『村報・我村』の記述で確かである。
 終戦の時、出入口に掲げてあった銘板らしきものを取り外したのか、痕跡だけが残っている。築造の際、参考とした山部町の施設が写った写真には、出入口の上に「射場」の掘り込み文字の銘板がある。日の出公園にある小銃射撃場の当時を知ることができる設計図と書類などが皆無で、これ等も終戦時処分されたと思われる。
戦争遺跡
 戦争遺跡(戦跡)とは「戦闘のあった跡」という意味合いが強いが、世界の国々では「戦争関連の遺跡」としてとらえる遺跡・遺構の類を指す言葉としている。国家・民族・集団の相互の大量殺人・大量破壊の行為である戦争を負の遺産と捉え、戦争をタブー視してきた。近年、平和教育という観点から、この歴史観を見直して教訓とするべく、戦争遺跡の考古学的調査で近・現代史の空白を埋める歴史の見直しがなされている。
 二十世紀の国家対国家の戦争に限らず歴史学と考古学の観点で、古代の集落国家間の争いから戦国時代の城郭、合戦場跡などまで、戦時下の人々の暮らしは勿論のこと、建築様式・地理学・地形学などをはじめ、多様な側面の学術・研究の体系的な学問として見直されている。
 このことからも、日の出公園に残されている小銃射撃場の「的壕」は、平和教育の一級資料的価値があり、構築された経緯を確かめることができる資料が残っていて、戦争関連施設・遺跡として貴重なものと言える。射撃訓練場があったという事実、しかも実存していることから語り継いで知っておくべき戦争の実態を物語る、歴史的な意義を持つ貴重な史跡になると考える。
歴史史料
 熊谷一郎さんが執筆した、開基五十年記念誌の「上富良野村史」草稿には、「在郷軍人会」の章で、小銃射撃場に関する記述がある。『大正四年五月十一日、小銃射撃場を新設し第一回小銃射撃会を実施す。大正九年三月二十五日、小銃射撃場位置を変更し射撃名誉優勝旗を制定する。昭和六年二月十四日、未入営補充兵〇〇会を開催する。昭和六年七月、青年訓練生を会同し毎年一回射撃演習を行う制を設け実施する』、草稿でこのように触れている。かみふらの一一五年歴史年表(平成二十五年四月一日発行)と一致しないが、参考のためにこのような史料があることに触れておく。平成十年八月発行、上富良野百年史の編纂の際に集められた史料として東京在住の西野目さんから寄贈され、郷土館に収蔵されている帝国在郷軍人会上富良野村分会の『分会歴史』から、多くのことを知ることができた。
 原本はB五判で、百年史の調査資料として、A4判に拡大コピーしたものもある。太平洋戦争終戦時、戦争関連の書類などは処分され分会の戦前からの歴史を記録した貴重な資料が残されているのに驚いた。一頁十行の縦書き半罫紙に日付と出来事が詳しく書かれている。小銃射撃場の所在地は本間牧場内で大正四年五月十一日に第一回小銃射撃会が施行されたと書かれていて、熊谷氏の村史草稿の記述と一致する。
 入手が困難であったが、古書店からようやく入手することができた。戦争中の兵事資料を細かく解き明かしている。小澤眞人・NHK取材班『赤紙/男たちはこうして戦場へ送られた』(創元社)という本がある。富山県のある村の兵事係の業務に関する公文書綴が保存されていて、NHKがテレビ放送したその内容を活字として出版した本である。最初の一頁目に、『最後の大本営の指令「軍の機密に関わる一切の資料を焼却せよ」ということがあったことその指令そのものも、大本営で焼却されて残っていない。』と書かれている一文から終戦時、戦争関連の書類などは処分されていることを知ることができる。
 この本には、「在郷軍人」について書かれている。『ふだんは一般の国民として生活しながら、戦争や事変が起こると急遽招集を受けて兵士となる、いわば予備軍である。郷(一般社会、軍隊用語でいう「地方」)で生活しながら軍人の資格を与えられ、いざというときには召集を受けて戦場に赴く、そんな意味から兵役にある国民を、軍は在郷軍人と呼んだ。軍人と位置づけられていたものの、実際は普通の男子国民である。彼らは赤紙を受け、次々と招集されていった』と書かれている。
 『分会歴史』には小銃射撃会を毎年四月十日に開催することが書かれている。小銃射撃場に関する記載を年代順にあげると、大正九年三月二十五日、西一線北二十四号の島津農場内に移設して、新射撃場を構築したことが書かれている。大正十四年四月十日、新設射撃壕(東二線北二十七号)において小銃射撃会開催(第九回)の記載があり、島津農場内から、東二線北二十七号に新設(移設)されたことが判断できる。昭和八年十一月十五日、射撃場修理と書かれているが、昭和十三年のコンクリート築造は一切記述がない。その後、昭和十六年十一月十五日、小銃射撃場修理とある。
 平成八年に、遠藤博三氏が大工であった父遠藤藤吉さんの日記帳をまとめた小伝『此日、余は』に、昭和十三年に請け負った事業に―射撃場の仕事―とあり、『村報・我村(わがむら)第二十八号』に書かれた―工事請負遠藤藤吉氏―から、昭和十三年に「コンクリート築造の小銃射撃場」が新設(移設)されたという『分会歴史』の触れていない部分を補完する史料(個人の日記)がある。私の同級生に遠藤藤吉氏の孫になる方がいるので、構造の分かる設計図などの史料が保存されているか、尋ねてみたが無いとのことであった。

掲載省略:(写真)『帝国軍人会上富良野村分会歴史』一頁十行の半罫紙に書かれた記述
    一、大正三年十月廿五日上川聯合分會加入
    一、大正四年度ヨリ村費補助三十円ヲ受ク
    一、大正四年五月十一日第一回小銃射撃会施行、場所本間牧場内…と読める
掲載省略:(写真)冊子〜郷土館収蔵の上富良野村分会歴史
《参考文献》
『山部町史』 (山部町)
『富良野市史(第一巻)』 (富良野市)
『中富良野町史』 (中富良野町)
『しらべる戦争遺跡の事典』 十菱駿武・菊地実(柏書房)
『続/しらべる戦争遺跡の事典』 十菱駿武・菊地実(柏書房)
『本土決戦Part1戦跡ガイド』 小西誠(社会批評社)
『TOKYO軍事遺跡』 飯田則夫(交通新聞社)
『ガイドブック松代大本営』 松代大本営の保存をすすめる会(新日本出版社)
『呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック』 奥本剛(光人社)
『日本全国保存兵器ガイド』 寺田近雄(文春ネスコ)
『囚われの日本軍機秘録』 野原茂(光人社)
『赤紙/男たちはこうして戦場に送られた』 小澤眞人・NHK取材班(創元社)
『誰も書かなかった日本陸軍』 浦田耕作(PHP研究所)
『日本砲兵史 』陸上自衛隊富士学校特科会(原書房)

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀