郷土をさぐる会トップページ     第36号目次

平成一〇年度上富良野町文化賞受賞者
私の八十年の歩み

上富良野町泉町二丁目
葛本 美智子  昭和十三年一月六日生(八十一歳)

 この度郷土をさぐる会より原稿の依頼をいただき記憶を辿りながら寄稿させていただきます。
 私は昭和十三年一月江花地区熊谷仁蔵、ユキノの長女として誕生しました。
 両親は、朝は日の出と共に夜は日が落ちるまで、寝る間を惜しんで働いておりました。
 私は何時も藁(わら)で作った『いづこ』に入れられていた記憶があります。
 戦時中故、お米を作っていながら、お国のためとお米を国に納め、私達はいもご飯、大根ご飯、麦ご飯は上等…、砂糖など勿論なくビートをスライスして煮詰めコーリャンの粉で作ったお団子やいも、カボチャのおしるこをいただきました。又お正月は神棚、ご仏壇には白い餅をお供えし、私達はイナキビの餅を食べておりました。でも子供の私にはごちそうでした。今こうして健康な日々を過ごせるのも、当時の穀物のおかげと感謝致しております。
 小学校に入学した時、上履きは藁で編んだ草履、長靴も藁やトーキビの皮で編んだボッコ長靴でした。学校では冬支度に裏山の木の枝やドングリの実などを拾いに行った時に裸足で蛇を踏んでしまい、それ以来ミミズやうなぎなど、長くぬるぬるしたものが苦手で、食することが出来なくなりました。
 昭和二十年八月終戦になり、校庭のスピーカーより天皇陛下の玉音放送が流れ、皆校庭に膝まづき頭を下げ聞いておりましたが、小学一年生の私には何の事かわからず、帰ってから母に聞きました。母は「日本が戦争に負け恐ろしいことが終わったよ、これからは白いご飯がおなかいっぱい食べられるよ」と笑顔で話してくれました。その後父母の兄弟家族が引上げて来て三家族で暮すようになり、学校では給食が出るようになり、パンと牛乳でしたが、牛乳といっても脱脂粉乳でした。じゃがいもばかり食べていた私には珍しくご馳走でした。

掲載省略:(写真)中学生卒業の頃

 その後私たち子供には、頭や体にシラミやノミが発生し、今の子供たちには通じないと思いますが、DDTという粉を頭から体中に散布されたものです。また中学校は、四キロ強の道を歩くと一時間余りの道程でしたので、自転車の練習をして通学しました。
 中学二年生の時、部活動で帰宅が遅くなると父に叱られ、下校時間を記録した生徒手帳に先生の印鑑をもらってこないと家に入れてもらえないこともありました。また、お祭りや映画を見に行く時も母と一緒でした。母は昔の家政女学校を出ておりましたので、女でもこれからは教育をと言っておりました。友人の渋江康子さんが旭川藤高等学校へ行くとのことで、一緒にと思いましたが、終戦直後の農家で高校へ行く人は何人もいませんでした。私も勉強が苦手でしたので、手に職をつけようと美容師になりたいと思っておりましたが「奉公人を使っているのに、自分の子供を外に出すことは世間の人に笑われる。へたに学問をつけると、生意気になる。女は、飯作りと針仕事が出来ればいい」と父は大反対。また青年団に入ると、女が夜出歩くと不良になると母を叱る姿を見て脱会しました。そのかわり畑仕事を十月までに終わらせたら、十一月からは習い事をして良いと言われ、懸命に仕事に励みました。
 母は冬期間、部落の女性の方に和裁を教えておりました。私も一緒に習いたいと思いましたが、母は身内だとわがままになるからと考え、町の竹谷和裁教室に通わせてくれました。しかし、帰ってくるたびに「先生はこれで良いと言われたのか」と糸を抜き裾のつま上げが出来るまでやり直しをさせる厳しい母でした。
 私が十八歳の時に縁談のお話があり、お断りしましたが、又翌年にも幾度となく足を運ばれ、母も望まれて行くならきっと大事にしてくれるでしょうと、一月にお見合いした方が、町内で豆腐屋を営む主人の葛本武志さんでした。
 成人式を終えた昭和三十三年三月馬橇(ばそり)での嫁入りでした。町の皆さんは馬に乗った花嫁が珍しいのか大勢の方が集まって参りました。友人の康子さんも馬橇にゆられお祝いに駆けつけていただき、黒田節を舞ってくだいましたことが懐かしく想い出されます。
 五月頃には生活改善で結婚式も会費制になり、公民館で花嫁もハイヤーを利用するなど変わっていきました。
 農家から商人の葛本家に嫁ぎ、私の人生は一変しました。音楽一家であり商売の傍ら週に一度、夜は民謡会で中富良野町西中などから各地域より集まって唄を楽しんだものでした。そんな中、故千秋薫様のご配慮で民謡講師の中川作太郎師を迎え、昭和二十八年発足二代目会長父の葛本利八により旭川地区連合会に加入し、毎年優勝と好成績を納めておりました。主人も名寄から富良野まで唄と伴奏で多忙な日々を送っておりました。
 しかし、私は商売で盆も正月もありませんでした。義母は家付きで婿さんを迎えていたので、町内の新年会の色々な行事も自宅で行い、私たち家族は、春休み夏休みはずっと家で過ごし実家に里帰りなど一度もなかった様に思います。子供が幼稚園に入ると役員の依頼をうけましたので、商売をしているのでお断りしても、葛本さんのご両親は理解のある方だからと言われ、仕方なくお受けしたら義母に叱られたものです。また一度お受けすると、卒業するまで色々お手伝いをさせていただきました。

掲載省略:(写真)葛本家お正月に記念撮影(昭和40年)
掲載省略:(写真)夫の武と家族写真
掲載省略:(記事スクラップ)北海タイムス紙に掲載

 知人の紹介で子供が幼稚園入園を機に、昭和四十五年美瑛(びえい)東流(あずまりゅう)東昶敬華(あずましょうけいか)師(本名 鈴木敬子)の指導を賜り、何の楽しみのない時代のなか、各町村の部落の春祭り、秋祭り又敬老会など町の行事にも声をかけていただき、行く先々で自衛隊の音楽隊の方々ともご一緒させていただきました。
 もし唄に踊りをつけたらお客さまも一層楽しんで頂けるのではないかと考え、レコードの振り付けで勉強し、自分の子供の同級生と民謡会の女性の方々にも協力して頂き舞台を務めたものです。又商工会婦人部でのパレードなどの踊りにも関わり、商売をしながら大変でしたが、昭和五十三年教育委員会から文化講座の開設のお話をいただき、二ヶ月間の民舞講座の講師をさせていただきました。その後受講者の皆さんから継続してほしいとの要望もあり、師匠にご相談したところ快く賛成してくださいまして上富良野まで足を運ばれ、皆さんに「葛本さんのご主人は民謡をやっていらっしゃるから『大雪民舞研究会』でどうかしら」と会名を頂き、同年九月から文化連盟に登録させていただきました。
 師匠から富良野沿線の指導を任され山部十年、上富良野各婦人会、冬期講習会、自衛隊仮想盆踊りの指導にも三、四年ほど伺ったように思います。
 昭和四十九年義父が他界し、製造業故に二人では大変でした。その頃道央信組(空知信組)様より駐車場にとお話がありましたので、五十年続いた豆腐店をたたみ、私は昭和五十一年一月より上富良野町立病院看護助手として就職致しました。同年十月には義父に続いて義母も他界しましたが、その後平穏な日々を送っておりました。
 昭和五十九年春より、主人の体調が思わしくなく、脳腫瘍の診断により即手術をしましたが、手足の麻痺がありとても大変でした。その後三味線、尺八がリハビリとなり、半年後には仕事に復帰し、平成十四年民謡歴五十年を唄・伴奏者として北海道より最高師範を授与頂き、十月旭川にて記念祝賀会を開催することができました。当日は文化連盟の役員の方々のご臨席を賜り喜びもつかの間、十二月より体調を崩し平成十五年一月末帰らぬ人となりました。多くの人に惜しまれ、もう少し活躍していただきたかったと残念に思いますが、これも自分の好きな道を歩まれ幸せな一生だったのではと思っております。
 平成九年に大雪民舞研究会の岡本ハツエ様より、「いしずえ大学で民舞の先生がいらっしゃらないので、先生教えてあげたら」と言われ、葛本の義母や熊谷の母が老人大学に通っており、「とても楽しい」と伺っておりましたので、後に教育委員会から正式に依頼があり、同年四月からいしずえ大学民舞講師として務めさせていただき、今年で二十一年になります。
 またいしずえ大学民舞クラブの方々から、踊りの会を作りたいとの要望もあり、公民館にて「せせらぎ会」を平成十年に発足いたしました。発足当時は十二、三名いましたが、高齢のため平成二十三年で解散となりました。せせらぎ会は解散となりましたが、会員の若い方は大雪民舞研究会に入会され、踊りの好きな人たちが集まり、和気あいあいと踊り続けてきたことが、今年で四十年を迎えられ、あの頃と同じ思いに感慨を深くしております。平成三十年一月初ざらいを兼ねまして先々代会長始め四十年を迎えられた方々をお招きし、ささやかながらお祝いをさせていただきました。
 また、文化連盟の役職も平成二十六年度まで文連各位の皆様と楽しく交流を重ねながら、二十年間務めさせていただきました。この間お陰様で主人の生前には共々に色々な賞をいただき、また上富良野町より主人は平成元年に、私は平成十年に文化賞をいただきました。身に余る光栄と感謝しております。

掲載省略:(写真)50周年記念祝賀会にて
掲載省略:(写真)葛本さん舞踊姿
掲載省略:(写真)町表彰式で文化賞授与

 今こうして振り返ってみますと、ご縁があって商売に嫁いだことから、唄や踊りと出会い本当に好きなことに無我夢中になり継続してまいりました。大雪民舞研究会やいしずえ大学民舞クラブでも“みんな仲良く、楽しく”をモットーにしております。でも習い事の始まりと終わりの挨拶は礼儀として常に大事しております。
 皆様には、踊りの基本と踊りが大好きな心を大切に、きれいに踊ってほしので、「叱らず褒めて」の指導を継続しております。そして私も、皆さまの若いエネルギーを頂きながら、今後とも少しでも文化の向上のために頑張りたいと思っています。
 私共にご支援ご声援を頂きました皆さまに感謝申し上げますと共に、今日までご指導くださいました師匠鈴木昶敬華師に心より厚くお礼申しあげ、私の歩んだ道程を記させていただきました。
                             平成三十年吉日

掲載省略:(写真)大雪民舞研究会創設40周年・新年会に参加した会員(平成29年1月9日)

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀