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後世に語り継ぐ事業シリーズ
名誉町民 故 尾岸孝雄の生涯

編集責任 中澤 良隆    編集補佐 佐川 和正
執筆協力 田浦 孝道
編集協力 新井 久己    編集協力 松下  力

※ 文中の敬語は適時省略させていただきます。
  はじめに
 後世に語り継ぐ事業として、本号では名誉町民 尾岸孝雄(一九三九(昭和十四)年十一月十四日生れ)を取り上げることになった。
 詳しい経歴については、以降本文をご覧いただくものとして、一九九六(平成八)年十二月二十七日に就任し、二〇〇八(平成二十)年十二月二十六日に退任するまでの三期十二年間の上富良野町長としての功績を称え、二〇一〇(平成二十二)年十二月十五日に歴代九人目の名誉町民称号が町議会で議決された。授与式は翌平成二十三年二月十八日に保健福祉総合センター「かみん」で行われている。
 持病の肺気腫と付き合い、やや不自由ながらも日常を過ごしておられたが、突如肺炎を併発し緊急入院し加療の甲斐もなく、二〇一八(平成三十)年二月十四日に逝去(満七十八歳)され、社会教育総合センターで二月十八・十九日に町葬がしめやかに執り行われた。
 葬儀には故人の遺徳をしのび、上川管内市町村長、国・道・町議会議員、関係機関・団体の代表、友人、知人など町内外から多数の方が参列し、故人の冥福を祈った。
 町長職以外にも、商工会副会長、町議会議員・副議長などの経歴もあり、農業者からハイヤー会社経営者への転身など、波乱に富んだ生涯を送られた。

掲載省略:(写真)名誉町民称号授与式(平成22年2月18日「かみん)

  尾岸家家系図から
 尾岸孝雄が生前作成した『尾岸家系図』に、祖父から繋がる経歴が付記されているので、若干の整理を加え次のとおり掲載する。
 なお、尾岸孝雄に関するものと、編集協力をいただいた母方従兄弟の新井久己に関わる家系図は、本文末尾に掲載するので、本文中に登場する氏名との続柄をご参照願いたい。
祖父良右衛門は、福井県大野郡北谷村勝山、尾岸孫三郎、たつの二男として万延元年六月十日出生。
それ以後の事に付いては正確な記録も無く、父三吉からの聞き伝えによると、何人かの仲間と共に渡道し、美唄など二〜三箇所を移動した後、大正八年一月二十七日空知郡上富良野村字中富良野東八線北百六拾六番地(現東八線北十九号)に定住して、数々の苦難を克服しながら農業林業、さらに澱粉工場など手広く営み生活基盤を築く。
父三吉は良右衛門、たミの三男として明治三十五年二月十日、福井県大野郡北谷村勝山において出生。
大正十三年九月二十日新井市三郎三女キヨと婚姻。昭和六年四月分家するまでの長い間同居し、母キヨは大変苦労した話をしていた。分家は「ながきた」のおばあちゃんと言う人の家付きの土地で東七線北十八号で新井家の近く、今は無い小さな池の縁に定住し、孝雄は三男として昭和十四年に当地で生まれた。父三吉は虚弱の身体であったが農業を営みながら我々兄弟姉妹(四男、四女)を社会人として送り出してくれた。
年齢と共に農作業に不安を感じていた折に三男孝雄が後継者に成り農業経営を任せて手助けをしながらの日々を送る。
昭和三十七年四月に孝雄は良子(名和家)と結婚し、父三吉、母キヨも安心の日々を送っていた。しかし、内孫里美が生まれ喜びの間も無く、良子は白血病に侵され農作業が出来なくなる。
当時の農業は家族労働に負うべきところが大きく、父三吉は今後の経営に不安を感じ、一大決心をして農業経営を諦めて、昭和四十一年十一月、孝雄と共に上富良野町中町二丁目の有限会社十勝岳ハイヤーの譲渡を受けて、父三吉は代表取締役に就任する。
昭和四十五年に良子が亡くなり、その後孝雄は美恵子(江頭家)と再婚する。
三吉は昭和四十八年に代表権を孝雄に譲り、昭和五十一年六月に旭町の新居に生活を移し、以後は悠々自適の生活を送る。
しかし、年齢には勝てず、二、三度入退院を繰り返していたが、昭和五十八年九月二十九日孝雄の町議会議員の初当選を確認し安らかに八十一年間の生涯を閉じた。
母キヨは父三吉と二人部屋で入院をしていたが、三吉を見送った後そのまま入院をしながら、昭和六十年二月二十三日父と同じ満八十一歳で父三吉の元へ旅立った。
掲載省略:(写真)昭和42年頃の十勝岳ハイヤー社屋
  インタビュー取材から
 「後世に語り継ぐ事業」での記事を取りまとめるため、郷土をさぐる会編集委員の担当者と知友人・縁故者で資料収集・取材・執筆を分担することになり、まず、松下 力(当時編集委員)・中澤良隆編集委員によるインタビュー取材が、逝去される二年前の二〇一六年三月二十一日に尾岸宅を訪問して行われた。
 以下は、松下 力が録音から文字起こししたものに、文言と時間軸に整理を加えたものである。
  ◇昔の我家

 私は生まれが東中で、東七線の北十八号、ちょうど今の東中公園になっている池がある東七線道路側の一角、百間四方の三町三反がうちの屋敷と田圃だった。ため池が境界になっていて、ここで生まれて育った。
 東七線道路から北十七号側に五十間ぐらいのところに、うちの母親の実家である新井與一郎(昭和十四〜三十年上富良野村・町収入役)宅があった。
 それから終戦後、電気が通るようになったけれど、電線の通ったところから八十間ぐらい奥に入っているから、新たに電柱を立てないと、電気を通してもらえなかった。自費で電柱を立てるとなるとかなりの金がかかるから、もう家も古くなったので、父はこの機に新しく建てるといって、現在の及川明宏宅のところに新築した。今も私たちが住んでいた家が物置になって残っている。我家に電気がつくようになったのは、終戦後ずっとしばらくたってからのことだ。

 ◇子供たちの仕事

 うちでは牛を飼っていた。沢山でないけれど、出荷するほかに、自分のところでも牛乳を飲んだ。馬も飼っていて、農作業に使うだけではなく、堆肥を取って水田の肥やしにした。だから馬や牛を飼っていた。
 搾乳し牛乳缶に入れて毎日、東中市街の消防番屋の側に当時あった雪印乳業の集乳所まで持って行って、牛乳を出荷しその空き缶を持って帰るのが仕事だった。冬になれば橇に乗せて引っ張って運んだ。
 秋の収穫時期には、稲刈りしたり稲架(はさ)掛けしたあとの、落ち穂拾いが仕事だった。兄弟など子供らで拾って歩かないと怒られたものだ。落ち穂拾いだけではなく、晩はある程度遅くまで稲架掛けを手伝い、台の上に乗った親父が、上の方で掛ける稲わらの取り役も子供達の仕事だった。
 そんな仕事だけではなく、帰ってきたら家事、家業の手伝いというものがあって、冬は冬で俵編みとか桟俵(さんだわら)編みがいつものことだった。冬のうちに縄綯えといって、藁をたたいて縄まで自分で綯った。そんなことやら、なんだかんだでそれぞれに子供の仕事ってあったものだ。

 ◇にぎやかな食卓

 私は兄弟姉妹が男四人、女四人の八人いたから、家族も大所帯になって、食事になったら賑やかなものだった。今は兄、姉、自分、弟の四人の半分になってしまった。
 昔は、今ほどいろんな食べ物あるわけでないけど、ただあの時分、ニシンがたくさん獲れていた。今でも思い出すけど、真鍋商店、今の真鍋美勝さんでなく爺さんの真鍋鹿之丞さんが、昔の三輪車のポコポコというオート三輪に、ニシン箱をいっぱい積んで売りに来た。
 そして、今みたいに冷蔵庫がないから、「夕方になると、傷みかかってくるから早く料理して、乾燥させたらいいわ」と一箱なんぼといって、米との物々交換だった。そして、置いていったやつを、腹を割いて白子と数の子に分けて、軒下にぶら下げて乾燥させ、冬の食料として食べたものだ。そんな生活をしていた。

掲載省略:(写真)東中中学校卒業記念写真(昭和29年)

 ◇東中市街地

 あの時分の東中では、今の東八線の北十八号の学校や神社の近くは結構人口もあって、お菓子屋さんも二軒もあるし、農協の事務所や店舗やなんかも大きなものがあったし、魚屋さんも床屋さんも何軒かあった。一時期東中地域として分村しようかなんて、結構町の人と競い合ったこともあった。
 当時の町議会議長は、東中から全部出ていたものだ。福家(敏美・昭和二十六〜三十八年)さんから、中西(覚蔵・昭和三十八〜四十二年)さん、床鍋(正則・昭和四十二〜四十六年)さん、西谷(勝夫・昭和四十六〜五十年)さん、南(勝夫・昭和四十六〜五十八年)さんまですごかった。あの時分、東中から町議会議員は四人出ていた。

 ◇一年長い高校生活

 あの当時は汽車通学をしたが、西中の乗降所は無かったから、乗降駅は中富良野で、富良野までの通学パスを買っていた。東中から中富良野の駅までは自転車を踏んで行った。
 あれは、十月二十日頃だったか、通学に使っていたパスで旭川まで行って、友達が一人だけ入場券を買いに出て、入場券で改札をくぐりぬけ、旭川で遊んできた。遊んだといっても、ぶらぶらしながら帰って来るだけなんだけど。
 丁度その時初雪があったんだ。そしたら風邪引いて、熱が下がらなくて、富良野協会病院で従姉が看護婦長やっていたので、それを頼りに父が連れて行ってくれて、検査したら肺炎を起こして入院しなければダメだと。昔肺結核なんかは、隔離されたものだが、従姉の婦長が旭川の厚生病院に行ったらいいというので旭川厚生病院の肺結核ばかりの分室に入院することになった。正月に帰してもらえず、ようやく二月に帰ってこられた。すぐに学校に行ったけど、出席日数が足りないから進級はダメと言われて、それで一年遅れたんだ。
 十月から二月までの四ヶ月分の出席日数が足りず、少し位だったら休みの時につないでくれるんだが、さすがにムリだった。
 入学した時、同期だった富良野の能登市長(取材当時)がいるが、こんなわけで彼は一年先に卒業している。
 一年多く授業料を納めたから、親父に苦労をかけた。

掲載省略:(写真)1年遅れた高校3年(昭和34年)

 ◇親父の教育方針

 うちは貧乏だったけど、親父は教育だけは子供にしてくれた。女の子では、姉の一人だけが進学した。戦時中は、尋常小学校(国民学校)を卒業したら、中学校は無くなったから、姉はもとの中学校に当たる富良野の北海道庁立高等女学校を卒業して、東中の郵便局でちょっと仕事をしたりしていた。
 この頃、終戦後学校の先生が足りなくて、高女の卒業資格でも代用教員で採用されるというので、その当時東中中学校長をしていた安井洵さんとか金子郵便局長など東中の名士達の力で、代用教員で中学校で使ってもらった。そして、どうにかこうにか、それこそ姉の給料で皆食っていたみたいなものだ。
 男の子は進学させてもらった。上の兄貴は二人とも旭川の学芸大学(後に教育大学)を卒業して学校の先生だったし、親父は私にも大学に行けって勧めた。学校の先生が一番給料がいいから行けって。だけど私は全然その気は無かったけど、親父は願書を取って受験の手続きをしてしまった。上小の先生していたすぐ上の兄貴の大学時代の旭川学芸大学近くの下宿に、悪ガキの友達と二人と泊めてもらって、兄貴に連れられて教室を下見で案内された。石川っていうあいつは、今何しているかな。
 その晩、宿から抜け出して旭川の街をふらふらして、遅くに旭橋を渡って帰って、そのためか試験に遅れてしまって、その後の面接を受けたけどもうダメ。親はこのいきさつを知らんから、合格しないで帰ってきたら、やあ残念だった、やっぱり無理だったのかと言って慰めてくれたが、ダメなの決まっていたんだから。
 私の性格上、人に使われたり、人に指図されるのが好きでなかったから、「農家するわ」と親父に言った。親父は農家をして十分苦労したから、農家なんかダメだと言って、おとなしい親父だったけど、こんこんと説教されて、それでも言うことを聞かないものだから、長男の兄貴にも説教された。

 ◇農家からハイヤー会社経営に転業

 行くところがないから仕方ないなと言って、こつこつと農家やっていた。
 田んぼに隣接するあの沼には、ボートが浮かべられいた。五月の苗植え頃に、こっちは忙しく田んぼで仕事をしている傍で、街の方から遊びに来て、ボートに乗ってギャーギャー言っている。こっちは一生懸命、腰を痛くして田植えしたり、草取りしているのに、あんなの見たらあほくさくなって、「農家継がん」って言ってしまった。
 そうこうしているうちに、私の姉婿に、馬喰友達で親しかった吉沢商店の親父さんから、「田中さんのハイヤー会社が手を上げた(経営不振)ということで、誰か買い手が付かないかな」と声がかかった。吉沢さんと経営者の田中さんが同じ草分出身で親しくしていたからだった。
 そして、義理の兄貴がそれを聞いて、農家を嫌がっている私に、「お前どうだ、ハイヤー会社やらないか」と勧めた。なんぼだといったら、二百万円だというが、当時の二百万円といったら結構な金額だった。
 うちの土地を皆売ったら大体見合う金額だったが、そのほかに会社には借金があるという。ガソリンスタンドを経営する分部さんに、後払いになっていたままの燃料代を支払わなければならないのだ。
 その時、東中出身の今では亡くなった西木君に聞いたら、結構食うだけ位はあるよという話もあり、決断を押してくれた。こういうことが好きな義兄も手伝うから、やってみるかということで、会社を買った。そして現在の場所で、昭和四十一年十一月一日からハイヤー会社を始めた。

 ◇会社経営と町内飲食店めぐり

 農家していたら、一年かけて売り上げして、農協に支払う生産資材や使った肥料代を差し引いたら、翌年の一年の食い扶持はそんなに残らない。それが、ハイヤー会社を経営してみると、一ヶ月位でその分くらい残る。これはいい商売だと思った。
 その時分の運転手の給料ったらまた安かったからでもあった。それで、友達の西木君も、私がやるといったら、少し給料上げてやった方がいいよということで、少し給料上げてやった。何だかんだいっても、職員の待遇は、結構良かったと思う。そのうち、労働組合を結成したとか、賃上げだとかやっていたけど、あの当時食うだけの余裕はあったものだ。
 あの時分、前経営者は、札幌に行って飲み食いに金を使ったけど、地元では全然使わなかった人だった。片方の藤田の社長(上富良野ハイヤー)さんは、堅い人だからそんな飲んで歩いたりするような人でない。飲み屋さんが十勝岳ハイヤーはよそへ言って飲んでいるといったら、かえって敵を作っているようなものだ。
 「飲めるのに、地元で飲まないで札幌まで行って飲む」、そんな話を聞いたから、私は飲んで歩くのが仕事だと言って毎晩飲んで歩いた。営業だ。
 金を払って帰ってしまうと、店の子が誰が来たかわからないから、あえて借金にして帰る。当時私は専務だったが、ちゃんと十勝岳ハイヤーにつけとけ、十勝岳ハイヤーにつけとけと飲み歩いた。名前だけだったが親父が社長、私は専務だった。
 今度逆に運転手から、「専務、こことここへ行って真ん中の店を抜いたら、そこの店の人が、うちだって車利用しているのにと文句言っている」といわれた。それなら、抜くわけにいかない。だって、仕事だもの。
 今週は弁天閣(飲食街)、今週はこっちと。店は会社の前にもあった。飲んで歩くのが私の仕事と言って、あの辺ずっと歩いたものだ。
 昭和四十一年、四十二年といったら高度成長時代で車の時代になって、それから皆車を持てるようになった。オイルショックで、一時ガソリンが無くなって、代用燃料といって、なんと言ったか忘れたけど、一部ガソリンに混ぜて走ったものだ。煙が出て、エンジンプラグの火花が散るところにススが付いて止まるため、プラグを外して掃除したものだ。
 昔は、車のスプリングがよく折れた。十勝岳線なんて道が悪くて、あそこへ行くとスプリングを折って帰って来た。全部自分で取り替えたものだ。

掲載省略:(写真)十勝岳ハイヤー向いの銀座商店街

 ◇議会議員時代の思い出

 酒匂(佑一)さんが町長になるのと、私が議員になるのが同時(昭和五十八年八月二十五日)だった。
 あの時分の議員といえば、地区代表みたいなものだった。私が住むところでは、地区(旧旭区)の支えがない一匹狼で自衛隊OBの鎌倉周吉さんが出ていたが、鎌倉さんは前々の選挙(昭和四十六年八月)で落選してしまった。それで、当時の行政区長が誰をこの地区から選ぶか、町内会長会議や住民会長会議やらで、この地区(旧旭区:旭住民会区域)だけでなく東明住民会地区(旧東明区)も一緒になって相談していた。丁度あの時分に町名を変更した前後だ。
編集注:市街地東側地区が昭和五十七年十一月一日から、西側地区が五十八年十一月一日から新しい住居表示に変わり、六十年五月の市街地行政区長会による住民会等自治組織の再編成案に沿って、六十一年四月一日付けで行政区長の廃止、住民会の設置、住居表示の区域割りに基づいた町内会の再編が行われた。
 此処の行政区長(旭区)の佐々木福治さん、向こう(東明区)が柳本勇治さんの2人が集まって、どうするこうすると話し合っている頃に、私は農協が分譲した現住所地と隣地を買っていた。西側も買おうと思ったが、昔、食糧事務所にいた山田さんという人の家があって、その人が出るまでダメといわれて買えなかった。
 今住む家を建てたのは昭和五十一年で、此処へ引っ越してきて日も浅い、新参者の私が議員立起に手を挙げたんだ。
 そしたら、佐々木福治さんと柳本さんが町内会長を集めて、今までは鎌倉さんは一匹狼だったけど、今度は地域で推すということで、元の杉本食堂の二階の宴会ができる広い部屋で、幾度か会合をもってくれた。
 地域だけではダメだから、東明と一緒になって候補をたてるといった時に、私が手を挙げた。そしたら、住民会長なんかが集まった時に、私に対して「あの人十勝岳ハイヤーの社長だというのはわかるけど、この地域では名が売れていない、全然知らない」とよくいわれたものだ。
 それでも、会合などにチョイチョイ顔を出して、町内会長と話を深めるうちに、応援すると決めてくれた。旭と東明とで応援してくれたら鬼に金棒で、おかげさまで選挙の苦しみ、苦労はしたこと無い。
 両区で推してくれたから、上位当選できた。そして、次の選挙もその次の選挙も5番目、4番目の得票で町議として出させてもらっていた。
 二期目の時、私は副議長にさせてもらっていたが、当時各常任委員会毎に行っていた道外研修で、九州長崎の方に行ったことがあり、噴火した雲仙普賢岳を視察した。
 その時、その旅行に随行した議会事務局職員の床鍋さんが、私の家に酒匂町長が亡くなったとの連絡があったと自宅からの電話を旅館で受けて、それを私に教えてくれた。私が役場に電話したら、まだ亡くなっていないという話だった。ということは、未だ公表する前だったから、役場では未だ亡くなっていないというより無く、けど副議長だから役場の職員が気を遣って我家に連絡をくれたと思う。
 急いで、私は研修途中でとんぼ返りした。その当時の産業経済常任委員長の谷本和一さん達から、折につけて酒匂さんの後を尾岸さんが継ぐなら応援するからと言ってくれており、「帰れ、帰れ」という谷本さんの勧めもあって、帰ってきた。
 ところが、酒匂後援会が後継者を決めるのに内輪もめを起こしてしまった。それで、私がやるといったら谷本さん達から、けじめをつけてからのほうがいいと助言された。というのは、私は町立病院改革のための特別委員長で、原案がまとまっていたから、委員長として仕上げて提出し、それからにすべきだとのことで、改革案を提出したのが十二月五日になってのことだった。
 その間に、菅野(學)さんが出ることになってしまい、谷本さんと菅野さんが親戚のため、谷本さんが「やぁー。尾岸さん申し訳ない」と謝ってくれたけど、謝ってもらっても困ってしまった。
 結果として議員を辞職して、菅野さんと戦ったけれど、千三百票差で大敗した。その後四年間、すっかりそのことも忘れて、会社で飲んで歩く営業に打ち込んでいた。
 そのうち、菅野さんの任期も来て、二選を目指す選挙に出るとのことで、私を押す人達ももう一回挑戦せよといってくれたので、後援組織を作ろうと思ったけどできなかった。町長選の場合は、組織は全町的に作らないとならない。最初の時も、急遽だったから、町議の後援会組織でやったから、とてもでないけどダメだった。仕方ないから、今回も、この地域の町議会選挙の後援会組織でやらざるをえなかった。
 そしたら、わずか十票差で、当選させてもらった。あの十票差というのは自衛隊票が大分流れたからだと思う。それこそ、最初の時は自衛隊さんは、十勝岳ハイヤーの社長はどんな人だという状況だったけれど、今回はたまたま銃剣道連盟の富良野沿線の支部長をやっていたことで、部隊への出入りがあり、自衛隊さんにも名前が売れていた。だから、戦車大隊の関係者も力になってくれた。
 町長に就任後も社長職ではいたけど、会社の実務はすぐに宮下さんに任せた。

掲載省略:(写真)町長選挙遊説出陣式

 ◇酒匂佑一氏との思い出

 酒匂氏の後援会関係で親しくなった飛沢尚武さんに連れられて、酒匂さんの家にお邪魔して、奥さんによく可愛がられたものだ。酒匂さんが亡くなられた後も、必ず命日には行ってお参りしていた。
 奥さんも面白い方で、私が行って奥さんと話をしていると、長話で話が尽きない。タイミング良く早く逃げ出したいところだが、その調子がつかめない。
 ピンポーンとドアチャイムが鳴る。奥さんは出て行って、ドア先で「お客さんが来ているからダメだ。帰れ」っていう声が聞こえる。私にしてみたら、お客さんが来たから、それ幸いに帰ろうとしたら、お客に帰れって言っている。「いや、お客さんが来たなら私は帰る」と言って支度してそそくさと帰ってきた。そんな調子だ。
 酒匂さんも飲んだら気楽に何でも喋ってくれた。飛沢さんとの関係もあるから、議会のことでも、「尾岸君頼むな」と言ってくれたが、「おいおい、冗談ではない。私は副議長だぞ。議長がいるんだから議長に頼め」と言うしかない。

 ◇気苦労の商工会副会長

 商工会副会長では厳しい思い出ばかりだ。副会長というのは金融委員長も兼ねていて、そして理事の中から選任された仲島康行副委員長と二人で、会員が指導員の所に借入に来るのを調整して、この人はダメとかこの人はどうだとか、厳しい決裁をしなければならない。
 この人は救ってやったら何とかなるかなとか。だけど、金融といっても商工会に直接の融資金がある訳ではないから、制度資金の申請事務などだ。商工会の融資は貯蓄共済からで、商工会員が商工貯蓄共済に会費を納めて共済会に入り、その原資の何割かを貸し出す枠があって、それを充てる役を仲島さんと二人でやった。
 仲島さんも厳しかったし、私もどうにもならないものは手の差し伸べようもなく、捨てざるを得ない。それがやっぱり辛かった。全部救えるものならいいけど、気を配って何回配慮しても、割れ鍋に水の会員も出た。

 ◇白銀荘

 吹上温泉保養センター「白銀荘」は、開業は平成九年一月一日、営業開始は一月十一日からで、私が開館式を行ったが、建設や開業準備は前任の菅野さんの下で全部済んでいて、申し訳ない思いが残っている。菅野さんの列席を願い、オープンのテープカットをした。
 古い白銀荘は壊すことになっていたが、亡くなった北大の勝井義雄先生が、「十勝岳の白銀荘は構造が木造で、記念として残しておいた方が良いぞ」といっていた。しかし、残すとなると維持費がかかる。何だかんだ言われたけれど、山岳会などが一部改修して残したいというので、できるだけの援助をしたつもりだ。

掲載省略:(写真)白銀荘オープンテープカット

 ◇行政改革

 役場の仕事の仕組みは、私が(町長を)やってみて、こんな無駄はないなと思った。菅野さんは民間の農協出身だけど、農協職員も役場と大して変わらないし、酒匂さんもずっと役場職員だった。
 私のような民間経営者の目で見たら、こんなこと言ったら悪いけど、仕事のやり方がまずいなと思った。町長が、お前に何々課何々係を命ずると辞令を出す。命じられた職員は、命じられたことは、まじめにちゃんとやるけど、隣の人が忙しかろうが関係ない。命令されたこと以外のことをするのだから、手伝うことは越権行為になる。だから、季節毎にヒマ、忙しい時期があっても、職員は自分の命令されたことだけやって、あと暇な時は悠々としている。忙しい時は、超過勤務手当を請求して一生懸命やればいいと思っている。
 これには原因があった。係は、係長と係員との二〜三名が普通で、中には係長だけの係もある。仕事の分担が、○○係という単位になっていたから、「何々係を命ずる」でなくて「何々課の職員に命ずる」という形にならないものかと思っていた。係が集まって課になり、課長がいるんだけど、課も課長の数も多すぎると思った。
 その時進んでいた行政改革では、係制廃止や課の統廃合が検討されていて、私の考えにぴったりだった。課を減らし、係制でなく仕事分担範囲を大きくした班制に、また、職員の課内の配置権限は課長に預けるというものだった。私は、課の職員として任命するから、お前がちゃんと使えということにした。やっぱり、職員たちからも抵抗があった。
 私が町長になったときの助役は、札幌から来ていた大淵(北海道から派遣)さんだったが、助役は地元からと思って帰ってもらった。嫌われたかと思ったけどそうでもなく、帰り際まで「改革は必要です」と言っていた。
 私が後任に決めた助役は田中伴幸さんで、今の形の役場組織にできたのは、私の二期目になった平成十六年四月で、植田耕一助役のときだった

掲載省略:(写真)町長一期目(平成10年度)議会風景

 ◇初仕事は開基百年事業

 私が町長になったとき、開基百年の事業はもう計画が出来上がっていた。これが無ければ、新米で何もわからない、それこそちっぽけな、潰れそうな会社の社長がポコンと町長の椅子に座って、まごまごするばかりのところだった。
 私は着任の挨拶で、「落下傘で降りて来たのは、私一人だ」と職員の前で言ったような状態で、職員は皆菅野さん派で反対勢力、私は独りぽっちだと思って、何もないところからやるとなったらと、随分心細い思いをした。
 あの開基百年事業は、固まっていたからこそ、職員もいやな町長であろうが何であろうが、やらなければならないし、しかも、決めたのは自分達だという自負があったからと思って、私は一切手直ししないで、開基百年事業を行った。
 開基百年記念式典は平成九年七月三十一日に挙行したが、相前後して「開基百年記念碑除幕式(役場前庭・七月三十一日)」「上富良野町・津市友好都市提携調印式(役場前庭・七月三十一日)」「上富良野西小学校と津市立安東小学校との姉妹校提携調印式(西小学校・七月三十日)」などの記念行事もめまぐるしい日程の中で実施した。記念式典や記念事業には、昭和六十年九月五日に姉妹友好都市提携の調印を交わしていた、カナダ国カムロース市から招待していた市長夫妻他一行五名も参加いただいた。
 開基百年事業があったから私は助かった。あれがなければそのうち、堪忍袋の緒が切れて町長は保たなかったと思う。
 初めのうちは、玄関を入って大きな声で「おはよう」と言っても、誰も挨拶するものがいなかった。返事をしてくれる人が誰もおらず、知らん顔をしている中を、二階の町長室へ上がっていかなきゃならなかった。
 その時言ってくれたのが谷(忠:当時ふらの農協専務、後に上富良野町議会議員)さんで、「そんなことではだめだ」といろいろ助言してくれた。
 しばらくたってから、「おはよう」といったら「おはようございます」と言ってくれるようになった。

掲載省略:(写真2葉)開基100年記念式典(上)と津市との友好都市提携調印式(下)

 ◇上富良野西小学校の改築

 西小学校の改築(平成十二年十一月七日落成)は、開基百年事業に準備した予算が残ったので、国の補助金をもらって、ちょっと足したら実施できると算段した。もう古かったから、よしそしたら建て直すと。あれ全部使っていたら、西小改築は絶対出来なかった。
 それとクリーンセンター(菅野町長下で着手、焼却施設・最終処分場・リサイクル施設が順次完成し、平成十一年四月全面稼動)ゴミ焼却炉のダイオキシン問題があった。排出するダイオキシン濃度が設計された規制値を越え、緊急の対策が必要になったけど、日立金属KKが賠償金を支払うことになって、無料でできることにした。
編集注:平成十二年三月二十二日にA・B二系統の焼却炉のB系でダイオキシン類が五ナノグラムを超えたため四月十日B系を停止、対策を講じて六月十三日に再稼動したが、同年十月二十六日にA・B両系統で規制値を大きく越え、焼却炉を全面停止し、十月三十日から翌平成十三年四月二日の再稼動までの間、ゴミを美瑛町「しらかば清掃センター」に搬送し処理を依頼委託した。焼却施設の建設を請け負った業者との間で、ダイオキシン対策費用と設備の保証に関する覚書が平成十四年十月二十四日に締結され、ようやく騒動の決着を得た。
 あの時、日新地区に年間百万円ずつ迷惑料として補償を払っていて、今も金額や支払いの形を見直して続いているのではないかと思う。

掲載省略:(写真)改築が完成した西小学校

 ◇ゴミの有料化

 ゴミの有料化は平成十四年十月一日から実施し、他市町村から比べれば早かったが、あれは嫌われた。でも、それはしばらくの間だけで、今は皆、当たり前になった。それまでは、何でもかんでもゴミに出したが、金がかかるから、ゴミを減らすようになった。
 それぞれ皆さんが物を粗末にせず、特に量を減らせたことは、埋立地が満杯になるまでの寿命延長に大きな効果があった。

 ◇自衛隊のイラク派遣

上富良野駐屯地からも、二十四名がイラクに派遣されて行った。平成十六年二月十四日に駐屯地の体育館で壮行会を開いて、一人一人と握手して、富良野沿線の自衛隊協力会長として、隊員皆に敬礼してお見送りした。任務終了の帰国は、五月十七日、二十四日、三十一日の三回に分かれたが、無事帰ってきましたといって報告会をした。
 派遣隊員の留守家族に対しては、出来る限りの支援をさせてもらった。今でも、大変なお役目、ご苦労様といいたい。
編集注:イラク戦争は、アメリカ合衆国が主体となるイギリス、オーストラリアなどの有志連合が、大量破壊兵器保持を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下に、二〇〇三年三月二十日にイラクへ侵攻した軍事介入で、当時のフセイン大統領体制を壊滅させ、二〇一一年十二月十四日のオバマ大統領による宣言で終結した。
 自衛隊のイラク派遣は、有志連合の国々からの強い要請を受けて、イラク戦争初期の二〇〇三(平成十五)年十二月から二〇〇九(平成二十一)年二月まで、サマーワ郊外の約三五〇ヘクタールを宿営地に、常駐百名前後のイラク復興業務支援隊として行われた。各隊員の派遣期間は三ヶ月を基本に順次交代された。この派遣隊第一期二〇〇四(平成十六)年一月九日〜八月一日を北部方面隊第二師団(旭川司令部)と第十一師団(札幌司令部)が担当し、第二師団指揮下の上富良野駐屯地内からも派遣隊に人選された。
 ◇保健福祉総合センター『かみん』

 財政的に厳しい時期だったが、決算で生じる剰余金を基金に積むか、次年度予算に充当するかという検討がなされた。この頃、予防接種や赤ちゃんの検診会場を併用した、老人クラブの活動施設である老人福祉センターがあったが、老朽化して設備も使い勝手が悪くなっており、健康づくりの拠点となる新しい設備を持った施設の要望が高まっていた。
 この対策が検討されていく中で、多くの市町村で整備が進んでいた保健福祉のための施設整備を、具体化していった。職員たちに視察研修をさせると、様々な提案が出てきた。保健福祉を充実させる国の政策によって、市町村の職員数も保健福祉部門が増員の方向にあり、手狭になった役場庁舎から新施設に移動させてはどうかとなり、そのうち社会福祉協議会も置いて欲しい、調理室も作って欲しい、ステージ付きの文化ホールもと、規模はどんどん大きくなっていった。
 というのも、今までは各市町村が競い合うように、多機能、多目的な施設整備を行っていたが、人口減少が続き、長期的な財政計画を立てる中で、上富良野町では大規模な新規の施設整備、いわゆる箱物整備はこの機会が最後になると目算されていたからだった。いろいろな役割が、この施設に盛り込まれた。
 酒匂さんが体育館を作ったから、一方の文化連盟側は、今度は文化会館を作ってくれと騒いでいた時代で、図書館もいろいろな方面から要望された。整備場所も駅周辺が検討され、文化会館も図書館も先進事例を視察したが、結論として我が町では単独機能の施設はやめることとした。あわせて、施設を分散させるのではなく、複合施設として集中させる方針に傾いていった。
 ホールについては、始めカーテンをつけた舞台だけで、普通のパイプ椅子を並べて使うものを想定したが、防衛予算による可動席の整備事例があることを聞き、不十分ながらも文化会館に替わるものとして、この可動席ホールを選択した。もしもこの時に、本格的な文化会館を建てていたら、施設の維持管理が大きな財政負担になって、大変だったと思う。
 講演会や様々な発表会など、結構「かみん」の可動式椅子は使われている。あの程度が丁度いい。可動式椅子だけは良かったと思う。
 要望に上げられていた図書館の新築も、公民館を改修して対応したが、結果としていい判断をしたと思っている。

掲載省略:(写真)「かみん」オープン式(平成16年11月1日)

 ◇町の交通安全

 私が町の交通安全と関わったのは、久保政義さん、私、及川克彦さん、佐藤邦介さん、川野龍男さんらの7人が、富良野警察署から交通指導員という辞令と腕章をもらった昭和四十年代半ば頃からだった。この頃、交通安全協会の会長は市町村長がやっていて、当時は村上国二さんが協会長だった。私が、指導員会の会長で、交通安全協会の理事でもあった。
 交通安全協会というものは、個人の会費や団体等の協賛金などによって運営される任意の民間組織なのに、市町村長が会長になっているのはおかしいということになり、会長を市町村長の充て職とすることの見直しが全国的な傾向だった。町でも見直しが加えられて、高橋重志さんが民選の初代交通安全協会長になり、町長から会長職を移行した。その後、私が高橋さんから受け継いで、昭和五十四年四月から二代目の会長になり、町長になるまで勤めさせてもらった。

 ◇PTA活動

 上の娘(里美)が西小学校に入学した時からで、西小学校で会計、監査、副会長、子供の進学で上富良野中学校では監査、会長を勤めた。上富良野中学校のPTA会長の時に、上川管内PTA連合会の会長も引き受けた。連合会の会長は管内区割りの当番制になっていて、当番が富良野沿線に来た時、沿線で長いのはお前だということで、押し付けられたような形だった。娘が卒業しても会長を引き継いでくれる者がおらず、任期を全うするため娘の卒業後も一年間勤めた。
 西小から上中のPTAをやったら終わりだと思っていたら、我家が中町から旭町へ転居したことにより、下の娘(美香)が上富良野小学校の校区になったので、上小に入学したとたんに、PTA会長に祭り上げられた。歴代の上小PTA会長は、飛沢尚武さんだとか小玉庸カ先生だとか名士ばかりの組織だった。そんなところへ、とんでもないと思ったが引き受けた。
 この時、上小が文部大臣表彰を受けたので、当時の松井校長と表彰式に行った。北海道は一番前の席で、当時の皇太子殿下・皇太子妃殿下、今の天皇・皇后両陛下の目の前で、北海道は一番目に表彰状を受け取って来た。二人とも真面目だった。「はとバス」(東京都内観光バス)にも乗らず、二晩泊まってとんぼ返りしたものだ。そして、その報告記念会をした。
 上小PTA会長は、下の娘が四年生の時まで二期四年やって、もうこの辺で辞めさせてもらいたいと役員会に願い出た。辞めるのも大変だった。なり手がなくて、佐々木幸子さんに拝みこみ、初めての女性会長で引き受けてもらった。
 小中PTA会長時代は、よく学校や校長の住宅へも行ったものだ。上中の鷲下清校長は、結構職員には厳しくて、北海道教職員組合では当時「校長・教頭に挨拶しない運動」を実施していた。ある時私が、中学校へ行っても職員室が空っぽなんだ。校長室は別室になっていて、職員室の一番前に教頭の机があったんだが、教頭の前には誰も座っていない。みな「校長・教頭に挨拶しない運動」だといって、準備室へこもってしまったことがあった。
 子供達に挨拶するように教えなければならないのに、自分達が出来ないのは何事だといって、PTAの役員会などでよく怒鳴りつけたものだ。あの時分PTAの事務局事務をやっていたのが、今は亡くなられているが、林先生だった。管理職の教頭が事務局長で、林先生は北教組だったけどやってくれた。

 ◇最近の雑感

 最近の世の中の動きは、よくわからないところが多い。テレビで見るだけで、アベノミクスなどは、私の暮らしには全然影響ないような気がする。日本は総じて穏やかでないだろうか。
 それでも、日本人も明日食べるものがなくて困っている人が、何十万人も居るというのだから。昔は、一生懸命頑張ってどうにもならなければ、お上(国や行政制度)の世話になろうかというものだったが、今は努力なしで少しでも楽しようと思う人もいるようだ。国が最低限の生活を支援する生活保護制度は大切なものだが、これを受ける人が二百何十万人もいるとか。毎月のように増える傾向にあると聞くと、なんか侘びしい気持ちにもなる。
 また、「ああもう春なんだなあ」なんて、季節を感じる旬のものが少なくなった。今は、冬でもスーパーへ行けば、蕗でもワラビでも売っている。
 農家時代の昔は、寒いといってストーブ囲んで、大家族での団欒だった。当時の一般的な農家の住宅は、外は板壁、内はベニヤ張りで断熱材も入っていなくて、すきま風が入ってきた。うちは本家が木工場やっていたから、製材作業で出てくる「おが屑」に不自由なく、これを燃料にする「オガストーブ」が、でっかいタンクにおが屑を詰めて二十四時間焚きっぱなしだった。お陰で寒いとは思わなかったが、あれを運ぶのが子供の仕事で大変だった。オガストーブは心地よい暖かさで、タンクの中で固まって詰まったおが屑が、つついたり自然にボコッとストーブ内に落ちると、ボンと小さく破裂するんだ。なぜだか、凄く懐かしく思い出す。
 昔は、何事も右肩上がりだったけど、これからは人口も給料も何もかも下がってくるから、これからの若い人達は大変だ。うちは、お陰さんで孫もひ孫も出来たけど、私たちの孫の時代は、年金だって十分に貰えないかもしれないなんて、つくづく大変だと思うこの頃だ。

   ◇    ◇    ◇    ◇

 以上、話のきっかけとして「テーマ・案件」を投げかけ、尾岸氏が思い出を答えられた内容を整理した。記憶の中での答えのため、勘違いと思われる部分は編集側で手を加えた。
 前後してしまったが、文頭に記した名誉町民称号授与に先立って、平成二十二年四月二十九日に叙勲旭日双光章を受章している。

掲載省略:(写真)叙勲は平成22年5月6日に伝達された

 インタビューの中ではあまり詳しいところまで触れられていないが、尾岸町長時代で特筆すべきことは、時代の要求とはいえ、徹底した行財政改革の断行であった。
 この行財政改革に焦点を絞って執筆いただいたのは田浦孝道元助役・副町長(平成十七年十月一日〜平成二十五年九月三十日:地方自治法の改正で平成十九年四月一日から呼称が助役から副町長)で、氏は尾岸町長の就任時に総務課長補佐、平成十二年四月一日から平成十六年三月三十一日まで総務課長、平成十六年四月一日から助役に選任される平成十七年九月末まで企画財政課長と、行財政改革の実務を一貫して歴任された。
まさに上富良野町行財政改革の生き字引とも言える氏の執筆による、『行財政改革編』をご一読願い、大きな変革の道筋をたどっていただきたい。

尾岸孝雄元町長の歩み
【行財政改革編】

元副町長(助役) 田浦 孝道


はじめに
 尾岸孝雄元町長は、高校卒業後に家業の農業従事を経て、以後、地元で三十年余りの会社経営の傍ら、昭和五十三年から十八年余りは地元商工会役員として地域の産業振興に貢献された。これまでの活動で人望を集めることになり、昭和五十八年八月の町議会議員選挙では初当選以来、九年余りは町議会議員とて議員活動をしている。この間の平成三年八月には副議長の要職に就くと共に、議会に設置された「町立病院改善対策特別委員会」の委員長に就任、町立病院改革案の取りまとめ役を果たすなど幅広い経験を重ねる中で、行政運営についての強い関心と情熱を抱いていくようになっていた。
 折しも平成四年十二月に当時の酒匂町長が病に倒れ、不幸にも死去。この時の町長選挙に初挑戦するも苦杯をなめるが、四年後の同じ顔触れでの二回目の選挙(平成八年十二月八日)では激戦の末、接戦を制し平成八年十二月二十七日に第九代目の町長に就任した。
 年が明けた平成九年は上富良野町が開基百年を迎える大きな節目の年でもあり、町長として初めて迎えた三月定例町議会での所信表明においては、「この意義のある年を出発点として町政を担う重責を実感しつつ、先人が築き上げてきた基幹産業の農業、商工観光業、自衛隊の三本柱が共に調和し栄えることを町づくりの基本とし、本当に住んでいてよかったと心から実感のできるふるさと上富良野町の町づくりのために、町民の一人でも多くの方々と話し合い、誠心誠意努力する」と心から訴えた。
 加えて、町政に臨む具体的な政策推進目標として七項目を挙げた中の一つには、町の進展が二世紀目に入るにあたり、新時代にマッチした「行政機構の大胆な改革を進める」と行政改革への強い思いとして訴えている。ここに議場で尾岸町長が述べた内容を記しておく。
【行政機構の大胆な改革についての発言内容】
 地方分権等、改革の時代に向かっている今、行政は多様な住民ニーズに機敏に対応していくことが求められているとともに、町民に親しまれた信頼される町政を実現していくことが求められております。活力ある町政を推進し、二十一世紀の地方自治を担うにふさわしい行政の確立に向け、次の政策を進めてまいります。
 一点目は、多様化、高度化する町民の行政ニーズに対応するために、総合調整機能を強化するとともに、常に事務事業の見直しを図りながら、能率的、合理的な組織編成に努め、効率的で迅速な事務処理が可能な行政運営に努めます。
 二点目は、多様な行政事務に対応できる職員を養成し、事務量や内容の変化に即応する弾力的かつ適正な職員の配置を行うとともに、新世紀にマッチした行政機構の改革を進めます。
 三点目は、自主財源の確保など、財政基盤の強化、財政の軽量化、健全化を図りながら、町民生活に直結した緊急度の高い施策や事業の選択をし、効率的な財政運営を目指します。
 四点目は、町政の主人公は町民であるという基本に立ち、町民と行政が一体となった町づくりを進めます。
 尾岸町長は、退任までの三期十二年(平成八年十二月二十七日〜平成二十年十二月二十六日)にわたり、この基本姿勢で行政の諸課題に向き合いながら終局の目標である町民の福祉向上、町の振興発展のために尽力されていた。しかしながら、この時期我が国においてはバブル経済崩壊後の税収の落ち込みが著しく、国債に依存した財政運営が行われるなど大変厳しい時代背景にあって、国家予算においては大規模な財政構造改革が行われている。当然にして地方行政においても同様であり、我が町が掲げた目標達成に向けた諸施策実現には、財政が健全でなければ出来ないとの強い信念をもって、財政健全化につなげるための行政改革にも腐心してきた。
 なお、尾岸氏が町長就任前までの町の行革取組みでも業務委託など数多くの改善経過を辿っているが、特に課題の改善には全体の合意に相当の時間を要すること、また改革には絶えず利害が伴い意見が総論賛成各論反対になるなど、その実現に障害となることも多々あることを想定し、従前の内部議論による改革から一歩前進させ、住民参加方式の行政推進を図るために町民や団体組織代表の方々で構成する協議会の設置や、実践プラン等に対する意見公募(パブリックコメント)を行うことをはじめ、行政側の情報の公開(広報掲載など)等にも積極的に努めてきたことが大きな成果に繋がっているものと思われる。        慰 霊
 以下に、その節目ごとに概要等を記した。
【尾岸町政の行財政改革第一弾】 (就任〜平成十二年まで
 昭和五十六年、国が鈴木善幸内閣のもとに「第二次臨時行政調査会(土光臨調)」を設置(昭和五十六年三月十六日)して以降、「増税なき財政再建」の方針のもと、国及び地方共に財政基盤の充実を図る必要から行政改革の実施方針などが示された。本町では酒匂町政(昭和五十八年八月二十五日就任〜平成四年十一月二十四日死去)のもとで、昭和六十年七月五日に町長を本部長として各課長職で構成する「上富良野町行政改革推進本部(本部内に四部門の専門部会を構成)」を設置し、内部議論を重ねて「第一次行政改革大綱(昭和六十一年一月三十一日)」を決定した。
 その後は実施計画に掲げた項目に沿って取り組みが進められていたが、酒匂町長が病に倒れ惜しくも平成四年十一月二十四日に死去。それに伴う町長選挙では菅野學氏が当選、町政を引き継いだ菅野町政(平成四年十二月二十八日就任?平成八年十二月二十六日退任)のもと、平成六年十月七日には国(自治事務次官)から新たな行革大綱を求めるなどとした「地方行革の指針」の通知を受けたことと、我が町の第一次行革大綱も策定時からすでに十年を経た今日、社会経済情勢なども大きく変化していることもあり、行革推進本部体制強化(課長補佐職へ拡大)を図ると共に内部議論を経て、新たな「第二次行政改革大綱(平成八年九月五日)」を決定し、合わせて職員数の適正化を図るため「定員適正化計画」が策定された。
 その年の年末に行われた任期満了による町長選挙(平成八年十二月八日執行)では現職が敗れ、接戦を制した尾岸孝雄氏が第九代目の町長(平成八年十二月二十七日就任〜平成二十年十二月二十六日退任)に就任。尾岸町長は、前任者から引き継いだ「第二次行革大綱」に基づく行革実行プランとなる実施計画を早急に作り上げるため、初めて迎えた新年度(平成九年)の四月人事異動において総務課に行政改革担当補佐と係長ポストを設ける。また、行革推進を図るには町民の理解と協力は欠くことのできないことから、十五名の町民で構成する「行政改革懇話会(平成九年十月一日設置/平成十年六月二十三日改組・以降の名称:行政改革推進委員会)」を設置した。
 以後、この行革懇話会では延べ十回の精力的な会議を重ねてまとめあげた意見書を町長に提出(平成十年一月十三日)、町長は組織議論を経て改善項目を九分野に分け、六十九項目からなる実施計画(平成十年二月十九日・期間:平成十?十二年度)を策定し、実行に移した。スタートした平成十年度を「改革元年」と位置付け、当初に掲げた財政の健全化と町民参加による行政の実現を図るために取り組んできた三か年間の中では、行政執行体制におけるスタッフ制の導入、政策調整会議の設置、情報公開条例・個人情報保護条例の制定など、透明で効率的・民主的な行政運営を進めるベースが確立された。また、事務事業の見直しや補助金等の整理合理化など行政経費の縮減に努め、その効果総額は約二億五九〇〇万円【詳細は行政HP(町報平成十三年五月号)】となった。

 なお、歴代の町長は、その時々の課題解決に精力的に取り組んで重責を果たしながら代々町政が引き継がれているが、その中でも昭和四十八年以降、財政上の大きな懸念材料となっていた「国営しろがね地区畑地総合開発パイロット(畑総)事業」の受益者負担に関する顛末については、とりわけ行革にも深く関連してきたことから、ここに概要を記しておく。
【国営しろがね地区畑地総合開発パイロット(畑総)事業の受益者負担に関する顛末】

 この事業を対象とする地域は、上富良野、美瑛、中富良野の三町で、区域の畑地帯における無水地域や耕地の排水状態が悪い地域などの課題を解消することにより生産性向上を図る目的で着手した事業である。最初は美瑛町で昭和四十五年に「国営しろがね地区直轄かんがい排水事業」が計画され、昭和五十年に上富良野及び中富良野区域の一部地区となる「上川南部地区」をこの計画に含め、更に昭和六十年には大規模な畑総事業となって、水源の統一による畑地帯の農地造成、区画整理、用排水事業を行う基幹から末端までの一貫施工として工事が進められて来たところである。
 この間、農業情勢等の変化に対応すべく、延べ三回にわたる計画内容の変更をしてきたことに加え、工事の長期施工に伴う物価の変動等も相まって事業費総額も増嵩傾向で推移した。反面、農業経営面での変化も著しく、受益農業者が負担に耐えられないと、将来に対する不安な声が日増しに大きくなっていたことを受け、昭和六十三年頃にはすでに町や地元期成会による負担軽減のための陳情も重ねられてきた。
 振り返ると、町が事業参加当時の昭和四十八年には土地改良法等の定めに基づき、町も事業参加者も共に完成後の負担(含利息)に同意のうえ、町議会での議決を経て事業がスタートされている。したがって、完了後はルールに基づく義務負担が課されていることを十分に承知しつつも、道内の同事業実施各地においても同様に将来への不安を抱く声が広がっていた。その実態が新聞記事でも取り上げられることとなり、さらにクローズアップされていた。また、当町では平成九年三月以降の議会でも幾度となく、地元負担軽減等に関しての議論が交わされている。
 我が町の平成九年三月議会(事業着手から二十五年経過、尾岸町長は初の定例議会)では、町長に対する一般質問の中で同事業に伴う農業者の負担軽減についての在り方等が取り上げられている。
 当時の尾岸町長の答弁では、
「同事業の完成予定は平成十三年であり、受益者負担金の償還については、平成十三年に事業が完了した後、次の年から償還となるが、農業をめぐる情勢は主要農産物の価格低迷や担い手の高齢化、土地価格の下落により農地の流動化がなく、事業費も昭和五十七年から見て約一・三倍の増と、非常に厳しい情勢にある」
との認識を述べ、さらに
「完成予定まで残り五年となる今、受益者負担の軽減、利子の軽減及び償還期間の延長など負担軽減の協議をするため、美瑛との二町で昨年に設立した連合期成会と二町が一体となって国の関係機関や北海道に対し軽減の措置を積極的に要請する」
と表明しており、以後も同事業による農業基盤の基幹的施設の整備は、地域農業の発展や災害防止に資するなど公共性、公益性が強いとの観点から、連携した陳情活動を精力的に続けていた。
 また、この地元負担の町の持ち分は、ピークでは年二億円を大きく超える水準となることもあり、その事前準備として平成十二年六月の議会で、国営事業の負担額に充てるための積立基金を創設することを決定した。
 その直後の同年の八月には与党三党(自民、公明、保守)が「公共事業の抜本的見直しチーム」を発足させ、見直し作業の中では、四つの見直し基準のうちの「完成予定を二十年以上経過して、完成に至っていない事業」に該当、その後の国の最終的な判断により事業中止(全国二十一事業)が正式に決定したのである。ただし、本事業は完成予定目前のこともあり、事業中止に伴う最小限の工事は実施するとの条件付きで「工事完了年度は平成十四年度」になることが明らかとなった。
 なお、地元負担軽減の課題については、これまでの三回にわたる計画内容変更時の際にも、制度上で可能な限りの軽減策を探りながら関係機関との協議が進められていたこともあり、最終的に地元負担の軽減につながる見通しとなった。しかし、農家負担が減少の一方、町の持ち分が増加するなどそれぞれの持ち分には限度もあり、都合の良いことにはならない現実となっている。また、実際の負担(償還)額は、これまでの建設利息が伴うことになるが、一般市場の金利水準と乖離していることも納得し難いとのことから種々議論が深められた結果、完成後のダム施設管理等のことも含めて考えると、新生の「土地改良区」を設立(平成十五年三月十日設立)することが次善の策となり、さらなる成果(国へ一括償還するための原資を民間金融機関(北海道信用農業協同組合連合会)から調達、実質的に低利償還に切り替る)を得たところである。以上のような経過を辿ってきたのである。
 とりわけ国営畑総事業に関する債務(地元負担)に関しては、法定上からも事業参加と同時に債務が発生するが、工事終了段階になって債務額が確定することもあり、町は代々財政運営上の大きな課題として引き継がれていたのである。
 この時期の町の財政状況は、長引く景気低迷から税収などをはじめ主要な収入が伸び悩む一方で、人件費や公債費等の義務的経費をはじめとする経常経費の増等により硬直化傾向で推移している中、懸案の国営畑総事業の負担問題がにわかに具体的となり、かつ現実的に平成十五年度から地元負担と施設の維持管理が始まることになったのである。
 町は早速、これらの要素を織り込み、平成二十年度までの財政収支見通しを立てたうえで、現段階で予測できる収支不足額(延べ二十四億円)の解消方策等を示した「健全財政維持方針」を平成十二年十一月七日に打ち出した。
 この財政上の窮地を乗り切るためには、現状の行財政構造を早急に、かつ抜本的に改革することが最優先課題であるとの認識のもと、尾岸町長は迎える平成十二年度を「財政改革元年」と位置づけると共に、以後につなげるための方策として、十二年度で終了する現行の行革大綱の後継となる新たな行革大綱案(平成十三年度〜)の策定作業を急ぐよう指示した。
 とりわけ尾岸町政スタート当初から「行政機構の大胆な改革」を重要政策の一つとして打ち出していたので、議会では財政運営や行政改革の在り方等についての相当の議論が交わされている。
【尾岸町政の行財政改革第二弾】 (平成十三年〜平成十五年まで)
 平成十三年は、昭和二十六年八月一日に上富良野村から上富良野町となる町制を施行してから、五十年を迎える大きな節目の年である。
 経済環境においては、わが国のバブル経済崩壊後、かってない景気の低迷が長らく続いており、国、地方を通じて行財政環境は一段と厳しさを増していた。このため国は、行政改革の動きと連動して平成十一年七月には地方分権一括法を制定し、翌年四月一日に施行した。このことにより、国と地方の関係を従来の上下・主従の関係から、新たな対等・協力の関係に変わっていくことになり、地方への事務移管も加わるなど町行政が担うべき役割も一段と広範囲になる。
 また、合併特例法の改正で市の人口要件緩和や財源手当など制度上の優遇措置が講じられるなど、合併問題も国の主導的な動きに加え、北海道でも市町村合併推進要綱(平成十二年九月五日)の策定に合わせ、道内の各市町村の合併パターンが示されるなど動きがにわかに活発になってきた。
 また、ここに来て、新たに国の行革大綱(閣議決定:平成十二年十二月一日)が定められたが、その中では二十一世紀の国・地方を通じた行政の在り方が示されると共に、平成十七年までを一つの目途として各般の行政改革を集中的・計画的に実施するとされた。
 町では、それらの内容を加味すると共に、国営畑総事業に対する地元負担(約四十八億円)なども含めた中期的な財政収支見通しを基に作成した「健全財政維持方針(平成十二年十一月七日)」と、その方針の具体的な実行プランとして「第三次行財政改革大綱(平成十三年三月二日)」と、五分野にわたる五十項目からなる「実施計画(平成十三〜十五年度)」をまとめ上げた。これまで経費削減の色合いが強かったが、今計画では財政収支の改善はもとより、簡素で効率的な行政運営の実現を図るため、ルールに基づく行政情報公開の徹底を図ることや職員の質的向上、民間活力の導入、さらには財政運営・予算編成の在り方の見直しなどにも及ぶ幅広い改善プラン内容になっている。
 いずれにしても、行革は財政健全化と切り離して考えることのできない永遠のテーマであり、その実践の原動力となる町民皆さんの理解と協力を求めながら、全庁的な取り組みのスタートを切ったのである。
 なお、この期間、国では小泉内閣が平成十三年四月に発足し、この新内閣では国・地方を通じて財政悪化や地方分権の進展等の課題を背景に「聖域なき構造改革(小泉構造改革)」を掲げ、その一環として「地方に出来ることは地方に、民間に出来ることは民間に」という小さな政府を目指し、翌十四年六月に閣議決定した「骨太の方針二〇〇二」では、初めて「国庫補助負担金、地方交付税、税源移譲」を含む税源配分のあり方を三位一体で行うなど、改革案を一年以内に取りまとめる方針を明らかにした。
 とりわけ、低迷する経済背景のもとで国が地方の財政を主導している今日、町が今後の財政見通しを見極めることは大変困難な中で、次の「骨太方針二〇〇三」では国庫補助負担金改革、税源移譲、地方交付税改革を一体として行う「三位一体の改革」の具体案が盛り込まれ、それも平成十六年度から三か年(平成十八年度まで)で行われることとなった。
 このように、地方行政に大きな影響を及ぼす大変な状況変化の中で、町はあらゆる時代要望に応えていく一方で、財政収支の均衡を図るための実践を推し進めた結果、この三か年間においては定員適正化計画に基づく職員の削減、給与水準の適正化などによる人件費の削減をはじめとする行政経費の縮減に努めることに加え、ごみ処理など町民の皆さんに負担をお願いしながら、約三億五九〇〇万円の成果【詳細は行政HP(町報平成十六年七月号)】をあげることができたのである。
 これまでの行革で一定の成果を積み重ねてきたが、引き続き、現下の激動する地方財政環境への対応と、今後迎える本格的な分権時代に備える必要から、さらなる簡素で効率的な行政運営の実現を図るため、従来の視点から大きく脱却を図りながら次期(第四次)行革大綱と実施計画を作成することを決定した。
【尾岸町政の行財政改革第三弾】 (平成十六年〜平成二十年の退任まで)
 この期間は、財政運営上からも最大の試練となる期間であった。元来、町の自主財源(町税、使用料など)は乏しいことに加え、平成十五年度から始まった国営土地改良事業費に対する受益者負担額(町分、約三十四億四千二百万円)は、ピーク時で二億五千万円ほどにもなることであった。
 更に前述した国の三位一体改革が平成十六年度から実行され、これまで国へ大きく依存してきた町の重要な財源の地方交付税等が平成十八年度までの三か年にわたり削減(国庫補助負担金改革(全国減額約四・七兆円。このうち約三兆円は一般財源化)、地方交付税改革(全国減額五・一兆円)、税源移譲(全国増額約三兆円))されること、また、富良野沿線五市町村での広域行政推進の一つとし議論を重ねてきた合併問題の結論は現状維持に止まることになった。
 なお、ここでは深くは触れないが、事務の一部を合同で処理する「富良野広域連合」を平成二十年九月一日に設立しており、特別地方公共団体として消防事務・し尿汚泥及び生ごみの処理・串内地区草地事務・給食センター事務を共同処理することに加え、国民健康保険事業並びに介護保険事業の調査研究に関する事務などを行うことになった。
 それらの状況を踏まえ、町としては今後とも基礎自治体として自主・自立した町づくりを進めていくことを強く自覚することになり、その先駆けとして、平成十六年度以降も引き続き町民と共に力強く行政改革を実践していくことが重要との考え方に立ったのである。
 さらに町の行財政構造改革のレベルを上げるために「新行財政改革へ向けた基本方針」(素案)をまとめ、それに対する町民の意見を広く求めるために平成十六年三月十日から三月三十一日までの間、パブリックコメント(意見公募)に付した。
 その後、町民からの意見を含め更なる内部議論を経て「新行財政改革基本方針(自立に向けた上富良野再生プラン)【第四次大綱(平成十六年四月二十六日)】」を決定。
 また、同年七月一日付で町民を代表する二十五人で構成する「上富良野町行財政改革推進町民会議」(任期:平成十六年七月一日〜平成十九年三月三十一日)を設置し、以後七月十六日を初回として任期中に十四回の会議を通じて行財政改革実施計画素案や、その取り組み状況等に関して精力的な議論が重ねられた。
 町は、これまでの間の議論成果を反映させ実施計画原案を作り上げると共にパブリックコメントを経て「行財政実施計画(平成十六年九月三十日・自立に向けた上富良野再生アクションプラン・四視点で三十二項目からなる内容(平成十六〜二十年度))」を策定した。このプランに基づき鋭意取り組んでいる最中の平成十七年三月(二十九日付)に国(総務省)からの新地方行革(集中改革プラン)指針の通達を受けたのであるが、それは「集中改革プラン(平成十七〜二十一年度)を作成し、平成十七年度中に公表すべし」とのことであった。町はすでに独自の行革第四次大綱及び実施計画の策定を終えており、実践中にあることから国の要請をためらいつつも、この際、通達内容との整合性等を考慮し、平成十八年三月三十一日付で名称を「集中改革プラン」に衣替えすると共に実施計画の期間を一年間延長し、平成二十一年度までに改めた。
 これまでも困難な課題がたくさんあったが、この間も議会をはじめ町民皆さんの支持と協力が原動力となり、ごみ処理などの手数料改正や補助金等の見直しなど町民の皆さんの協力によるもの、また職員数の削減、人件費の見直しなど行政内部の改革によるものなど平成二十年までの総額で約三〇億二〇〇〇万円(期間延長後の平成二十一年度までの六年間では、三九億三〇〇〇万円)の成果【詳細は行政HP(上富良野町の行財政改革について)】となったところである。

掲載省略:(写真)上富良野に「富良野広域連合消防本部」が置かれた
掲載省略:(写真)冊子〜行財政改革の基本方針と実施計画
おわりに
 顧みると、尾岸町長は就任早々、上富良野町が開基百年を迎え、新町長としてこの喜びを町民と共に先人の労苦を偲び、心から感謝をしながらお祝いし、さらにこの歴史を継承し、上富良野町二世紀が豊かで新しい希望に満ちた地域社会として創造していくことを誓った。
 また、これからのまちづくりの指針となる「新(第四次)総合計画(平成十一〜二十年度)」の策定にも着手(平成九年十一月五日総合計画審議会設置)し、町民との協働の下で仕上げた新計画のテーマである「四季彩のまち・かみふらのふれあい大地の創造」の実現を目指し、新世紀のまちづくりに邁進してきた。
 しかるにバブル経済が崩壊後、景気の低迷が長らく続いていることから、国による経済構造改革が進められていることや、地方分権の動きが活発になっていることもあり、地方自治体を取り巻く環境は一層の厳しさを増してきた。
 そうした中、多くの町民に財政の現状を共有していただくため、町の台所白書を配布し、行財政の改革プランを積極的に示すことなど情報提供に努めながら、平成二十年末の退任まで一貫して簡素で効率的な行政運営の実現に向け全力投球していた。これらが記述した成果となり財政指標が改善されると共に、収支バランスのとれる財政構造に改められている。
 また、行政運営にはこれまでになく、民間の経営感覚を意識しながら積極的に取り組む一方で、少子高齢社会に対する行政ニーズを見据え、保健と福祉の拠点施設とすべく「保健福祉総合センター(かみん)」の建設、あるいは町民のスポーツを通じた健康の増進や交流の場として「パークゴルフ場」の設置、公民館の改修と合わせ新たに学びの場として「図書館(ふれんど)」の開設など必要なインフラの整備をはじめ、町の憲法となる「自治基本条例」や「景観条例」、「情報公開と個人情報保護の二条例」を新たに制定するなど、新しい時代に向けた地域のルールづくりにも大いに目を向けていたのである。
 尾岸町長は、最後となる平成二十年十二月定例町議会最終日の議場あいさつでは、これまでを振り返り感慨深い思いで語りながら感謝の弁を述べられている。
 町長として十二年間歩んできた足跡を町政の歴史の一コマとして刻み、次の為政者へと引き継がれたのである。この機会に改めて心から感謝とお礼を申し上げたい。
 なお、我が国の現下の状況は、経済のグローバル化の中で高齢化と人口減少社会の流れはますます進展していくことを考えたとき、地域の将来には課題が多々あると想像する。
 そのためにも、地域では垣根を超えた議論が重要であり、また、これまでにない諸施策の展開を迫られるように感じる。それを可能とする柔軟な行財政構造を維持するためにも切れ目のない対策を講じることは必定である。そのことから平成二十二年度以降も効率的、効果的な行政運営の実現に向け、その実行計画として位置付けた「町政運営改善プラン」に基づき、全庁挙げて着実な実践に努めていることに心から敬意を表する次第である。

掲載省略:(写真)冊子〜町内全戸に配布された「かみふらの台所白書」
掲載省略:(写真)冊子〜上富良野町自治基本条例
掲載省略:(写真)上富良野町パークゴルフ場のラベンダー、アカエゾ、十勝岳の27ホール
掲載省略:(図)尾岸家家系図・新井家家系図

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀