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十勝岳中腹にあるヒマラヤで遭難した『よう子よ…れい子よ…』の慰霊レリーフ

上富良野町本町五丁目
中村有秀 昭和十二年十一月二十八日生

  慰霊レリーフ碑文
 よう子よ
   れい子よ
 この山に
    還りて遊び
 やすらかに眠れ
      一九八一・九・二三 逝

設置年月日 一九八二(昭和五七)年九月二六日
設置場所  十勝岳中腹
設 置 者 田島よう子・加藤れい子さんの山仲間
レリーフ文 速 水   潔 氏
レリーフ書 阿 地 政 美 氏

掲載省略:(写真)レリーフ写真
一、はじめに −調査・執筆の端緒−
 私は上富良野町内や十勝岳周辺に建立されている十勝岳噴火災害碑・記念碑・歌碑・句碑・レリーフ等について調査し、それを上富良野町郷土をさぐる誌に掲載してきました。
 二〇一五(平成二七)年の夏、上富良野町在住の岳人から『十勝岳中腹の巨岩に、登山家と思われる人の慰霊レリーフがあるが、どのような人で、その設置の経緯について知っていますか』と、現地の写真を持って尋ねられました。
 私は全く知りませんでしたので、直ちにレリーフに刻まれた『一九八一・九・二三逝』を頼りに調査の結果、北海道新聞一九八一(昭和五六)年九月二五日(夕刊)に、インド・ヒマラヤ『ジャオンリ峰』(六六三二m)において、女性だけで結成された「山岳同人タンネ」が、雪崩で遭難して三人死亡と報じているのを見つけ、その中に、旭川山岳会員の「田島よう子さん」と「加藤れい子さん」の名があることが判りました。
 慰霊レリーフに刻まれた「よう子よ…れい子よ…」がどういう人物で、その人生と生涯はと思いを巡らせて、調べを進めようと思い立ちました。
二、北海道新聞に報道された記事大見出し
@昭和五六年九月二五日付(道内版夕刊)
 インド・ヒマラヤ
  本道の女性隊?遭難l雪崩で三人死亡
A昭和五六年九月二五日付(旭川版夕刊)
 インド・ヒマラヤ遭難
  笑顔の出発「まさか……」
 「間違いであってくれ」祈る家族・友人
B昭和五六年九月二六日付
 女性隊「タンネ」と確認
  登頂目前に悲運、小美浪洋子・田島よう子・加藤れい子の三隊員が死亡と伝えられる。
C昭和五六年九月二九日付
 雪崩は六〇〇〇m地点・三遺体はなお雪中に。
D昭和五六年九月三〇日付
 急壁襲った表層雪崩、稜線目前にて
  遺族の第二陣インドへ出発
E昭和五六年一〇月一四日付
  “タンネ”捜索を断念
  雪崩で二重遭難の危険
F昭和五六年一〇月一八日付
 悲しみ深く報告会−タンネ遭難
G昭和五六年一一月九日付
 好きだったね この歌「遥かな友に」
  悲しみ新た 合同慰霊祭

掲載省略:(新聞面)昭和56年9月25日北海道新聞夕刊

三、「山岳同人タンネ」とヒマラヤ遠征隊
 猪狩源三は明治10年頃、現在の岩手県盛岡市から当時の北海道札幌郡豊平村に入植した猪狩庄右エ門、源吉父子の開拓二世として、1889(明治22)年3月1日北海道岩見沢市で出生。1914(大正3)年東北帝国大学農科大学農芸化学科(現 北海道大学農学部)を卒業し、同科の副手から北海道農事試験場の技師として従事した。昭和5年岩手県農事試験場長として赴任するまで、和歌山県農事試験場技師、民間の古谷製菓化学研究所主任などを歴任し、北海道帝国大学となった母校の講師も勤めた。その後再び北海道農試に復職し農芸科学部主任などを歴任した。
 この間1918(大正7)年「実験拘櫞(クエン)酸製造法」(有隣堂出版)の著書や「オブラート製造法」の発明(古谷製菓化学研究所時代)、そして北海道農事試験場時代には1926(大正15)年5月の十勝岳爆発による泥流被害と土壌調査に携わった。
 1930年(昭和5年)、同郷の先輩でもある当時北海道帝国大学総長佐藤昌介の勧めもあり、北海道農事試験場から岩手県農事試験場長として赴任した。

掲載省略:(写真) 北海道農事試験場時代の源三
  十勝岳爆発流泥に関する調査研究
◇「山岳同人タンネ」とは

「山岳同人タンネ」は、昭和五二年二月、札幌山岳連海外委員会女性部会のメンバー有志によって結成。会員は、札幌・砂川・小樽・埼玉県など十名で発足した。
 四季を通じての登山のほか、主としてヒマラヤの地域研究、女性だけで登る意義などについて学習を進め、実践活動として昭和五二年五月〜七月に東部カラコルムに、四名のメンバーで小遠征を行った。
 今回の「ジャオンリ峰」の遠征は、将来のヒマラヤ七千〜八千m級へのステップとする考えだったという。
 「タンネ」は、ドイツ語で「モミ」、広くは「マツ科モミ属」の樹木を言い、日本では同属のトドマツ・アオトドマツ・シラピソなどの常緑高木を俗称している。

◇ヒマラヤ遠征隊の行動予定
 遠征隊当初の行動予定は、次のとおりであった。
昭和五六年 八月二〇日 日本出発
八月二一日 ニューデリー滞在
八月二六日 食料・装備等の買出し
八月二七日 ニューデリー出発
九月 一日

九月二六日
ベースキャンプ建設
登山活動
九月二七日 ベースキャンプ撤去
九月三〇日 ニューデリー着 隊荷物の再輸出
一〇月四日 ニューデリー発(現地解散)
◇ヒマラヤ遠征隊員

 「山岳同人タンネ」の、ヒマラヤ遠征隊員は様々な事情を考慮して、昭和五五年一二月に次のとおり決定された。
氏名 任務 生年月日 当時の年齢 昭和五六年 三月の勤務先
小美浪洋子 隊長・渉外 1948・05・10  32歳 北海道開発局 土木試験所
田島よう子 副隊長 食料・会計 1948・05・31  32歳 東川農業 協同組合
加藤れい子 梱包・輸送 1953・10・14  27歳 市立旭川病院 (看護婦)
太田 泰子 装備 1954・08・13  26歳 小樽みなと ラィォンズ
太田 充子 医療・渉外 1951・10・05  29歳 市立旭川病院 (医師)
※田島隊員は長期休暇、他の隊員は各々退職して参加。
◇遠征隊訓練の実施

 遠征隊メンバーによる訓練は、昭和五五年一二月三一日〜昭和五六年一月四日までの合宿による「上ホロカメットク・富良野岳」から始まって、十回に及ぶ冬山・夏山で実施された。
 しかし、昭和五六年五月二日〜五日の芦別岳合宿で、太田充子・田島よう子がザイルで山肌を降下する時に滑落し、太田さんは左足を骨折して二カ月、田島さんも全身打撲で二週間の全治期間を要する怪我をした。
 それらのアクシデントを乗り越えてのヒマラヤ遠征に、昭和五六年八月二二日、成田空港から出発した。

掲載省略:(写真)成田空港ロビーにて(昭和56年8月22日) 左から太田(泰)、太田(充)、田島、加藤、小美浪
四、雪崩遭難した『九月二三日』の状況
 ジャオンリ峰への登攀中に、突然の雪崩に遭遇して流されながらも奇跡的に生還した「太田泰子」隊員の手記を、『遥かな友に』より抜粋し、当時の状況について記す。

◇ジャオンリ峰へのルー卜

 ジャオンリ峰登攀隊は、「小美浪洋子・田島よう子・加藤れい子・太田泰子」とハイポーター(高度な登山技術を持つ頂上までの案内人)二名(ナライン・シンとバル・シン)の合計六名。BC(ベースキャンプ)の出発は九月九日でしばしの別れであった。
 ルート概念図のように「BC⇔ABC(アドバンストベースキャンプ:前進キャンプ)⇔C1(キャンプ・ワン)⇔C2(キャンプ・ツー)」と、ルート偵察、荷揚げ、キャンプ設置の繰り返しを行って、標高五六三〇mにC2を設けた。いよいよ、ジャオンリ峰へのアタックの「九月二三日」を迎えた。

掲載省略:(図)ルート概念図

◇九月二三日の時系列−文中の私は太田泰子−

●午前零時 加藤の一声で全員起床
●午前二時四〇分 汁粉を食べC2をスタート
●午前四時 クレパスの危険を避ける為に夜明けを待つ(ビバークツェルトで休憩)
●午前六時 BCと小美浪隊長と交信し、太田ドクターは「今日は登頂に絶好の天気で茜色の雲がたなびいて、素晴しい朝焼け」
●午前六時三〇分 スープを飲み、再び登り始め、昨日の最終トレース点に達し、ザイルを組む。ザイルオーダー(ザイルを結び合う組み合わせ)は「小美浪と加藤」「田島と私」「ハイポーターのナラインとバル」。
 雪が深く腰上まであり、昨日同様ラッセルに手間どる状態で、田島パーティーとハイポーターパーティーでラッセルを交代しながら直上。
 小美浪パーティーは、下りの為のフィックス(フィックスロープ:危険箇所に体の支えとして設置するコースロープ)を張る作業を始める。その間ルート旗を立てる。この地点で、私が田島に「ここから右にトラバース(斜面を横方向に横断すること)していいんだよね」と聞く。すぐ、田島が同じことを小美浪隊長に聞き、その地点から右側にトラバースを始める。
 ハイポーターのナラインとバルがトップを行き、後ろに田島と私が続き、その後ろからフィックスロープをつけて登って来たので、私が加藤に「今、何時?」と尋ねると、「もう九時近くになるよ!」と応えてきた。
●午前九時 それから、田島がトップに出てラッセルし、再び私がラッセルを交代する。少しして田島が「ラッセル代わるよ!」と言う声に、私は「うん」と言って交代しようとした。
 その時、田島の後方約一〇mに加藤がいてスノーバー(ロープを固定するために雪に埋め込むTの形をした杭)を打ち込んでいた。すぐそばに小美浪が立ち、隣にバルとナラインの順で座って休憩していた。
●午前九時一〇分頃(推定)
−突然、雪崩の発生−(標高六〇〇〇m地点)
 休憩中の時に雪崩が発生した。「ズシン」という鈍い音と共に大きなショックがあり、「あっ、雪崩だ!」と直感。同時に田島が「泰ちゃん、手をつなごう!」と言って、手をつなごうとしたが、もう足元から流されていた。
 私は頭を下方に仰向けの状態で流されながら、頭の上を雪がかぶるのを必死に払い、口や鼻に雪が入るのを吐き出したり、飲み込んだりしながら落ちていって、どの位の時間流されたのか判らなかった。
 動きが止まった時、私の頭が斜面下方に向き、仰向けの状態で左半身が雪に埋まり、右手と右足が外に出た状態であった。がっちり雪に締めつけられていた。

掲載省略:(図)雪崩発生直前のザイルオーダー図
掲載省略:(図)事故当日のルート概念図
−「田島さ〜ん」「誰か〜!」と叫ぶが−
 その時、自分が今どこにいるのか判らず、「田島さ〜ん」と叫んだが返事がない。
 頭のヘルメットが邪魔なので、右手でヘルメットとサングラスをはずしたが、身動きができないので、また、「誰か〜!」と叫ぶ。
 その時まで、私と田島だけが雪崩にやられたと思っていた。他の人は、きっと休憩中の場所にいると思い、また、「誰か、助けて〜!」と叫ぶが返事がない。また次の雪崩が来るのではという恐怖を感じながら、身動きしないで空を眺めていた。誰の声も聞こえない。
 急に陽ざしを感じ、右手でまず埋まっている左手を掘り出し、お腹の回りの雪を掘り出し、上半身が自由になることが出来た。背負っていたザックと、安全ベルトにつけていたザイルをほどき、辺りを見廻したが、誰も見えない。

−「田島さん」のヘルメット、ザックを発見−
 また「田島さ〜ん」と呼んだが、声がない。まだ埋まっている左足を掘り出そうと、雪を除いていると赤いザックが見えてくる。さらに、回りの雪を除くとザックのすぐ下に青いヘルメットが見えた。
 「あっ!」と思い、ヘルメットの回りの雪をかくと、田島が右頬を下ぎみの状態でうつ伏せになって埋まっていた。「田島さ〜ん、田島さ〜ん」と幾度も声をかけたが、返事がなく、ザックをゆすって見たが、何の反応もなかった。
 もう一度、田島の顔の回りを掘り起こしたが、目を閉じたその顔はやはり何の反応もない。立ち上がって「誰かいないの〜?」と声をかけたが、やはり何も聞こえなかった。

−全員が雪崩に流された−
 周囲を見回すと、自分の位置の右下方にフィックスロープが、雪崩に埋まって所々見えていた。
 私と田島は、下から二番目のクレパスを飛び越して雪崩の右端で止まったのだ。
 上方を見ると自分たちのつけたトレースが全くなくて、約二〇〇m流されていた。
 その時、初めて全員が雪崩に流され、自分だけが助かったと気づき、急に一人である事に恐怖を感じた。

−BCに事故連絡のためC2に向って下山−
 どうしたらよいか判らない状態だったが、やがて気を取り戻し、とにかくBCの太田ドクターに報告をと思い下ることにした。ピッケルを失ったのでアイスハンマーだけを持ち、ザックとヘルメットをその場に残し、空身でC2に向かう。
 ピッケルがないので、クレパスを確認出来ず落ちるのではという恐怖を感じながら、私達がつけて来たルート旗やトレースで位置を確認しながら、C2へ戻った。
●午前一〇時二〇分頃
−BCの太田ドクタlと交信−
 私がC2のテントに保管していたトランシーバーで、太田ドクターと交信し、事故の状況を報告した。
 太田ドクターからは「BCでリエゾン(リエゾンオフィサー:ネパールやインド政府がBC周辺に配置する連絡監視人)らと対処を相談するまで、C2から動かず留まるように」と指示される。私は、しばらく外に立って待っていたが体が急に寒くなり、アイゼンをぬいでテントの中に入った。

−太田ドクターの報告書から−
 午前一〇時二〇分頃、太田(泰)より「先生、大変です。雪崩がおきて、みんな埋まって見えなくなっちゃったんです。消えてしまったんです!」と緊急連絡が入る。経過を伝えてくれた後、「私一人になっちゃったんです。どうしたらいいんでしょうか」と涙声でのコールに対し、励ましながら、そのままC2から動かず待機するよう伝えると、他のメンバーを上に残してきたまま自分だけここにいてよいのか、本当にそれでよいのか、自分でどうしたらよいのか判らないと、繰り返し問いかけてくる。
●午前一〇時四〇分
−太田ドクターの報告書から−
 太田(泰)を呼び、励ますと共に事故の経過を詳しく記憶しておくように伝えると、「わかりました。先生も覚えておいて下さい」と、第一報より詳細に報告してくれた。激しい動揺がややおさまってきている様だ。
 当初の計画では、BCの撤去は九月二七日なので、ネギ氏、ポーターらがBCに到着していたので対策を話し合う。
 太田(泰)だけは無事に下山させなければ…と、ネギ氏とポーターに、C2に迎えに行ってくれるようお願いし承諾を得る。
●午前一一時二〇分
−ハイポー夕ー「ナライン」の生還−
 私が、C2のテントから何げなく外を見ると、「ナライン」がザックを背負いピッケルを持って、一人で下山してくるのが見えた。テントを飛び出し、「ナライン!」と叫び抱き合って泣いた。彼は、雪崩でクレパスに落ちて、必死に這い上がったと語る。
 BCの太田ドクターから「二人でABCまで下るよう」指示があり、テントにある自分のシュラフのみをナラインのザックに入れ、フィックスロープで結び合って午前一二時頃C2より下山を始めた。
●午後五時二五分
−ABCにて太田ドクター、ポー夕ーと合流−
 トランシーバーで太田ドクターと交信しながら、C1には午後一時三五分着。ABCには午後五時二五分到着した。そこにはBCから私達を迎えに上がって来た、太田ドクターとポーター等の七名と涙の再会。
 激しい降雪と、二人が疲れ切っており、これ以上の行動は無理なので、ABCに泊まることに決める。
五、「BC撤収」から「合同慰霊祭の執行」
 山岳同人タンネが発行の「遥かな友に」より、「BC撤収」から時程的な経過について記す。
●九月二四日 雪で約束のポーターが来ぬため、テント等の荷物を残し、午前八時二五分にABCを出発。午前一一時三〇分にBCに着く。一日中悪天候なので要請したヘリコプターも来ない。
●九月二五日 午前中、ずっと雨。メールランナーは戻らず、ヘリコプターも来ない。また、撤収に上がって来たポーター達を何日も留めてもおけない。二六日朝、晴れならヘリコプターを待つ。雨ならBCを撤収して一刻も早くウッタルカシに戻り、各所に電話連絡をしようと結論を出す。
●九月二五日 午後九時、北海道山岳連盟事務所に「タンネ事故対策本部」が設置される。
●九月二六日 小雨まじりの曇天。BCを撤収。午前八時二五分にポーター等と隊荷と共にBCを出発し、「必ず、また、上がってくるからね」と心から叫びながら下山を開始した。
●九月二七日 第一次救援隊として、越前谷幸平氏がインドに出発。(帰国は一〇月四日)
●九月三〇日 第二次救援隊として、大内倫文氏、皆木勇氏、小美浪雅和氏、田島茂氏、平田寿子さんの五名がインドに出発。(帰国は一〇月一七日)
●一〇月七日 雪崩の危険があるため、遺体捜索を断念す。
●一〇月八日 BC近くの、白く輝くジャオンリ峰を仰ぐ地丘状の草原地に、高さ一・五m、幅一・五m四方位のケルンを作り、現地合同慰霊祭を執り行う。
家族・友人から託された弔文を読み、全員で彼女達の愛唱歌「遥かな友に」を合唱した。ハイポーターのバル・シンさんには「インド国歌」が唄われた。
●一〇月一七日 太田充子、太田泰子隊員と、第二次救援隊が帰国する。同日、家族報告会として、「山岳同人タンネ事故報告会」が札幌市にて行われる。
●一一月八日 「山岳同人タンネ・インドヒマラヤ登山隊遭難者合同慰霊祭」が、札幌市にて執り行う。(左の案内文書は、故加藤れい子さんの沼田高校からの親友であった佐藤小夜子さん提供)
●一二月五日・八日 「インドヒマラヤ遠征隊報告会」が、札幌市と旭川市にて開催される。
掲載省略:(写真)亡き4人の慰霊ケルンと現地合同慰霊祭(昭和56年10月8日)
掲載省略:(楽譜)「遥かな友に」の楽譜
掲載省略:(写真)写真合同慰霊祭の案内状と慰霊祭
六、山仲間の追悼のことば
 旭川山岳会報第五号−創立五十周年記念誌−一九八五(昭和六〇)年一〇月二〇日発行に、会員であった『田島よう子さん・加藤れい子さん』を偲んで追悼文が掲載されています。
 旭川山岳会の先輩岳人の心情が込められた追悼のことばなので、ここに亡き二人の一端を知ることと思い、記します。
 なお、この会報第五号には、お二人が書かれた山行記事がありますが、紙面の関係で表題のみ紹介します。

 ◇ポンクワウンナイ川『イワナ遊ぶ清流』
              田島よう子(会員番号 三七一)
 ◇ニセイカウシュツペ山『静かな登山を楽しむ』
              加藤れい子(会員番号 四二七)

故田島よう子さん…………へ

    昭和二三年五月三一日生
    昭和五六年九月二三日没(享年三三歳)
                         旭川山岳会理事 近藤三郎
 昭和四五年当時、登山の傾向として『より困難』なバリエーションルートの開拓期にあり、ロッククライミングが主流を占めていた。
 そのような年に、幼い顔をした田島・青木(現石塚)の二人が入会してきました。初めの一〜二年は大雪の尾根歩きが中心で、東川町に住んでいることから、旭岳周辺が主になっていたようです。
 芦別岳の第一稜へ行ったのが最初だと思いますが、それ以来、バリエーションルートに興味をもちだし岩・沢・冬山へと同行回数も増してきました。
 その当時、二〜三年もすれば『およめ』に行くだろうと思っていたが、年々山にくるいだし、少し心配したほどです。
 ある年の秋のこと、道警救助隊員の訓練を兼ねてトムラウシに集中登山を行い、私と田島・青木の三名でポンクワウンナイ遡行し源頭に出たが、風が強く、冷やして関節が痛みだし、足を引きずりながら歩き、やっとのことでテン場まで着いた。
 『さて、今夜のメシは』と聞くと『ラーメン・ライス』と言われた。この冷たさの中でそんなものではもたないと、二人を怒鳴りつけた。
 夜半からの雨、翌日は白金までの長い道程を、足を引きずりながら帰ったことが、忘れられない思い出として残る。
 その後、数年は『田島・青木(現石塚)』コンビで山に来ていたが、青木が『およめ』に行き、冬山などは男の中に一人だけ入って、山に来ていた。口の悪い仲間なので、おとなしい彼女も山に、お酒にと鍛えられた。
 昭和五五年頃から、急に山に来なくなり、もしやと思ったが意にあらず、海外へ行くとのこと。
 昭和五六年五月、旭川山岳会の山行で夕張岳〜芦別岳に縦走中、芦別岳の頂上直下で彼女等のタンネの合宿中に事故がおきたことを知り本谷を降りたが、たいした事故でなくほっとする。
 海外をあきらめたかと思ったが、その後『田島』からの手紙により、登山許可がおりたことを知る。
 先輩をさしおいて申し訳ないと書いてあった。我々も海外に対する夢を棄てていないが、職場の都合で行けないので羨ましい限りである。
 壮行会で逢ったのが最後になったが、遠い異国の地のことであり、ピンとこなかった。
 しかし、翌年の正月山行の時、いつも田島が遅れがちに歩き、私といつも『ゆっくり行くぞ、田島』とコンビを組んでいたので、ふっと見回す。
 だれか一人たりない…。旭川山岳会に入ってからのくされ縁で、十数年間山行を共にした。
 おとなしく、頑張り屋であった『田島』……さようなら。

故加藤れい子さん…………へ
   昭和二八年一〇月一四日生
   昭和五六年 九月二三日没(享年二八歳)
                          旭川山岳会理事 林 千里夫
 『今回の山行で、私は大自然を相手にジャッジもなく、勝敗を競うこともない、このスポーツの魅力にとりつかれてしまいそうです』
 これは、昭和五三年四月三〇日から五月五日まで、利尻山の東北稜を登った時の彼女の報告(会報第四号掲載)です。
 入会して初めての山行が重装備を背負い、真新しい靴の靴擦れに苦しめられ、一つも楽なはずもないのに音を上げず、『魅力にとりつかれてしまいそう』と言ったのに驚かされました。
 以後、看護婦という厳しい仕事の合間をみつけては、急激に山にのめりこんでいく姿に『ワンピースでも着て、買い物公園を歩いている方が似合うのに』と、傍らで見ている者の方が心配する程でした。
 お酒も結構いけ、例会の後はよく皆んなで飲みに行きましたが、夏ともなると特大ジョッキのかげから『ニッコリ』微笑む彼女の顔が、目に浮かんできます。アルコールが入ると益々陽気になり、山小屋でも、窮屈なテントでも、彼女がいると笑い声が絶えず、緊張する山行に安らぎを与えてくれたものです。また、綺麗好きで、乱雑になりがちなテント内を一人で整理し、女性らしさを感じたものです。
 人の和を大切にし、登山に対する情熱が『同人タンネ』のインドヒマラヤ、ジャオンリ峰遠征のメンバーになったと思われます。
 『インドへ行ったら土地の人、特に子供たちと一人でも多く接してみたい』と語っていた、彼女のやさしい心が印象に残ります。
 また、『ガンジス河の水で、水割りもいいんじゃないの』と誘い水を向ければ……、思わず口許を緩めたものでした。
 そんな憧れと情熱を傾けた『ジャオンリ峰』でしたが、思わぬ雪崩というアクシデントに遭い、越えてはならない山の頂をも越え、『ジャオンリ峰』に抱かれて、永遠の眠りについてしまいました。
 もう一度、この大雪の地に帰り、登り、そして語り合えないのが心残りです。

−旭川山岳会 速水潔会長は――――――
 昭和五六年九月二五日付北海道新聞(夕刊)に、遭難の一報を聞き、次のように語っている。
 『この五月に芦別岳で、ヒマラヤ遠征のための訓練中事故を起こしたので、出来れば行くなと言ったのですが…。どうしても行くというので、登頂は考えるな、山を見てくるだけにしろと忠告した』と、遭難の報に吃驚していた。
七、『田島よう子・加藤れい子』の足跡を辿る
 山岳同人タンネが昭和五七年一一月三〇日に発行した、インドヒマラヤ・ジャオンリ峰遠征隊報告『遥かな友に』に掲載されている隊員紹介を引用し、「よう子さん」「れい子さん」の人柄と思いを知っていただきたく転載します。また、それぞれの友人から亡きお二人の想い出を語っていただきました。
◆◆◆◆ 田島よう子 ◆◆◆◆
 昭和四二年一〇月旭川山岳会に入会し、大雪・十勝岳山系を我が庭として活躍、利尻岳、芦別岳、日高山脈にも足跡をかさねた。
 昭和五三年にタンネに入会、夏冬を問わず沢・岩とオールラウンドの登山家であった。
 無口な努力家であったが、いつも状況を的確に判断し、自分の意思をはっきりと主張する人であった。
 今回の遠征では副隊長・食料・会計担当として、毎日ノートや電卓とにらめっこ。大きなサングラスをかけ市場に出かけては、「高い」と言って首を横に振ってる姿が目に浮かぶ。
 慣れぬインドの地にあっても、自分のペースを守りぬき、隊全体を引き締めていた。
 遠征が終わってニューデリーに帰ったら、マザー・テレサに会いたいと望む女性らしい優しさの持ち主でもあった。(「遥かな友に」より)

◇略歴  掲載省略:(写真)旭川南高校時代の田島よう子さん(昭和42年3月)
○昭和二三年 五月 三一日東川町で生れる
○昭和三六年 三月 東川町立第一小学校卒業
○昭和三九年 三月 東川町立東川中学校卒業
○昭和四二年 三月 北海道立旭川南高等学校卒業
○昭和四二年 四月 東川農業協同組合に就職
○昭和四二年一〇月 旭川山岳会入会(番号三七二号)
○昭和五四年一〇月 宮崎県開催、第三四回国体山岳部門の成年女子北海道代表(加藤れい子・小笠原弘子と共に)
○昭和五六年 九月 二三日ヒマラヤで雪崩遭難し逝去(享年三三歳)
○昭和五六年 九月 三〇日東川農協は死亡退職と記録されている(東川町史第二巻)
掲載省略:(写真)第34回国体山岳部門成年女子北海道代表出場左から増子、加藤、田島、小笠原(昭和54年10月、宮崎県にて)
◇親友が在りし日を偲び、想い出を語る

      石塚すみ子さん(旧姓青木、東川町在住)
 「田島よう子」さんとは、東川中学校の同級生で、高校は別々であったが、東川農協への就職も昭和四二年四月と同じでした。
 そのような関係で親しく、旭岳を中心とした登山に、仕事仲間と一緒に行きました。
 昭和四二年一〇月、私達は春夏秋冬の山行を経験したく、「旭川山岳会」に入会、「よう子」は第三七一号、私は第三七二号の連番で、暇を見ては旭川山岳会の研修や山行に積極的に参加し、先輩岳人の指導を受けながら、様々の山々・沢と嶺々を「よう子」といつも一緒に苦しみ、そして楽しんだ仲でした。
 「よう子」は、農協に勤めてからは下宿をしていて、私は下宿先によく遊びに行き、職場のことや山行のこと等を話し合いました。「よう子」は自由で一人立ち的な下宿生活なので、両親と一緒にいる私にとっては、羨ましかったことが思い出されます。
 また、部屋で一人用ツェルトに二人で寝ながら、語り合ったこともありました。
 旭川山岳会に入会してから昭和五一年頃までは、研修や山行に「よう子」とはいつも一緒でしたが、私は昭和五二年に結婚し、長女、次女の誕生により、登山への機会がなくなりました。
 「よう子」との山行記録を旭川山岳会報より年別の一覧にしました。その年、その年の思い出が甦ります。日帰り、一泊二日、連休を利用しての縦走と、数々の山行が…。「よう子」よ、ありがとう。

   旭川山岳会の研修・山行の参加記録
氏名 田島よう子 石塚すみ子
年別 回数 日数 回数 日数
昭和44年 1回 2日 1回 2日
45年 4回 7日 3回 6日
46年 7回 16日 7回 16日
47年 21回 35日 14回 21日
48年 15回 29日 17回 34日
49年 9回 21日 10回 23日
50年 14回 40日 12回 36日
51年 6回 19日 6回 18日
52年 13回 30日 1回 2日
53年 10回 20日
54年 17回 32日
55年 12回 24日
56年 2回 2日
 また、ボーナスが出れば札幌の北大前にあった山岳関係専門店の「秀岳荘」へ、二人で高価な用具を買いに行ったこともありました。
 昭和五六年八月二二日、インドに出発前の成田空港から「よう子」より電話、「これから元気で行って来ます。帰ったらヒマラヤ山行の話と、お土産を持って行くから待っててね」と言い、私は「頑張ってね、元気で帰ってくるのを待っているよ、帰ってくる十月には山に雪が降ってるね」の応答が、「よう子」との最後の会話になるとは思いもしませんでした……。
 「よう子」の遭難をニュースで知り、驚愕し悲しみが深まるばかりでした。その年の六月に次女を出産しましたので、中村会長さんの取材申し出に、私は「遭難から三七年ですね!次女と同じ年ですから忘れもしません」と思わず口にしました。

         三上真佐子さん(旧姓梶田、東川町在住)

 よう子さんとは同じ職場で、下宿先でも隣部屋でした。よう子さんの部屋は山小屋風で、時には部屋にテントを張って寝ることもあり、私も入ってお喋りや寝たりしたことがありました。よう子さんは小柄で頭がよく、仕事は抜群に出来た人で、全てに頑張りやさんでした。
◆◆◆◆ 加藤れい子 ◆◆◆◆
 旭川山岳会に昭和五一年四月に入会し、先輩にあたる田島さんと共に利尻岳、大雪十勝山系などを登る。昭和五三年にタンネに入会する。
 隊の中で一番体重の軽い細い体で、精力的に活動し、看護婦らしく皆の体を良く気づかって行動してくれた。また、今回の遠征では高度順化も良く「若い衆bQ」と自称してよく頑張っていた。
 いつも緑の絶えなかった部屋に、キャラバン中に沢山咲いていたアジアンタムが、更に増える予定だった。
 お酒を飲むとおしゃべりになり、また、議論する程にお酒の量も増えた。でも、出勤するときは牛乳をコップに三杯も飲み、おどけて元気に「行って来ます」という白衣姿が、印象的であった。(「遥かな友に」より)

◇略歴  掲載省略:(写真)沼田高校時代の加藤れい子さん(昭和50年3月)
○昭和二八年一〇月 一四日留萌市藤山で生れる
○昭和四一年 三月 留萌市立幌糠小学校卒業
○昭和四四年 三月 留萌市立幌糠中学校卒業
○昭和四七年 三月 北海道立沼田高等学校卒業
○昭和五〇年 三月 市立旭川病院付属高等看護学院修了し看護婦となる○昭和五〇年 四月 市立旭川病院に勤務
○昭和五一年 四月 旭川山岳会入会(番号四二七号)
○昭和五四年一〇月 宮崎県開催、第三四回国体山岳部門の成年女子北海道代表(田島よう子・小笠原弘子と共に)
○昭和五六年 七月 市立旭川病院退職(ヒマラヤ遠征の為)
○昭和五六年 九月 二三日ヒマラヤで雪崩遭難し逝去(享年二八歳)
掲載省略:(写真)市立旭川病院付属高等看護学院修了戴帽式とキャンドルライトサービス(昭和50年3月、佐藤小夜子さん提供)
◇親友が在りし日を偲び、想い出を語る

    佐藤小夜子さん(旧姓平田、埼玉県狭山市在住)

 加藤れい子さんとは、沼田高校の時に知り合い、お互いに心から意気投合した最高の親友でした。毎日ほとんど一緒と思う程、仲良く過ごしたことを覚えております。
 今、思い出すれい子さんは、明朗活発!同年とは思えない程のお姉さんでした。クラブは体育系が大好きで、特に体操クラブで一回転して見せてくれました。そして美術的センスもよく、年賀状はいつも楽しみでした。下の年賀状には、インドヒマラヤに行くとある。
 ヒマラヤ登山を終えた後は、我家(父が自動車教習所を経営)に下宿して自動車免許を取得する約束をしており、私は帰ってくる日を楽しみにしていたものでした。

掲載省略:(年賀状表裏)昭和56年正月れい子さんから小夜子さんへの年賀状

―姉伸子さんの夫の「遥かな友に」への寄稿には――――
 旭川市立病院を退職し、家具や身の回り品を札幌の我家の二階に運び、一先ず落ち着いた。
 山から帰ってからは、運転免許を取得し、結婚相手が見つかるまでは、札幌市立病院に勤めたいということを、「れい子」は私達夫婦に語っていましたが、半月後に「持っている箸が音を立てて震える程の悲報」が入った……

 再び、親友の佐藤小夜子の想い出。
 昭和五六年九月二五日、仕事(バスガイド)で知床ウトロのホテルで朝食中に、NHKテレビに突然「れい子」の映像が大きく写り「タンネ隊遭難!?」……。今でもあの時の衝撃を忘れはしません。
 想い出つきない事柄が走馬灯のように……。ところが「れい子」の遭難により私自身も体調を崩し、告別式も合同慰霊祭も出席できませんでした。
 後日、両親宅(留萌市藤山)の仏前にお参りし、登頂前の最後に写したビデオを見せていただいた記憶が甦ります。ご両親からは突然に娘を亡くした辛く悲しい思いを語られ、「れい子はいつ帰ってくるの…」と尋ねられました。そして、ベースキャンプから救援隊が持ち帰った「遺品の財布」を戴き、今も大切に「れい子」の形見として持っています。
 この度、中村会長さんの取材を受けて、こうして「れい子」との縁ふたたび……三七年過ぎて機会を得たことに喜びさえ感じます。十勝岳に「れい子よ…」のレリーフがあることを知り、いつの日か訪ねたいと考えています。
 私達夫婦は沼田高校の同期で、キューピットは「れい子」なのです。今は埼玉県狭山市で、北海道の料理を出す北の食彩すずらん″という飲食店を経営していますが、十年後は旭川に住む予定です。
 「れい子」よ、十勝岳のレリーフにて再会を楽しみに、それまで待っていてね……。
八、白銀荘(旧)の宿帳に遣る山行の足跡
 十勝岳の白銀荘(旧)の宿帳が三冊残されているが、「田島よう子さん」「加藤れい子さん」の山行と、旭川山岳会を中心とした山仲間の「追悼登山」が記帳されていますので、年月日の順に記す。

―田島よう子さんの記帳――――――
○昭和四九年四月二八日〜二九日
 行先  上ホロ  田島よう子他一名
      ※他一名は、清水すみ子(現石塚)
○昭和四九年七月一三日〜一四日
 行先  記載無し  田島よう子他一名
○昭和五一年一月二一日〜二二日
 行先  記載無し  田島よう子

掲載省略:(宿帳コピー)昭和49年4月白銀荘(旧)宿帳

―加藤れい子さんの記帳――――――
○昭和五二年九月八日〜九日
 行先  富良野岳〜十勝岳 小笠原弘子・加藤れい子

―「よう子」「れい子」さんを偲んで―――――――
○昭和五六年一〇月三一日〜一一月一日
  偲ぶ会が、十勝岳白銀荘(旧)で開催され、阿地政美氏他二一名が参加
○昭和五七年九月二五日〜二六日
  一回忌が、十勝岳白銀荘(旧)で開催され、十勝岳中腹に、山仲間による「よう子よ・れい子よ…」の慰霊レリーフが設置、除幕された。阿地政美氏他一四名が参加。
○昭和五八年八月二〇日〜二一日
  三回忌が、十勝岳白銀荘(旧)で開催され、土屋勲氏他大人二六名、子供一二名が参加。同級生で山仲間の石塚すみ子さん
も、幼な子二人を連れて、妹さんと共に参列された。
○昭和六二年一〇月三日〜四日
  七回忌が、十勝岳白銀荘(旧)で、夏山納涼登山会を兼ねて開催され、土屋勲氏他一八名が参加。

掲載省略:(宿帳コピー)昭和57年9月白銀荘(旧)宿帳
掲載省略:(写真)慰霊レリーフ前での3回忌(昭和58年8月21日)
九、この稿を終えて
 田島よう子さんは東川町、加藤れい子さんは沼田町出身と、新聞や旭川山岳会報で知ったが、友人・知人からの取材に苦労しました。
 しかし、それぞれの皆様の「人と人とのつながり」によって書くことが出来ました。
 当町のNPO法人野山人で活動中の「菊地敏朗氏」は、お供物を持ち写真を撮ってくれました。
 埼玉県狭山市の「佐藤小夜子さん」は、「加藤れい子さん」の親友であったので、山岳同人タンネ発行「遥かな友に」の冊子と共に、三七年間も大切に保存された写真・合同慰霊祭の案内文書、年賀状の品々を送っていただき、非常に参考になりました。
 東川町の石塚すみ子さんは、郷土をさぐる誌第三十二号の田村義孝さんとは、「十勝岳白銀荘でフォークとナイフでの夕食姿が思い出されます」と語られました。
 多くの皆様の「人と人とのつながり」での取材のご協力に、心から感謝とお礼を申し上げます。
 ジャオンリ峰を望む氷雪に眠る小美浪さん、田島さん、加藤さん、バル・シンさんの、永遠に安らかなるお眠りを、心からお祈り申し上げます。

   ―― この山に 還りて遊び
             やすらかに眠れ ――
◇取材にご協力ありがとうございました。
東川町 田島  茂 様
三上 俊幸 様
三上真佐子 様
石塚すみ子 様
清水 敏一 様
西原 義弘 様
佐藤  拓 様
上富良野町 菊地 敏朗 様
辻   剛 様
角波 光一 様
木村 貞恒 様
富良野市 大高 澄子 様
沼田町 平木 昭良 様
埼玉県狭山市 佐藤小夜子 様
美瑛町 中谷小夜子 様
五十嵐順一 様
札幌市 岩崎 明美 様
旭川市 土屋  勲 様
深川市 道立深川西高等学校
留萌市 市立留萌図書館
沼田町 沼田町教育委員会
東川町 大雪山ライブラリー
◇参考資料
・東川町史 第二巻
・郷土史ふるさと東川(W)資料編
・旭川山岳会 会報
・美瑛山岳会 十勝岳連峰と共に四十年史・会報
・北海道新聞 縮刷版
・「遥かな友に」 山岳同人タンネ遠征隊報告
・タンネ・ジャオンリ峰登山隊遭難事故現場調査並びに遺品収集報告書旭川山岳会理事 皆木 勇
・「山岳遭難関係文献、及び岳人の追悼・遺稿文献目録全」烏山房発行

機関誌      郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷      2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀