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戦中・戦後の学校と生活の記憶(座談会の記録から)

座談会参加者一同

  座談会出席者
          平成二十九年二月二十二日上富良野町公民館にて
岡本ハツヱ(87歳) 昭和12年 東中小入学
成田 政一(86歳) 昭和13年 上富小入学
北越  勲(86歳) 昭和13年 創成小入学
千秋 幸二(85歳) 昭和14年 下川小入学
昭和16年 上冨小三年に転校
荻野 浪子(85歳) 昭和14年 上冨小入学
村 岡八郎(83歳) 昭和16年 上富小入学
岡田 三一(80歳) 昭和20年 創成小入学
昭和21年 江幌小二年に転校
              ※年齢は本誌発刊時の二〇一八年時点で記載
注記: 戦前の教育は、昭和十六年四月一日施行の国民学校令により初等教育(六年)が小学校尋常科国民学校初等科、中等教育(二年)は小学校高等科↓国民学校高等科と呼称が変更(学校名も変更)されたが、座談会参加者の年齢により在学中の呼称変更時点が異なることによる混乱を避けるため、戦前に関する記載部分は、国民学校令以前の呼称で統一記載している。
なお、昭和十六年前後で高等科があったのは上富小(上富良野尋常高等小学校)と東中小(東中尋常高等小学校)のみであったため、東中小以外の尋常科小学校生の高等科進学先は上富小になっていた。
戦中(日中戦争、太平洋戦争)
  一、入学式とその頃のようすについて
岡本 着るものでも姉からのおさがりが多かった。入学式当日学校に行くと、上級生が「あなたの靴箱はここですよ」と教えてくれ、うれしかった。
北越 ランドセルのふたは蝶つがいのついた鉄板だったので、それで雪そり滑りをして遊んだ。
成田 入学の日は母親が忙しかったので、隣のお母さんに連れられて行った記憶があります。
荻野 兄弟が多かったので、必要なものはみんなありましたね。筆入れはセルロイド製なので、落とすと割れてしまい、糸で縫い合わせて使っていました。
千秋 下川小、東山小、上富良野小と転校が多かったが、着る物は普通なみに着せてくれました。小さい頃から破れた時は、自分で針を持って修復しました。ランドセルは六年間持たせるため、牛皮の良い物を買ってくれました。
北越 チリ紙がなかったので、鼻水が出ると袖でふいている子供が多かった。だから、袖はピカピカに光っていた。「ボタンち切り」遊びもした。
村岡 青っぱな出している子が多かった様でした。
成田 食べ物のせいだと思うよ。
岡本 東中小では、八十名入学した年と四十名ぐらいの年が交互に繰り返していました。
村岡 着る物と言ったら、兄たちの二人分あったから、継ぎ接ぎのお下がりを我慢し通学させていただいたと記憶しています。
岡本 身長の低い子で、一つ身赤ちゃん用の着物で来ていた子がいたよ。
  二、四月二十九日の天長節(天皇誕生日)について
北越 今の祝日は、学校は休みだが、昔は式典があるので皆んな一張羅の服を着て学校に来た。
校門の南側に奉安殿(ほうあんでん)があり、そこに天皇陛下のお写真と教育勅語等が入れてあって、学校の登校時、下校時は必ず最敬礼をしなければならなかったが、毎日のことで友達と話しながら通る時は、奉安殿の方をちらっと見て、頭を少しペコンと下げるだけの人も居たようだ。 
式の当日は、学校の正面玄関の前から奉安殿の前まで、一年から六年生までの全員が並んで、校長先生が来るのを待った。何か校長先生の服の背中の下の方がセミの羽根みたいになっていた。誰かが、あれはモーニングというものだと言った。俺はモーニングという言葉も見るのも初めてだった。
奉安殿の戸を開けて、校長先生が何か箱みたいな物に紫の布をかぶせた物を、白い手袋をはいて、目の高さより高く上げて、皆んなが並んでいる前を通る。
その前から皆んな、最敬礼をして居なければ成らないが、見たくて見たくてどうにもならないので、少し顔を上げると、先生が後ろに居て「コラッ!」と注意をする。「誰かが先生はずるい、先生も最敬礼をして居たら見えないのに、注意をするのは頭を下げて居ない」と言ったら、また怒られた。 
運動場で式が始まった。『君が代』を皆んなで歌い、校長先生が紫の布を静かに開き、教育勅語の箱の蓋を取り、中から巻物を出し、「チンオモウニ……」と読み上げる。その間、頭を下げて居なければならない。その後、校長先生の話があったが、聞いているのか、いないのか、早く終わらんかなと皆んな思っていた。
その後、各教室に入り、紅白のまんじゅうを二個紙袋に入ったのを全員がもらう。それが祭日の一番良いところだった。早く食べたいが、家で妹達が待って居るので、袋の中を見て、ちょっと触ってみるだけ。家では家族皆んなで赤と白のまんじゅうを、同じ大きさに切って分けて食べた。
岡本 教育勅語は暗記させられた。
成田 私の時は、暗唱だけでなく、書かされた。
北越 天皇陛下の名前を、初代から暗記させられたよ。五十代まで来ると一息入れて、また続けて昭和の天皇まで暗記させられた。
「教育勅語」は正確には「教育ニ関スル勅語」という。戦後の教育基本法の制定によって廃止になるまで、
日本の教育理念とされていた。謄本が各小学校に配置され、式典日には奉読が義務付けられていた。
  三、学校での勉強について
荻野 一年の国語は、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」とか「ススメ ススメ ヘイタイススメ」でした。
成田 体育は、主に徒手体操(器具・用具を使わない体操)だった。運動場の壁には肋木(ろくぼく:柱の間に多数の丸い横木を通した、はしご状の体操用具)があった。
北越 相撲や鉄棒、とび箱もした。
岡本 「なぎなた」もしました。指導者は在郷軍人(戦場から帰ってきた人)でしたね。
北越 男子が二十歳になると兵隊検査があって、甲種、乙種合格者は戦場に行ったが、丙種の人は家に残って子づくりに励めとか?(笑)
小学校(創成小学校)は小さな学校なので複式学級(二つ以上の学年をひとつにした学級のこと)で、一年生と二年生は同じ教室。担任は小西力郎校長先生だったので、用事があるといってあまり教室に居ない。居る時は、ストーブのそばで椅子にすわり、タバコを吸ったり新聞を読んだり。勉強を習った記憶がない。
三年になったら阿部平次郎先生になった。この先生は、学校で一番うるさくて、おっかないと言っていた。授業中に少しでもよそ見をしたり、後の方を見ると、黒板消しが飛んでくる。だけど、よく教えてくれた。複式だから、四年生に教えている時は、三年生は自習となる。その時、少しでも騒いだりすると「コラッ」といって、竹の棒でたたきに来る。自習をするといっても何をしていいか分からない。
それで四年生に先生が教科書を読み黒板に書くのを見て、四年生より先に覚えてしまった三年生が何人かいた。その内に先生が四年生の誰々と名前をいって、どうだと聞いてもその子はわからんもんだから何も言わない。俺は四年生の教科書が無くても、先生の話と黒板に書いたのを見て分かった。すると先生が「三年生でもわかる人がいるぞ」と四年生を怒鳴り散らす。
三年生の二学期頃、阿部先生が転任し本田かをる先生に習った。本田先生は良く勉強を教えてくれた。先生の家は島津地区で、自転車で通勤していた。途中に高田寺(専誠寺)があり、そこの若坊さんと仲良くなったらしい。皆んなで冷やかすと顔を赤くした。その坊さんと結婚するのかと思っていたら、風連のお寺の坊さんと結婚した。
五年生になると、佐藤正男先生に習った。先生は音楽が好きで、自分でピアノを持っていた。音楽の時間は先生の自宅に行きピアノで習った。学校にはオルガンしか無く、学芸会の時は先生のピアノを運動場まで運べといわれ、五・六年生の男子で運んだが重たくて、まじめに力を入れる奴と触るだけのずるい奴がいた。
  四、運動会について
成田 暗算競争があった。スタートして走っていくと途中に問題を書いた黒板があり、暗算をしてゴールするという競技だった。なんぼ(全国各地方言:北海道では、名詞的な「価格や数量」と副詞的な「幾ら、どれほど」の意味で使われるが、ここでは後者)早くても答えが間違っていればダメなので、足の遅い人でも一等賞を取れた。私は小学校の時は走るのが遅かったんですよ。
同席
一同
(へェーツー・)中央青年団の赤パンツをはいた猛ダッシュで有名だった成田さんが……(これには、全員ビックリ、考えられないことだった)
北越 創成小学校の運動会は、毎年六月十日と決まっていた。それで六月に入ると毎日一時間ぐらい練習をした。徒競走、玉入れ、綱引き、団体リレーなどだった。俺は走るのが駄目で、いつもビリッパ(方言:最下位)だった。しかし、障害物競走の網くぐりでは、先に行った奴が網をくぐって、中でモソモソして居る間に、後からその中をスーツと入って先に出る。そこら辺は上手(うま)かった。当時、小学校が九校あった。
親睦のため他校との対抗リレーを行っていた。スタートが男子百m、二番と三番が女子で五十mずつ、ラストが男子で二百m、一等の学校には優勝旗が渡された。大体五、六年生が選手で、毎年走る人が替わるので大変だ。そのためよその運動会には三年生以上が全員行った。
他校リレーの後には青年団の八百mリレーがある。里仁、日新、市街の赤パンツ、草分青年団等が走る。その時、部落の父さん、じいちゃんが、昼御飯の時に正中かドブロクを呑んだので、酔って元気がよく、馬力がつく。グランドの中まで入って気合を入れる。その方が面白かった。
よその学校へ行く時は、親から小遣いを五〜十銭貰って行き、グランドの片すみには、お店屋さんが市街から来て、色々と欲しい物がたくさんある。何を買うか考える。一銭出すとアメ玉の大きいのが一個買える。大きくて、子供の口には入れただけで口の中が一杯に成る。それで、そこら辺の石コロで割って小さくして食べた。あとは、百連発のピストルと玉を買って、パチパチと鳴らして遊んだ。昼の弁当は、ゴマ塩の付いたおにぎりと、おかずは卵焼きとキュウリとナスビの漬物だった。
  五、学芸会について
岡本 金太郎さんの劇をやりました。私はうさぎの役でした。六年生ではシェイクスピアの「リア王」をやりましたよ。人数が多かったので男と女に分かれて。
荻野 学芸会の出し物に戦時色はなかったですね。
成田 上富良野小学校は、栄楽座(後の上富良野劇場)でやっていました。私は野口英世の主役で出ました。
村岡 劇など、出演者は毎年決まっていましたね。今のように全員が出てやるオペレッタと違ってね。
千秋 尋常小学校唱歌、浦島太郎の唄に合わせた劇をしました。私は浦島太郎の役でした。
  六、遠足について
荻野 弁当はおにぎり以外はダメって禁止だったのです。それで母が作ってくれたゆで卵を家に置いて学校に行ったのです。そしたら、他の子どもは隠して持ってきて食べていたんですね。私は真面目すぎたのですね。バカ正直といった方がいいのかな。
岡本 東中小は金毘羅山(東七線北二十号東中金毘羅神社)へ行った。おやつはバナナだった。(注:台湾が日本の統治国だったから、バナナは豊富だった)
村岡 日の出山の東一線北二十七号附近にお寺(大昭寺:昭和三〜四十一年)があり、そこに遠足に行きました。そのお寺の坊さんは西條坊主といって、ホラ貝を吹いて檀家など各家庭を回り、家内安全、商売繁盛を願ってくれていました。あのホラ貝の音が突然玄関前で大きくなるもんだから、子ども心に恐ろしかった。一年に一回か二回ですがね、今ではいい思い出になっています。
  七、勤労奉仕について
荻野 小学五年生のとき、汽車で美馬牛へ燕麦(えんばく:家畜飼料の畑作物)刈に行きました。
履物は下駄で足が汚れたり傷んだりするため、白い古足袋を履いた。飛澤先生に「お白足袋で」と言われ恥ずかしかった。
旭中(旧制旭川中学校)生の兄は、五月から十一月初旬まで美瑛の畑作農家へ奉仕作業に出ていた。お盆だけお休みがあり、家に帰って来ていた。
昭和二十年は冷害の年で、農作業は極端に遅れた。
そのほかに、たばこ用にとイタドリ(生命力の強い雑草でいたるところに繁茂していた)の葉を集め、校庭のムシロに干した。また、赤クローバー(明治以降移入された牧草で和名はアカツメクサ)の種を採集して軍馬用に供出した。
成田 太平洋戦争が始まったらすぐに、出征兵士の家へ稲刈りに行きました。
千秋 男手が足りない家庭に援農に行きました。四年生の時は、素足で田圃に入り稲の草取り、五年生の時は麦の刈取りでした。六年生時は炭鉱に必要な落葉松(からまつ)坑木の皮引きや田畑に使う土管の運搬作業等をしました。
岡本 高等科になると、男子は大人と同じくらい働いた。学校ではほとんど援農に行くんだから、我が家も農作業で忙しいんだから、学校に行かずに家の手伝いをせよといわれる子も多かった様で、学校ではクラスに四〜五人位しか居ませんでしたよ。私の家は家族が多く働く人が多かったので、私は学校に行きましたけどね。
北越 小学三、四年生ごろ、草分地区では何軒もビール原料のホップを作っていた。最盛期になると人手が足りないので、創成小学校生全員で何軒かに分かれてホップ摘みに行った。竹かごに採っては入れるが、なかなか満杯に成らない。よく見ると枝によって大きな花と小さい花がある。皆んなは大きな花の枝を取りたがるが、先生からは「小さい物も全部とれ」と怒られた。
今はホップにいろいろと病虫害防除をするので、病気とか虫はないが、その当時は防除はほとんどしなかったので、青虫とか得体の知れない黒い毛虫がたくさん付いていた。俺はあまり気にしないが、女子は毛虫がいたとキャッキャと騒いでいた。そこへいたずら男子が毛虫を投げてやるので、先生は男子と女子を別々に分けて作業をさせるようにした。
行った先の母さんがおやつに手作りのパンや、あられを妙ってたくさん出してくれた。それがうれしくて、ホップ摘みに行くのは嫌ではなく、楽しみでもあった。
岡田 私は昭和二十年に創成小学校に入学しました。だから、戦中の学校経験は五か月間でした。
その中で印象に残っていることは、一年生でイタドリの葉を取りに行ったことです。行った先は西四線北二十八号の荒地の密生地でした。一年生ですからイタドリより背が低く、少し腰を曲げて歩くと、スイスイと奥まで入って行けました。
葉っぱを取ると、太陽の光が射し込みパーッと周りが明るくなりました。その当時、私は学校に行くのが嫌でした。家から学校までは片道二・五キロほどでしたが、それでも雨の日などは、特に嫌でした。家の人から午前中に帰れるのだからと言われもしたのですが。学校に行って勉強でも出来ればよかったのでしょうが、そうでもなかったし……。
また、世の中全体が何となく暗かった。そんな中で勉強しなくてよいイタドリ取りは、開放感に満ちていて楽しかったものです。でもそれは、一回きりで終わりました。
成田 土管工場が八町内(今の栄町)にあって、今の中富良野在住の大塚さんが工場長だった。そこに毎週代り番こで、勤労奉仕に行ったね。結局、戦争のためだったんですね。
掲載省略:(写真)出征兵士の留守宅訪問
  八、防空壕と防空訓練について
成田 上富良野神社から上富良野小学校グランドの周りに落葉松がびっしりと生えていた。それを全部伐り倒してグランドの周りに防空壕(戦闘機等による銃撃や爆弾投下攻撃に備えて地中に設けた避難空間)を造り、骨組みに利用した。
岡田 創成小学校には防空壕はなかった。防空訓練は、学校の側(そば)に草分神社の森があり、そこに連れて行かれ、小指を鼻穴に入れ、親指で耳穴を防ぎ、顔を両手の平で覆い、その場にしゃがむ。爆風から鼓膜を護り、毒ガスを吸わないためだったと思う。
  九、敵機来襲について
成田 七月十五日、敵の飛行機が上富良野の上空に飛来した。釧路沖の米国の艦隊から飛び立ち、鉄道の線路つたいに帯広市、富良野駅と爆弾を落とし、旭川に飛んでいった。昔の上富良野農協事務所は二階建で高かったが、それにぶつかるんでないかと思うぐらいの低空飛行だった。
北越 富良野の爆撃は、草分の家からも黒煙が立ち昇るのが見えた。
岡田 同じ日だったと思うが、どうしたわけか家にいて、五〜六機が編隊を組んで旭川方面に飛んでいくのを見ました。敵機の飛来は何度もありました。
一機で飛来してくることもありました。その時は、飛行機の音がしたので、落葉松の茂っている山に向かって走って逃げたのですが間に合わず、気づいた時には頭上に飛行機が来ていました。上を見ると低空の飛行機であり、パイロットが飛行メガネ越しにこちらを睨んでいるではありませんか。恐ろしかったです。
またこんなこともありましたよ。飛行機の音が近づいてきたので、ばあちゃんは急いで屋敷林のそばに造ってあった防空壕に、私達孫三人を引き連れて飛び込むように入り、飛行機が去るのを息を殺して待ったことも。孫三人を自分の胸に抱え、念仏を唱えながら守ってくれました。
その時だったと思うが、私は「どうして戦争になるの?」と聞いたら、「お前達、よく兄弟喧嘩するだろう。それと同じだ」という答えだった。その時は、子ども心ながら納得した。ばあちゃんはうまく説明したもんだと、今でも思っている。
  十、終戦について
成田 日本が負けたと知ったとき、夜眠れなかったね。悔しくて、悔しくて。高等科二年生だった。
岡本 負けると思わなかったから。洗脳されていたんですね。昭和十八年五月にアッツ島(アラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部)がやられたとき、この戦争は負けるぞ!と、あの時から父は言っていましたね。
私は「父さん何を言っているのさ」と言い返しましたよ。日本軍は勝っているところだけ報道していたんですね。
村岡 戦争がどうして起こったなんて言えなかったし、考えることもしなかった。戦争は嫌だなんて言うものなら、非国民だと言われ、大変なことになりましたからね。
岡本 米軍が入ってきたらなにされるか分からない。家の近くの山に父が穴を掘ってくれて、ここに隠れたらいいと言っていた。顔に墨を塗って女でないようにしたらいいとも……。
北越 満州だか、どこだったかで、民間人に対して、いろいろなむごい仕打ちをしたと言う話もあった。ほんとのところは分からないけどね。
  十一、北越氏高等科一、二年の思い出
               (昭和十九年四月〜昭和二十一年三月)
北越 昭和十九年四月、上富良野尋常高等小学校(上富良野国民学校高等科)に入学した。
小学校の二階で三教室、一組は男子だけで六十名、二組は男子三十名と女子三十名ぐらい、三組は女子六十名ぐらいだった。教科書は全員当るだけなかったので、配給された新しい教科書をくじで決めて配布されるか、それとも先輩から分けてもらって、使用していた。
それでも無い人もあって、隣の人のを見せてもらって居た。昭和二十年になると戦争が段々ひどくなり、先生も兵隊に行ったので足りなくなり、教室と教室の間仕切りを取り除いて、一組は男子だけ、二組は女子だけ、それぞれ百名近くの生徒が、一人の先生に習った。
書き取りの帳面は、新聞を四つ折りにたたんだ位の紙を一枚ずつもらい、それを半分にたたんでまた半分にすると、四面の筋が付く。裏と表で八マスが出来る。その紙一枚で一週間の勉強を、書いて覚えた。鉛筆は一本ずつ配給になった。鉛筆削りは今のようなカッターやナイフがなかったので、家に帰って包丁か鎌で削った。一本しかないので、芯が折れたら困るから、上下を削って二本分にした。消しゴムもないので古くなったゴム長靴のカカトの付近を鎌で切って使った。消した跡は黒ずみ、汚くなった。黒板に書くのだが、先生が使うチョークが無い。それで、そこら辺から拾った火山灰のかたまりか白くて柔らかい軽石なんかで書くけど、あまり良く書けない。かすれたり、太くなったり、細くなったり。前の方の席では何ぼか分かるが、後の生徒は何が何だか分からない。声は聞こえないし、黒板は見えない。それで紙に何にも書けない人が大半だった。それでガヤガヤと騒いでいると「コラッ」と叱られる。それだけはハッキリ聞こえた。
学校に行くには集団でなければならず、一人ではダメ。校門のところに木銃を持った高等科二年の人が両方にいて、一人では入れなかった。それで誰か来るのを待って、その人達と一緒に校門をくぐった。そして靴はダメだったので、ハダシで学校に行った。校門をくぐって、すぐ南側に奉安殿が有り、必ず帽子を取って一礼をしなければならないけれど、大勢でワーワー話をしながら行くと忘れてしまう。門番の生徒から「コラッ、礼をしれ」と怒られる。学校に行っても勉強をした記憶があまりない。
父が兵隊に行って、働き手がないので家の手伝いをし、ばあちゃんが野菜を作っていたので、その仕事をした。
一番ひどかったのは馬で水田を起し、ハロー(農地の表面を均(なら)したり、塊になった土を砕いたりする農機具)掛け、代かき(土と水を混ぜ合わせ泥状に整地する作業)等もしたことだ。俺が小さかったので、馬がバカにして動いてくれなかった。それでも何とかやった。代かきは土がなかなか溶けないので、程々に水を沢山入れて上っ面だけの作業になってしまい、下の方まで馬鍬(代かきで馬に引かせる農機具)は通らなかった。その後、母がタコ足(一度に等間隔の数カ所に稲の種を落としてまく農機具で、姿がタコの足に似ていた)でモミまきをした。「勲!ちゃんと代かきしたのか」と言うので、「したよ」と答えると、水田の表面が凸凹でタコ足がヒックリ返る所があるという。どうにも仕方がないので、聞いて聞かないふりをしていた。
そのほか、学校で習ったのは、手旗信号、モールス信号、軍人勅諭があった。グランド横に大きな落葉松があった。手旗信号の練習と言うことで、二人一組になって、一人がその木の上に、もう一人は日の出部落会館(今の宮町公園の所に建っていた。グランドから約三百m)の所の木に登る。先生が言ったことを、白と赤の旗で、グランドの木に登った人から信号を送り、日の出会館の木の上でそれを読み取る。分かったような分からないような言葉ができる。「先生が何だった」と聞くと、大概がチンプンカンプンな答えが出る。送った奴に「何て書いたんだ」と聞いてもバッとしない。先生の言った言葉は「ネコノコハ、カワイイモンダ」であったが、正しくできた組は、一つもなかった。
軍人勅諭の中に「必勝の信念」というのがあり、それを暗記せよという。出来る者は前の方に出て先生の前で復唱する。間違いなくできた者は学校から帰ってよし、できない者はできるまでやれと言う。帰りたくても帰れない。皆んなが出来るまでには夕方になった。
戦後の学校と生活
  一、戦中戦後の学校制度について
千秋 私は、昭和二十一年四月に北海道庁立富良野中学校(旧制中学校で男子校)に入学しました。女子高は北海道庁立富良野高等女学校でしたが、入学者は男女合わせて十二名程度だったと思います。
昭和二十二年四月から新制度による小学校、中学校がスタートしました。新制高校は昭和二十三年四月からスタートしました。このことから旧制中学校は、新制中学校三年間と新制高校三年間に分けられることになりました。
村岡 私は昭和二十二年四月に上富良野小学校に設置されていた新制中学校一年に入学しました。
そして、昭和二十四年に新校舎が落成したので、机、椅子を持って、木造の新校舎に入りました。その時は、まだ体育館はありませんでした。
岡田 私は、昭和二十六年四月に上富良野中学校に入学しました。昭和二十五年に体育館が出来ていましたが、木造のため強風になるとグラグラ揺れ、倒壊の恐れがあったため、ワイヤーを張り固定してありましたが、それでもグラグラ物でしたよ。
荻野 昭和二十一年の高等女学校の入学試験は、紙不足で筆記試験はなく、口頭試問と簡単な体操だけだった。入学の日は、父に連れて行ってもらったことくらいしか覚えていない。
教科書は、一年先輩の人から譲り受け、所々に墨の黒塗りがあった。
食糧不足のため、一年間は半日で授業が終わった。
二年生以降、冬期間は兄、姉と毛利先生のお宅に下宿した。下宿代として、米や野菜、味噌、醤油、漬物など週末に帰って兄と二人で運んだ。兄は米一斗(一升が約一・五kg、一・八リットルで、一斗は十升)、私は五升背負うと大変だった。かぼちゃは特にまずかったが、それだけのおかずなので仕方なかった。
制服は、二本の白ジャバラ、素朴なリボン結びのセーラー服だった。病院のお嬢さんや、お姉さんが女学校の先輩にいてお下がりなどをもらえた人くらいしか着ていなかった。私は、姉手作りの簡単なもの。夏服は、やっとセーラー服を縫ってもらった。一着しかないので、夜洗って朝アイロンかけで乾かして、まだ湿っぽいものを着た。プリーツスカートは木綿生地しかなくて、毎晩寝押しをしても、駅までしかヒダが持たなかった。ズボンは布地不足で色の違うものを縫い足しており、母は晩年まで「可哀想だった」と言ったが、絣(かすり)のズボンの人もいたから意外と平気だった。
旭川の縁橋通りにヤミ市があり、そこで父と買い物をした。茶色の皮靴だった。半靴下もねだって買ってもらった。後に兄弟から、「浪子は父さんのメンコだ」と言われたが、毎日磨いて履いた。
千秋 米は極わずかしか配給がなく、代用食として麦、えん麦、芋、カボチャ、トーキビ、コーリャン、澱粉かす、アワ、イナキビなどを食べた。
岡本 私は高等科修了後、東中青年学校に入学しました。写真は昭和二十二年に撮影したもので、満十七歳のときのものです。
青年学校の先生は、東中小学校の先生が兼務していて、和裁や洋裁などを学びました。私の家は農家でしたから「早く農作業を終わらせて習いものに行こう」と、友達と申し合わせていました。秋になるとカボチャをよく食べていたので、皆んな顔から手から真っ黄にしてね。(カボチャを食べ過ぎると、黄色い色素が皮膚に沈着したため、肌の色が黄色くなった)(笑)
北越 今の子は、すぐ就職するでしょ。だから料理の作り方を知らない。マナ板、包丁のない家もあるとか。
村岡 それじゃ、お嫁さんにも行けないですよネ。
岡本 青年学校は、その後、途中から生徒がいなくなった。資格を取るためとか、技能のレベルアップのためなのか、旭川や札幌へ勉強に行ったりした。
掲載省略:(写真)「卒業證書」ではなく、昭和20年3月24日付の岡本(高木)ハツヱ氏の「修了證書」
掲載省略:(写真)青年学校の写真(昭和22年岡本ハツヱ氏17歳)
  二、卒業証書のない卒業
北越 終戦の時は、高等科二年生で、春、夏、秋はほとんど学校に行かず、家の手伝いをした。父が兵隊に行っていたため……。冬は美瑛の奥地(二股地区)御料地(明治期に北海道の未開の森林地区の一部が皇室管理地にされ、その後、民間への払い下げや北海道への移管などが行われたが、戦後まで残ったものは国有林となっている)から薪運びをしたり、屋根の雪落とし、何もない時だけ学校に行った。
昭和二十一年三月、終戦後で何もかもが大変だった。終戦の昭和二十年は大凶作で食べ物がない。そういうどさくさの時、俺達は卒業した。
昭和三十四年に農業をやめて、高橋建設で働き始めた。自分は土木の仕事だった。何年かすると、土木も今後、何でも免許の時代になるから、免許を取った方がいいという。それで申込書を見ると、「学校の卒業証明又は卒業証書の写しを添付」となっている。卒業証書はどこに行ったか分からないので、上富良野小学校へ相談に行った。小学校の事務長さんが、明治時代からの卒業証明書台帳を出してきた。ページをめくって居るうちに、北越の名前があった。事務長さんが頭をかしげている。そうすると、「北越さん、卒業証明書は出せない」と言う。証明欄には、「高等科第二学年の課程を修了したことを証明する」と、当時の校長の印が押してあるのでダメだとのこと。俺は何としても、卒業証明書が欲しいと言ったら、「卒業と修了はどう違うんだろう」ということになった。職員室には十五人ぐらいの先生が居たが、すぐ答えられる先生は一人もいなかった。事務長が書棚から辞典を出して来て調べた。その結果、「卒業というのは高等科二年の勉強を全部終了したこと」で、「修了というのは、勉強がまだ残っているので、落第してもう一年勉強をし直さなければならない」という。しかし、次の者が学年に上がってくる(進級してくるということ)ので、当時の生徒全員が「落第」ではどうにもならないので、とりあえず「修了」にして終わらせてしまったらしい。
二年生の時、教科書は先生が持つ一冊しかなく、生徒は紙と鉛筆だけ。勉強らしいことは何もしていない。通知箋は「優・良・可」の区分だったが、もらったのは「良」ばかり。先生はまともな授業をしていないので、出来るか出来ないかの判別も分からないので、全部「良」としたらしい。当たり前の話だ。結果として、事務長から修了証明書をもらって帰った。
その後、事務長が調べた結果、後にも先にも「修了」だったのは、昭和二十一年三月の同窓生だけだと言っていた。
いろいろな試験を受けたが、試験の中にローマ字、横文字が出てくる。A、B、Cとか……一つずつだと読めるけど、二個、三個と並ぶ用語になると、もう分からない。適当に書き置いたが、それでも何とか合格した。
それから色々な講習会や試験などに行き、十個ぐらいの免許や資格を取った。
  三、物不足と激しいインフレーション
岡田 とにかく甘いものがなかった。餅つきをしても砂糖が極端に不足していたので、塩あん入りの餅で、子供の私達には不評だった。ビートを煮詰めてあんこを作ったものもあったが、苦甘(にがあま)くて本物の甘さではなかった。
岡本 優しい甘いものがあったでしょ。何かわからなかったけど、ビート糖とは違うもので……。
成田 デンプン水アメのことかな。デンアメは美味しかった。
岡田 お金の価値が、どんどんなくなった。だから物々交換が行われていた。特に食糧不足が深刻で、都市部から、農村を回って衣類と交換して帰っていく人が来た。
当時の通貨(図参照)で、五銭や十銭の紙幣で買えたものは何もなかったように記憶している。物価高に通貨が対応できていなかったのだと思う。
政府は統制価格や配給制度を徹底的に実行することで、経済の安定を図ろうとしていたようだが、一般庶民の生活は大変苦しいものだった。
千秋 昭和二十年八月十五日、敗戦となったことで、二学期が始まると、先生の指示により(洗脳教育?)教科書に墨を塗り、読み取ることが出来ない様にする作業をしました。
庁立富良野中学校在学の夏休みには、口減らし?なのか、農家に預けられました。農作業の手伝いをし、食べさせて貰うということです。仕事の手伝い内容は、馬の飼葉(かいば)にする草刈り、小麦やえん麦の刈取り、亜麻引き、トーキビの根掻きなどで、種々体験が出来ました。
教育制度の改革で教員資格を持つ職員が足りず、高校卒業者を代用教員として採用、申請して仮免許で教壇に立つ高卒生が多数おりました。私は教員の資格を取るために、夏休みと冬休み中に、教育大学教授の認定講習を受けましたが、講習だけで教員の資格を取ることは困難と判断し、当時行われていた六大学の通信教育の中から、数学の免許が取れる玉川大学を選び九月九日に入学しました。
通信教育は、卒業するために夏休みの四十日間のスクーリングに参加することが条件のため、四年間参加しました。下宿生活をするのに、役場から外食券を貰い、下宿先に提出しなければ食事をすることが出来ないからでした。この制度は、昭和三十五年まで有ったと思います。
スクーリングでは、必修科目の英語・ドイツ語・生物学等(通信だけでは単位を取ることが出来ない)に悩まされながら学業に励みました。二年間で数学の免許を取るために必要な単位を取得し、三年生在学のまま短大卒の資格を得て、東京都教育委員会より数学二級免許状を取得することが出来ました。
おかげで、昭和三十二年四月より教諭として勤務することが出来ました。三十四年三月に玉川大学を卒業(数学一級免許)することが出来ました。この期間は、資格を取るための費用の援助として、上富良野町教育委員会から一単位につき三百円の助成をいただくことが出来て、大変助けられました。
その後、上川教育局から理科の免許を取ることが出来る講習会に応募し、日額旅費の支給も受けられる制度を利用して、四年間夏休みと冬休みに、札幌の理科センターに泊まり込みで講習を受けることが出来ました。講習は北海道大学教授の講演と理科センターでの実技研修で、取得済の数学の免許を基に、理科の二級免許状を取得することが出来ました。
北越 小学校生活の話に戻るが、冬になるとゴム長靴を履かなければならないが、その長靴が無い。それでクラスに五〜十足ぐらいが配給になった。この使用者は、先生が決めるのだけれど、学校までの距離が八〜十km位の人達が優先された。俺達は約四km位だから当らなかった。その時、ばあちゃんがツマゴ(藁で編み上げた雪中での履物)を作ってくれた。それに赤い毛布を切って足に丸めて、暖かい様にと履かせてくれた。とても暖かかった。農家の家では稲藁で、藁靴やツマゴを作るので、俺のほかにもそれを履いて学校に来ていた。
玄関でツマゴを脱ぐのが大変だったが、そのうちに校長先生の話で、ツマゴを履いてきた者は玄関で雪だけ落として教室まで入ってよいということになり、玄関から直接廊下を経て二階の教室まで行けた。
石炭ストーブの側に火棚(囲炉裏やストーブの側や上部に設置する木組み格子や棚)があり、その中に皆んながごはん、代用食のイモ、カボチャ、えん麦飯、小麦飯などの弁当を入れた。その近くにはツマゴも掛けた。帰る時は、ツマゴを履いて廊下を悠々と歩いて玄関まで来る。途中、女子生徒から「カッコいい」という声が聞こえた。
習字はしなかった。肝心の墨、すずり、筆、半紙が、どこへ行っても手に入らないので、習字をしないというより、出来なかったんだ。
絵を描くにも、画用紙、絵の具、色鉛筆なども無かった。
掲載省略:(写真) 終戦間もない頃の通貨〜紙幣には発行日がないが、貨幣には昭和21年〜24年発行となっている
  四、戦後の民主主義教育について
成田 高等科二年で小学校を卒業して、旭川工業高校に四年間通った。
在学中にクロカン(クロスカントリースキー:走るスキー)をしていたので、体力作りのため夏はグランドで走っていた。それで走るのが速くなったんだと思う。その外に、やり投げ、砲丸投げ、走り幅跳び、円盤投げまでやっていたからね。
昭和二十五年三月卒業後、富良野の日本通運支店に就職していたが、翌年、美瑛営業所に転勤した。上富良野町役場から社会教育をやってみないかと声をかけられたので、日通を依願退職して、昭和二十七年十一月に上富良野町教育委員会に就職した。
百m走で、十一秒三の記録を持っている。町内ではまだ、この記録は破られていないのではないかなと思う。
教育委員会に入ると、青年団などにフォークダンス、スクエアダンスなど、アメリカから入ってきた曲で教えていた。
村岡 連合青年団主催の全町青年団陸上競技大会はとても盛大でしたね。草分青年団は緑色、中央青年団は赤パンツなど、全町の青年団が、対抗心を燃やして競った大運動会でした。
岡田 大会プログラムの午前の最後だったと思うが、若い青年男女がスクエアダンスを踊る。その光景は小学生の私にとって強烈な印象でした。特に、女子青年は、赤や青、黄などの原色のスカートで舞い、パーマのかかった髪をなびかせての姿は、希望に満ちた日本の再出発を感じたものでした。
戦後教育の特徴は、男女共学になったこと、義務教育が九年間になったこと、それに生活単元学習になったことだと思う。暮らし良い生活への改善や生活経験を重視した授業のやり方は、学習意欲を喚起するものでした。小学六年生の社会科や理科の授業は、子どもの自主性を伸ばすべく、自分で調べたことを教室の前へ出て発表し、その後、質問にも答えるというものであり、今の総合学習の時間と似たものでした。
中学生になると、月一回ぐらいだったと思うが、映画鑑賞の時間が、午後に上富良野劇場であった。「山びこ学校」や戦争孤児を扱った「ヨーロッパのどこかで」が印象深く残っている。特に、この映画のバック曲が「エリーゼのために」だったからかも。
アメリカから入ってきた新しい教育が急速に広まったことの一つに、大正デモクラシー(日本で概ね大正年間に起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称)の素地があったからではないかと思う。
掲載省略:(写真) 全町青年団陸上競技大会において100m走新記録11秒3で優勝の成田氏
◇あとがき
 戦中、戦後に上富良野で経験したことを、座談会形式で語っていただきました。出席者からは、このことを是非とも後世に伝えていってほしいということでした。
 なお、座談会中の発言は、一部を整理項目別に並べ替えを行っています。
 語り尽くせなかったこと、また、読者の方で後世に伝えてほしい体験談等がありましたら、郷土をさぐる会事務局までお寄せください。お待ちしております。(執筆担当兼郷土をさぐる会副会長岡田記)
−資料−
大日本帝国憲法(明治憲法)抜粋    明治二十二年二月十一日発布
第一条  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条  天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条  天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ(以下省略:総攬[そうらん]とは全て掌握すること)
第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(統帥[とうすい]とは支配下に置いて指揮・統率すること)

東中小学校の奉安殿は校門の近くに設置され、この前を通る時には、帽子をとり「最敬礼」をしなければならなかった。
当時、日本は神国であり、天皇は「神」であるとされていた。
掲載省略: (写真)東中尋常高等小学校全景と紀元2600年(昭和15[1940]年)造営の東中小学校奉安殿〜瓦屋根、石造りの耐火構造のものであり、現在東中住民会が保存している木造のものではない。

機関誌      郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷      2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀