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『大正十五年十勝岳大爆発録写真集』の撮影場所

三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十八歳)

  書誌
 十勝岳の大正噴火から九十年経った平成二十八年、上富良野町では節目の年であることから、各種の行事が行われた。大正噴火が発生した時、災害の状況を写した学術的に貴重な写真などが数多く残されており、これらの写真を基に発刊された『大正十五年十勝岳大爆発記録写真集』の増刷版が発行された年でもある。
 最初の発行は、昭和五十五年で、平成五年増刷になり、平成二十八年再々版の増刷発行となった。
 『大正十五年十勝岳大爆発記録写真集』の書誌は次のようになる。
企画編集  上富良野町郷土館
発 行 者  上富良野町
発 行 日  昭和五十五年三月二十五日(初刷)
定  価  千円
判  型  B判角十二切(縦二三・七センチメートル、横二五・五センチメートル)平綴じ。
      とびら一頁、序一頁、目次一頁、中とびら一頁、本文三頁、奥付一頁、写真・一五五枚、略図(十勝岳爆発泥流分布囲)一頁、以上の総頁数八四頁。
増  刷  平成五年七月三十日(第二刷)
      平成二十八年五月三十一日(第三刷)
レイアウト 土井義雄デザイン事務所
 この書籍の書誌は、以上のとおりである。

 この書籍の判型が書物の規格に無い形状から、土井義雄デザイン事務所に尋ねたところ、企画の段階でこのような形の本があり、形状が面白いので書棚に置いても目立つと思い、参考にしたことを教えてもらった。
  撮影場所の今昔
 現在、北海道大学理学部有珠火山観測所で北海道内の火山について、研究活動をしている大島准教授が、写真集の撮影場所は今どうなっているか、地形などをよく知っている地元の人にしかできないことなので、対比すると面白いので調べてみてはと勧められました。
 興味がわき、写真撮影の楽しさと謎解きが脳を刺激すると思い、場所探しへの挑戦を決めました。調べはじめてわかったことは、地形、地物が九十年経つと、立木が伸びたり木が茂ったり、街並が広がり、建物の形が変わったり、全く見当が付かなくて判断に苦しんだものもあった。
 調べはじめてわかったことは、鉄道線路の不通区間が二か所あること。『憩いの檎』の木が泥流の中に取り残されていること。写真に写った文字で分かったのだが、裏焼き写真があること。郷土館の資料に鮮明な写真があること。写真集に使われていなくて判断に結びつく糸口となる写真が郷土館の資料にあった。対比の判断にとても役立った。
 大正噴火当時の国土地理院発行の地形図と写真を見比べて地形の特徴が分かったこと。泥流がどのように流れたか、地形図から読み取れること。泥流を体験した証言と体験記が郷土をさぐる誌などに残っており、それらを照らし合わせると興味のわく事実がわかってきた。誤った捉え方をしているかもしれないが、これらについて分かったことを書き出してみることにする。
  鉄道線路の写真
 『十勝岳爆発災害志』を読み解くと題して、『郷土をさぐる』(第三十号)に、鉄道線路の不通区間は深山峠下の西三線北三十号付近から日の出青年倶楽部の近く、西一線北二十七号付近の間と書いた。位置関係が判然としていなかったが、推定の域を出ないが、線路の流された写真と泥流の目撃証言から、西一線北二十七号付近はコルコニウシユベツ川に架かる鉄橋の位置と考えることができる。
 平坦な線路の道床に鉄橋の写った下の写真でそれがわかる。従って、『郷土をさぐる』(第三十号)の中の絵葉書の線路の扇型反転写真の説明文で「日の出青年倶楽部附近と推定」としていたが、事実は異なっていた。

掲載省略:(写真) 掲載省略:(写真)
掲載省略:(写真)西3線北30号鉄道官舎附近の線路

 『郷土をさぐる』(第一号)に田村嘉市さんの体験記がある。田村さんは日新から草分地区に流下した泥流で、篠原貞一郎宅と忠吉宅の二軒が流され、篠原さんが逃げてきたので、一緒に西三線から山の方へ登りかけた時泥流に巻き込まれ、流木に乗って西に流されたが立野さんの所で線路が築堤の役割をして水勢が衰えて止まったので、丸太伝いに渡って逃げ、一命を取り留めた。三十号の鉄道官舎に辿り着き、家の中にあった着物を借用して身支度を整え、近くの吉澤さん宅で一夜を明かしたと書いている。
 深山峠下の西三線北三十号付近とは、鉄道官舎のあった位置になり、下の写真で判断することができる。官舎は丘の斜面に建っていて泥流の被害を受けなかった。鉄道線路は写真左方向、十勝岳からの泥流の圧力に押し流されて、線路は蛇行したようになり残骸と泥土に覆われた。
  扇型に破壊された線路の写真
 大正泥流の破壊力を示す特徴的な写真がある。泥流の勢いで鉄道のレールが枕木ごと扇型にめくれている写真で、火山関係の文献などにも掲載されている。

掲載省略:(写真) 旭川方面からの扇形破壊写真、画面右後方は富良野川鉄橋

 上富良野駅の方から旭川方向を写した写真で、よく見ると、道床が盛土されているのか、泥流が氾濫して堆積した位置より、線路は高い位置に存在するのに気付いた。上富良野方向からの写真とは別の、旭川方向から撮影した写真と動画の映像が郷土館に残されていることが分かった。見学者が鑑賞できる記録映像である。郷土館の収蔵写真に、扇型に破壊された線路が、線路の右側と左側から撮影されている写真もあることが分かった。

掲載省略:(写真) 富良野川鉄橋の盛土と石組み構造(郷土館収蔵記録映像から)

 線路の道床が、盛土されて周囲より高いのが、当時の地形図で国鉄富良野線北二十八号踏切から旭川方向に高くなっているのが判断できる。平地にわざわざ盛土をしたのは、富良野川を渡るための鉄橋をかけるためと分かった。線路が扇型に破壊された地点は、清野ティさん(旧姓吉田)が証言している言葉の中に「線路の向こう側から泥流が溢れて、水の勢いで線路は反転した」とあることから、吉田村長の自宅付近で線路が反転したようである。線路の反転は、始まりはどこで、停まったのはどこか考えると、解決のヒントは線路の反転写真にあることが分かった。線路の反転写真は、富良野川鉄橋から旭川方向に進んだ地点で撮影されていて吉田宅が画面の奥に写っている。このことから、富良野川鉄橋を過ぎた地点で線路の反転が始まり、北三十号付近、鉄道官舎近くまで線路が破壊されたのである。大正噴火の火山泥流を強烈に印象付ける、線路が反転した扇型の写真として撮影されている。また、郷土館の記録映像の中には、富良野川鉄橋と旭川の方向から写した反転の映像があり、富良野川鉄橋が泥流に流されず残っているのがわかり、泥流の圧力が、この地点で富良野川の鉄橋の下を流れて影響が少なかったと思われる。
 線路の道床は、ここで堤防の役割を果たし、泥流は道床を超えて鉄道から三重団体の西地区と北二十八号の踏切方向に二分されて流れ下ったと推定できる。当時の道床の高さがどのくらいあったのか解れば、泥流を止める参考になると考えられる。しかも鉄橋の部分で泥流が通り抜けたと思われ、水の勢いが分散されて道床と鉄橋が被害に遭わず残ったものと考えられる。
  『憩いの楡』の写真
 鉄橋と線路の扇型反転場所の写真で気付いたことがある。セピア色をした郷土館の収蔵写真に、『憩いの楡』の木が写っている写真があり、考えをめぐらすと、水田の周りに立木があると日陰ができることから、米作に影響があることで高い木は伐採されるが、入植当時の苦労をしのぶ、地域のシンボルとして『憩いの楡』の木が残っていたことが分かる。

掲載省略:(写真) 写真中央の泥流の中に立つ『憩いの楡』

 国土地理院の地形図には、鉄橋の付近で富良野川沿いに道があり、線路の東側から小学校に通うため、近道としていたと思われる踏み分け道が線路を横断している。この道がなければ、北二十八号踏切と国道の踏切に回ると遠回りになるので、踏み分け道ができたと思われる。しかもこの踏み分け道は、三重団体の一行が、富良野川のほとり『憩いの楡』の木のそばで入植第一夜を明かした場所を通っている。現在、『憩いの楡』の碑が建っているところで、地形図と写真の位置関係を考え合わせると一致するので、地域の記念樹として残されていたようである。その後、泥流の影響で立ち枯れたという記録がある。

掲載省略:(写真) 地形図と線路を横断する踏み分け道

泥流被害聞取り図(部分):その1(北海道旧旭川土木現業所作成)
憩の楡と踏み分け道・鉄橋・北28号踏切、専誠寺・農産物検査場の位置が分かる。
  線路沿いに市街地方向へ流れた泥流
 線路の道床に沿って、低地の北二十八号踏切に向った泥流は、星野春治さんの「二十八号のところ、せまいから水が線路の方へ無理に押したからここで線路は切れて流れた。
 自宅前の鉄道線路のレールと電柱が流されて線路の盛土は残った」という証言と高田コウさんの「当日線路の東側で水田の代掻きをしていたが、降雨が激しく、家に戻ろうとした時、噴火の轟音を聞いた。家に残した子供を案じて急いで家に戻った。家に着いてすぐ全員が泥流をかぶり押し流された。夫の兄に流れる泥流から助け上げられ、近くの仲川源四郎宅に連れて行かれた。近くの専誠寺の住職夫妻は、流木や泥土の流れ込んだお寺で泥まみれになって一夜を明かした」との証言から、富良野川の鉄橋を過ぎて線路の道床は徐々に下り勾配になるが、北二十八号踏切の辺りは周辺より高かった。

掲載省略:(写真) 北28号踏切付近の地形図

泥流被害聞取り図(部分):その2(北海道旧旭川土木現業所作成)
憩の楡と踏分け道・吉田村長宅・鉄道官舎・田村宅の位置が分かる。郷土をさぐる第1号の田村嘉市さん体験証言、郷土をさぐる
第14号の高橋代二さん体験証言、郷土をさぐる第20号の清野ていさんの体験証言に出てくる北30号道路沿いの家並みが分かる。

 のちに、客土工事の土取場となった粘土山(子供たちの間の遊び場の通称名)が線路沿いに面して小高い丘になっていた。このため、線路と丘によって作られた狭隘部で、泥流は線路を流した。高田秀雄さんの証言「住宅は壊れないまま流され、専誠寺の所で壊れた」。泥流の勢いで、線路は北二十八号踏切から西方の専誠寺方向へ流された。線路から当時の専誠寺があったところまでは百五十メートルくらい。泥流は専誠寺の本堂に向けて線路を押流し、高田宅の建物を巻き込み流れ下った。線路は枕木の付いたまま、巻き込まれた高田宅の住宅と共に本堂の前にあった建物の所まで流されて止まった。

掲載省略:(写真) 枕木と流出建物専誠寺本堂(当時草分に所在)附近

専誠寺の現住職に教えてもらったところ、泥流の水は本堂を通り抜けて裏の富良野川に向かった。寺の本堂は柱が太く、泥流は開口部を通り抜けたので本堂は流れなかったようである。避難してきた近所の夫婦と住職夫妻が本堂に畳を重ねて座り、一夜を明かしたことと本堂が流れなかったことについて、助かった近所の夫婦から聞かされている。
 『大正十五年十勝岳大爆発記録写真集』に「泥海の中に孤立した農家」の写真があるが、専誠寺と推定できる。本堂と思われる建物の前に、流されてきた座屈した建物と枕木の付いた線路がある。専誠寺の近所には、泥流で流出した四、五軒の建物があったので、写真の専誠寺前に流れ着いた建物は泥流の直撃を受けた高田宅と思われる。国土地理院の地形図を見ると、北二十八号踏切周囲の狭隘部と粘土山の位置、専誠寺周辺の位置関係が詳しくわかる。国道の道筋と富来橋は河川改修が行われたので、現在の位置と異なっている。郷土館に、客土工事の終了後、専誠寺の横に試験水田と土壌試験地が設けられた収蔵写真がある。

掲載省略:(写真) 試験水田と土壌試験地(当時草分所在の旧専誠寺横)
  日の出地区へ流れた泥流
 狭隘部を抜けた泥流は北二十七号踏切から日の出地区の低地を流れるコルコニウシュベツ川に向けて進んだ。
 『十勝岳爆発災害志』によると、北二十七号踏切の近くに建っていた日の出青年会倶楽部の建物が全壊として記録され、線路を越えることができなかった大木は、日の出地区を流れるコルコニウシュベツ川周辺に流れ着き、泥流はここから下流の低地方向に向きを変え、市街地近くにも広がった。写真集と郷土館の収蔵写真に、流れ着いた大木と川ざらいの写真がある。この写真は、線路の道床から写したと思われ、後方に市街地の外れの街並と金星橋付近の国道と推定できる光景が写っている。

掲載省略:(写真) 線路下流の川ざらい

 写真集には、集積した流木の上から撮影した、北二十七号踏切近くの杉山芳太郎さん所有地の集積した流木の写真が掲載されている。背景に基線道路沿いの家々と現在の日の出公園となっている田中山が写っている。
 人物は、杉山さん兄弟と家族で、泥流が引いた後の流木処理を知るうえで貴重な写真と言える。

掲載省略:(写真) 杉山芳太郎所有地の流木集積
  日新地区の捜索
 写真集に、富良野川沿いに山間の狭隘部を抜けた泥流が通過した、現在の日新公民館分館付近の捜索隊の写真がある。
 日新公民館分館付近と判断したのは、写真の背景に、特徴的な山並みがあり、日新神社のある山と判断できた。
 『十勝岳爆発災害志』によると、噴火の翌日、二十五日には本格的に組織だった災害対策が始まり、近郊の町村と上富良野の住民により災害救護隊が編成された記録がある。捜索開始前に救護隊の一隊約二十名の人員が整列した写真の背景の山の形から、日新公民館分館付近と判断できる。次の写真は背景に日新神社の山が写っていることから、日新ダムに至る道道の道筋沿いの同じ場所で撮影したと判断できる。

掲載省略:(写真) 現日新公民館附近の捜索隊、救護隊の特徴ある服装
掲載省略:(写真) 現日新公民館附近、中央奥には日新神社のある山
  捜索従事者の服装

 写真集の中の写真に共通するが、救護に従事した人々の服装が、大正期のファッションを物語る特徴的な服装である。マタギ、炭焼き、木こりなどの伝統的な山仕事に従事する服装の特徴であることが分かる。半纏・腹掛・股引(ももひき)。手甲・脚絆、足袋に草鞋(わらじ)。
菅笠、背負子(しょいこ)、着茣蓙(きござ)。蓑(みの)・着物に麦わら帽子。鳶口や金剛杖を携帯した装束である。ほとんどの人は鳶口を持ち、捜索と救護に適した道具持参で集まったことがわかる。

掲載省略:(写真) 駅前の捜索隊、特徴的な服装で集合
掲載省略:(写真) 聞信寺境内に集まった捜索隊

 山岳書には、「着茣蓙(きござ)は最も簡便で、単なる雨具のみならず、晴天の際は日よけとなり、寒い時は防寒具となり休息又は食事の時には敷物として使い、使用しないときは巻いて背負うのでこれほど便利なものはない」と書かれている。
  再版された写真集
 大正噴火から九十年の節目となった平成二十八年に写真集の再々版が発刊された。犠牲者の写真が掲載されているが、掲載を自粛してはと思った。子供の眼に触れるし成人でもトラウマが生じ、心的ストレスとして意識の底に障害が残ることも考えられる。消防職員として勤務していたとき経験しているが、火災による焼死者が出た時、犠牲者の写真を記録として撮影する。一人で撮影から暗室での現像までこなすのはとても過酷でした。安置されている遺体の撮影、写し終わって、フィルムの感光を防ぐため、真っ暗な暗室でカメラからフィルムを取り出し、現像タンクに入れて、温度管理しながら現像。
 定着を終わって水洗い、乾燥後、フィルムを印画紙にプリント、暗室の薄暗い電球の下、現像機にフィルムをセット、投影して構図とピントを合わせてから、電気を消し、印画紙に画像を投影。現像液に潰けてから既定の秒数経過後、定着液に素早く漬ける、印画紙に映像が徐々に現われてきます。この後、水洗いと乾燥を経て写真が完成。現像液と定着液の混じった化学薬品の臭いが、焼死体のニオイを思い出させる暗闇の中で、一連の作業を行うのです。目を覆う悲惨な遺体の映像は死者の尊厳を保つため、掲載を自重したほうが良いと感じた。
  平成二十八年度文化祭特別展示
 大正噴火写真集の撮影場所を新旧対比のため、町内を回って、特定できた場所の写真を写したことを公民館で話したところ、大正噴火から九十年になる平成二十八年度の郷土館特別展示に使わせてほしいと頼まれて快諾した。噴火災害のもたらす社会的な影響を町民に理解してもらう良い機会になり、防災への関心が高まることを願った。

機関誌      郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷      2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀