郷土をさぐる会トップページ     第35号目次

後世に語り継ぐ事業シリーズ
「継続こそ力」菅野 學の人生観

執  筆 田中 正人
取材協力 本田 邦光
取材協力 野尻巳知雄

                                                       (敬称略)
  生い立ち
 菅野家の取材でまず驚かされたのは、元郷土をさぐる会の菅野稔会長や、その伯父に当たる菅野弘彌さんの手によって調べられた家系図がほぼ出来上がっていた事です。
 菅野稔会長が平成二十八年八月十九日に亡くなり、子息の秀一さんが未完成ながら法要の席でこれを配布し、不足の系図を聞き取る為の資料として目にしたのが取材の始まりであった。
 一六二四(寛永元)年の善ヱ門までさかのぼって調査されたことに敬服するばかりである。

 菅野家の直系図は文末で紹介する事として、菅野學の足跡を追うことにする。
 大正二年、先代の菅野忠蔵は宮城県登米郡豊里町仲町より先に来ていた豊里団体員である小野寺長三郎を頼って来道した。津郷農場の西十二線北三十六号に入植し、家族一塊りとなって暮らした。
 鉄道は走っていたが美馬牛にまだ駅はなく、大正十五年九月五日にようやく駅が出来た。それでも畑は結構拓かれていた。
 大正十二年、善六の三男善作(學の父)は親戚の小野寺長三郎が出ていった跡を買い受け、上富良野村西十二線北三十六号にて結婚分家独立した。美馬牛駅の近くには長屋が建ち並び、良い水も湧きだしていた。
 翌年大正十三年一月十五日、長男學が誕生した。
 學の幼少期の事柄は、郷土をさぐる三十三号に氏が執筆した「エホロカンベツ川の畔で」に里仁豊里地区で伸び伸びと幼少期を過ごした事が生き生きと描写されておりここでは省略する。
 大正十四年、火事に遭い住宅は全焼した。入植で持ってきた財産は全部灰となった。
 六人兄姉で、長男學、次男稔、長女みね子、次女とみえ、三男大和、三女雪江と共に暮らした。
 昭和十一年三月學(十二歳)は、尋常小高等科を卒業後、両親の手伝いをして、畑作物を中心に乳牛を育て、農業に従事した。冬期間は毎年造材作業の出稼ぎをした。

  里仁国民学校代用教員
 大正四年、この地域に学校が出来たとき、時の塙浩気村長が中国の思想家孔子のことばを引用して「里仁」と名付け、これより地区名が定着していった。
 太平洋戦争中の先生不足の時代、里仁国民学校も先生の補充が出来ず困っていた。
 女の先生が講習に行って不在となるため、熊谷二三男校長先生から代用教員をお願いされた。
 父の善作も、熊谷校長が従兄弟の菅野弘彌の母の弟で親戚筋に当たることもあり、「学校が困っているとの事だから手伝って上げなさい」と言われたので、昭和十八年十月から腰掛けであったが採用となり、複々式で一、三、四年生を教えた。
 教室は三教室でそれぞれ三十人ぐらいの児童がいて結構にぎわっていた。
 行政区域としては美瑛村の美馬牛には、駅の近くにまだ学校がなかったのでそこから通って来る者もいた。体育館はなく、夏は外の運動場で、雨の日や冬は教室か廊下が遊び場となっていた。
 翌年の三月末日迄、代用教員を務めた。引き続き務める様に要請されたが、春から農家をすると固辞した。六カ月の短い期間であったが十九歳での貴重な体験をした。

 注:一九一〇(明治四三)年、美馬牛特別教授場として小学校は開設、村第三簡易教育所を経て一九一五(大正四)年に里仁尋常小学校となった。
  戦時体験より
(一)満洲鶴岡七二八部隊
 野尻巳知雄(郷土をさぐる編集員)の聞き取り取材によって、菅野學氏が今まで封印していた戦時体験を語る貴重な証言等が残されている。
 學は代用教員を務めた後、昭和十九年九月二十日、二十歳で徴兵検査を受け合格した。
 現役兵として北海道旭川四部隊二十八連隊へ入隊した。農家の跡取りである長男は兵役免除の風潮もあったが、戦況が悪化するに従って、無差別徴集となっていった。
 ソ連軍に対する侵攻防衛の拠点とされる黒竜江省東北部の佳木斯(じゃむす)にほど近い、満洲ジャムス地区の鶴岡七二八部隊に歩兵として配属された。
 通称の呼び名が「なにわ部隊」で愛着を持って接していた。島津地区の北野哲二、日の出地区の二瓶諭とは同期入隊である。
 ここで警備や演習の日々を送り、軽機関銃の名射手としてメキメキ腕を上げ、検閲官や中隊長からも褒められた。
 ある日の夜。眠りについた折り、仲間同士が「軽機関銃のうまい菅野は戦いの先頭に配置され一番先に死ぬ」とのささやきに、最前線での任務が、常に危険にさらされている事を肌で感じ取った。
(二)憲兵として
 二十一歳の年。一九四五(昭和二十)年、関東軍新京の憲兵研修隊を志願し、憲兵学校に入学した。
 戦友の北野らとは原隊を離れたため別行動をとる事となった。
 勉強に明け暮れる毎日で、軍事訓練や演習は免除される事もあり勉強する事が楽しく、四十八名程の志願者の内、学校に入った者から六名ほどしか合格者が出ず、難関を突破し憲兵となることが出来た。
 憲兵だけは軍の統率の為、常に武器の携行を許されていた。
 憲兵となって間もなくの昭和二十年八月六日に広島、三日後の九日には長崎へと相次いで新型爆弾(原子爆弾)が投下され、戦局は大きく変化して八月十五日、日本は終戦を迎えた。
 終戦間際にソビエトが侵攻してきた。私たちの処へは中支を経由して、徒歩で三ケ月かけて行軍してきた部隊が来た。まるで日本が負けることを知っているような進軍であった。
 私は、地図に描かれた、四平街で憲兵として配属され任務に当たっていた。ここで武器等は取り上げられ集めて燃やされた。武装解除となった瞬間であった。

掲載省略:(図)新京特別市地図
掲載省略:(図)新京・四平街周辺地図

 一九〇五(明治三十八)年、日露戦争中の旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されたことで有名な、遼寧省大連市旅順の水師営(すいしえい)会見所で、停戦協定はここ四平街(しへいがい)で結ばれた。
 三個連隊あった部隊のそれぞれの軍旗を燃やし投降した。
 後に作家となる司馬遼太郎も四平にいて、昭和十九年満州四平街陸軍戦車学校に入校し十二月に卒業。戦車学校では文系出身であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。
 戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。司馬は卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属され、昭和二十年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えている。
 その一方で私の方(菅野)は、食料など莫大な荷物を持たされ苦労した。川を下って日本に帰れるものと信じていたが、道中は長く乗り換えに時間もかかり、どうせ日本に帰るのに、こんなに多く食料など必要ないと思い、荷物を途中で放り出して処分。身軽にしながらシベリア領チタ地区に着いた。
 ソビエトの国土は戦で荒廃しており、後で知った事だが、新聞にある通り、ソビエトの国策に沿って国を建て直すために、捕虜として我々が必要であったのだ。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。
ソビエトからは、三ケ月の食料を持参して収容所に行くよう指示があった様だが、着いた時はわずかな食料しかない状態で後の祭り。これよりさらに過酷で大変な思いをする。

掲載省略:(新聞)平成4年6月3日付讀賣新聞記事
(三)シベリア抑留
 作業大隊を専門とする収容所に配属された。ここで伐採作業に従事した。二人一組となり、丸太を切り貨車積みをさせられた。
 ノルマを達成するまで毎日作業は続けられた。日も短く、冬はマイナス三十℃が目安でマイナス三十五℃以上となると仕事は休みとなった。マイナス四十℃になった時もあった。
 収容所は半地下となっていて、屋根には土をかぶせた穴蔵状態の収容所に、伐採した松の木の根をさん積みにして燃やし、灯りと暖を取った。
 薄暗かったが暖かく、中には裸姿の者もいた。煙が充満して皆松ヤ二の煙に燻(いぶ)され、真っ黒な顔をして、一酸化炭素が充満して中毒でゴロゴロ亡くなった。
 ソ連には食料も少なく馬鈴薯、皮付きのコーリャン等を食べて暮らした。栄養失調に加え、シラミや、疥癬虫(かいせんちゅう)と呼ばれるダニが皮膚に寄生し、感染症も発生。千人程収容所にいた一個大隊のうち一酸化中毒とあわせて三分の一程が死んだ。
 その後半年ぐらいで、立派な新しい収容所が出来てからは亡くなるものも少なくなり環境が激変した。
 抑留中は伐採の他に石炭も掘った。最後は鉄道の客車や町の中の道路も作った。
 若い初年兵を選抜して、マルクス、レーニン主義、いわゆる共産主義を勉強させ(押しつけ)られ、三ヵ月間教育を受けた。部隊は委員会組織となり、作業の運営はだんだん日本人に任される様になって行った。
 収容所では軍律厳しく軍隊の階級が生きており、上官の軍曹、曹長がいて古参兵ばかりで、初年兵の私はただただこき使われるだけであった。本当にひどい状況であった。

掲載省略:(新聞)平成21年7月24日北海道新聞記事
(四)シベリアより帰国
 二十四年五月初旬ころから待ちに待った帰還が始まった。体力のない者から先に帰された。しかし、情報は全く我々に入らず、上層部の者はいつの間にか皆帰ってしまう。
 憲兵と言う事で戦争責任が重いと言う判断と、比較的に健康である事から初年兵の私はなかなか帰してもらえず取り残された状態にあり、私が帰るときは殆どが残っていない状態であった。
 舞鶴港に入港し帰国したのは最終となる昭和二十四年(二十五歳)の事であった。
 余談であるが、學と同期入隊である島津地区の北野哲二は一年前の昭和二十三年に帰国。本誌第二六号の「風化するシベリア抑留」で紹介し、生死を共にした戦友の丸尾俊介は、哲二と再会した後二〇〇八(平成二十)年没。その時同伴した娘の丸尾めぐみ(歌手)は、哲二が帰国時身につけていた脚絆、水筒、飯盒、外套を大切に保管していることに感動し、盛んに写真を撮っていた。
 めぐみの父俊介も又、抑留者の一人で「語りかけるシベリア〜一つの抑留体験から」を著している。
 すでに戦争が終わっているのに、何年もの間日本に帰れなかったその現実と苦悩は、戦争体験のない私たちには想像を絶するものと考えた娘の丸尾めぐみは、戦争のない平和活動の手助けになればと、北野哲二が身につけていた外套や飯盒等をCDのジャケットに使用して「DOMOY〜ダモイ」を制作した。
 「ダモイ」は、シベリアに抑留された人々の日本への帰国をさす言葉として使われたロシア語で、「帰国・帰還」という意味である。

掲載省略:(写真)CDジャケット「DOMOY〜ダモイ」

 さて、學が帰国したこの頃、父の善作は、昭和二十三年に設立された上富良野村農業共済組合の理事を引き受けていた。
 家畜共済と、農作物の共済については米、麦に限定されていたが、道内における農業共済組合設立認可の第一号でもあった。組合は創立当初から家畜診療所を設立し運営していた。
 農協役員としては昭和二十三年〜三十五年まで四期理事職に有り、三十年から四年間は村会議員としてその要職にあった。
 そんな父の背中を眺め、農業をしながら、戦争の不条理な事を考えながら、心の傷を癒していた。
 引き上げて来た者は公職追放の対象とされ、共産主義を学んだ事で公安警察からマークされもした。
 結婚は昭和二十七年四月三日で、中富良野村旭中の逵和子を妻とした。
 昭和二十九年里仁小学校同窓会長(三十歳)となり、我が子等の成長を見守る幸せな時間を満喫した。
(ここまでは聞き取りを文章化した)
  上富良野農協青年部活動
 昭和五十六年、農協青年部三十周年の記念事業が行われた。この時の農協組合長理事が菅野學であった。
 記念誌に祝辞が寄せられ文章には、氏の若き日を懐古した一文が寄せられている。
 「今を去ること三十年前、戦後の荒廃した農村の再建と火災の為に財産の大部分を失って、存亡の岐路にたつ農協を守るため、協同組合主義思想に若い情熱を燃焼させながら農協青年部設立に奔走した当時を回想し、無量の感を深めている次第であります。古い木造事務所の二階で一五〇名に及ぶ同志を集めての設立総会は、農村青年の溢れるばかりの熱気の中で極めて盛会であった。
 以来三十年、組織活動の盛衰をくりかえしながら今日に至りましたが、多くの若い仲間達と共に歩いて来た道のりはまことに容易なものではなかったと思い、部員各位のご努力とご苦労に心から感謝と敬意を表する次第であります」と振り返っている。
  ◇  ◇  ◇
 戦前における農村青年運動として、産業組合を拠点とし、同志結合して農業農民の共存、共栄に根ざした自主的実践団体としての産業組合青年連盟「産青連」があった。
 大正三年二月十日に産業組合が設立され、農村経済の拠りどころとして活動を行っていたが、産組運動の発展につれて全国的な反産業組合運動も活発となり、一方において農村は昭和五年農産物価格の大暴落があり、豊作貧乏につづく六年、七年の凶作、政局の不安と不景気は、農村の窮之を更に高め、この危機に辛苦する農村の姿を見るにしのびず、産業組合主義、経済の確立によって農村を防衛しようと、上富良野においても昭和六年二月十一日、盟友七十八名を以って創立結成がなされ、「産業組合青年連盟上富良野郷愛会」が誕生した。
 数多くの青年達が組合運動に参加し、若々しい情熱を組合運動に燃えたぎらせ、困難な状態に置かれた組合運営と農村防衛に邁進し、昭和十二年・十四年には、和田松ヱ門が上川産青連の副理事長、そして理事長へと進み、道経連常任理事、全国連合会代議員へと幅広い活動を続け、戦後農民運動の指導者となった。
 国は戦時体制に入り、国家総動員を要する時代となり、昭和十五年十二月二十二日上川産青連は解散。続いて昭和十六年一月二十日上富良野産青連も解散した。
 時代は、戦争という大きなエネルギー消費の姿に代り、産青連の活動も姿を変えて大政翼賛会となり、戦い終って敗戦の混乱の中に農民同盟と生れ変り、こうした背景の中にありながら、連合軍より出された「農民解放指令」がきっかけとなって、戦後の農業民主化の一環として農業協同組合が作られる事になった。
 こうした協同組合設立の背景にあって、農村の食糧難による一時的な好景気も、戦後の復興と生産の増加に伴って農家に対するシワ寄せが始まり、農村経済を無視した経済安定政策の強行により農家に対する重税は農村に大きな混乱をまき起した。こうした社会情勢の中で、農民は精神的な拠りどころを農協に求め、農民の自主的再建を叫(さけ)び、各地において色々な形の農民組織が結成されるに至った。
 本町に於いては、特に大正十五年の十勝岳噴火に次ぎ昭和二十四年に農協が大火災の大災難に遭遇したが、「石川清一組合長を中心に組合員一丸となって良くこの復興に努め再建に当るも当時の世相を真正面に受け、農協運営には極度の苦心をされた」とある。
 更に昭和二十六年四月、経済は統制から自由へと移行し、経済情勢の急変にともなって農協経済も不振の一途を辿り、この現実を見せつけられた青年同志は、今こそ農協運動の中に自らの生活の安定と向上を求めて農協を盛り立てる事が農村繁栄の近道であり、農村の民主化を図るべく農協運動の前衛隊になろうとの意気込みと認識の上に立って、農協青年部を設立すべく昭和二十六年八月二日、青年有志百八十名の参加を以って上富良野農協青年部の設立を見た。
上富良野歴代青年部長(出身地区)
年度 氏名(地区)    年度 氏名(地区)    年度 氏名(地区)
S26 多田 武雄(旭 野) S43 石川 洋次(日の出) S60 西村 昭教(島 津)
S27 菅野  學(里 仁) S44 細川  恵(島 津) S61 四釜 芳之(里 仁)
S28 菅野  學(里 仁) S45 久野 祐敬(日の出) S62 島田 繁信(東 中)
S29 渡辺 徳市(江 花) S46 及川 一男(島 津) S63 赤石沢利光(日の出)
S30 岩崎 才雄(草 分) S47 仲川 正治(島 津) H 1 赤石沢利光(日の出)
S31 岡和田 繁(日の出) S48 細川  勇(島 津) H 2 久保 栄治(島 津)
S32 二瓶  諭(日の出) S49 加藤 幸雄(日の出) H 3 田村 秀明(草 分)
S33 岡和田 繁(日の出) S50 笹木 光広(草 分) H 4 川上 幸夫(東 中)
S34 北川 恒夫(島 津) S51 宮島 正人(静 修) H 5 北川  正(東 中)
S35 谷本 和一(江 幌) S52 岩崎 治男(東 中) H 6 一色  悟(草 分)
S36 谷本 和一(江 幌) S53 谷   忠(島 津) H 7 富田 成一(草 分)
S37 浦島 義三(日の出) S54 辻  利一(日の出) H 8 西木 晴彦(東 中)
S38 荻子 恒雄(島 津) S55 大角 勝美(富 原) H 9 中西 一男(東 中)
S39 向山 慎一(富 原) S56 田中 正人(島 津) H10 伊藤 仁敏(草 分)
S40 阿部 朝一(島 津) S57 向山 富夫(富 原) H11 三熊 邦彦(東 中)
S41 長谷部忠雄(日の出) S58 船引 武通(草 分) H12 松岡 宏幹(日の出)
S42 水谷  喬(島 津) S59 西村 昭教(島 津)
東中歴代青年部長
S26 土屋 久雄    S33 村中 貞勝    S40 高橋 正一
S27 青地  繁 S34 渡辺 一郎 S41 高野 修吉
S28 松原  守 S35 小川 直太 S42 太田 信夫
S29 久保 清松 S36 長谷川久雄 S43 鈴木 哲夫
S30 森本  清 S37 森口  勝 上富良野農協
青年部と合併
S31 床鍋 昭夫 S38 松田 勝利
S32 青地  繁 S39 上田 良夫
 設立準備委員長には菅野稔氏が選任されて、初代部長には多田武夫氏が選出された。
 九ケ月の暫定的な活動の為農協と連動した目標を定める等の基本方針を取りまとめ、農協青年部としての活動が始まった。この時副会長の要職にあったのが菅野學(二十七歳)である。
 翌年から昭和二十七〜二ヶ年にわたって青年部長職を勤めあげ、組織の基盤を固める等の手腕を発揮した。
 組織は将来の農協役員のリーダーを養成する場ともなり、町長を始め町議会議員など様々な分野で指導的立場の者を多く輩出した。
 近年は平成十三年合併設立の『ふらの農協』の上富良野支部として活動しているが、農業人口の減少から「ふらの農協青年部」に統合となる日も近づいている。
ふらの農協と合併後
ふらの農協青年部上富良野支部歴代部長
H13 谷口 弘道(東 中)    H19 藤崎 祐一(日の出)    H25 長澤 邦智(東 中)
H14 佐藤 良二(草 分) H20 村上 浩一(富 原) H26 白井 宏和(日 新)
H15 渡部 純也(江 花) H21 平吹 彰利(草 分) H27 渡辺 拓也(清 富)
H16 渡部 純也(江 花) H22 立崎 光希(江 花) H28 芳賀 稔洋(江 花)
H17 荻子 弘記(島 津) H23 渡辺 孝弘(江 花) H29 岡久 浩之(日の出)
H18 本田 友彦(東 中) H24 川喜田久治(草 分)
  上富良野農民連盟
 郷土をさぐる誌第十五号に、当時農民連盟同志として活躍した鈴木努編集委員は、農民連盟の記事を明確に書かれており、前段の上富良野農協青年部活動の経過と同様な記述と似通うため、一部引用させて頂き、ここでは昭和三十五年以降の上富良野町農民連盟(以下農連)の歴史などに触れてみたい。
 昭和三十六年四月十五日に上富良野町農民協議会(初代会長谷与吉)が結成された。農連の前身の組織で、その新綱領には、特定政党に対する支持は行わないという一項が入り、今日まで続いている。
 翌三十七年東中地区も正式に加盟し、上富良野の農民が一丸となって農政活動を推進する事になり、上川地区農民同盟も上川農民連盟へと改称した。
上富良野町農民協議会歴代会
S36〜S39  谷  与吉(島 津)
S40〜S45 長沼 善治(日の出)
上富良野町農民連盟歴代委員長
S46〜S53 長沼 善治(日の出) H 9〜H10 岩崎 治男(東 中)
S54〜S54 南  藤夫(東 中) H11〜H16 渡部 洋已(江 花)
S54 代行 谷本 和一(江 幌) H17〜H19 青地  修(東 中)
S55〜S58 藤沢 直幸(島 津) H20 岩崎 治男(東 中)
S59〜S60 谷本 和一(江 幌) H21〜H24 立崎 光儀(江 花)
S61〜H 3 岡和田 繁(日の出) H24〜H28 田村 秀明(草 分)
H 4〜H 6 柿原 光夫(東 中) H29〜 瀬川 明宏(島 津)
H 7〜H 8 笹木 光広(草 分)
 二代会長の長沼善治が会長を務めた昭和四十六年一月二十五日に現名称である上富良野町農民連盟に名称を改称した。
 菅野學は過渡期にある農連の書記次長を昭和四十四年から四十七年の四年間担った。農協理事と一時期役職も重なり多忙を極めている。
 特に一九七〇(昭和四十五)年、政府が米の食糧管理制度を維持する為に打ち出したのが米の生産調整であった。水田に豆などの畑作物を栽培し、転作奨励金が稲作農家に支払われたが、畑作農家では経営の圧迫と不公平な国の施策に抵抗もあり、農家同士に気まずい雰囲気も生まれた。
 一九七三(昭和四十八)年一月には農連青年部(委員長清水正)が組織された。
農民連盟青年部歴代委員長
S48〜S49 清水  正(富 原) S60 大角 勝美(富 原)
S50〜S51 細川  勇(島 津) S61 田中 敏雄(静 修)
S52 遠藤 和郎(静 修) S62 船引 武道(草 分)
S53 笹木 光広(草 分) S63 松藤 良則(島 津)
S54 磯松 隆男(東 中) H 1 小田喜美男(東 中)
S55 宮島 正人(静 修) H 2 中河 和幸(東 中)
S56 一色 武松(江 幌) H 3〜H 4 中沢  茂(静 修)
S57 岩崎 治男(東 中) H 5 岡和田一廣(島 津)
S58 前浜 正一(富 原) 解散
S59 辻  利一(日の出)
 組織活動は、農業政策要求・農畜産物価格要求・農畜産物輸入自由化反対・農業所得税対策などを主に活動している。
 特定政党に対する支持は行わないという事であったが、特に一九八三(昭和五十八)年、堂垣内尚弘が引退したことに伴い十二年ぶりに新人同士の争いとなった北海道知事選挙は、前副知事で自民党などが推薦した三上顕一郎、弁護士で共産党が推薦する広谷陸男、前代議士で社会党などが推薦する横路孝弘の三人が立候補し、事実上、三上候補と横路候補による一騎討ちの選挙戦となった。選挙の結果、横路候補が三上候補を七万票余りの僅差で抑えて勝利し、二十四年ぶりに革新道政を奪還した。
 この頃から農連は革新系候補の支援、農協は保守系の候補を支持すると言う極めて曖昧な支持母体で選挙を戦う事になり、戸惑う農民の姿があった。
 一九八七(昭和六十二)年、には、生産者米価が三十一年振りに引き下げとなり、米や農産物の自由化が叫ばれ大きな圧力が国内に呼応する動きもみられた。
 一九九三(平成五)年、細川連立政権が誕生。内閣支持率が軒並み七十%を超え空前の高支持率となった。この年は極端な冷夏で記録的な米不足が発生したことを背景に、食糧管理法を改正してヤミ米を合法化し、自民党政権下でも長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放を決断。食糧米としてブレンド米の緊急輸入も認めたため批判を浴び、このことが引き金となり一九九四(平成六)年、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(いわゆる食糧法)」が公布、翌一九九五年十一月に施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となった。
 また、制度の呼称としての「食糧管理制度」も内容の変更に沿って「食糧制度」に改められた。
 食糧法の施行により、農家が自由に米などの作物を販売できるようになった。これはその後の米輸入解禁に備え、あらかじめ自由に米を流通させることで日本国内の農家の競争力・対応力の向上を目指したものである。並行して、政府による管理は緩和される事となった。
 これ以降、農産物がなし崩しに輸入され、さらに苦しい営農を迫られる事になった。
 この頃(平成五年)、農連青年部の活動は会員増加の見込みもなく高齢化し、親組織の農民連盟に吸収される形で解散している。
 地域は少子高齢化となり、農家経済も米麦の価格も自由競争を唱いながら、燃料、農薬、肥料が値上げ、農地も集積され機械は大型化、その導入には補助金が支払われてはいるが、離農者も増えている。
 二〇〇一(平成十三)年からはふらの農協と合併、農協も新たな時代に突入した。
 日本は、アベノミクス政策の一環として二〇一三(平成二十五)年より輸出・輸入の際にかかる関税を段階的に引き下げ、自由貿易を推進することを主な目的とするTPP(環太平洋経済連携協定)に正式参加を表明した。しかし、国内農業者にとっては、関税の撤廃により外国から安い農作物の流入が予測され、残留農薬などの規制緩和により、食の安全が脅かされ、日本の農業に大きなダメージを与えるとして強い反発が出された。
 一方、大手製造業企業からは自由化が進み日本製品の輸出額が増大すると歓迎。医療保険の自由化・混合診療の解禁により、国保制度の圧迫や医療格差が広がる等、導入にも大きな影響があることから賛否が分かれている。
 農連の活動も、二〇一一(平成二十三)年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震(地震名)による津波災害とこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害(これら一連の災害を「東日本大震災」という)が発生したことを受け、原子力発電所の稼働の是非を争点とした活動や、北朝鮮のミサイル発射による国情不安に対する政府への要望するなど農畜産物一辺倒の活動から幅広い活動に変化している。
  農業協同組合活動
(一)戦前の農業事情

 我が町農協における歴史としては、大正二年十二月に町の開拓者であり、当時村会議員をしていた故吉田貞次郎が中心となり、大正三年二月十日の創立総会において法に基く産業組合が創立され、大正三年事業創始以来組合員の一致共同により組合員も続々と増加し、組合事業も漸く順調であったが、大正十五年五月二十四日、突如十勝岳噴火に遭遇し死者、行方不明者百四十四名に及ぶ甚大なる被害となったが、組合員の自主、自立、共存、共栄の精神に基きこれを克服し復興を遂げた。其の後幾多の試練を乗り越え、昭和八年には産業組合拡充五ケ年計画が打ち出され、五ケ年計画の樹立に伴い組合員が一致協力、敢然組合運動の第一戦に立ちその実現化を図り、積極的な事業推進に乗り出した。
 このような時代の推移と共に一村一組合の方針に従い、昭和十三年一月一日に上富良野、東中両産業組合が合併し、上富良野村共立産業組合として新発足された。
 昭和十六年十二月八日には、日本は米英に対し宣戦の布告をし、農業もまた十六年暮れに「農業生産統制令」が出され、戦争完遂のためにきびしい統制の枠にしばられる事になった。
 こうして戦争統制が益々きびしくなるにつれて、政府はより強固な農業団体の必要性に迫られ、昭和十八年三月十日に農業団体法が公布されるに至った。
 大正初期より培われた相互扶助、共存同栄を旗印に歩み出した産業組合は、遂に昭和十八年十二月解散命令を受けてその終末を告げ、国家機関的「農業会」は、本村においては役員間題等もあって遅れ、昭和二十年六月二十三日に設立された。
 この農業会時代は、昭和二十年から二十三年までの四年間の短い期間ではあったが、敗戦の混乱、二十年の大凶作、物資・食糧難、農産物に対する強権発動等、空前絶後の変動時代ともいえた。

(二)戦後の農業事情

 一九四五(昭和二十)年八月には戦争が終結し、今まで封建的圧迫の中で生活していた農民に、連合軍総司令部より出された農民解放指令は、農業構造に対して大きな変革をもたらした。
 同年十一月には第一次農地制度改革要綱が閣議で決定し、その後第二次改革が昭和二十二年に実施され、農地解放が行なわれた。
 我が国の農業は敗戦を契機にして発展への第一歩を踏み出した。
 そして、連合軍総司令部より「農民解放指令」が出され、ついで昭和二十二年十一月十九日には「農業協同組合法」が公布され、同年十二月十五日から施行となった。
 その後全道各地に農業協同組合の設立運動が高まり、農業協同組合の性格上の原則としては、「一、自由の原則」「二、自主性の確立」「三、生産に対する事業強化」「四、行政庁の監督権限」の四つが主なる特色であって、これ等のものは何れも過去における農業団体とは著しく異なるものであって、ここに農業協同組合の原則に立ち返り、新しい歩みを始めることになった。
 こうした農協法の成立と共に、我が町においても戦後の民主化に基き、農民の自由な意志で自らの環境を良くし、生活の向上を図るべきであるとの考えで、東中の要望も入れ大正初期のように上富、東中の二つの農協を産んだ。相互の理解のもとに資産分割「農業資産」独自の道を歩む事になり、一九四八(昭和二十三)年一月二十五日に東中農業協同組合が、次いで同年二月十日に上富良野農業協同組合が、それぞれ創立総会を経て結成された。
 一九六一(昭和三十六)年には農業基本法が制定されたが、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかり米余りによる本格的な生産調整が一九七〇(昭和四十五)年に始まった。又、外国からの輸入自由化圧力、高度経済成長による商工業との所得格差の増大による人口の都市流出、後継者不足などの多くの問題を抱えた。
(これ以降は文脈の都合により前項上富良野農民連盟の「昭和四十五年以降の記事」に類似する)

(三)石川清一

 石川清一は明治三十九年七月、東中地区東七線北十八号で生れ、東中小学校尋常科並びに高等科を卒業。農業を生涯の職業とし選択した。
 昭和二十二年の道議会選挙にて、農民政党の農民協同党から立候補した石川清一は、農民同盟の積極的な支援活動を受け当選。

掲載省略:(写真)石川誠一執務風景

 昭和二十三年から昭和二十五年まで北海道農民同盟の執行委員長となった。
 上富良野農協設立発起人会は、和田松ヱ門ら三百七十六名をもって、昭和二十二年十二月二十二日に上富良野農会を会場にして開かれた。
 翌二十三年二月に農協設立準備会、二月十日には上富良野小学校を会場に創立総会を開催した。設立同意者数は千百三十六名(内正会員千五十四名)で、組合長理事に石川清一が選出された。
 昭和二十四年六月十日に上富良野市街地八町内の大火において、罹災した組合施設の大部分が風下にあり、農機具修理工場への延焼に始まり精米、雑穀調整、製粉、味噌・醤油の醸造などの各工場を次々に焼き尽くし、さらに職員住宅から農業倉庫まで焼失した。
 主要な焼失財産は帳簿価格で四百三十二万円、時価で千五百万円に上った。農協苦難のスタートとなったが、復興資金は二十四年に農林中央金庫から七百五十万円を借入れ、二十七年までの三年間で完済させた。
 昭和二十五年五月の参議院選挙では全国区から立候補し当選を果たしている。
 戦前・戦中・戦後の農民運動に、そして国政の場で、数多くの活動実績を残した。
 文字通り農村の指導者として縦横無尽の働きぶりであった。
上富良野農業協同組合創立総会時の役職
組合長 石川 清一(日の出) 理 事 多湖 房吉(静 修)
理 事 伊藤武三郎(富 原) 藤沢幸一郎(島 津)
神田 周造(東 中) 荒   猛(里 仁)
手塚 官一(旭 野) 監 事 松岡熊太郎(日の出)
海江田武信(島 津) 川野 守一(旭 野)
四釜卯兵衛(草 分) 片倉喜一郎(日 新)
佐々木源之助(市街) 長沼 善治(日の出)
村上 国二(江 花) 北川 三郎(島 津)
谷  兼吉(日 新) 西村 常一(江 花)
近藤 利尾(江 幌) 大居佐太郎(草 分)
一色仁三郎(草 分)
(四)農協三億円事件

 菅野學の父善作も農協理事を勤めた事と、自身も農協青年部長(昭和二十七年〜昭和二十八年)、農協理事として、石川清一と一時期を共にして、親子で親交を深め、二人は彼の人間性に深く薫陶し多大な影響を受けた。
 昭和三十五年には営農貯金積立の見返りに営農資金を供給する組合員勘定、いわゆる組勘(クミカン)制度が始まった。体質改善運動の一環として取り組まれたものでもあったが、この組勘の設定により組合員の生活と営農に関する取り引きは農協窓口に一本化され、これにより組合の指導力が強化されるという側面もあった。この制度は戦後における組合の金融事業拡大に、極めて大きな意味をもっていた。
 菅野學は、昭和四十一年(四十二歳)に里仁地区から押され農協理事となる。
 昭和四十四年四月に東中農協と合併。翌四十五年五月経理課長による相場投資目的の三億円横領事件が発覚。
 事件の発生はその日のうちに全国ニュースとなって報道された。(事件詳細は郷土をさぐる第二十八号『三億円大騒動 荻野昭一著』に詳しいので略)合併して間もない東中農協の関係者や組合員の憤りは爆発寸前であった。
歴代上富良野農業協同
    組合長理事(東中合併後)

 氏  名(地 区)  在職期間
石川 清一(日の出)S43.03〜S45.05
高木 信一(東 中)S45.08〜S54.04
菅野  學(里 仁)S54.04〜H04.12
内村良三郎(東 中)H04.12〜H09.04
井村  寛(日の出)H09.04〜H13.02
H13年度より富良野農業協同組合に合併
 理事会は事件の責任を取って全員総辞職を決めていたが、組織の再建方策を早急に纏める大きな責任もあった。事件発覚後の五月二十一日には臨時総代会が開催され、事件の詳細報告と今後の対応について協議されている。
 総代会の後、早急に再建委員の選任が始まり、一週間後の五月二十八日第一回の委員会が開催され、委員は二十六名で構成され、委員長に谷与吉氏が就任しその対応に当たった。
 八月十三日の理事会において互選の結果、組合長理事に高木信一、専務理事に菅野學、代表監事高士茂雄を選任し経営陣の新体制も決まり、再建に向け緊張した農協運営が求められた。
 農協の再建について、荻野昭一の文章を引用する。

掲載省略:(写真)当時の上富良野農協事務所(2階)とAコープ店舗(1階)

 年間純益の過少計上、棚卸時点に於ける未収計上の問題、更には保証人並びに役員の弁済、賠償に係る支払方法あるいは支払期間に関する件、役員改選の折には現役員を再選しない様……等の要望もあり、議長団は動議の取り扱いに対し協議、相談する場面も数回あったが、最終的には、農協を早期に再建する為に、町を初め支庁、道庁あるいは中央会等関係機関の協力と共に積極的に暖かい手を差し延べて頂くと同時に、組合員各位の御理解ある御協力を願い、一日も早く農協を再建する様にとの事で終了し、次いで役員改選が行われたが、この結果新理事は二十名のうち新人が六名、監事は五名の内三名が変わった。
 昭和五十年までの再建五力年計画は、一年前倒しで達成された。
 このことは組合員の団結の一語に尽きる。厳しい経済情勢の中一億円の再建基金の積み立てを早期に達成し、出資金の増口にも即刻対応し一致団結して農協の欠陥を支た。
 特に高木組合長、菅野専務のコンビは、組合員の結束に好影響を及ぼす存在だった。再建途上にありながら、昭和四十五年のライスセンター建設をはじめ、野菜集出荷施設の整備、共同利用大型農機具の導入など、組合員が必要とする設備投資を年次計画の下に着々と進め、生産物の付加価値を高める施策を積極的に展開した。組合員個々にその体力があったからこそ成し得たと言えよう。
 農協の作目別部会や青年部、女性部などが有機的に機能し、農事組合長も資材のとりまとめなど、煩雑な作業を快く引き受けたのがその要因と荻野氏は結んでいる。
 石川清一はこの時も、自身の責任から農協の建て直しに身を切る覚悟で理事に立候補したが落選。指導者不適格の烙印を組合員からも突きつけられ、失意の淵にあった。
 晩年の昭和五十年十二月には、深山峠新四国八十八箇所霊場奉賛会の創立に意欲を示し、初代会長となるも、昭和五十一年八月三十一日、波乱の生涯に終止符を打つ時が来た。享年七十一歳の人生であった。
 正五位勲三等旭日中授章と共に上富良野町名誉町民の称号を受け、九月四日町葬が執行されて、その功績と栄誉を讃えられた。

(五)農協組合長としての活躍

 菅野學は一九七九(昭和五十四)年から農協組合長理事。専務には東中より内村良三郎が選出された。
 農民運動会も前任者から引き継ぐように開催し、組合員と役職員の交流も大切にし、各地域の交流にも一役買った。
 この年早速根室市の水産缶詰会社「日本合同缶詰上富良野工場」を買収し取得した。従業員を八〇名抱え、アスパラ及びスイートコーン缶詰合計で一万一千ケースの生産を上げている。(昭和三十八年実績)
 一九八一(昭和五十六)年には畑作生産総合振興事業で麦バラ貯蔵庫を竣工させ、畑作生産総合振興対策事業で馬鈴薯貯蔵庫を竣工し上富良野の基幹作物施設を相次ぎ建設した。又、農協の三億円事件も事件発生以来カネツ商事と損害請求訴訟として争って来たがここに来て漸く和解が成立し、十一月の臨時総会で事の顛末を組合員に報告する事となった。
 昭和五十九年からは農業まつりを企画して、町民に地元の農畜産物を販売する等、農協青年部や農業者に呼びかけ、トラクターパレードや綱引き等を催し好評を博した。
 三回目の開催となる平成二年には農業フエステバルと名称を改め、年々大きく充実した事業として定着し、多くの町民に高評価を得ていった。
 昭和六十年には農協事務所と併せ研修施設を落成させ、再建後の農協の礎を築いた。
一九八八(昭和六十三)年には目標としていた農協貯金が百億円。農協共済六百億円をそれぞれ達成させ、上川管内農協の信用回復に多大な功績を残している。
 一九九二(平成四)年十一月、現職の町長酒匂佑一の突然の死去に伴い、上富良野町長に立候補のため農協組合長理事を勇退。
 上川生産連理事、北海道信用農業協同組合連合会理事、ホクレン農業協同組合連合会理事、厚生連監事等の農協関連の職務も辞する事となる。
 尚、専務だった内村良三郎が農協組合長理事に選出され、新たな時代へと展開を進める事になる。
 昭和六十三年に北海道農協中央会より農協功労表彰受賞。平成二年には横路孝弘北海道知事より北海道産業貢献賞と相次ぎ受賞し、上富良野はもとより本道の農業発展の功績が認められた。
  町長選挙
 現職の酒匂佑一町長の突然の死去(平成四年十一月二十四日)に伴う上富良野町長選挙は十二月二十七日投票、即日開票された。歳末のあわただしい中で十年振りに行う選挙であった。

掲載省略:(写真)菅野 學氏

 小野三郎議会議長、尾岸孝雄副議長、菅野稔前副議長、吉岡光明前議員、菅野學農協組合長、堀内慎一郎商工会長、安田英雄助役、金子隆一商工会副会長らの出馬の噂が話題となっていた。
 酒匂佑一町長の初七日を待つように意を決した二名が名乗りを上げた。
 その一人は菅野學(六十八歳)。JAかみふらの理事、専務理事、組合長などを二十六年間つとめた農協のリーダーで、「一、住民参加の町政で豊かな町づくり」「二、時代を先取りした創造性と活力ある町づくり」「三、誠実でぬくもりある町づくり」を公約とし、農協臨時理事会で承認され、地元の里仁地区にも了承を得ての出馬となった。
一方、出馬のため十二月二日に議員を辞職して名乗りを上げたのが尾岸孝雄(五十三歳)前上富良野町副議長で、議員には昭和五十八年に出馬し当選、以来九年議員を務めた。平成三年八月より副議長としてその任にあったが、町商工会の強い支持を得て出馬。
 町を二分した戦いとなった。尾岸孝雄の後任副議長には四日の臨時議会で海江田博信が選ばれた。
 上富良野町長選挙は三期ぶりの町長選挙であった。共に酒匂町政の継承を訴え、争点がなかったこともあって投票率は低かったものの、菅野學は、農業者を基盤に、自衛隊票を手堅くまとめ、千三百票の大差で対立候補を破り初当選。第六代目の町長に就任した。
上富良野町長選挙結果
 有権者数 9,757人
 投票者数 8,631人
 投票率 88.46%
 当 菅野 學 4,913票
   尾岸孝雄 3,613票
     票差 1,300票
    1992(平成4)年12月27日実施
掲載省略:(新聞)平成4年12月28日付け選挙結果を告げる北海道新聞紙面

 また、尾岸町議辞任に伴う補欠選挙は町長選と同時に実施され、吉岡光明(六十四歳)が当選した。
 町長に就任した菅野學だが、翌平成五年は異常気象による冷害に見舞われ、町内でも二十五億九千四百万円という被害が見積もられていた。
 町では十月に冷害対策本部を設置し農家の救済に当たったが、この年は農畜産物の市場開放問題も起きており、農業を基幹とする上富良野町にとっては実に厳しい、深刻な状勢を迎えた年であった。
 それでもラベンダーを中心とした観光は順調であり、平成七年の七月二十二日から二日間行われた「第十七回ラベンダー祭り」は、十二万人の人出となるほどに大きく発展、年を追うごとに人気を高め観光施設も増えていった。
 ラベンダー祭りと同時に行われている「ラベンダー結婚式」も、全国から申し込みが殺到するなど、上富良野のラベンダーの知名度やイメージアップに、大きな役割を果たした。
 平成五年十月に町長らが三重団体の祖、田中常次郎の郷里である三重県津市を訪問し、津市との交流も始まり、平成九年七月三十日に上富良野町庁舎前庭において、津市との友好都市提携が調印された。
  二期目への挑戦
 菅野町長の任期が一九九六(平成八)年十二月二七日に切れるに伴い、十二月八日に後継の町長選挙が行われた。町は来年「開基百年」を迎える節目の町長選となった。
 立候補したのは、再度、町長選に挑戦する尾岸孝雄の二人であり、前回に続き両者による激しい選挙戦となった。
 尾岸孝雄は四年前の雪辱を晴らすため、五月には出馬を決め、「決断と実行」を旗印に掲げ、支持母体の商工会組織の他、自衛隊OBの支持を取りつけながら支持を訴えていた。
 菅野陣営は農繁期の過ぎた八月から「継続こそ力」と訴え再選に向けて意欲を湛(たぎ)らせていた。
 選挙の結果、まれに見る激戦となり僅か十票差で尾岸孝雄が当選をはたし、第七代目の町長に就任した。
 氏は、一九三九(昭和十四)年十一月十四日生、上富良野町東中出身、道立富良野高校卒。同町商工会副会長、同町議会副議長、十勝岳ハイヤー代表取締役の経歴を持つ。
 菅野町長の敗退要因として考えられるのは、沖縄駐留の負担軽減の一環で本道に向けて発信された沖縄駐留米海兵隊の実弾砲撃訓練を上富良野演習場において実施することにいち早く反対した事が考えられる。
 菅野町長にとっては、冒頭に述べた戦争体験を地域に持ち込む事を嫌う「戦争は反対」との純粋な発言であったが、聞き方によっては、「上富良野に自衛隊はいらない」との誤解を生む受け取り方をされたものと思われる。
 この発言は選挙期間中のタイミングだっただけに対立候補にも批判され、上富良野駐屯地の自衛隊票を纏めきれなかったのが致命傷となり、現職の強みを発揮することが出来ず、結果として町民の理解と支持を得られなかった。
上富良野町長選挙結果
 有権者 10,044人
 投票者数 8,853人
 投票率 88.14%
 当 尾岸孝雄 4,367票
   菅野 學 4,357票
     票差   10 票
   1996(平成8)年12月8日実施
 一九九六(平成八)年十二月二十日には吹上温泉保養センター(鉄筋コンクリート造二階建て二棟延べ二五六二平方m、総事業費九億七千万円)が落成し、翌年一月一日から開業。十一日から本営業を開始させる事業と、平成九年一月一日に始まる、第十回北の大文字焼きなど、上富良野町開基百年記念事業の準備に向けて忙殺された任期であったが、残務整理と引き継ぎを余儀なくされた。
 平成四年での町長就任時の年頭の挨拶には意欲に満ちた記念事業の実施まで考えていただけに、志半ばで退任に至った事が悔やまれている。
 平成六年上富良野町農業協同組合より名誉組合員の称号を受け、平成九年、上富良野町自治功労表彰。平成十一年名誉町民に推挙され、第一線から退く事になった。
 菅野家は現在、三代目の博和さんが肉牛と畑作を中心とした営農を続けており、學さんは気ままに読書、庭木の手入れや除草にいそしむ毎日である。

掲載省略:(写真)孫の美希ちゃん結婚式で(2017年6月)
掲載省略:(図)菅野家の家系図
  
《参考文献》
里仁百年誌「里仁為美」 里仁開基百年記念事業委員会
上富良野百年史(平成九年発行) 上富良野町
上富良野町史(昭和四十二年発行) 上富良野町
郷土をさぐる 郷土をさぐる会
(第一一号)故石川清一さんを偲ぶ 菅野 學
(第一五号)農民連盟 鈴木 努
(第二一号)七十年前の豊里を偲んで 菅野弘彌
(第二六号)風化するシベリア抑留 田中正人
(第二八号)上富良野町農業協同組合三億円大騒動 荻野昭一
(第三三号)エホロカンベツ川の畔で 菅 野學
かみふらの一一五年歴史年表 郷土をさぐる会
北海道新聞記事 北海道新聞社平成四年一二月
平成八年一二月
広報かみふらの記事 上富良野町
平成五年一月
平成九年一月
農協だより 上富良野町農業協同組合
石川清一 上富良野町農業協同組合
組合五十年の歩み 上富良野町農業協同組合
上富良野町農業協同組合青年部三十年誌・五十年誌
上富良野町農業協同組合青年部
農民運動三十年の歩み 上富良野町農民連盟
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機関誌      郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷      2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀