郷土をさぐる会トップページ     第35号目次

後世に語り継ぐ事業シリーズ
名誉町民 酒匂佑一の生涯(後篇)

野尻巳知雄(八十一歳)

  前号のあらまし
 郷土をさぐる第三十四号では、前篇として、酒匂家のルーツから北海道への移住に至る足跡、雨竜郡深川村で次男として誕生した佑一氏が、旧制北海中学校卒業後札幌駅勤務、近衛師団入営、北京での満期除隊後の華北気象台勤務、昭和二十年の着の身着のままの敗戦引き揚げ、そして姉婿の海江田武信氏(当時上富良野村会議員、後に上富良野町長)のつてを頼った上富良野村職員としての就職までの概歴を記した。
 さらに、上富良野村・町職員としての多大な功績についても書き連ねたが、姉婿の海江田町長の選挙敗北に伴い、佑一氏は務めていた助役を解任されてしまった。その後町立病院事務長、企画室長、消防長を歴任したが、心機一転、北海道議会議員選挙への立起を決断したのであった。

  十四、道議会議員選挙への立候
 一九六七(昭和四十二)年四月に行われる道議会議員の上川管内の定数が、前回の一九六三(昭和三十八)年選挙の六名から五名に減少となり、選挙に向けて各地区の候補者の選定について各種機関・団体において議論が交わされていた。
 富良野沿線についても、美瑛町、上富良野町、中富良野町、南富良野町の商工会等を中心に話し合いが行われ、美瑛町から出た道議が佐藤初吉二期、黒松秀夫三期と通算連続五期を務め、「そろそろ交代しても良いのではないか」との話が出されていた。
 この話を聞き「美瑛町の次は上富良野町であろう」との噂から、「上富良野町から出すべきである」との上富良野町関係者の憶測が広がり、美瑛町の現職との話し合いがされないままに酒匂佑一氏の立起表明と進んでしまったのであった。
 しかし、美瑛町の黒松秀夫道議が四期目も立候補する事となり、酒匂佑一氏は自民党の公認を受けられず、また美瑛町の協力も得られないままに選挙戦に突入することになってしまった。
 その結果、上川管内の得票結果は、当選・大方春一(社会党)一万七九一七票、当選・西尾六七(自民党)一万七七七八票、当選・黒松秀夫(自民党)一万六二六四票、当選・大石利雄(社会党)一万五三三三票、当選・桶谷利男(自民党)一万四〇七八票、次点・西野実(自民党)一万三七七九票、酒匂佑一(無所属)八三九八票、高井孝(共産党)二一二八票の結果に終わった。
 酒匂佑一氏が自民党の公認も得られず、美瑛町との調整が進まない中での選挙戦は、非常に厳しいことが予想されたにもかかわらず、立起された心情を推し測ることは出来ない。一九六三(昭和三十八)年の町長選挙で義兄の海江田町長が村上国二氏に破れたため、助役の職を解任され、四年で退任した。
 その後、海江田武信氏が町長に帰り咲いたとはいえ、縁故人事についての町民の批判が出てきたために、助役退任後は、町立病院事務長−企画室長−消防長を歴任されたが、政変に振り回されるよりも、自ら政治を司る立場を選んだのではないかという噂も巷(ちまた)に流れていた。
 また、酒匂佑一氏が当時話していた様子を見ると、道議会議員選挙では、あるいは「当選はおぼつかないのではないか」と自ら自覚していた節も見受けられ、次回選挙への布石と考えていたとも思われる。

掲載省略:(写真)昭和42年道議選挙
  十五、苦難の日々を乗り越えて三
 道議会議員選挙に落選した後は、生活の財を得るためにいろいろな職業に就いている。最初は松原牛乳店の支援もあり、牛乳販売業務を行ったり、一九六八(昭和四十三)年四月には株式会社道央観光開発公社(代表取締役 酒匂佑一)を設立して白銀荘の運営と、国設三段山スキーコースの認可運動やリフト設置の許認可を求めて営林署や、関係機関に働きかけを行っていた。
 一九七一(昭和四十六)年五月には上富良野町体育協会の会長に就任し、その後、八月に行われる町長選挙に向けて立起の準備に専念するために、牛乳販売事業、観光事業などの業務を退いている。
 一九七一(昭和四十六)年八月に行われた町長選挙には、和田松ヱ門(六十六歳)、酒匂佑一(五十四歳)、藤原利雄(四十七歳)の三名が立候補した。
 選挙は町民の関心も高く投票率は九十四・二五%に達していた。
 結果は和田松ヱ門 四七四二票、酒匂佑一 二六〇七票、藤原利雄 一九一七票であり、またしても当選する事が出来なかったのである。
 無職となった酒匂佑一氏は、同年十二月に設立された社会福祉法人「わかば会」の初代理事に就任し、翌一九六二(昭和四十七)年四月に発足した社会福祉法人「わかば会わかば愛育園」の初代園長を務めている。
 一九七五(昭和五十)年には、八月に行われた町議会議員選挙に立候補し、四五七票の得票を得て六番目の順位で見事当選を果たした。
 その勢いに乗って一九七九(昭和五十四)年八月の町長選挙に再度立候補したが、現職和田松ヱ門に僅差で敗れてしまった。その時の投票結果は、投票率は九十四・三四%という高い投票率で和田松ヱ門 四九一二票、酒匂佑一 四三七一票と五四一票差という接戦であった。
 町議選はともかく、道議会議員と町長選の三度の大きな選挙に敗れ、選挙費用に要した支出もかなりに上り、一九七一(昭和四十六)年以降からは生活費の収入を高めるために自宅を改装して食堂の経営を行ったり、簡易印刷機を導入し「さこうプリント」として印刷業務などを行うほか、奥さんは松屋製パン工場に雇われたり、初めての畑仕事の出面作業に出て働く様子を関係者から聞くことができたが、並大抵の苦労ではなかった様子が伺われた。慣れない出面作業では『川久保さんの奥さんには大変お世話になった』と話していたそうである。
 一九八三(昭和五十八)年八月の町長選挙に三度目の挑戦を試みた。今度は、金子隆一との一騎打ちとなり、酒匂佑一 六一八五票、金子隆一 二九六○票という大差をつけて圧勝することができた。
 その後の町長選挙では、一九八七(昭和六十二)年八月九日、及び一九九一(平成三)年八月十一日ともに酒匂佑一以外に立候補者がおらず、無投票選挙となっている。

掲載省略:(写真)(左)昭和8年2月開業の道営ヒュッテ『白銀荘』と(右)昭和35年12月再建開業(前施設は昭和34年2月失火焼失)した町営ヒュッテ『勝岳荘』
掲載省略:(写真)昭和46年町長選挙
掲載省略:(写真)昭和54年町長選挙
掲載省略:(写真2葉)3度目の町長選挙で選挙事務所前出陣式と農協前では選挙カーから支持を訴える
掲載省略:(写真)応援演説にも熱がこもった
  猪狩源三の略歴
 猪狩源三は明治10年頃、現在の岩手県盛岡市から当時の北海道札幌郡豊平村に入植した猪狩庄右エ門、源吉父子の開拓二世として、1889(明治22)年3月1日北海道岩見沢市で出生。1914(大正3)年東北帝国大学農科大学農芸化学科(現 北海道大学農学部)を卒業し、同科の副手から北海道農事試験場の技師として従事した。昭和5年岩手県農事試験場長として赴任するまで、和歌山県農事試験場技師、民間の古谷製菓化学研究所主任などを歴任し、北海道帝国大学となった母校の講師も勤めた。その後再び北海道農試に復職し農芸科学部主任などを歴任した。
 この間1918(大正7)年「実験拘櫞(クエン)酸製造法」(有隣堂出版)の著書や「オブラート製造法」の発明(古谷製菓化学研究所時代)、そして北海道農事試験場時代には1926(大正15)年5月の十勝岳爆発による泥流被害と土壌調査に携わった。
 1930年(昭和5年)、同郷の先輩でもある当時北海道帝国大学総長佐藤昌介の勧めもあり、北海道農事試験場から岩手県農事試験場長として赴任した。

掲載省略:(写真) 北海道農事試験場時代の源三
  十六、酒匂町長の業績
 酒匂佑一氏は、町長になると一九八四(昭和五十九)年十二月に永年の念願であった体育館の建設に取り掛かり、町議会に「社会教育総合センター建設特別委員会」を立ち上げ、一九八七(昭和六十二)年十一月に完成を見ている。また、一九八五(昭和六十)年には日の出スキー場にロープ式スキーリフトを完成させて、冬のスポーツの振興を図り、一九八八(昭和六十三)年には、上富良野町地域スポーツ推進委員制度を発足させ、地域スポーツの振興を図っている。一九九一(平成三)年には、B&G海洋センター(ハウス式プール)を落成オープンし、水に親しむスポーツの普及を図った。
 また、観光面では、一九八四(昭和五十九)年に町営国民宿舎「カミホロ荘」を民間企業に委託するために、第三セクター社団法人「十勝岳観光開発公社」を発足させ、初代代表取締役に小玉庸朗氏が就任した。一九八五(昭和六十)年には、任意団体の「かみふらの十勝岳観光協会」を法人化し、社団法人の認可を受けて観光振興に努めた。一九八七(昭和六十二)年には、深山峠広場と展望台及び日の出公園展望台の完成を見たほか、十勝岳翁温泉地区に遊歩道を設定している。一九八八(昭和六十三)年には、日の出公園に野外ステージを設置し、ラベンダー祭りのイベントなどで大きな効果を上げ、大晦日から元旦には『第一回北の大文字』を開催している。
 そのほか、文化面では一九八四(昭和五十九)年に三浦綾子著小説「泥流地帯」の文学碑の建立を進め、一九九〇(平成二)年には、日本画家の重鎮後藤純男画伯のアトリエを誘致している。
 札幌市及び周辺市町村に在住する上富良野出身者による「札幌かみふらの会」が、一九八八(昭和六十三)年十月二十九日発足し、以後毎年交流会が行われている。前任の和田町長時代から、札幌に「ふるさと会」を発足することが課題として模索されてきた。多忙を理由に固辞していた北海タイムス社長の南順二氏が退職されたことから、酒匂町長は設立に助力してもらえるよう猛烈に運動し、当時時事ジャーナル社長の南氏を会長に、道庁等官公署OBや在職者が奔走して設立に至った経緯がある。
 国際交流分野では、一九八五(昭和六十)年にカナダ・アルバータ州カムロース市と、姉妹友好都市提携を行いその調印式を行った。
 教育面では、一九八五(昭和六十)年二月に上富良野小学校体育館を、一九八六(昭和六十一)年一月には上富良野中学校体育館をそれぞれ新築したほか、一九九〇(平成二)年に江幌小学校の新築落成を見るなど教育環境の整備を図っている。
 商業振興策では、一九八四(昭和五十九)年九月に電子部品組み立て工場「北光電子工業」の企業誘致を図り、一九八六(昭和六十一)年には、養豚事業の「かみふらの牧場」の事業誘致、一九九〇(平成二)年には、縫製工場「カリカワ」の誘致で、地域雇用者五十二名の就労を見ているほか、同年十二月には、商工業の拠点となる「セントラルプラザ」の新築落成により、商工業の振興を推進している。
 農業振興策では、一九九〇(平成二)年三月に「上富良野農業振興基金」を設け、農家の経営安定化と特産品の開発奨励策を講じた。
 高齢者の福祉事業では、一九九二(平成四)年一月に、特養ラベンダーハイツを併用して「デイサービスセンター」を設置してサービスを開始している。一九八九(平成元)年に発足させた「上富良野高齢者事業団」については、上川管内の中では新規進取の取り組みであったため、後段に項を設けて少し詳しく示す。
 行政関係では、一九八六(昭和六十一)年に、町内住民会の組織再編を行い、住民会の名称を市街地区十三区、郡部十四区に改めた。一九九〇(平成二)年には、住所名の「字名」を廃止し、住居表示の簡略化を図った。現在の住民会は、「西島津と島津」が「島津」に、「日の出と西日の出」が「日の出」に統合され、郡部十二区になっている。
 都市計画では、一九九一(平成三)年七月に公共下水道浄化センターの新築を実施し、市街地の一部で供用を開始している。
 防災事業では、一九八六(昭和六十一)年に上富良野町地域防災計画を策定して不慮の災害に備えた。この計画によって一九八八(昭和六十三)年の十勝岳噴火の対応が淀みなく進められたのである。
 一九八九(平成元)年五月には、全戸に防災無線機の受信機を配置して、災害時の速やかな情報伝達の促進を図っている。

掲載省略:(写真)社会教育総合センター
掲載省略:(写真)駅前で観光宣伝を行う酒匂町長
掲載省略:(写真)十勝岳爆発災害復興60周年記念「泥流地帯文学碑」(草分神社に昭和59年5月24日建立除幕)
掲載省略:(写真)かみふらの牧場有限会社
掲載省略:(写真)江幌小学校の新校舎。児童数の減少により、平成27年3月末で西小学校に統合されて廃校になった。
掲載省略:(写真)株式会社カリカワ上富良野工場
掲載省略:(写真)セントラルプラザ
掲載省略:(写真)特別養護老人ホーム「ラベンダーハイツ」
掲載省略:(写真)防災行政無線放送室
  十七、高齢者事業団の取り組み
 酒匂町長は、十勝岳の噴火の対応に当たる一方で将来に向け、町民の雇用対策にも乗り出した。
 高齢者事業団設立の布石として、国や地方自治体が失業者の救済を目的として行った応急失業対策事業が一九四六(昭和二十一)年に開始されたのが手始めで、上富良野町での失業対策事業は、昭和三十一年の冷害を受けその救済事業として農家の冬季間の現金収入確保が目的で行われたのが最初である。
 翌昭和三十二年からは一般失業者も加わり事業化されている。当時は一日二四〇円で働く日雇労働者であった。就労状況(年間延べ人数)は、昭和三十一年に四千人、三十一〜三十四年は九千人、三十五年には約一万人が関わり、道路や水路の整備、砂利採取等に当たり業績も伸びていた。(昭和三十六年『町勢要覧』)。
 失業対策事業は一九七一(昭和四十六)年頃から冬季事業(砕石)を実施したが、労働者の高齢化に伴い、安全確保のために、昭和六十三年三月三十一日をもって事業を閉じている。
 酒匂町長は、一般雇用を望まない高齢者を対象として、その能力と希望に応じて仕事を提供するための事業が東京都での独自事業として運用が始められ、類似の事業団が全国的につくられて行く事に着目した。

 歴代理事長
1 平成元年〜9年 大森 忠
2 平成10年〜12年 斉藤 実
3 平成13年 岩崎歳雄
4 平成14年〜25年 門脇一哉
5 平成26年〜27年 高橋正一
6 平成28年〜現在 田中正人
 
 歴代事務局長
1 平成元年〜13年 門脇一哉
2 平成14年〜27年 田中正人
3 平成28年〜現在 渡辺昌次

 その後、この事業に労働省(現厚生労働省)が経費の補助事業として一九八〇(昭和五十五)年に初めて国が予算措置を盛り込んだ。
 この事から高齢者事業団事業の取り組みが確信へと変わり、委託事業を主とした高齢者の為の「生きがい対策」に取り組む事を決断した。
 おおむね六十歳以上の高齢者で、働く意欲のある健康な人なら、誰もがこの事業に参加する事が出来る。
 一九八九(平成元)年四月、上富良野町農業委員会の会長を長年勤めあげた大森忠氏が、設立総会の席上で理事長に選出され、事務局長には農協OBの門脇一哉氏が就任。会員数五十六名をもって、上川管内第二号の高齢者事業団として発足させた。
 この事に刺激を受けた上川管内の各自治体は、相次ぎ高齢者事業団を発足させ、管内でも注目される団体へと発展した。
 当時、北海道高齢者事業団等連絡協議会が上部組織として存在していたが、役割を果たした事からその後解散されている。
 町は、高齢者事業団の生きがい対策事業の重要性を充分理解し、日の出公園などの公共施設管理作業を中心とした作業を委託し、任意団体としてのスタンスを保ちながら事業団の運営は継続されており、酒匂氏の思いは今なお継承されている。このように、酒匂町長は、歴代の首長の中でも抜きんでた実績を残している。

掲載省略:(写真)高齢者事業団会員一同〜2012(平成25)年事業団事務所前でへ

 会員数と受注状況
年度 受注額 個人受注 会員数 年度 受注額 個人受注 会員数
(平成) (万円) (万円) (人) (平成) (万円) (万円) (人)
元1 768 13 59 16 4,571 50 90
2 1,469 25 58 17 4,570 54 84
3 2,544 39 67 18 4,301 55 87
4 2,748 47 58 19 4,440 56 78
5 3,066 48 63 20 4,626 62 74
6 3,052 49 62 21 4,748 63 75
7 3,359 53 63 22 4,361 59 73
8 3,505 57 61 23 4,558 63 72
9 3,471 48 71 24 4,910 62 78
10 4,098 60 68 25 4,323 65 66
11 3,994 61 65 26 3,926 72 54
12 3,812 61 62 27 3,727 70 53
13 3,725 54 68 28 3,434 67 51
14 3,745 53 70
15 4,276 56 76 平均 3,729 54 68

 会員の数は年度末とし、個人受注はそれで割り返している。
 平成元年度実績は768万円となり、年々受注実績が向上し、受注額は平成24年度が最高実績となり、以後受注額は減少に転じた。
 会員数は平成16年度が最大人員を数えた。個人受注は会員の減少により向上する傾向にあり、潜在的な受注はまだまだあるが要望に応えられていない。
 町役場524万円、振興公社486万円、企業528万円、農作業他1,726万円が平成28年度の主な受注実績となっている。

  十八、十勝岳噴火対策
 十勝岳は、一九八八(昭和六十三)年十二月、二十六年ぶりに噴火し、翌年三月まで二十一回の噴火を繰り返した。噴火は火柱、火砕流を伴い、小規模ではあるが、極めて爆発的であった。
 町では、一九二六(大正十五)年の大爆発による泥流で一四四人(上富良野一三七人・美瑛七人)が犠牲となったため、この経験を踏まえ住民の安全のため、いち早い対応を図ったのである。
 この陣頭指揮にあたったのが酒匂町長であり、十二月十九日に災害対策本部を設置し、町と消防、警察、自衛隊などと二十四時間の監視を行い、十二月二十四日の再噴火で危険区域の住民に避難命令を発令したのである。
  十九、苦悩の避難解除
 町の社会教育センターに避難した住民は慣れない避難生活の中、年内の帰宅を求めて酒匂町長に懇願した。しかし、北海道庁や火山学者などは、噴火が続く中で終息が見通せず、避難解除に慎重な姿勢であった。
 このため、酒匂町長は住民の願いを汲み取り、泥流監視装置の早期設置や避難訓練の実施など避難態勢を整え、年内の解除に向けて道庁や関係者の説得に努めて、ようやく一九八八(昭和六十三)年十二月三十日の解除にこぎ着けることが出来たのである。
 一方の美瑛町の白金地区の住民は、火口からの距離が近いため、翌年の四月末まで、長い期間の避難生活を強いられたのであった。
 泥流監視装置の設置は、噴火直後の十二月二十一日、住民会長会議で提言され、有珠火山観測所の岡田弘所長(現北海道大学名誉教授)の助言を受けて実施したのであった。
 酒匂町長は、噴火の最中で危険が伴う状況にあったが、山腹に即席のワイヤーセンサーの設置を決断し、自衛隊員と消防職員、町職員などが決死の作業にあたり、二十六日に完成したのである。
 その後、この泥流監視装置は、北海道や国によって整備された恒久的なものに切り替えられ、泥流発生を最前線で監視する装置として現在も運用中である。

掲載省略:(写真)上川南部消防事務組合消防長室(上富良野町)での避難命令解除のための現地調査懇談(昭和63年12月28日)右:横路道知事中:酒匂町長左:平井道議
  二十、噴火対策の強化
 十二月二十四日の噴火では、道路の閉鎖や鉄道やバスが運休するとともに、登山や観光客にも影響するなど町の経済に大きな打撃を与えた。
 また、住民の避難を呼びかけたが自宅に留まったり、親戚の家などに避難するなど、町の指定避難所には対象の二割以下の避難者となり、課題を残すものとなった。
 このため、町ではより詳細の危険区域図と合わせ、本人確認の避難者カードを地区別に色分けし作成配布するとともに、防災無線を全戸に拡充整備し、自主防災組織の結成と避難訓練を行ったのである。
 その後も地震計の増設や空振計の新設など監視態勢が強化されるとともに、山麓にはブロックダム、透過型ダムなど新たな機能をもつダムの建設が進められた。
 また、既存の砂防ダムに溜まった土砂の処理場所を求めていた北海道に対して、草分公民館及び草分コミュニティ広場として使用されていた旧創成小学校敷地を提供して運搬土盛りをしてもらい、この上に一九九〇(平成二)年十二月二十四日、草分防災センターを建設落成した。
 この噴火で、酒匂町長は住民の生活や町の経済に影響を及ぼす避難の発令や解除の判断基準の重要性を強く意識して、噴火対策の強化に努めたのである。

掲載省略:(写真)草分防災センター
  二十一、二人の火山学者の支え
 十勝岳の噴火対策で酒匂町長の大きな支えとなったのが北海道大学の二人の火山学者である。
 一人は勝井義雄教授(当時)で火山の噴出物を主に研究し、特に十勝岳の火山泥流の危険区域を示した緊急避難図(ハザードマップ)の作成と公表に深く関わり、先導的な役割を果たしたのである。日本で初めて火山災害予測図を作成したのは一九八三(昭和五十八)年の北海道駒ヶ岳で、これは諸般の影響を考えて住民に公表されないものであったが、上富良野町においては全国で初めて一九八六(昭和六一)年「緊急避難図」として全戸配布し、英断の評価と共に影響の危惧が論議されたが、一九八八(昭和六十三)年噴火においてこの有効性が実証できたのである。
 もう一人は有珠火山観測所の岡田弘所長(当時)で十勝岳をはじめとする道内の活火山の観測と噴火予知などの研究を進め、十勝岳噴火では二十四時間の観測を続け、マグマの動きを的確に捉えるなど噴火対策に献身的に力を注いだのである。

掲載省略:(図)緊急避難図
  二十二、任期半ばの生涯
 十勝岳は、酒匂佑一氏が町長に就任した一九八三(昭和五八)年ころから徐々に活動が活発化し、有感地震や火山性微動などが観測され、一九八八(昭和六十三)年からの一連の噴火となった。
 昼夜を問わず繰り返された噴火は緊張の連続であり、特に約半年間に及んだ災害対策本部の指揮は、酒匂町長には相当の負担となった。
 一九九一(平成三)年に酒匂町長は体調を崩し入院、翌年十一月に任期半ばでその生涯を終えたのである。振り返れば十勝岳の噴火対策に奔走された町長時代であった。
 一九九二(平成四)年十一月二十四日、天皇より「勲八等を勲五等に叙し瑞宝章を授与」された。一九四〇(昭和十五)年に北京での兵役満期除隊により既に勲八等を受けていたため、このような叙勲となったのである。

掲載省略:(写真)勲五等瑞宝章授与証
掲載省略:(写真)晩年の酒匂夫妻
掲載省略:(写真)晩年の酒匂夫人とお孫さんの家族たち
  二十三、酒匂佑一氏とスポーツの関わり
 故酒匂佑一氏(以下酒匂氏)の公職を含めた履歴については前記の各項に記載されているのでそれらを念頭にして、スポーツとの関わりについて記していく。
 先ず、スポーツに関心を持ち、目覚めたのは旧制北海中学校(現北海高等学校)時代であった。
 次に、上富良野町の野球連盟、バスケットボール協会、卓球協会、スキー連盟関係と、各競技団体を総括して設立された上富良野町体育協会の歩みと共にあった酒匂氏のスポーツ人生を綴る。
(一)北海中学校入学

 一九一六(大正五)年、酒匂氏は深川村にて生まれる。測量士の父平右衛門の転勤に伴い、札幌市大通り西十一丁目に住んだ。酒匂少年は運動能力に長け、一九三〇(昭和五)年に北海中学を受験して合格、一九三五(昭和十)年(第十九回)卒業生として五年間北海中学に学んだ。
 同学の南部忠平氏は、北海中学校陸上部競技部での活躍は抜群で、当時の北海道中学校選手権では、走り幅跳び、三段跳び、百メートル、二百メートルリレーメンバーとして、北海中学校全盛時代の中心選手であった。北海中学校卒業後は早稲田大学に進みメキメキと力を付けた。
 一九三一(昭和六)年十月二十七日に開かれた第六回明治神宮体育大会の走幅跳で七・九八メートルを飛び世界新記録を樹立。一九七〇(昭和四十五)年迄この記録は日本記録としては破られていない。
 翌一九三二(昭和七)年八月四日、第十回ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳では一五・七二メートルを跳び優勝(金メダル)、走幅跳では銅メダルに輝いた。この金、銅メダル獲得の快挙に日本、札幌、北海中学校関係者はこの話題でおおいに喜び、盛り上がった。
 尚、札幌市円山競技場にあるセンターポールの高さは三段跳の記録由来となっており、このポールを「南部ポール」と呼んでいる。
 この時、酒匂氏は北海中学校三年生で、勉学の一方でスポーツ(スキー、バスケットボール、野球、卓球)の練習に励むと共に、この時代当然の事であった「軍事教練」にも打ち込んだ。酒匂氏は「南部忠平氏の活躍に大きな刺激を受け、母校の誇りに思う」と生前語っている。

掲載省略:(図)北海中学校校章
掲載省略:(写真)当時の北海中学校校舎
掲載省略:(写真)南部忠平氏


(二)北海中学校一年生の思い出

 一九八四(昭和五十九)年十月一日発刊の大雪山国立公園指定五十周年記念写真集「北海道大雪山」の中に、酒匂町長の任期中に記念事業推進協議会より原稿依頼があり、「私と十勝岳」と題しての一文が掲載されている。ここに全文を紹介し、若き少年時代に十勝岳の山スキーを楽しんだ事に驚くと共に、在りし日を偲ぶ。

掲載省略:(写真)愛読書
−私と十勝岳−
 私と十勝岳の出会いは、大雪山が国立公園に指定される前の一九三一(昭和六)年、まだ中学一年の春休みにスキーをやったのがそもそもの始まりでした。
 当時、札幌に住んでいた私は、その周辺のゲレンデばかり滑っていたので、本格的山スキーは初めて。シールもなくスキーに縄を巻きつけ、ツアーの一行に遅れまいとして懸命に登り、下りは地元の人達がボーゲンで降りるところを直滑降で滑り、皆を驚かせたのも今は懐しく思い出されます。
 その十勝岳も五十年を経て、昭和三十七年に噴火、また千三百m位から下では道路や旅館等も新しく出来、いささかの変化はみているものの、山そのものは変わりなく、昔と大した変化もなく、今も静かに噴煙を吐き続けています。

(三)上富良野町軟式野球連盟

 第二次大戦が始まり、終戦後の立直り期までスポーツどころではなかった。世の中が少しずつ落ち着き始めた頃、他のスポーツに先駆け戦前の野球仲間が「野球をやろう」と声が上がり、一九四七(昭和二十二)年に町内対抗野球大会が開催された。
 その時、中心になって活動した選手が、一九四八(昭和二十三)年七月十六日に「老年野球チーム」を結成し試合が行われた。
 その時に上富良野小学校バックネット前で撮った写真がある。筆者がわかる範囲で、後列の右から四人目に当時三十二歳の「酒匂佑一氏」、前列の左から二人目に「金子小二郎氏(昭和二十八年野球協会二代目会長)」、三人目が「海江田武信氏(昭和三十年第二代町長・昭和三十八年第四代町長)」がおり、後列の左端から「一色正三氏(昭和三十一年野球協会三代目会長)・佐藤敬太郎氏二尚橋七郎氏」と並んでいる。写真の二十九名の服装はバラバラで、野球道具も十分でない時代を反映している。
 これを期に、一九五〇(昭和二十五)年九月八日に「上富良野町野球協会」が設立され、初代会長に「堀内桂治氏」が就任し現連盟の基礎が作られた。
 初代会長堀内桂治氏は一九五三(昭和二十八)年三月で退任し、その間は町内対抗大会・職場対抗大会が発展し、地域や職場の応援も盛んであった。
 酒匂氏が当時住んでいたのは三町内(現富町)で、旧公民館(現富町一丁目)の棟続きであった。
 一九五二(昭和二十七)年五月四日、酒匂氏が住む第三町内が町内対抗大会で優勝した。その時の写真を見ると、優勝祝勝会は酒匂氏宅で行われ、前列左端に酒匂氏・前列右端に奥さんがおられる。当然、酒匂氏も選手として出場された。
 野球協会二代目会長に金子小二郎氏が、一九五三(昭和二十八)年から一九五六(昭和三十一)年三月までの四年間在任した。一九五五(昭和三十)年に自衛隊駐屯により、野球チームが一挙に増えた。
 三代目会長は一色正三氏が就任し、野球協会登録チーム増加の中で機構改革を行い、一九七〇(昭和四十五)年までの十五年間指導された。昭和四十五年度の登録チームは三十二チームであった。
 酒匂氏は、一九六六(昭和四十一)年より副会長就任と共に、新設された審判部長になる。
 一九七一(昭和四十六)年四月より、酒匂氏が四代目会長となり、一九八三(昭和五十八)年八月の上富良野町長に当選されるまでの十三年間、野球協会から軟式野球連盟への変更、島津球場・富原球場の新設、第三十四回天皇賜杯北・北海道大会の開催等と数々の功労があり、町長就任後は名誉会長に就いた。在任中の最大登録チームは昭和五十六年の五十チームである。
 町内の各職場チームの現役を引退した選手が、『老童野球クラブ』を結成し、酒匂氏も参加した。一九六八(昭和四十三)年の朝野球リーグ戦には監督として優勝している。
 老童野球クラブは、クラブ内で還暦を迎えた仲間を祝うことが慣例で、帽子・ユニホーム・運動靴がすべて『赤』で統一されて贈られ、酒匂氏も祝福を受けた。
 野球連盟は、毎年シーズン終了後に役員・審判員で納会を行い、その後に親睦マージャン大会がよく行われた。
その光景が下の写真で、左端が岩
猿進氏(戦車大隊長)、右端は山崎良啓氏(役場職員)で共に当時の副会長で、酒匂佑一氏は煙草を一服しながら応援見学のひと時である。


掲載省略:(写真)「上富良野町老年野球」結成大会(昭和23年7月16日上中グランド)
掲載省略:(写真)第3町内会が町内対抗野球大会で優勝し祝勝会(昭和27年5月4日酒匂氏宅において)
掲載省略:(写真)酒匂佑一氏の還暦祝(昭和51年9月25日老童クラブ)
掲載省略:(写真)野球連盟納会麻雀大会
《役職歴》
・副会長・審判部長(五年在任)
  自 一九六六(昭和四一)年 四月
  至 一九七一(昭和四六)年 三月
・会長(一三年五月)
  自 一九七一(昭和四六)年 四月
  至 一九八三(昭和五八)年 八月
・名誉会長(九年二月在任)
  自 一九八三(昭和五八)年 九月
  至 一九九二(平成 四)年一一月
(四)上富良野町バスケットボール協会

一九五五(昭和三十)年頃、上富良野中学校の本郷実先生が生徒を熱心に指導され、上川管内中体連大会で上位の成績を残し、優秀な選手を育て富良野高校・上富良野高校に進学させて競技を続けさせていた。
 この時期と同じ一九五五(昭和三十)年九月、自衛隊が駐屯して急速にバスケットボール熱が高まった。
 当時、自衛隊事務官の高橋新一氏、町内一般では三野宣●氏、本郷実氏、中村有秀氏らが相集い、自衛隊チーム(各大隊毎)・一般チーム・中学校チーム間で交歓の練習試合を数年続いて行っていた。
 その様な状況から、コート開き・招魂祭・神社祭典奉納・コート納めと、各種大会が開催されることになり、各チームの指導者、選手から『上富良野町バスケットボール協会の組織を』と強い要望が出された。
 一九六一(昭和三十六)年四月二十日、『上富良野町バスケットボール協会』の設立総会が開催され、会長に旧制北海中学校でも経験していた『酒匂佑一氏』(当時は上富良野町助役)が就任された。
 設立時の各チームから選出の役員は次の通りである。
 ・一〇四大隊 梨沢節三・山田 広・堀内孝雄
 ・戦車大隊  石田 節・千葉照男
 ・一二〇大隊 浜崎時夫
 ・業務隊   高橋新一・小林 雅
 ・町内一般  三野宣組・中村有秀
 以上の役員が、酒匂会長を支えて、バスケットボールの普及発展と競技力の向上に努められた。
  ◎会 長 自 昭和三六年四月二〇日
       至 昭和五〇年四月一八日
         −在任期間一五年−
(五)上富良野町卓球協会

 上富良野町卓球協会は、当時役場職員の渡部一彦氏、竹内教浩氏、自衛隊勤務の松永岩大氏・服部貞夫氏が中心に、卓球同好者の組織化を図ろうということになり、町助役でスポーツに理解のある酒匂佑一氏を会長として、一九六三(昭和三十八)年四月五日に設立された。
 設立以来、技術向上の練習会・職場対抗大会・道民スポーツ大会の参加・小中学生の指導・ママさん卓球の普及・卓球教室の開催等に、役員・指導者と共に会長として尽力された。
会長として設立以来、第七代町長就任の一九八三(昭和五十八)年九月まで、上富良野町卓球協会の発展に貢献された。

掲載省略:(写真)第3回全道市町村職員卓球大会=女子国体優勝=昭和52年10月 左から竹内監督・笹島主将・浅田千佳子・木内つね・三浦肇子
  ◎会 長 自 昭和三八年四月五日
       至 昭和五八年九月一日
         −在任期間二〇年五月−
(六)上富良野町スキー連盟

 上富良野スキー倶楽部が結成されたのは一九三一(昭和六)年で、初代会長に当時村長であった吉田貞次郎氏が就任され、第一回スキー講習会を十勝岳吹上温泉で開催した。
 一九二六(大正十五)年の十勝岳噴火による泥流が悲惨な災害を与えたが、一方で泥流が削り或いは堆積した斜面は、障害物が少ないスロープになり、新たに泥流コースとして楽しむものが出てきた。この評判が広まると、十勝岳が山スキーに好適として吹上温泉が利用されると共に、一九三二(昭和七)年に「白銀荘」(道営)が、翌一九三三(昭和八)年に「勝岳荘」(村営)が完成し、夏山、冬山の登山客が増えた。
戦後の一九五一(昭和二十六)年スキー倶楽部を十勝岳山岳会に統合して「十勝岳スキークラブ」とし、夏山、冬山を通して活動していた。
 スキーが町民に親しまれる様になって、町内の各職場や団体で愛好会が結成されるなど、スキー人口が増加してきた。この機に、さらに発展させるための組織改革の機運が高まり、一九六五(昭和四十)年三月四日、上富良野スキー連盟が設立され、初代会長に金子全一氏が就任し、酒匂佑一氏は監事に就いた。
 一九六六(昭和四十一)年十月に北海道スキー連盟への加盟が承認された。それにより、全日本スキー連盟会員登録、技術検定会、技術級の認定登録ができる組織力と体制が整った。
 一九六六(昭和四十一)年三月に初代会長の金子全一氏が退任され、第二代会長として遠藤景氏が就任されたが、間もなく勤務の関係で町外に転出した。この後を受けたのが、同年六月第三代会長に就任した酒匂佑一氏である。町長に当選した一九八三(昭和五十八)年八月で退任し、同年十一月定期総会で長年の功績に感謝し、上富良野町スキー連盟名誉会長として推戴する事に決定された。
 スキー連盟会長の在任中は、連盟組織の強化、指導者の育成を進め、基礎スキー教室、婦人スキー教室、夜間スキー教室、とスキー人口の拡大に務めた。
 教育委員会主催の十勝岳バススキーツアー、ウインターフエステバル開催運営の中心でもあった。
 一九六七(昭和四十二)年五月三日に全日本スキー連盟公認第一回十勝岳大回転競技大会を開催し、全道からトップスキーヤー一五七名が出場する大成功を収めた。この大会も昭和五十二年の第十一回大会で惜しまれながら終了した。
 翌年の一九七八(昭五十三)年四月二十三日から、町民を対象に「町民十勝岳スラローム大会」として継続された。
 なお、成田政一氏が執筆された「十二 自衛隊との共同活動」においてスキー、スケートについて記してある。

掲載省略:(写真)十勝岳の山スキー出発前(昭和30年前後・白銀荘前)
掲載省略:(写真)第1回十勝岳大回転競技大会の本部右:酒匂佑一氏(昭和42年5月3日温泉スロープ)
 《役職歴》
 ・監 事(一年三月在任)
    自 一九六五(昭和四〇)年三月
    至 一九六六(昭和四一)年五月
 ・会 長(十七年三月在任)
    自 一九六六(昭和四一)年六月
    至 一九八三(昭和五八)年八月
(七)上富良野町体育協会

 上富良野町体育協会は、一九四七(昭和二十二)年に山本逸太郎氏が会長となり設立されたが、野球・武道以外のスポーツの普及がなかったことから、一九四九(昭和二十四)年に将来を約し解散された。
 自衛隊の駐屯と一九六四(昭和三十九)年に開催された東京オリンピック大会により、本町のスポーツ発展は種目・人口ともに目ざましい状況になった。
 この状況から、一九六六(昭和四十一)年十月に体育協会設立の声が関係者から出され、設立準備委員会が開催され、設立準備委員長に「酒匂佑一氏」(当時消防長)がなった。
 一九六六(昭和四十一)年十二月十六日に、体育協会設立総会が九団体参加により開催され、初代会長に一色正三氏、副会長に酒匂佑一氏・高橋寅吉氏・渡辺弘二氏の三名、理事長に飛沢尚武氏を選出した。
 初代会長一色正三氏は体育協会の基礎をつくられ、一九七一(昭和四十六)年三月までの三期六年間の任期を終えて、酒匂氏が二代会長に就任した。
 体育協会加盟団体と会員数の増加により、町民のスポーツへの関心が高まり、それによって「施設の整備と拡充」「指導者の育成」「次代を担うスポーツ少年団の育成」「管内・全道・全国大会への出場」「スポーツ教室開催」と、体育協会に様々の課題と要望が出てきた。
 酒匂会長は、長年のスポーツ経験と役場職員・教育長・助役を歴任した豊富な見識を生かし、一つ一つの関係者と協議を行い、その対策と実行を進め、スポーツ振興に多大な貢献をなした。
 酒匂氏が、体育協会長に就任した時の加盟登録は十二団体であったが一九八三(昭和五十八)年八月の町長当選による体育協会長退任の時、加盟登録は二十三団体と大きく発展していた。
 《役職歴》
 ・副会長(四年四月在任)
    自 一九六六(昭和四一)年一二月
    至 一九七一(昭和四六)年 三月
 ・会長(一二年五月在任)
    自 一九七一(昭和四六)年 四月
    至 一九八三(昭和五八)年 八月
    −第七代町長に当選により退任−
 酒匂佑一氏が体育協会退任後、飛沢尚武氏−千葉陽一氏−元木俊明氏が歴任され、現在は芳賀実氏が会長として伝統と実績を引き継ぎ、「上富良野町体育協会五〇周年」を二〇一八(平成三十)年二月十七日に祝った。
 スポーツ関係の担当筆者である中村有秀氏は、一九六六(昭和四十一)年の体育協会設立準備委員として参画以来、特に一色正三氏、酒匂佑一氏・飛沢尚武氏の会長時期には協会の振興充実に尽力し、体育協会の理事・事務局長・理事長・副会長と、二〇一二(平成二十四)年の退任まで四十六年間在任して大きな功績を遺している。

掲載省略:(写真)体育協会20周年記念「衣笠祥雄氏」スポーツ講演会の折(昭和63年10月7日)
掲載省略:(図表)酒匂佑一氏『体育協会と各加盟国体』の役員歴年表
(八)軟式テニス・ソフトボールでのプレー

 軟式テニス協会の設立や役員歴はないが、戦前の北海中学校及び北京時代に、テニスを積極的にプレーし楽しんだと述懐されていた。
 上富良野町郷土をさぐる会の元副会長であった勝井勇氏が、会誌第二十号の『我が人生に悔いなし、思い出ずるままに』の文中に、「テニスを興じて」の項で次のように、往時を思い書かれている。
『上富良野小学校勤務時代は、旧役場の中庭に設けられたテニスコートで、本間庄吉氏・金子小二郎氏・酒匂佑一氏などと、日が暮れるのも忘れて遊んだものだった』
 今回の取材で、酒匂氏が『サーブを打った瞬間』の写真を見つけた。写真は六十歳代とのことだが、スポーツ万能である酒匂氏の経験に裏打ちされた、見事なフォームに驚いたところである。
 ソフトボールでは、住民対抗大会で選手として出場し、バッターの打撃姿勢に入っている貴重な写真と、住民会対抗ソフトボール大会開会式の様子を記録した写真もあったので合わせて掲載する。
 軟式テニスのサーブで、またソフトボールのバッター雄姿で、酒匂佑一氏のスポーツへの集中力の凄さを感じるとともに、往時を偲びたいと思う。

掲載省略:(写真)軟式テニスを楽しむ
掲載省略:(写真)住民会対抗ソフトボール大会でバッターの酒匂氏(昭和59年8月28日上高第2グランド)
掲載省略:(写真)住民会対抗ソフトボール大会での役員。
左から酒匂町長・平井道議・小野議長・久保教育長(昭和62年8月30日上中グランド)
(九)スポーツ関係の表彰受賞歴

 酒匂佑一氏は、長年の行政経験と業績に対し、防衛功労賞・自治功労賞等の数々の表彰を受賞しているが、スポーツ関係については次の通りである。
○上富良野町スポーツ賞
 一九七六(昭和五十一)年に、『上富良野町スポーツ賞』が制定された。第二号として、長年にわたって上富良野町のスポーツ振興と発展に寄与された功労により、同年十一月三日の文化の日に表彰を受けた。
○北海道体育協会功労賞
 北海道体育協会創立五十周年記念として、加盟地方団体功労者として、一九八二(昭和五十七)年九月二十五日に表彰を受けた。この時、酒匂佑一氏の北海中学校の大先輩『南部忠平氏』も特別功労賞を受け、式典後に南部忠平氏と挨拶を交わし、ひととき懇談をされた。
掲載省略:(写真)酒句会長 南部忠平氏と共に懇談
  −お礼の言葉−
上富良野町旭町三丁目五番二〇号
                   梨澤 節三
 当時の事を考えますと、一九八八(昭和六十三)年十二月のクリスマスの時の十勝岳爆発と、明けて正月の天皇崩御による、昭和から平成への元号変更のダブルパンチにより、町が火の消えたようになりました。更に私事ながら、三月に私が媒酌人として予定していた結婚式まで延期となりました、役場職員にも同じような方がいたときいています。
 さて、詳しいことは分かりませんが、この頃から上富良野駐屯地拡張の話があり、義父とその当時の磯島恒夫駐屯地司令とは、十勝岳噴火対策と併せて苦労をしていたようでした。
 その後、平成三年頃義父は食道癌の手術をし、これによる入退院を繰り返すようになり、それとともに駐屯地拡張の話も具体的になってきて、当時助役を務めていた今は亡き安田英雄さんが、町長代行ということで最後の詰めをなされ、駐屯地は現在立派に拡張整備されています。有難うございます、お世話になりました。心からお礼申し上げます。
 また、この後上富良野駐屯地の部隊削減が新聞に報道されました。当時、私が隊友会上富良野支部長でしたので、美瑛町・上富良野町・中富良野町・富良野市・南富良野町・占冠村の各議会に、上富良野駐屯地の部隊(隊員)削減反対の意見書提出をお願いしたところ、全議会が賛成可決をし関係機関へ意見書が送付されました。各議会議員の皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。
 郷土をさぐる会の皆様には大変お手数をお掛けして、記録に残していただきましたことにお礼申し上げます。今後益々上富良野町の為にご活躍されることをご祈念申し上げましてご挨拶と致します。
《編集後記》
 郷土をさぐる会の『語り継ぐ事業』として、前号と本号の前後篇で「名誉町民酒匂佑一氏」を特集した。往年の活躍が広範かつ多方面であるため、当会の編集委員及び協力者の合作で、稿をまとめることが出来た。なお、この機会に酒匂佑一氏に関わる人たちについても記述を広げ、また、往時を振り返られるような写真等を多数掲載したので、膨大な記事となったことをご理解願いたい。
 なお、前篇における「編集後記」において、全体の項分けと執筆担当を一覧にして掲載したが、新たに当会の田中正人編集委員担当による「十七、高齢者事業団の取り組み」を挿入したため、項番号に変更が出たことから、訂正して再掲する。
 各項ごとの分担は、名字のみの記載になるが、次のとおりである。
 編纂総括野尻
  一、一通の手紙 野尻
  二、酒匂家のルーツ 野尻
  三、母力子さんと桐野利明の関係 野尻
  四、酒匂家の戸籍から 野尻
  五、酒匂家の足跡 野尻
  六、全国市町村に教育委員会を設置 成田
  七、成田氏の酒匂佑一氏との出会い 成田
  八、移動公民館活動 成田
  九、青年学級の開設 成田
  十、ボーイスカウト発足 成田
 十一、教育長時のスポーツ・社会教育活動 成田
 十二、自衛隊との協働活動 成田
 十三、酒匂佑一氏助役に就任 野尻
 十四、道議会議員選挙への立候補 野尻・中沢
 十五、苦難の日々を乗り越えて 野尻
 十六、酒匂町長の業績 野尻
 十七、高齢者事業団の取り組み 田中
 十八、十勝岳噴火対策 野崎・三原
 十九、苦悩の避難解除 野崎・三原
 二十、噴火対策の強化 野崎・三原
二十一、二人の火山学者の支え 野崎・三原
二十二、任期半ばの生涯 野崎・三原
二十三、酒匂佑一氏とスポーツの関わり
  (一)北海中学校入学 中村
  (二)北海中学校一年生の思い出 中村
  (三)上富良野町軟式野球連盟 中村
  (四)上富良野町バスケットボール協会 中村
  (五)上富良野町卓球協会 中村
  (六)上富良野町スキー連盟 中村
  (七)上富良野町体育協会 中村
  (八)軟式テニス・ソフトボールでのプレー 中村
  (九)スポーツ関係の表彰受賞歴 中村
−お礼のことば− 梨澤

機関誌      郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷      2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀