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学校の統廃合シリーズ(5)
我が故郷と昔の生活を想う

富良野市花園町 北條 廣史
昭和16年7月14日生(75歳)

  故郷紹介
 私の生まれ育った故郷「清富」は、上富良野町市街地から東方角に、十勝岳に向かって約15キロの地域で、上富良野町のなかでも最も奥深い処でありました。
 正面に秀峰十勝岳が活火山として雄大に白い噴煙を上げており、毎朝その山の山頂から朝日が立ち昇って、実に絵に描いたように大変美しい光景を眺めることが出来ます。また、山奥の為か、自然に恵まれ、一面は緑地が多く、一方河川は清流で、一言で表現するならば「水清き、緑豊かな我が故郷清富」の地であります。
 清富地区は昔大地主の牧場として開拓され、地主さんの苗字から地名「松井牧場」として登録されており、私も結婚前の戸籍謄本を見ると、本籍地に「上富良野町字松井牧場」と記されておりました。
 その後の地名が、一般的で現代風の清富に変わりましたが、その後も時々松井牧場の住所で封書が来ていました。現在に於いては、清富の住所が一般的に使われているようです。
 清富は、3つの大きな沢に分かれており、1番目の沢が「柳の沢」、2番目の沢は「本流の沢」、3番目が「清水の沢」で、沢毎に1から3部落に分かれていました。従って柳の沢が「清富1」、本流の沢が「清富2」、清水の沢が「清富3」となり、住所も農事組合も、各々に分かれておりました。3部落合せて約40戸の農家があり、約250人の住民が住んでいたように記憶しております。
 私が出生した場所は、清水の沢で隣町の美瑛町境に面しており、3つの沢で一番奥にあたります。
 清水の沢を奥に更に進むと、美瑛町の白金温泉に辿り着きます。従って幼い頃から何回も温泉に入浴に通ったことを時々思い出します。

掲載省略:(図) 昭和37年清富地区住居図

  幼少期のくらし
 私が生まれたのは戦時中の昭和16年ですが、終戦時は4歳の時でした。3歳頃までの記憶は殆どありませんが、4歳の終戦の記憶としては、真夏の昼下がり頃、十勝岳の方向から大変大きな轟音がするので、十勝岳を見ると頂上付近から豆粒のような黒い物体が2つ見えました。
 その後眺めていると音が段々と大きくなり、更に物体も大きくなり、その時近くにいた母親が、私の襟首をつかみ物陰に隠してくれました。その隠れた直後に爆音と共に、後でグラマンだと聞きましたが、戦闘機2機が低空飛行で頭上を飛び去って行きました。幼いころの記憶で明瞭ではありませんが、その機体は灰色がかった紺色で、胴体に大きな白い星が印されており、戦闘服を着た操縦士が下の方を見ている姿が見え、爆音と共に身が震えました。
 更に数分後再び十勝岳頂上付近から同じ様に2機が飛んできましたが、前機同様低空飛行で西方向へ飛び去りましたが、私たちの近くにあったポプラ並木が左右に激しく揺れ動いて、その恐ろしさは今なお、私の記憶に強く残っています。
 その後父から聞いた話から、この時に交通網の要所である富良野駅に爆弾が投下され多数の死者と建物など多くの施設が破壊されたと知りました。
 また、その当時の生活を振り返ってみると、終戦直後であり、食料品をはじめ、生活物資が極端に少なく、また全ての物が配給制で余裕がなく、生きていく為の最低な生活でした。
 まず食料品ですが、主食は麦飯又は馬鈴薯で副食に南瓜、焼(蒸し)パン、麺類などでした。また砂糖等の甘味料がないため、焼きパンとか煮物に母親が砂糖の原料となるビートを煮詰めて出来た煮汁をかけて食べたり、サッカリンという人口甘味料を使って甘味をつけていました。
 また衣服等は兄からのお下りが多く、衣面はつぎはぎだらけの衣服を身に着けていました。
 この様な生活は、現代の人にとっては想像がつかないと思います。
 一方住居ですが、父親が中心となり、小高い山の中腹を削り、その土を平らにした所に掘建住宅を作り住んでいましたが、私の家族は10人となり、その後大変大きな家を建築してくれました。しかし、使用する資材については、父が何年も前から事前に用意したと後で知りました。
 建設時の記憶として棟上げの時は、部落の方々が10数名来ていただき、朝から晩までかかって骨組みと屋根の草葺は完成することができました。その後父と子どもの私たちが中心となり、側面の土壁造りを行いました。その土壁は比較的粘土系の土に強度を保つ為に、切り藁を水で調合し、私たち子どもは裸足でその土を練り合わせ、バケツに入れて父親の所に運んで行き、その粘土を板ベラで壁に塗って仕上げていきました。その後、父は床と天井に板をはり完成させました。その間、着工から完成までに要した期間は1年近くかかりましたが、まちに待った大きな住宅が出来上がった時は大変嬉しかったです。居間、座敷が5部屋、台所、玄関で全部で8か所に仕切られ、私はすぐ上の兄と同じ部屋で寝起きする事になりました。

掲載省略:(写真) 建築用資材づくり作業風景
  清富小学生の生活
 私も満7歳になり、地元の清富小学校に昭和23年に入学しました。学校は、我が家から3キロの道程があり、木造建築で教員室と教室が2つ、古い校舎を改造した体育館、便所がありました。私たちは複式学級で1〜3年生と4〜6年生に分かれて学びました。
 校舎は全体が木造のため所々隙間があり、特に冬は寒く、体育館の床は古い板面のため、素足で走ると怪我をしました。また冬季の暖房は石炭と薪の併用で、暖房用の薪は通学児童の家庭から持ち寄り使用していました。
 全校生徒が約50名程度でありましたが、その後農家戸数の減少に伴い生徒数も減少し、平成18年に73年間の幕を閉じ、閉校式には私も出席させていただきました。閉校式には大勢の同窓生が参加し、私も卒業し60年以上経過しておりましたので、大きく変貌し分らない方もおりました。私の同級生も5名出席し、同じテーブルで大変懐かしい昔話に華が咲きました。
 振り返ってみると、当時の小学校の授業は終戦間もない時代で、先生もかなり不足しており、私の担任の先生は高校を卒業したばかりの若い女性の代用教員で、小林啓子先生でした。また、私の同級生は戦時中の人手不足から、国の方針として、子どもを多く産むことを奨励されていたためベビーブームとなり、清富小学校の歴史のなかで学年児童数が一番多く、13名の同級生がおりました。また毎日の授業ですが、複式学級の為に3分の2くらいは自習で、何回も教科書を読んだり、ノートに色々な事を書いて学んでいたことが思いだされます。
 先に述べたとおり、生活が厳しく帰宅すると家事手伝いが沢山あるため、復習するなどの勉強はほとんどできませんでした。更に真夏の繁忙期になると「学校休んで家の手伝いをしなさい」と親に言われるので、朝になるとこっそり隠れて登校した日もありました。また通学は兄、弟と近所の友だち4、5人で、約3キロを徒歩で通学しました。特に帰り道は、帰ったら家の手伝いが沢山あったので、下校時間帯が同じ友達と時間をかけて帰りました。道端で相撲をとったり、近くの林から小枝をとってチャンバラ遊び、小川では魚釣り等毎日が楽しみでした。
 家での私の主な手伝いは薪運び、風呂の水汲み、馬の飼料となる草刈、年下の妹、弟の世話など数多くありました。しかしながら、辛いことばかりではなく、楽しいことも沢山ありました。
 その中でも年に一度開催される運動会もそのひとつで、運動会には一家総出で参加し、運動会最大のイベントは3部落対抗リレー競争と綱引きで、子どもから大人までが参加し大変盛り上がりました。
 また運動会の昼食は、各々の家庭で作ったおいしいお弁当が食べることができ、とても嬉しかったです。特に私は母親の作った海苔巻寿司と稲荷寿司が大好物で、今でもその味を時々思い出します。運動会当日には、道端にアイスキャンディー、菓子類玩具などの露天商が店を開いて、親から小遣いをもらって買ったことも楽しい思い出であります。

掲載省略:(写真) 平成18年3月19日清富小学校閉校式
掲載省略:(写真) 清富小学校第16回(昭和29年)卒業生

  地域の思い出
 清富地区での当時の生活は、現在においては想像もつかないほど大変厳しかったために、今も印象強く残っているのだと思います。
 雪が解けて春になると、山や川が多い清富地区は沢山の山菜が生い茂り、フキ・ウド・セリ・みつ葉等食用として採り、自宅は勿論多くの知人宅に届け大変喜ばれました。
 また、夏には祭事が多く、8月1〜2日は町の夏祭りや盆踊り大会があり、9月には地域の部落祭りがありました。青年部の方が色々な企画をし、小学校の体育館で旅芸人の芝居や映画上映など、その日は仕事を休んで家族全員で見に行きました。
 秋になると、落葉きのこをとり、山ぶどうやこくわ等木に登って食べました。
 冬になると、父親が近くの山林から切り出して乾燥させた木材で手造りのスキーを作ってくれました。そのスキーで通学し、授業が終わると友達同士で学校前の急斜面を利用してスキーを楽しむことができました。冬は天気の良い時はスキー遊びに明け暮れ、天気の悪い時は、かるた・スゴロク・トランプなどで遊びました。
 清富地区では、毎年元旦に清富神社に初詣後小学校に地域住民が全員集合し、部落会長さん、校長先生から新年の挨拶後に婦人会の方が用意してくれた料理やお菓子、飲み物を頂きながら夕方まで楽しく過ごしたことが今も忘れることはありません。
 今考えてみると、普段の生活が厳しかったために、その反動でまさしく楽しさが何倍にも感じられたと思います。
 大きな出来事といえば、小学3年生の時に家に電気がついたことです。私は産まれた時からランプの生活で、常に暗い所で生活していましたので、この通電により部屋が一段と明るくなり大変気持ちが良かったことです。この電気は清富の3つの沢から流れ出した水を堰き止めて用水路を造り、段差のある場所に導水し落差を利用して水車を回し発電用モーターを通じて自家発電したものです。この通電により、清富地区一帯に電灯による照明がつきました。
 しかしながら、発電量が少ないため、各戸においては節電を余儀なくされ、居間以外での照明ワットを下げるか、消灯するよう指示がありました。また私の家に、数か月後ラジオが購入され、日々のニュース、天気予報等を聞くことができました。これにより、農作業の準備や日常生活に大変役立ちました。

掲載省略:(写真) 昭和30年正月家族で白金温泉で


  中学・高校の通学
 清富小学校卒業後、市街地にある上富良野中学校に入学し毎朝6時に起床し、7時過ぎに自転車で出発し約8時に学校に登校しました。
 当時は、道路が砂利道で大変状況が悪く、加えて山坂の登り降りが私の体力では大変厳しく自宅に着いた時は体力の消耗が激しく、特に雨、風の強い悪天候の日は通学時間も登校には1時間、下校時は1時間半かかりました。
 この通学の辛さは今尚忘れる事はできません。しかしながら、この通学の為に新しい自転車を親が買ってくれた時は、大変嬉しく感激した事も忘れる事ができません。
 前述の通り同級生は13名いましたが、12名が途中にある日新中学校に進学し、上富良野中学校に入学したのは私1人で、通学の際はとても孤独でした。通学距離が違うため、登下校の際は時間帯が合わずあまり会う事がありませんでしたが、時々私が早く帰る時、或いは級友が中学校で居残って遊んで居た時に会う事ができました。会った時は皆と学校の話など色々な事を話し合い、一緒に帰ったこともありました。
 なぜ私1人が、市街にある上富良野中学校に入学したかというと、私の父から「お前は当家の4男である為、農家として分家をさせる土地が無いから、何とか頑張ってサラリーマンになる様進学を目指して学業で頑張りなさい」と言われたからでした。
 考えてみると当家は清富の中では畑作面積規模が大きい方で常に人を雇って経営していましたが、4人を分家させる程の規模ではなかったと思われます。そのため、就職できる様勉強をさせ、社会に送り出す親の考えがあったからこそと思います。
 私も親の期待に応えようと頑張りましたが、成績は余り良くなく中程だったと思います。3年後、なんとか高校に合格し更に3年間通学する事になりました。この6年間の通学の中で色々思い出す事がありますが朝出発時に母親から帰宅時に買物をして来る様指示があり、渡された注文書のメモを登校前に市街地にある商店に渡して、帰宅時に立ち寄って買物を自宅に持ち帰る事でした。
 買物については日常の食料品が主でありましたが、中でも苦労した事は父親の晩酌の1升瓶でした。なぜならば瓶の為に形が変形で、更にガラス製の為に割れる可能性があり、その上中味が水分なので非常に気をつけて持ち帰ったものでした。また持参の方法は大きな風呂敷に巻いて肩から背中に背負って大事に帰りました。
 冬期は自宅からの通学は困難の為、街に比較的近い姉の嫁ぎ先(富原地区)にお世話に成りました。近いと云っても片道30分以上の道程があり、5年間徒歩で通学しました。学生生活最後の3年生の時に初めて駅前に下宿し、6年間の通学に終止符を打ちました。
 嬉しかった事は、何と云っても高校3年の時にオートバイを買ってもらった時です。私は上富良野から富良野迄汽車通でしたが買ってもらった時は汽車に乗らずに直接高校までオートバイで登校しました。
 この時に級友をはじめ、沢山の生徒が物珍しく寄って来て、車体を触ったり車にまたいだり大騒ぎしました。この時ばかりは私もいい気になり、すっかり有頂天になりました。
 また学生生活12年間を終えて思った事は、入学する度に真新しい制服をはじめ、色々と経済的に大きな負担をかけた事が、今となって両親をはじめ兄、姉の協力があった事を思う度に感謝の気持ちでいっぱいです。

掲載省略:(写真) 中学生の私

  むすび
 高校卒業後、富良野市内の民間企業に就職しましたが、入社後様々な現場や事務、更に転勤を繰り返し43年間のサラリーマン生活を無事終える事ができました。
 振り返って見ると幼少期の貧困生活体験、そして学生生活の多くの家事手伝い及び通学時の苦労等々、以後の社会生活の中で精神力、忍耐力が大いに役立ったと考えています。現在は年金生活で住宅に隣接する畑で野菜等を栽培し、時々孫に会う事を楽しみに生活して居ります。
 今年のお正月には、久しぶりに北條家いとこ会が懐かしい白金温泉で開催され、姉妹たちとともに楽しいひと時を過ごすことができました。
 私も年を重ね、今一度故郷を振り返る機会を賜りましたことに感謝申し上げます。

掲載省略:(写真) 今はもうない清富の実家で在りし日の父母と家族一同
掲載省略:(写真) 今年平成29年正月の久しぶりの『北條家いとこ会』、上の家族写真の子供たちは「おじさん、おばさん」になっていた。

機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀