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学校の統廃合シリーズ(5)
閉校記念誌『きよとみ』より

清富住民会長 村上 多麻夫(59歳)

  はじめに
 郷土をさぐる会から、特集として連載している「学校の統廃合シリーズ」で、「清富小学校」を取り上げるので原稿をお願いしたいとの依頼を受けましたが、閉校当時に清富小学校閉校事業実行委員会長を務めたことから、閉校記念誌に寄せられた貴重な文章を思い起こしました。
 2006(平成18)年3月19日、上富良野町立清富小学校の閉校式が地域住民と多くの関係者を招き執り行われ、同時に記念誌を出版する事となり、前住民会長の大内吉治さんを中心に竹内和彦、原田英敏、松田朋広さんの4名の編集委員と多くの関係者の皆様の協力により、記念誌『きよとみ』とDVD『清富小学校の思い出』が完成致しました。文中に挿入した写真は、この中から使わせてもらいました。
 大先輩のものから最近の卒業生まで、記念誌に寄稿いただいた清富小学校の思い出の中より、清富小学校の変遷と時代背景を記されたものを、私の一存でいく編か選びました。また、紙面量の都合があるとのことで、寄稿者にご了解を得ないままで心苦しいのですが、一部抜粋をしながらご紹介したいと思います。


閉校時の清富小学校全景。現在は「清富多世代交流センター」として使用中
◆母校の閉校に寄せて
          1935(昭和10)年卒業生 三浦イツ子(倉谷)

―前略―清富に学校がなく、1934(昭和9)年12月に清水沢特別教授場が設立され、盛大なお祝いがあり、大歓声をあげた思い出があります。初代遠藤金吾校長ご夫婦が着任され、それからは学校が楽しくてなりませんでした。私は6年生で5名、明春卒業で卒業記念樹として梅の苗木を贈られ嬉しゅうございました。学校で休み時間はお友達と、おはじき、あやとり、糸取りなどで遊び、楽しく笑った思い出があります。―中略―
 私が心に残っておりますのは、1979(昭和54)年、私達老夫婦が農業休業した折、当時竹内正夫さんや村上國夫さん始め役員さんが町、住民、学校との会議の結果、三浦に小使いをと、ありがたいお話を下さり、重大な責務と思いましたが、2人で力を合わせ精一杯勤めさせて頂く事になりました。夫は8年、私は2年勤め、安定した生活を過ごさせて頂き、心より深く感謝しております。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和10年卒業生


◆清富小学校の閉校に思う
          1941(昭和16)年卒業生 石川 潤

 昭和初期の日本経済の景気は悪く、恐慌が深刻な時期でした。特に、1929(昭和4)年には世界経済が大恐慌になり、農民の打撃は大きかった。この時期、内地から開拓民として40余戸の農家が一斉に「清富」に入植してきた。
 清富は上富良野市街地から3里(12q)の最僻地で、交通手段は歩くだけだった。北海道開拓初期の植民区画設定の中で「清富」は、牧場として選定された。即ち、「山岳の麓」「丘陵地」「沢の奥地」のため農地に適せず、放牧地で家畜の飼育に適する土地と決められた。1932(昭和7)年頃「清富」は、松井牧場と言われておったが、北海道開拓計画の方針で松井牧場は農地として分割され、40余戸の農地に売渡された。―中略―
 学童が急激に増えたため、清富に学校を設置して欲しいと村長に陳情したが、財政苦のため断られた。そこで父母達は自力で清富に学校を建てる決心をした。
 昭和7年頃は、冷害凶作の連続で大不況の時でしたので、学校を建てるのは容易なことではなかった。しかし、清富入植者の一心団結の総意で、拠出金を出せる人は金を、木材等を出せる人は現物を、他の労働力の提供もあり、学校を完成させた。総面積50坪(約130u)の建物で、教室と先生の居宅が一緒になっておった。総工費は金1,300円でした。―中略―
 1934(昭和9)年12月に開校した。「日新尋常小学校清水沢特別教授場」と名付けられた。清富小学校の歴史の最初の名であります。
 1935(昭和10)年4月、私は開校最初の1年生になりました。級友は9名、全校生徒は42名の小さな学校でした。先生は1人で、1年生から6年生まで同じ教室で勉強を受け持っておられた。清富の生徒の家は貧しく忙しいので、朝早く子ども達を追い払う様に登校させたが、生徒は学校へ行くのが最大の楽しみであった。学校としての設備は十分整っておらぬが、遠藤先生の愛情のある教えは特筆すべきものがあった。1年生から6年生の生徒は仲が良く、教室の中は温かい雰囲気がただよっておりました。特に、先生からは、生徒自身に自主的意欲を持って勉強に励む様、教育を受けました。又、先生からは、夢をいっぱい貰いました。
 世の中は広いこと、努力すれば報われること、小さい学校でも大きい学校に勝てること、やれば出来るんだという「清富魂」を叩き込まれたことは大きな財産でした。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和16年卒業生


◆小学校の想い出
          1946(昭和21)年卒業生  原田 清

―前略―私達小学生の頃は1年生から6年生まで1教室で勉強し、校長先生1人で低学年は午前中授業、高学年は自習午後から授業でした。まだ、開拓の浅い地区だったので道路状態も悪く雨降りの日はぬかるみの道を登下校していたのです。2年生の12月8日、太平洋戦争が始まり教材・衣料品・食料共に不足になり大変な時代に入ったのでした。
 小学校6年生の時の事ですが、毎年高学年が自習地として借用し農作物を栽培して修学旅行の費用として売って積立てていました。昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れて今まで考えもしなかった事が、大人達の話す言葉を聞きながらこの先日本の国はどうなるのか、不安と絶望との中で学校はどうなるのかと思いました。数日後、夏休み中のグラウンドへ行った所、4人ぐらいの友達がいてお互い何言うこともなく心に傷を持っていたのでした。
 学校の一部に馬鈴薯を植えて余ったのを抜いて、収穫にはまだ早い若いいもを本流の川で流して遊んでいる所を同級生の校長の娘さんに見つかりました。すぐ校長先生に呼ばれたので行きました。
 当時、校長先生は体調が悪く家で療養して居たのですが窓を開けて、「お前達今何をしていたのかな。日本は戦争に負けたが新しい日本を作るのはお前達だ」と言われ、悪い事をして申しわけないと思いながらそれぞれ別れて帰宅したのです。―中略―
 今まで習っていた教科書は全部ではありませんが、米国の方針で変わり、米国に反する所は全部スミで塗りつぶして黒い教科書になってしまいました。
 子供心にも傷がつき目標も希望もなく勉強に集中できなくなったのは事実でした。―中略―
 以前の卒業生は謝恩会などがありましたが何もなくもちろん卒業記念写真もありません。戦後の物資不足だと思いますが、小学校6年間は波瀾な時代であった事は心の中に深く残っております。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和17年頃の清富国民学校のとき。昭和21年卒業生の写真は撮影されていない。


◆私の思い出
          1958(昭和33)年卒業生 佐藤 繁雄
―前略―先生は森崎校長先生、そして西道先生、小林先生の2人の女性の先生でした。校舎は上手に一番古い校舎が体育館として使われていて、中央に職員室が有り下手に児童の教室が2つ有りました。
 児童数は1学年10名前後で全児童数は60名から70名位の人数だったと思います。
 当時の学年割は今の様に低学年、高学年では有りませんでした。1年生、2年生、そして6年生が1教室でした。先生が忙しい時に、6年生が低学年の面倒を見るというようになっていたと思います。6年生の時に「今日は6年生が、1年生に体操を教えて下さい」と先生にたのまれ、1年生に体操を教えました。でも、なかなか言う事を聞かなくて困った事を覚えています。
 1年間の最大の行事は6月の運動会でした。当時は今の様に土曜日とか、日曜日ではありませんでした。町内で各学校の日にちが決まっていました。
 清富小学校は、6月16日で町内では最後だったと思います。近くの学校では、草分小学校が6月10日、日新小学校は6月14日、上富良野小学校は6月15日でした。
 今は運動会の前日にPTAの奉仕作業がありますが、当時は今の様に資材がない時代でしたから、青年団の皆さんが前日の朝から1日かけ足場丸太で小屋がけをしたり、色々と大変な思いをして準備をしてくれました。
 当時の学校には、放送機器がなく、町の電気屋さんから放送用具を一式借りてきて運動会の放送をしてくれました。児童数も多かったので、お客さんはグランドの外側いっぱいになる程で、1年生、2年生は昼になると親をさがすのが大変でした。
 何と言っても力の入ったのは、最後に行う部落対抗リレーでした。対抗リレーには優勝旗が有りました。1組は学校より下の方で柳の沢、2組は一心組合の有る本流の沢、3組は今の道道を白金に向かう清水の沢、その奥に4組の開拓がありました。4つの沢の人達がそれぞれ1年生から6年生まで足の速い選手を選び大人の人達も沢ごとに分かれてリレーをして、その勝負に部落の皆が熱狂した事を覚えています。私は足が遅くて6年間一度も出た事はありませんでした。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和33年卒業生


◆清富小学校の思い出
          1968(昭和43)年卒業生 喜多 静子(佐藤)

―前略―私は1962(昭和37)年に入学しました。同級生は8人位いたと思います。当時の教室、体育館は今は壊されてありませんがたしか木造で、すき間風が入り冬のストーブの回りだけが暖かく端の人は手足が冷たくなる位寒かった気がします。給食も今の子供達のようには無かったので毎日親の作ってくれた弁当をお昼近くになるとストーブの近くにならべ温めて食べたものです。教室は低学年1・2・3年生と高学年4・5・6年生の2クラスでした。
 その当時の先生は川本校長先生と伊藤先生と森本先生3人でした。伊藤先生は私が入学した年に来られて6年の卒業までおられた先生なので、一番お世話になりました。私が入学して間もなく十勝岳が大爆発を起こして大騒ぎになりました。私の家は山に近かったので石などが飛んで来ると危ないというので夜中に家族でおにぎりを作り近くの集会場へ避難した事がありました。
 あの時の真っ黒な入道雲の様なもくもくとした煙は空を覆い昼でも暗くなって子供心に恐ろしかったです。幸いに風が反対方面にふいたので被害も全く無く学校にもすぐ通える様になって良かったと思いました。
 夏は運動会、冬はスキー大会、ドッジボール大会、卓球大会、練習に汗を流したことが楽しかったです。私が卒業する時は私と友ちゃんの2人でしたが、同級生は2人だけでは無いと思っています。同じ教室で学んだり、体育館で一緒に遊んだり、笑ったり泣いたりした友は、年下であっても皆同級生の様な気がします。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和43年卒業生
掲載省略:(写真) 昭和30年代スキー授業の様子


◆清富小学校の想い出
          1979(昭和54)年卒業生 大内 和行

 人家の疎らな砂利道を通学路として当たり前のように通った6年間、いろんな事が思い出されます。1年生の頃、ランドセル一杯に教科書をつめ足より大きめの靴をはき、ひきずるように歩きながら学校に行ったものでした。帰りに歩き疲れて座り込んでいると通りかかった車に乗せてもらったり、バスが通る時間などはたまに乗せてもらい嬉しかった事を記憶しています。自転車で通った時は砂利道にハンドルをとられ転んで泣きながら帰ったり、冬はわざと深い雪の中を歩いて長靴を雪まみれにしてよくおこられたものでした。
 1年生の時から複式学級だったので、学年にとらわれる事なく皆が共に学び共に遊び、清富の豊かな自然の中で多くの事を学び体験出来ました。
 運動会や学芸会などの行事は、生徒数が少なかったため出番もたくさんありました。大道具や小道具を作ったり、放課後も残って準備や練習に、先生方と一緒になって取り組んだものです。小規模校ならではの大変さもありましたが、皆で協力して作り上げた時の感動は、自分にとってかけがえのないものになったと思います。
 夏にはまだ水温が低いにもかかわらず、口びるが紫色にかわるまで泳ぎの練習に没頭したり、スキー授業では、先生と一緒になって山の頂上まで雪を踏みしめ、背中から湯気が出るほど汗をかき滑ったものでした。
 一人ではできない事でも、皆がいればできる。一人ではつまらない事も皆でやると楽しい。誰もがそう思っていたのではないでしょうか。都会の学校ではできない素晴らしい事を数多く体験してきました。―後略―

掲載省略:(写真) 昭和54年卒業生
掲載省略:(写真) 当時の冬の教室風景


◆帰り道は上り坂
          1991(平成3)年卒業生 佐藤穂奈美(村上)
 私が小学校を思い出す時、そこにはいつも2キロの長い道がありました。
 ふきのとうが雪の下から伸びて来た春、ジャンケンで負けてみんなのランドセルを、電柱から電柱まで運んだあの日。渡辺さんの家が羨ましかったこと。
 蜃気楼が遠くに見えた夏、力いっぱい蹴っとばしたらクワガタが沢山落ちてきたあの木、同じように力いっぱい蹴っとばしたら穴があいちゃった旧校舎、力いっぱい叱られた私。
 七夕祭りで夕方に、提灯を持って歩いた道は、いつもと全然違って見えたこと。
 辺りいちめん赤や黄色になり、葉っぱのいい香りがしていた秋、学校の裏山がウルトラマンに見えなくもなかったので、「ウルトラマン山」と勝手に名付けていた素敵な先輩達。歩くのに疲れたのか飽きてしまったのか、道の真ん中で寝ていたという大胆な後輩。
 歩いている途中にトイレにいきたくなり、額に脂汗。もう限界破裂と思ったあの時。快くトイレを貸してくださった原田さん、本当にありがとうございました。
 鼻の穴と鼻の穴がくっつきそうな感じがしていた冬、帰り道で作った変な歌。
 残念ながら1時間遅れにならなかった日の朝、雪の表面も寒さで凍り、普段は歩けない畑や林が通学路。キラキラする雪の上をみんな夢中で歩いていたら、遅刻しましたごめんなさい。―後略―

掲載省略:(写真) 平成3年卒業式記念写真


◆小学校での思い出
          2001(平成13)年卒業生 原田 由貴
―前略―中学・高校と朝早くにバスに乗り、夜おそくまで部活というあわただしい生活が続いたせいだと思います。ずっと全校生徒10人以下の中ですごしていた私は、中学校での大人数になれるまで少し時間がかかりました。でも、少ない人数で児童会の役員や運動会、学芸会などの行事を行っていたので、人前で発表したり、発表物をまとめたりすることは得意で、清富小学校でたくさんやってきてよかったなと思いました。こうして文書を書いていても、読書感想文や行事の感想などの作文を必死で書いていたことを思い出します。
 思い返すと、私は頭の中で文章をある程度かためてからじゃないと書けない性分だったので、他の人より書くのがおそくなることがよくありました。
 でも、その時担任だった横山先生は私の書き方に怒ることもなく、書きやすいよういろいろアドバイスをくれたのでだんだん作文を書く事が得意になっていきました。卒業から現在までも当然作文を書く機会はたくさんありますが、あまり苦もなく書けるのは、やっぱり横山先生のおかげだと思っています。
 こうして振り返ってみると、あの小さな小学校には私はもちろん、たくさんの卒業生の6年間の思い出がたっぷりつまっているんだなあと気付きます。―後略―

掲載省略:(写真) 平成13年卒業式記念写真

  おわりに
 寄稿文を載せさせていただいた最後の原田由貴さんの同級卒業生は2人、その後の卒業生は、2003(平成15)年に2人、閉校の2006(平成18)年に1人、5年間合計3人で、卒業式のない年があったことを痛切に思い出されます。
 今年、閉校後11年になりますが、振り返ると清富小学校は地域にとって中心的な役割を果たして来たように思います。
 運動会、学芸会等学校行事は地域の人々が一堂に会する交流と親睦の場であり、その中で色々勉強させていただきました。
 時代の流れの中で閉校となりましたが、現在は多世代交流センターとして地域住民や多くの町民が利用できる場所になっており、今後も色々な活動を通じて交流して行ければよいと願っています。

掲載省略:(写真) 昭和49年開校40年記念のときの全清富住民
《引用文献》
清富小学校閉校記念誌 2006年

機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀