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カナダ カムロース市と上富良野町との友好の懸け橋

カナダアルバータ州カムロース市在住
ミチコ・ラスムセン 昭和10年12月9日生 (81歳)

 はじめに、平成27年9月、上富良野町から特別功労賞をいただきましたことに感謝申し上げます。
 私と上富良野町との関わりは、ある日突然思いがけない人よりの電話から始まりました。その電話がきっかけで、次々と人とのつながりができ、そしてそれは思いもかけなく、上富良野町とカムロース市との国際交流への道へと発展していきました。
  生い立ち
 初めに私事で申し訳ありませんが、私の出身は高岡市伏木町出身です。浜にもっとも近い湊町生まれで、伏木港の波止場や灯台が家から歩いて2、3分くらいの所にあり、浜に出れば富山湾の東に浮かぶ北アルプス立山連峰の雄姿が眺められ、灯台に行く途中には伏木警察署や川向こうに行く渡船の船着き場もありました。
子供の頃は灯台や防波堤の上を遊び場にして育ちました。富山湾に流れる小矢部川では山から輸送されてきた丸太棒の上に飛び乗り遊んだり、小魚を釣ったり、腕白が過ぎて足の脛部中心を骨折したこともありました。余り外ばかりで遊ぶので日焼けして、母の実家に行くと「伏木の黒豆」とありがたくないニックネームまでつけられました。
 私は両親や祖父母、叔父叔母達に囲まれて、幼少期をのびのびと過ごしました。
 富山湾にある伏木港は北前船の寄港地であったが、1875年地元の廻船問屋で伏木港開港の祖、藤井能三が岩崎弥太郎に話しかけて、その尽力により、汽船が定期寄港できる港として開港しました。現在は外国クルーズ船(主にロシア)や大型貨物船も寄港する国際港になっております。
 私の父はやはり生粋の浜っ子で、進取の意気盛んな町伏木で生まれたことを常々誇りにし、事あるごとに町の先人達に習い、世界に目を開けと言って伏木町の偉人達の話をしておりました。祖父は同じ町内の吉井家(曾祖父は汽船の船長)から、太田家(叔父)の養子になり、神戸からのれん分けされた瓦煎餅屋を養父から受け継ぎ家業につきました。屋号は禰保希堂(ねぼけ堂)、その傍ら不動産にも投資し、財力を増やしていきました。屋号がどうしてこんな難しい当て字の漢字なのか聞きそびれているうちに皆逝ってしまいとても残念です。
 今でも高齢の方からは懐かしがられ、地元ではかなり知られた店でありました。私の自慢の祖父は体格もよく、柔術もでき、よく働きよく豪快に遊んだ明治の漢そのものであり、趣味の魚釣りも好きで、早朝国分浜に置いてある自家用の手漕ぎ船で沖釣りを楽しんでおりました。
 当時私の両親は、祖父の家業に従事しておりました。母は美しい散居村が広がる富山平野部の今の南砺市福野町で生まれ育ちました。祖母は婿とりでとてもモダンな人で、子供達が小さい頃(大正から昭和初期)から全員に洋服、帽子、靴を履かせ写真館に連れて行ったと母が話してくれました。
 県立福光高等女学学校卒業後、東京の女子医専に進学が決まっていたのに、祖父の所有していた株が、ニューヨークの株大暴落(1929年〜1939年)で、仕事が突然いきづまり下に弟が4人もいたので医専進学を諦め、急遽、母の叔母の勤務する石川県の国立金沢医科大学看護科に入学しました。
 当時はスカラシップと似たものがあり、授業料を払わない代わりに、卒業後少ない給料で1年間勤務することが条件であったようです。母もまた教育熱心で努力家、とても親孝行でありました。
 伏木町に富山県初の公認託児所を開設したのは、堀田くにさんで、1929年に浜で働く女性労働者の子供達が浜の地べたに放置されているのを見かねての開設でした。くにさんの祖父も北前船の廻船問屋であり、堀田くにさんの献身的な持論に常々賛同していた母は、堀田くにさんの要請を受けすぐに託児所に勤務し、子供達の保健衛生向上に努めました。
 1939年から私が小学校に上がるまで、母は私を自転車の荷台に乗せて託児所に勤務しました。両親もくにさん一家とは懇意にしていたらしく、余談ではありますが、くにさんの息子堀田善衛氏は1951年に芥川賞受賞作家となり、彼は戦後の日本を代表する進歩的知識人とも呼ばれ、多くの評論や小説を残したことなど、父はよく堀田家のことを話題にしていました。
  私の父
 父は小さい頃から神童と呼ばれ、死ぬまで向学心旺盛で独学による博学の人でした。父は祖父とは全く違う体型で、ほっそりした祖母似でした。又、頼まれ事があれば、すぐ手助けする優しい父でした。
兄達が次々と他界したので、名古屋の逓信専門学校を中退させられ、無理に家業を継がされました。交友関係も広く若い時は、中央公論社に勤めており、多分走り使いか原稿とりだったと思いますが、作家で天台宗の僧侶でもあった今東光氏にも可愛がられ、東光氏が富山に来るとすぐ連絡があり、お相手をした等エピソードが多々ありました。ちょっと変わった人でしたが、誰からも愛され頼られていました。私は勿論溺愛されて育ちました。
 日本はまだ戦局の激しい中(1943年)厚生省は国で初めて保健婦指導者教育6ヶ月講習を東京の目黒公衆衛生学院で実施され、各県より1名選抜により母が選ばれました。
 母の上京は太田家の祖父の大反対にあいましたが、常に進歩的な父の後押しで母は6ヶ月講習を受けることができ、私が小学2年生の時両親に伴って上京。伏木国民小学校より千駄ヶ谷国民小学校に転校しましたが、母の6ヶ月講習の終了とともに東京生活も終わり、父が迎えに来て伏木町に戻りました。
 戦局が激しくなり、とうとう父にも召集令状が来て、ビルマ方面に出征しましたが幸か不幸か、マラリヤに羅病したため、赤十字船で終戦前に帰国しました。父は帰国後、マラリヤからの回復後漢方薬に関心を持ち、自身の健康維持に集中し、その後家業の煎餅屋と不動産業の傍ら、猛烈に勉強し鍼灸術師の免許を取得しました。なにしろ家業の煎餅を焼きながら蓄音機をかけベートーベンを聴く人でした。でも母の実家に行くと、父の知識を知っていてか大変尊敬され、大事にされていました。母の実家の私の祖母は高血圧で、いつもふうふう言いながら働いていて、父によく鍼灸の治療を受けていました。
 余談ですが私がカナダに行ってから、流産後体調が中々戻らないので質問をすると、細かい字で20枚くらいの長い説明が書かれた返事が来て、沢山の高価な漢方薬や鍼灸の針までが送られてきた時は、閉口したものでした。
 私は1954年上京し國學院大學に入学し、大学では日本文学を専攻。父は、國學院大學教授で万葉辞典も刊行した偉大なる民俗学者、国文学者である折口信夫氏に傾倒していたので、万葉集にちなんだ町の住民として大学合格を大変喜んでくれました。(伏木町には越中国の国府があり、万葉歌人でもある大伴家持が746年に国司として5年間在任)
 父は入学式に付添って住む所を決めてくれたため、父の知り合いの三軒茶屋にある作家、宮本幹也宅にしばらく住むようになりました。
  東京での学生生活
 大学の所在地は渋谷区、学校は渋谷駅から都バスで4つ目にあり、終点までのどこで降りても往復30円の切符で、帰りはその半券を使用しました。戦後9年目を迎えるのに、私の見た東京の街は復興は進んでいましたが、未だ戦後の傷跡がかなりみられました。
 当時は学校からよく歩いて渋谷の街に出たりしましたが、まだまだ街の中は雑然として高層ビルなど無く、道玄坂や宮益坂の商店街もみな平屋建てでした。渋谷駅近くの通称恋文横丁の飲食店街もバラックよりちょっとましな安普請の店がひしめきあっていたし、百軒店の坂道には気の利いたクラシック名曲喫茶店などもあり、学校のクラブの集まりにもよく利用しました。
新宿には当時猥雑な2丁目も顕在で、三越裏武蔵野映画館通りには、白衣の傷痍軍人がハーモニカを吹いて路上で幾ばくかの金を稼いでいたり、アメリカ製の色んな生活必需品や化粧品、ナイロンストッキング等々見慣れない品が、アメリカ軍のベースキャンプからの横流しで堂々とお店で売られ、当時都心の街角でよく見られる普通の風景でした。
 大学では、素晴らしい先生方の講義をうけました。後に学長になられた佐藤謙三先生には、卒業論文(万葉集、大伴家持考)では大変お世話になりました。また、第一外国語の英語では、後に翻訳、随筆、小説、文藝評論、と多彩な活躍をされた、当時助教授であった丸谷才一先生、美学では美食家でもあった吉田健一先生(吉田茂首相の息子)の講義はとても人気がありました。哲学では、串田孫一先生等後に著名人になられた多くの若かりし頃の講師の先生方から学ぶことができたのは幸いでありました。
 沢山の友をつくり、学び、語らい、共に小旅行したり、当時の娯楽と言えば映画鑑賞で、特に私は洋画が好きで、フランスやイタリア、北欧の映画を鑑賞しました。都電や地下鉄(当時は銀座線のみ)に乗り、日比谷の有楽座や東劇や新宿日活の地下にあった、洋画専門の名画劇場に出かけたものでした。
 その頃の東京は、都内の各地に都電路線が網羅され、目的地に簡単に行くことができ、渋谷駅始発で青山から霞町、材木町、六本木、新橋、日比谷、有楽町、銀座へと走り、数寄屋橋駅の下には川が流れていました。
 学生時代は、父方の伏木町出身の親戚が、材木町に住んでいたのでよく訪ねて行き、ついでに、できたばかりの六本木の俳優座にも、芝居を観にでかけました。目をつむると学生時代過ごした当時の東京の街並みが浮かび上がり、我が青春時代の思い出は尽きることはありませんでした。
  紆余曲折の社会人生活
 1958年、いよいよ待望の大学を卒業しましたが、大変な就職難の時代でした。父が就職を探してくれたおかげで、大学で学んだこととは全く関係のない理科系の会社に決まりましたので、とりあえず親の保護から自立できました。
 しかし、それからは転々と職を替え、独立して輸入販売業もやりましたが詐欺まがいに巻き込まれたり、仕事も挫折を繰り返し、親にもさんざん迷惑をかけました。七転び八起きではないが紆余曲折の末立ち直り、やっと外国の飛行機内に置かれていた「フライトマガジン」に日本の車や各種製品を紹介する、広告会社インタマート(Intermart Lt)に勤務することができました。
 当時私は代官山東急のアパートに住み、広告代理店の仕事をしながら、傍らで以前から取り組んでいた輸入販売も取り扱っていました。新しい仕事もやっと慣れた頃の夜遅くに、親友が経営するスナックから電話がかかり、食事に来た外国人の会話がどうしても通じなくて困っているから至急助けてと頼まれて、店が私の住まいの目の前なので、眠りかけていた私は渋々起きて、友人の店に出向きました。
 そこに居た客は4、5人の外国人達で、その中の1人が後に私の夫になるなど夢にも思いませんでした。又彼等が同じアパートに住んでいたことも、後で知ることになりました。私はそれぞれの注文を聞いて親友に伝え、明日の仕事が早いのでさっさとアパートに戻ったのでした。それから暫くして、ある日偶然アパートのエレベーターに乗り込んできたのは、過日友達の店で食事をしていた外国人の方でした。私は5階、彼等は同じアパートの3階に住んでいたのでした。
 彼等の会社の本社(Moody Totorap社)は、カナダアルバータ州エドモントン市に所在(日本では大手の鉄鋼会社等と契約し、そこで造られたパイプの国際基準に沿った検査を担当)し、パイプインスペクトエンジニアがいる会社で、世界中に支社がありました。東京支社では、私の住んでいる同じアパートの中に、3室を社員用に借りていたのでした。
 それから、急に親しくなりスタンリー・ラスムセンからプロポーズされましたが、私は一人っ子なので、将来カナダに行ってしまうことになることを思い悩みました。迷っている私を思い、彼は私の両親に会うため富山まで行き、カナダにはすぐには行かないからと両親を説得し、了解を得たのでした。
  スタンリーとの結婚
 結婚式は1972年3月20日、アパートの近くの南平台セント・ドミニク教会で挙げることになり、カナダからは本社社長フランク・ラロース氏も式に出席。彼の両親にも東京に来てもらい、両方の両親、会社の同僚、親戚、友人たちが出席してくれました。
 式では、彼と会うきっかけを作った親友に、花嫁の付き添い役(ブライドメイド)を担当してもらいました。彼女との交友は今でも続き、昨年はイタリア旅行も一緒にする気のおけない友人です。
 その年の夏、アルバータ州知事(ピーター・ローヒード氏)を団長に産業、文化親善使節団が来日し、東京の帝国ホテルで、州を挙げての大々的な宣伝レセプションが開催されました。私達もアルバータ州の会社社員として招待され、アルバータ牛やバッファローのステーキも初試食しました。日本も1964年のオリンピック後、徐々にグローバル化し始めアルバータ州もその気運に乗り、東京に州の事務所を開設したのでした。
 結婚後やっと落ち着いたのも束の間の10月、私達夫婦に大事件が起きたのでした。夫の両親が農業を引退するので、農場を引き継いでくれないかと連絡が入りました。余りにも早いカナダ行きに、私も私の両親も驚くばかりですが、夫はカナダに戻りたい様子で本当に困りました。私は、カナダ行きの決心をし、両親に理解してもらい、遂に日本出発の日がきました。
 1972年12月、羽田空港(当時国際空港は羽田のみ)からカナダに向かうのですが、沢山の親族関係や友人達に見送られ、母は大変我慢強い人でしたがこの時ばかりは、私の手を最後まで離さないので、出発ゲートに入ることができず、夫が無理やり母と私の手を引き離したのでした。
 私達はカナダには直行せず、途中ハワイに滞在(社長夫妻とクリスマス、正月を過ごすため社長のハワイにある別荘に招待)する予定でしたが、飛行機に搭乗してからはとても切なくなり、始めは歯をくいしばって我慢し羽田空港では泣かなかったのに、母を思いだしてしまい、東京からハワイまでの飛行中はずっと泣き通しでした。夫はスチュアーデスにどうしたのかと質問される始末でした。
 1973年1月19日、私達は常夏のハワイから大雪で極寒のエドモントン空港に降り立つと、凍てつく寒さで気温は氷点下30度、生まれて初めての体験でした。この年は何年振りの大雪で、寒波がアルバータ州におおいかぶさっていました。彼の両親は、私に着せるための分厚い生地のコートを持参し、空港に迎えに来てくれました。夕闇せまる一面雪野原の道を、空港から約100qひたすら走りました。その間街の灯は見えず、やっと着いた所がCamrose市で、夕食をとるためにレストランへ立ち寄りました。しかしこの先、自宅のある農場まで32qあるという、灯り一つ見えない真っ暗な砂利道を走ると聞き、心細くなりいつになったら家に着くのかと、夫に何度も繰り返し聞いたのでした。
 もうしまいには観念して聞きませんでしたが、これは今迄想像もしたことが無い、大変な所に来たんだと思いました。その時胸に去来したのは絶対に幸せになるから安心してと言って、羽田で別れた両親の悲しそうな顔でした。自分で選んだのだ、こうなったら泣き言は言うまい、もう頑張るしかないと覚悟しました。一夜明けた農場での朝、窓から見る景色は周りには家一軒見えず、見渡す限り寂莫とした雪の大平原でした。これじゃまるで陸の孤島ではないかと仰天したのでした。
 なお、Camroseの発音は「キャムロース」に近いのですが、日本語読みでは「カムロース」で、最後の「ス」は「ズ」と濁りません。
  カナダで農家の主婦に
 次の日早速、夫と車を買いにCamroseの街に出かけ、買った新車はジェネラルモータース社製のトラック半トン車で、通称GMトラック車でした。後で分かったのですが農家にはなにかと便利な乗用車は半トンのトラック車であるのが常識でした。日本では普通乗用車しか乗っていませんでしたからまたもや驚きました。
 日本から持ってきた国際運転免許証で運転出来たので、次の日は早速一人で雪の降りしきる中、買ったばかりの車で隣町まで行き試験を受け、カナダの運転免許証を取得しました。それからは農場から町まで、週1回は所用で行きますが、町道はセンターラインがあるので問題は無いのですが、町までの田舎道は慣れるまで大変でした。片道32qセンターラインも無く除雪はされているが、とても運転しづらい砂利道を土手に落ちそうになったり、対向車がこちらに向かって来ると日本とは逆で左右が反対の交通なので、どちら側に車を寄せようかと胸がドキドキしながらの運転で、近所の農家に行って吹雪に会い、視界ゼロになった時は助けを求めた事もありました。
 電話にも驚きました、農家3軒で1本の回線ですから、誰かが通話中は使用出来ません。何かと不便な生活が待ち受けていましたが、当地の人は当たり前のように生活していたので、この環境を受け入れざるを得ませんでした。
 カナダに着いて2週間後に村のカーリング場のホールで結婚披露パーティ(当地ではシャワーパーテイ)を、親戚や村中の農家の人々がプレゼントと食べ物を持ち寄り、義母はお手製のウエディングケーキまで作ってくれて、私達を祝福してくれました。
 やがて北国にも春が来て、農業と言っても穀物だけを扱うのですが、私の人生で初めての農家の主婦の仕事が始まりました。野菜類は全て自家用として主婦が担当し、これを販売するわけではありませんが、何しろ1000エーカー以上の農地のほんの一部300坪くらいの畑を野菜畑にし、基本的にはじゃが芋や人参、玉ねぎ、キャベツ、インゲン豆、トマトにレタス、コーン、ピクルス用のキュウリやビーツ等々、すべてが初体験で、義父母に教えていただき手伝ってもらい種蒔きをしました。これら全てを1年中の自家用食料として栽培するのです。
 家の地下には、冬を越すじゃが芋と人参専用の特別貯蔵室もありました。穀物農家の主婦のもう一つの仕事は、春と秋の農繁期になると、農地で働く男達のために食事作りにあけくれることでした。朝、昼、晩の食事の他に、午前10時と午後3時のコーヒータイムには、サンドイッチやパイやケーキを作り、収穫期になるとコンバインが夜通し作動し、交代で働くので、夜10時のコーヒータイムまでありました。私の仕事は、作業している地点までトラックを4〜5キロ先に(往復)運転し食べ物や飲物を運ぶ役割もあり、農繁期になると食事を運ぶ時以外は、一日中キッチンにおりました。農繁期以外の私は、自家用野菜の収穫やその処理も沢山あり、多忙な日々でした。今迄とは全く違う環境で、生活習慣も違い慣れない畑仕事に挑戦の日々、唯がむしゃらに働きました。
 好奇心旺盛な私は、むしろ新しい体験を楽しむくらいでしたが、ただ非常に残念ながら最初の年に2度の流産したことでした。後に身体の調子が戻らず、精神的にもかなり落ち込み、回復に時間がかかりました。早く私の様子を見たい両親を待たせて、カナダに来てやっと4年目に、ゆとりが出来た1978年夏、両親をカナダに招いて、2週間農場に滞在してくれました。両親を連れてカナダのロッキー山脈の名勝バンフやジャスパーに行った時、道中5時間の運転中に、父はカナダの広さは分かっていたと思いますが、360度見回しても遮るもの無く、地平線が見渡せる雄大な大自然の景色に感動しておりました。母は、農場で採れたての野菜料理の美味しさに満足していました。
  好奇心と日本文化
 農閑期になると人とのコミュニケーションが第一だと思い、村の婦人クラブや美術倶楽部(油絵、水彩画)そして陶芸、パッチワークと、これらは今までしたこともないものばかりですが、初心者歓迎といわれ大胆にも挑戦しました。また教育委員会から依頼を受け、日本文化についての話を小学、中学、高等学校などに積極的に出向き、習字や低学年には折紙等デモンストレーションを実施しました。
 カナダには茶道具を持って来ていたので、町のロータリークラブやその他の集会でも、初めてお茶の御手前(表千家)のデモンストレーションやカムロースで最初に出来たモールでも、初めての生け花(小原流)のデモンストレーションを実施しました。
 ある年の農閑期には、日本総領事野々垣総領事夫人の依頼を受け、エドモントンにある日本総領事公邸で、夫人主催で州政府の女性幹部職の方々に、生け花のデモや茶道の御手前も実施しました。
 当時首都エドモントンには戦後移民した方々はほんの少数で、戦前からの一世やカナダ生まれの二世の方々が主でした。当時も今もですが、カムロースには日本人がほとんど住んでいませんでした。カムロースには日本人は二世の方で京子・メアリー・マッキンノンさんと、リチャード・ヤマベさんの2人だけで、九州訛りや長野訛りのため日本語も簡単な会話しかできませんでしたが、私は日本語が話せるだけでとても嬉しかったことなど思い出されます。
 また、将来日本に行きたいとのことで、日本語に興味のある友人とその高学年の子供達6人を対象に、日本語会話教室を開いたこともあり、教科書も日本から取り寄せました。後に彼等からは日本旅行で役立ったと喜ばれました。
 ついにはアルバータ大学農学部の園芸部が主催した成人教育向けの趣味の園芸教室で生け花のクラス講師の依頼を受け、年に2回農閑期に教えました。またカムロースの人々に日本について少しでも理解してもらうため、日本についてのスピーチの依頼があればできるかぎり対応してきました。こうして私の人脈は自然に広がり、後に国際交流に関わった際に役立ったのでした。
  1本の電話と上富良野町
 カナダに来てあっという間に、10年の月日が過ぎ去りました。1980年にアルバータ州と北海道の間に、姉妹都市提携が結ばれました。私が上富良野町と関わりを持つようになったのは、1984年8月のある日に、以前から家族同士のお付き合いをしていたルーデイ・スワンソンカムロース市長からの電話がきっかけでした。当時アルバータ州と北海道庁が、市町村自治体の姉妹都市提携を積極的に進めており、当時人口13,000人、基幹産業が農業のカムロース市と上富良野町が類似しているため、州政府はこの双方を選んだとのことでした。市長からの電話の内容は、カムロース市と北海道上富良野町との姉妹都市提携を進めるために手伝ってほしいとのことでした。
 私は全体的に日本のことは分かっているつもりでしたが、地理的には上富良野町のことは全く知りませんでした。学生時代に合宿旅行で南は九州博多、北は松尾芭蕉にちなみ平泉の中尊寺までしか行っていなかったので、どこまでお手伝いができるのか不安な気持ちでいっぱいでした。とりあえず、スワンソン市長の通訳をすることになり、酒匂佑一町長、小野三郎議長、上富良野高校宮崎教諭の3方をお迎えしたのですが、長旅でお疲れの様子のため休憩をとりながら、市内を案内させていただきました。
 翌年、1985年9月姉妹都市提携調印式に参加するため、スワンソン市長、同夫人、ボブ・プレステージ氏(カムロース郡長)と他カムロース市民1人と私の5人は初めて北海道上富良野町の地を訪問しました。上富良野町は十勝岳の山並みが広がり起伏のある地形がピクチュアリステック(絵画的)な風景を作り、写真愛好家ならすぐにシャッターを切りたくなるであろうそんな風景が至る所に見られる、実に魅惑的な町でした。町役場前に到着し車から降りたった瞬間に、私達は自衛隊音楽隊によるファンファーレに迎えられ行進曲が奏でる中、調印式のテーブルまで歓迎ムードに沸いている町民の方々のなかを感動し興奮気味になりながら歩き席にたどり着きました。調印式場では酒匂町長、小野議長その他大勢の来賓と多くの町民の方々が出迎えてくださり、町を挙げての素晴らしい歓迎は、生涯忘れえぬ思い出となりました。調印式の感激や体験が、私にも交流のお手伝いができるかもしれないと心を動かしたのでした。これからは、双方の交流の窓口になり私にできる精一杯の対応をしていこうと心に決めたのが、この仕事に関わりいつの間にか30年も続けてきたのだと思います。
 上富良野町での調印式の後東京に立ち寄り、参議院で環境大臣の石本茂氏を表敬訪問しカナダや日本の環境問題などについて話し合いました。訪問できたのは、当時母が社団法人日本看護協会の中部東海北陸地区の理事をしていた関係で、日本看護連盟、看護協会を支持母体として参議院議員に選出され環境大臣になられた石本茂氏に面会出来るよう設定してくれたからでした。
 その後市長一行は私の両親の招待で富山に2泊3日滞在しました。両親は当時出来たばかりの北陸カナダ協会(在富山市)の会員(会の発起人は理事長水口昭一郎氏で立山科学社長)になっており、富山では大山町や北陸カナダ協会等の歓迎レセプションに招待され、スワンソン市長や私にとっては国際交流の輪が益々広がっていきました。
 当時国際交流と申しましても、カムロース市と上富良野町とでは市の行政組織や体制が異なり、カムロース市では住民組織による団体が中心となり、博物館や図書館アドバイザーなど、公園の管理運営や花壇などの世話も住民組織がボランティア活動で事業を進めていました。

掲載省略:(写真) 上富良野町の役場前で行われた調印式。左から私(ミチコ)、スワンソン市長、酒匂町長
掲載省略:(写真) 取り交わされた盟約書
  日本カムロース友の会を発足
 提携してからも、カムロース市には姉妹都市交流のための組織が暫くありませんでした。それまでは事業の対応は、その都度私が窓口になり双方の調整しながらを個人的に夫と共に支援してきました。
 交流が少しずつでも進んでいくと、もっとスムーズに進めるため、自ら調整役として役員を募集し、カムロース市に日本カムロース友の会を設立しました。公式のボランティア組織として州政府にも登録し、言葉の関係もあり相互の窓口の対応を敏速に進めるため、日本カムロース友の会を通じて対応させていただき、会長としても姉妹都市交流での事案の対処や支援を進めてきました。しかし私達の会は行政組織でないため、できることも多方面にわたり限界がありました。
 当初は日本ならプロが作った立派な歓迎横断幕が掲げられていますが、カムロース市では夫と2人で作成したささやかな横断幕などすべて手作りだったり、歓迎レセプションも学校の講堂でポットラック、サパー(各自食事を持参)で、ホストファミリーや会の役員が料理を持ち寄り、手作りの歓迎レセプションでした。
 提携して間もない頃、上富良野町の担当窓口は企画課の高橋英勝課長補佐でした。姉妹都市提携にこぎつけるまで何度も連絡調整をしましたので、未だ会わない先から友達になったような気分でした。それ故に調印式後もこちらで難しい問題が起きても、お願いすると心よく引き受けてくださり、その迅速な対応ぶりは感謝しています。
 1986年から1992年まで上富良野高校から先生と生徒達がカムロースを訪問しました。その都度対応してホストファミリー探しに奔走しました。
 1988年7月、上富良野町より第1回青少年国際交流訪問団増田修一団長一行26名がカムロース市でホームステイ3泊、初めての大人数でのホームステイで受け入れ側も精一杯の対応し大変盛り上がりました。私と夫はロッキーのバンフまでおにぎりを作って持って行き、皆さんに食べてもらいました。
 1989年9月、サイワークカムロース市長夫妻とともに上富良野町へ表敬訪問。上富良野町の後は東京に3泊し富山に4泊。市会議員のジョイス・ウイルコック、郡議会議員のボニー・ハウザーとシテイマネージャー、ダンサンダースと私の6名の訪問でした。
 1990年、アルバータ州と北海道は提携10周年を迎え、カムロース市と上富良野町とは提携5周年になり祝賀会がカムロース市で開催されました。上富良野町からは初めて大人の親善訪問団で成田政一団長等一行15名(安政太鼓含む)がカムロース市を来訪。初めての大がかりな受け入れの準備に奔走しました。
 カムロース市民に安政太鼓の演奏を見てもらうため前もって新聞社2社にもインタビューし姉妹都市である上富良野町をPR、日本の伝統音楽である太鼓の演奏や5周年記念にあたり上富良野町からの訪問について説明しました。
 カムロースの中心にある公園での太鼓演奏の場所ビクトリアパークや調印式ジュビリパーク等の場所の設営、式典のプログラム作りや歓迎レセプションなど、市役所に出向き何回も市のトップマネージャー(市の執政官)と打ち合わせし、当日の天候に気を揉みながらその日をむかえ、式典会場には100名の音楽隊ボランティアの演奏で上富良野町の皆様方を迎えることができました。また各方面の調整など深夜になることもありましたが、高橋課長補佐の惜しみない協力とカムロース市との協賛により、友の会は初めての大々的な事業を成功裡に成し遂げることができたのです。事業を円滑に進められたのも高橋さんと素晴らしい協力者に巡り会えたことが幸せでした。それ故継続して国際交流に関わるボランティアの仕事ができたのだと思います。こうして,5年毎に再確認しながら30年間以上の交流が順調に続いたのであります。

掲載省略:(写真) 第1回青少年国際交流訪問団がカムロース訪問
  カムロースから高校生が訪問
 1991年4月、カムロース市より第1回カムロース、コンポジットハイスクールが上富良野町へ親善訪問し、団長マックス・リンドストランド校長と生徒、引率の先生とコーディネーターの私、総勢28名が上富良野町を親善訪問しホームステイ3泊し交流を深めました。上富良野町の温かい歓迎を受け、生徒一同感動しました。
 1993年3月第2回上富良野町青少年国際交流訪問団がカムロース市訪問。団長安藤嘉浩氏一行27名。ホームステイや歓迎レセプションで交流を深めました。

掲載省略:(写真) 上富良野町を訪問したコンポジットハイスクール生徒と町民との歓迎交流会。手作りの日本食とヨサコイで盛り上がった。
  友好提携記念行事から
 1995年7月、提携10周年行事のためカムロース市に菅野学町長、小野議長等一行が訪問しました。会場には地元大學のボランティア(100名)による音楽隊ファンファーレにより式典が開幕され町長一行は行進曲の奏でるなか着席され、ジュビリー・パーク内のビル・フォーラセンター前で来賓や市民の前で調印式が行われました。
 ケーキに双方の長が一つのナイフを握りカットされ、市民にも分けられ共にお祝いしました。夜はホテルで友の会と市の協賛で歓迎レセプションを実施しました。
 1997年上富良野町開基百年記念式典に招待され参加、カムロース市長夫妻(ノーマン・メイヤー)友の会の会長の私と夫スタンリー・ラスムセンの4人。記念式典に於いてノーマンメイヤー市長より祝辞が述べられ、私は尾岸孝雄町長より友好交流推進に尽力したとして感謝状の盾を受けました。この際カムロース市からはカムロースの名の薔薇の苗100本が上富良野町に寄贈されました。
 2000年8月、カムロース市は交流15周年記念と国際姉妹都市連絡協議会の開催地のホスト市になりました。
 田中伴幸助役、平田喜臣議長、筝曲演奏者一行12名が来訪され、30年間の交流には沢山のエピソードもありますが、交流15年目は特別印象深いものがありました。それはホスト市になれたことでした。

掲載省略:(写真) 10周年記念式典でプレゼント交換をする右メイヤー市長と左菅野町長
掲載省略:(写真) 提携15周年時に田中助役たちが友好のケーキカット
  2000年連絡協議会のホスト市に
 1999年アルバータ州と北海道との姉妹都市連絡協議会の議題で、翌2000年の国際会議の開催地を決めることになりました。候補都市がいくつか名乗り出たので選挙になり、カムロース市は記念すべき21世紀の幕開けの年にホスト市になりたく、友の会としては入念なスピーチを準備して会議に臨みました。
 カムロース市は上富良野町との提携15年目の節目にもあたり、地理的にもアルバータ州の中心でもあり、交通の便宜上も良いことで、最終的に全員一致で選ばれました。2000年の連絡協議会開催に向け、友の会は開催に必要な多くの準備が開始され、北海道とアルバータの各市町村への連絡協議会開催の招待状や案内状を出すことから始まりました。
 双方の窓口の綿密な打ち合わせの結果、姉妹都市連絡協議会および上富良野町との姉妹都市交流15周年を迎えることになり、日本国総領事や州政府の国際課担当政務官やカムロース選出の州議会議員などを来賓に迎え、2日間にわたる事業は開幕しました。
 第1日目は日本、カナダの双方の交流で始まり、連絡協議会は各市町村の経過報告後歓迎レセプション。宴もたけなわになり、フイナ―レに上富良野町の余興で筝曲の演奏が始まると会場は日本色一色になり、みな恐らく琴など実物を見たことも聞いたことも無い人達は、雅(みやび)な琴の音色を聴き大変感動し、盛大な拍手を贈られたのでした。この事業が大成功裡に終わったのは、上富良野町とカムロース市のこの事業に協力した多くの人たちの賜物であり、カムロース市長(ノーマン・メイヤー氏)も私もホスト市としての役割を果たせたのです。2日目の夕食は我が家で親睦会を開き、あらためて上富良野町の方々にその労をねぎらいました。式典では、私はカムロース市より、友好都市交流の推進に尽力したので、表彰の盾を授与されました。
  カミフラノフレンドシップガーデン
 2001年5月友の会では、カミフラノフレンドシップガーデンと命名した看板をジュビリーパークの一角に設置しました。上富良野町からはカミフラノ公園の看板除幕式には高橋英勝教育長、久保儀之教育委員長等とカムロース市長(ノーマン・メイヤー)と他市民と共に除幕しました。傍には四阿山(ガゼボといいます)に弁当などを持って来て、日陰を求めて休憩したりも出来る所です。ベンチも所々に設置されており水飲み場も屋内トイレもあります。夏には花壇も整備され、目の前に白鳥の浮かぶ人工湖(ミラーレイク)があります。横に大きく広がる湖にはアーチ型の橋もかけられ、脊の低い雑木林が湖の周りに配置され、野生の水鳥も飛来して、市は所どころに巣箱を設置しています。市民のジョギングコース(3.7q)としても親しまれています。日本からお越しの際には、是非立ち寄っていただきたい観光スポットです。
 同年3月カムロース市より第2回(CCHS)の生徒24名、団長マックス校長とコーディネーターの私、生徒の保護者総勢27名で上富良野町を訪問。ホームステイし、友好的かつ素晴らしい歓迎レセプションをしていただきました。町内見学ホストファミリーとも、おおいに交流を深めました。
 2004年5月上富良野町に表敬訪問、(CCHS)元副校長アレック・オリバー夫妻が上富良野町表敬訪問の際に、カムロース市とカムロース友の会より高橋教育長に姉妹都市交流に友好を深め惜しまぬ熱意をもって友好親善に尽力されたので、オリバー氏から表彰状の盾が授与されました。
 2006年カムロース市より(CCHS)50名上富良野町訪問。生徒48名団長、マックス・リンドストランド校長、コーディネーターの私。上富良野町に大勢で伺い、ホームステイさせていただき生徒一同、上富良野町が大好きになりました。その後富山県大山町においてもホームステイし姉妹校生徒と交流、東京、京都、広島と修学旅行をし、日本文化に触れ体験し実感できたと生徒から感想をいただきました。
 2007年日本カムロース友の会は四面時計塔を市役所前に設置。友好提携20周年事業で、友の会としては州政府やカムロース市助成金を申請し友の会の保持金や上富良野町からの寄付で上富良野とカムロースの名前、日本時間とアルバータ時間が表示され、100曲以上の音色が流れるオルゴール付き四面時計塔を設置しました。
 同年上富良野町より第5回青少年国際交流訪問団、団長尾岸孝雄町長、中澤良隆教育長一行23名がカムロース市訪問。カムロース市役所前において、カムロース市長と市民と共に時計塔の除幕式が行われました。
 2010年8月姉妹都市提携してはや四半世紀の年月が流れ25周年を迎え、上富良野町より団長向山富夫町長と西村昭教議長ほか12名、第6回青少年国際交流団団長北川雅一教育長一行14名がカムロース市訪問しました。広く市民にも参加してもらいたく、式典会場はカムロース市中心にあるジュビリーパークに設営。来賓には日本国総領事(駐アルバータ)やカムロース市選出の国会議員、同州議会議員、アルバータ州国際課の部長、国家警察通称RCMPカムロース署長、市の警察署長、そして市会議員等も出席するなか、向山富夫町長を先頭に一行が入場し、式典が始まりました。
 式では向山富夫町長とクレアランス・マステル市長がそれぞれ盟約の延長に調印し、同時に市内唯一の公立中学校、チャリーキラム校と上富良野中学校は友の会の橋渡しにより姉妹校提携の調印がなされました。式典会場では双方から25周年を祝う余興が繰り広げられ、圧感は上富良野町の余興、生徒の一人が弾く津軽三味線の力強く情熱的演奏は、集まった市民から盛大な拍手をうけ、津軽三味線にのって全員でのソ―ラン節踊りが演じられました。カムロース市民にこれこそ、日本文化の一端を見てもらい理解するよい機会だったと思いました。
 カナダ側からはネイティブの人達による歓喜の輪踊り(予約困難)を紹介しました。例によって上富良野町の生徒達はホームステイをしました。その夕は、市とカムロース友の会協賛で来賓やホストファミリーの家族も招待して歓迎レセプションを地元のホテルで開催し交流を深めました。今回も上富良野町の協力や地元の人達の支えでこの事業は大成功に終わりました。
 2013年7月第7回上富良野町青少年国際交流訪問団として、団長服部久和教育長一行26名が来訪しました。生徒達からは、ホストファミリーとのコミュニケーションがうまくできたと嬉しい体験談が語られました。

掲載省略:(写真) 看板除幕式で植樹をするメイヤー市長と高橋教育長
掲載省略:(写真) 時計塔と友好のプレート
掲載省略:(写真) プレゼント交換をする向山町長とマステル市長
  日本カムロース友の会の活動
 2014年6月カムロース市の年に一度の春祭りに、日本友の会では地元の中学校で日本フェスティバルを開催し、生け花のデモンストレーションやエドモントンからの和太鼓の演奏、日本の舞踊や民謡などを実演しました。地元の5つの小学校を招いて、太鼓の実演なども体験してもらいました。午後は町のメインストリートが歩行者天国になっていて、町の中心にステージがあり和太鼓の演奏や日本舞踊のショーもありカムロース市民に日本の文化芸能を紹介したくさんのアンコールをうけました。祭り運営委員会からも、毎年参加して欲しいと頼まれるほど人気があります。
 日本カムロース友の会は、1999年〜2015年まで、上富良野町英語指導助手として地元カムロース市から適応する人材を新聞広告で募集し、渡航手続きなどの事務的作業をお世話し、派遣する事業を実施してきました。派遣した方は述べ7名です。
 また、1996年上富良野町職員国外派遣として、町職員の斉藤繁さんを1年間私の自宅にホームステイしていただき、カムロース市役所で研修していただきました。
 また、日本カムロース友の会と上富良野町国内外交流協会との交流も継続され、2007年の20周年には四面時計塔設置に寄付を賜り、2010年の25周年にも記念品を交換させていただきました。
 渋江潤子さんには、特に上富良野町において英語指導助手のお世話をしていただき、また幾度とカムロースにお越しいただき楽しく過ごさせていただきました。

掲載省略:(写真) 交流時にお世話になった渋江潤子さんと
  姉妹都市提携30周年

 2015年9月姉妹都市提携30周年は、盟約延長再確認の提携文を作成し、双方がそれぞれの国で調印しました。
 同年9月、私は上富良野町より特別功労賞をいただきました。この時上富良野町ではお祝いの会を開き、これまで30年間お世話になった人々が集まってくださり、一人一人のお顔を見た時、カナダにいらした時の情景やエピソードが思い出され、懐かしさが胸にせまりました。再確認の度に思う事ですが、こんなに長く活動が続けられたのは、上富良野町の人々が優しく大らかで、沢山の人達が熱意を持って協力してくださったからこそだと思います。
 富山市の実家で、北日本新聞社から、これまでのカナダカムロース市と上富良野町との30年間に渡る交流や、上富良野町から特別功労賞を受けたことなどのインタービューを受けました。
 同年12月19日カムロース市市議会で30周年再確認の調印式に同席し、カムロース議会にてカムロース市長並びに議員一同に日本カムロース友の会会長の退任の挨拶をしました。その折に上富良野町からの表彰状の盾と記念品を披露し、カムロース市長ノーマン・メ―ヤ氏と議員一同からも30年間継続して姉妹都市交流に推進したことにより、その尽力に対しての記念品や感謝状の盾をいただきました。
 2016年7月27日に第8回上富良野町青少年国際交流訪問団がカムロース市を訪問しました。団長服部教育長一行17名で、全員地元のホテルに宿泊しました。
 新築された市役所に赴き市長や市議会議員の歓迎を受け、上富良野町から贈呈された品々が市内の博物館に展示されることとなったため、除幕式を実施しました。その後博物館でノーマン・メーヤー市長のティーパーティを開催、夜は友の会主催の歓迎レセプションを地元のホテルで開催し、楽しい交流となりました。(これは余談ですが世話係が夏休み中のため都合により対応できず、退任した私が急きょお世話することになりました。)
 カナダの生活も長くなり沢山の知り合いもでき、心を許しあえる友人もいます。然し夫も2006年に逝ってしまい、今は夫の墓守をし、この地にとどまっています。
 望郷の念絶ちがたく、今はせめて日本の両親の墓参りに行くことや、45年近く経っても、すぐ若かりし頃に戻って話し合える友や従妹、従弟達が居て、毎年日本での再会が何よりの楽しみです。
 1984年〜2016年まで30年以上、上富良野町と関わった日々を思い起こすと、度々の偶然が重なり次々と新しい人々とめぐり逢いがありました。
 たとえ一期一会であっても、その都度忘れがたい体験ができたことなど、以前から決められたかのように、私の人生は自然に上富良野町に向かうように、まるでレールに乗せられて生きてきたような気がしてなりません。
 沢山の人との貴重な繋がりが持てたことに感謝して、せっかく続いた交流が絶えませんよう、次の世代に繋げていければと思います。
 未来に夢をもち、科学もどんどん進化しています。新しい時代がきて、いつの日かもっと早く、日本とカナダが行き来できるような時代が来るかも知れません。言葉の壁も乗り越えて通訳もいらなくなり、いつの日か自由に交流できるようになるかも知れません。今は僅かであろう残された日々ではありますが、私にできることはやらせていただきたいと思っています。
 上富良野町の皆さん、お元気で。See you again

[追記]

 今回執筆にあたり、会員の方から助言をいただき筆を進めることができました。感謝申し上げます。

掲載省略:(写真) 姉妹都市提携30年の相互盟約書
掲載省略:(写真) 特別功労賞の受賞を祝ってくださった皆さん
掲載省略:(写真) インタビュー取材を受け、上富良野町からの特別功労賞の受賞を報じた北日本新聞
掲載省略:(写真) 第7回上富良野町青少年国際交流訪問団

《歴代カムロース市長氏名》
Rudolph P Swanson  October 1969 to October 1986
Walter J Siwak    October 1986 to October 1989
Norman Mayer     October 1989 to October 2004
Clarence Mastel   October 2004 to October 2010
Marshall Chalmer   October 2010 to October 2013
Norman Mayer     October 2013 to October 2017

機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀