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「大正泥流90年」によせて
泥流地帯の復興にかけた農業技師 猪狩源三の生涯

札幌市豊平区 猪狩 昌和
昭和22年8月15日生(69歳)

  はじめに
 今年は、1926年(大正15年)5月24日に起きた「十勝岳爆発」から90年を迎える。この噴火により発生した「泥流」(大正泥流)により144名の犠牲者と、当時の上富良野村、中富良野村、美瑛村の開拓農地を荒廃させる大きな被害がもたらされた。
 この泥流によって不毛となった開拓地を再生しようと多くの人が立ち上がり、再び水稲の実る土壌を作ろうと、再興への苦労と努力を重ねた人々の記録は、1977年(昭和52年)に新潮社から発行された三浦綾子著の「泥流地帯」に小説化されている。
 私の祖父である猪狩源三は、当時北海道農事試験場の農芸化学部主任という研究員であった。戦後も北海道庁の農業技師としてこの地の土壌改良と復興のために生涯を捧げた。
 この小文は「大正泥流」の被害地の復興にかけた一人の農学士が存在したことを記録に残したいとの想いからまとめたものである。

掲載省略:(写真) 泥流は鉄道を破壊寸断し農地を埋めた
掲載省略:(写真)「泥流地帯」「続泥流地帯」冊子写真

  源三と私
 私(猪狩昌和)は1947年8月15日岩手県盛岡市で生れた。以来、1966年に岩手県立盛岡第一高等学校を卒業するまで、18年間盛岡市で暮らしていた。父昌三は猪狩源三の長男として札幌で生まれているが、戦後まもなく(1950年)私が3歳の時に盛岡市で亡くなっている。
 祖父が亡くなった年(1959年)、私は12歳で、戦後北海道で暮らしていた祖父とは会った記憶がない(多分、父の葬儀の時は同席していたはずだが……)。父が早逝したこともあり、祖父のことを詳しく聞き知る機会もなかったのである。
 私が北海道大学に入学したことも、卒業後札幌に居住し、祖父が暮らした豊平の地域に住居を構えたのも、全くの偶然としか言いようがない。(何かの縁があったのかもしれませんが……)
 仙台市に在住している私の弟が猪狩の除籍謄本(改正戸籍原簿)を整理してくれた。その中で、祖父が、北海道の開拓二世として生を受けたこと、そしてかの宮澤賢治と面会していたことなどを知った。
 また、福島市に在住している叔父からは「十勝岳爆発の泥流調査」をしていたことなども聞いていた。
 2012年に前期高齢者となり、リタイヤ後、時間的な余裕も出来たので祖父の足跡を辿ることになったのである。私の居住する札幌市豊平区に北海道農業試験場(現 独立行政法人 北海道農業センター)があり、訪問したその図書館の特別の配慮で、昭和15年に発行された「北海道農事試験場報告第39号」を手にしたのである。
 (注:戦前は「農事試験場」、戦後は「農業試験場」と組織変更)
 また、三浦綾子著の「泥流地帯」「続 泥流地帯」を再読した際に、資料文献として祖父の調査報告書が巻末に記載されていることにも驚いた。
 祖父源三の研究がここまで活用されていたことを知り、この偉業に今更ながら驚きと、尊敬の念を抱いたところである。

掲載省略:(写真) 北海道農事試験場報告第39号
  大正泥流と猪狩源三
 1977年(昭和52年)に新潮社から発行された三浦綾子著の「泥流地帯」は、現在の美瑛町、上富良野町、中富良野町を襲った大正15年の十勝岳噴火による泥流被害とその復興にかける被害地の人々の史実を丹念に調査し書かれた小説である。「(続)泥流地帯」には十勝岳泥流にめげず復興に汗を流す主人公達を励ます農業試験場と職員の活躍が記載されている。
 『米が出来るのか、農業試験場の技術者たちがそれを調べてくれるべ…』『農業試験場の調べで復興が可能らしい』と。
 この小説を書くにあたって、三浦綾子氏はその参考資料の中に「北海道農事試験場報告第39号」を揚げている。
 この報告書は1940(昭和15)年3月発行された「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」と題する136頁に渡る報告書で、元技師猪狩源三の名で発表されたものである。
 この報告書は北海道農業試験場(現独立行政法人北海道農業研究センター)図書館に保存され閲覧できる。(編集者注:この報告書は上富良野町郷土館に収蔵番号4236号、7972号として収蔵)
 この報告書を見ると十勝岳爆発後、その影響の調査のために、もっとも被害の大きかった上富良野村、中富良野村、美瑛村の3ケ村に猪狩源三が北海道農業試験場農芸化学部主任時代より何度も通い調査が続けられたものである。
 その調査内容は「流泥の分布・性状」「農産物被害の状況」「流泥による直接有害作用について」「有害原因物の調査」などの記載がある。そしてこの調査は、当時の試験場の化学関係職員の総力によって調査分析が行われ、各種の栽培試験などを含めて、努めて短期間に流泥の理化学的性状、流泥の植生に対する有害成分及有害主原因を明らかにし、更に流泥災害地に対する改良法まで明らかにしている。この報告書を基に、当時の北海道庁初め上川支庁、災害地町村の総力を挙げた災害復興と土壌改良事業がすすめられた。
 源三はこの調査の途中1930(昭和5)年から12年間岩手県農事試験場長として赴任し、退官後は北支(北支那:中国北部)で仕事をしていた。
 戦後、1946(昭和21)年再び北海道に戻った源三は、北海道庁経済部農業改良課技師として、泥流によって、不毛となった開拓農地の土壌改良の指導に当たった。
 上富良野町郷土をさぐる会によって編集・発行された「機関誌 郷土をさぐる(第5号)」(1986年 昭和61年4月1日発行)に大正10年に上富良野町に入植された仲川善次郎氏(明治34年2月5日生)の「日新ダム完成まで」という回顧録の中に次のような記載があります。
 『食料増産の時代であり、上川地方開発期成会も昭和28年以来戦後の混乱から立ち直って、この山麓こそは終生の楽土たれと悪条件を克服し新しい農業計画を実現せんとする農民の意思に応え、北海道庁嘱託専門技術員猪狩源三氏に依り泥流被害土壌に関する2ヵ年に亘る現地調査が行われた。採取土壌の分析等を行い、其の報告書は昭和30年に発表された。更に研究が進められ昭和32年2月第2報が出された。其の後、農業専門技術員千葉登氏他、地元農業改良普及員各位の献身的な努力によって、昭和37年2月十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書が第7号として発行され最終的なものが纏ったのである。』(原文のまま)
 ここに記載のある昭和30年に発表された報告書は1955年(昭和30年)6月25日に北海道技師猪狩源三の名で発表された「十勝岳山麓地帯に於ける酸性灌漑水並びに流泥被害地土壌調査報告書」である。
 この報告書の冒頭に次の記載がある。
「爆発当時の上富良野村長故吉田貞次郎氏は筆者らと共に災害地の復興に対し誠に涙ぐましき献身的努力を払われ今日の復興は全く氏の奮闘に負うと云うも過言でなく、今や故人となられたが真に銘記すべき恩人であると思う、筆者退道後は吉田村長よりの毎年の報告感謝状により推移を知るのみであったが特に昭和18年筆者は北支の異郷に在って吉田村長より水稲の見事な作況を撮った写真と共に感謝の書状に接した時は全く今昔の感禁じ得ず多大な喜悦を覚えると共に更に益々のご多幸を異郷に在って祈った者である……」
 猪狩源三は、北海道庁の嘱託技師として、先の「報告書(第1報)」後、同名の(第2報)が2年後の1957(昭和32)年2月に、翌年「十勝岳爆発30年後に於ける流泥被害地土壌に関する調査研究報告(第3報 昭和33年3月)」を発表している。
 そして1959(昭和34)年2月に「十勝岳流泥地水田改良についての調査成績報告(第4報)」を最後にその2か月後の、同年4月19日札幌市にて逝去しています。
 その後、北海道農業専門技術員技師千葉登氏や北海道農業改良普及員技師片井義也氏によって1962(昭和37)年2月「十勝岳流泥地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告(第7報)」で最終的にまとめられています。このことから、「十勝岳流泥地」の土地改良事業の調査研究と指導は猪狩源三のライフワークであったと思われます。

掲載省略:(写真) 昭和28年8月の十勝岳登山調査 [左]泥流跡調査 [中]十勝岳を背景にした一行 [右] ヌッカクシフラヌイ川水源水質調査
掲載省略:(写真) 昭和28年9月実施の水田土壌調査
掲載省略:(写真) 「十勝岳山麓地帯に於ける酸性灌漑水並びに流泥被害地土壌調査報告書(第1報)」
掲載省略:(写真) 「十勝岳山麓地帯に於ける酸性灌漑水並びに流泥被害地土壌調査報告書(第2報)」と「十勝岳爆発三十年後に於ける流泥被害地土壌に関する調査研究報告(第3報)」
  猪狩源三の略歴
 猪狩源三は明治10年頃、現在の岩手県盛岡市から当時の北海道札幌郡豊平村に入植した猪狩庄右エ門、源吉父子の開拓二世として、1889(明治22)年3月1日北海道岩見沢市で出生。1914(大正3)年東北帝国大学農科大学農芸化学科(現 北海道大学農学部)を卒業し、同科の副手から北海道農事試験場の技師として従事した。昭和5年岩手県農事試験場長として赴任するまで、和歌山県農事試験場技師、民間の古谷製菓化学研究所主任などを歴任し、北海道帝国大学となった母校の講師も勤めた。その後再び北海道農試に復職し農芸科学部主任などを歴任した。
 この間1918(大正7)年「実験拘櫞(クエン)酸製造法」(有隣堂出版)の著書や「オブラート製造法」の発明(古谷製菓化学研究所時代)、そして北海道農事試験場時代には1926(大正15)年5月の十勝岳爆発による泥流被害と土壌調査に携わった。
 1930年(昭和5年)、同郷の先輩でもある当時北海道帝国大学総長佐藤昌介の勧めもあり、北海道農事試験場から岩手県農事試験場長として赴任した。

掲載省略:(写真) 北海道農事試験場時代の源三
  十勝岳爆発流泥に関する調査研究
 源三は第10代岩手県農事試験場長として12年間在職し、1942(昭和17)年に退官した。その間、北海道農事試験場時代から調査に参加していた「十勝岳爆発流泥に関する調査」のとりまとめにかかった。
 また「泥炭地水の緩衝能に就いて」(日本土壌肥料学会誌「土壌肥料学雑誌1931年12月10日号」)や「土壌酸性矯正用石灰岩ノ粉末ニ就テ」)北海道農事試験場報告32号 1935年発行)など、レポートはいずれも発表は岩手県農事試験場長時代のものであるが、研究は北海道農事試験場時代からのものであり、泥炭地の土壌改良や酸性土壌改良材としての「石灰岩末」の肥料としての効用についての研究をすすめていた。
 1940(昭和15)年に発表された北海道農事試験場報告第39号「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」は、その後「十勝岳爆発20年後の植生」(1949(昭和24)年 北方林業第1巻83頁)や「十勝岳流泥跡地の植生の推移」(1960(昭和35)年北方林業12巻11号・12号)などの報告書や北海道旭川土木現業所の「富良野川における大正泥流の痕跡調査」(発表年不明)、北海道開発庁の「5万分の1地質図幅説明書 十勝岳」(1963(昭和38)年3月)などの調査資料にも活用されている。
  猪狩源三と宮澤賢治
 宮澤賢治は晩年の昭和6年(賢治35歳)、肺の病も小康状態の時期、工場主であった鈴木東蔵の依頼で東北砕石工場の嘱託技師として、炭酸石灰(タンカル)の製造指導と販売に駆け回っていた。
 その最中、4月4日付の工場主鈴木東蔵あての葉書に『本日は当地方煙山不動見前の各組合を歴訪致しいづれも注文取纏の約を得候。並びに朝試験場長と会見致し大に激励の辞を得候。 以下 略』(※新校本宮澤賢治全集第15巻)との記載がある。
 その後の4月7日賢治の盛岡高等農林学校時代からの親友であった工藤藤一が3月31日付けで岩手県農事試験場技師の辞令を受けたお祝いとして書いた工藤藤一あて封書には次の記載がある。『日報紙上で拝承いたしました処 この度はまことにお芽出たう存じます。…(中略)…先日肥料設計の実際色々御指導を得たく参上いたしたのでしたが萩荘村御出張中でありましたので、三浦様を以て場長殿に一寸お目にかかり石灰の方のお礼も申し上げて参りました。以下略』(※同)
 ここで記載されている当時の岩手県農事試験場長が猪狩源三である。
 賢治35歳、その前年(昭和5年)に北海道農事試験場から岩手県農事試験場長として赴任してきた源三は42歳。
 1931(昭和6)年4月4日「試験場長と会見致し大に激励の辞を得候」(鈴木東蔵宛葉書)、「場長殿に一寸お目にかかり石灰の方のお礼も申し上げて参りました」(工藤藤一宛封書)という賢治の一文から、源三と賢治の対話がどんな内容であったのか、興味が沸くところである。

掲載省略:(写真) 宮澤賢治〜農学校教員を勤めながら、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』や詞『雨ニモマケズ』等膨大な作品を残している。
  源三と賢治の対話を推理
 賢治と面会した昭和6年までの源三の足跡を辿ると、賢治と同じ、土壌改良のための「肥料学」や「緩衝能」の研究をすすめており、当然「炭酸石灰」の効用や、岩手県内の小岩井農場をはじめ、岩手山の噴火による火山灰土壌の改良のために、「安価で効用の高い石灰岩の砕石(粉末)」に関心を持っていたものと思われる。源三の「土壌酸性石灰岩ノ粉末ニ就テ」のレポートは石灰粉末の効用についてその粒度に注目し研究したものである。その関係からも、賢治から「炭酸石灰」の効用について相談を受けた試験場の主任技師となった工藤藤一氏の報告に対して、岩手県農事試験場の「推奨品」として決済したことも頷ける。
 賢治の手紙の中の「石灰の方のお礼を申し上げた」の一文はこのことを指しているのではないか、そして土壌改良という同学の同志として会話が弾んだのではないかと想像される。
 また、工藤藤一氏から賢治が、盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)を卒業し、稗貫郡立稗貫農学校(後の花巻農学校)の教職時代や羅須地人協会で農村青年への農業指導を進めてきた活動について聞き及んでいたのではないか。そして源三自身の北海道の開拓農地の「土壌改良への想い」が重なり、そこから賢治の農業指導者としての「活動」と砕石工場の技師としての「仕事」への「励まし」の会話となったのではないかという想像が膨らみます。
  「岩手県立農業試験場」時代の源三
 1951(昭和26)年岩手県立農業試験場創立50周年記念に編集された「岩手県立農事試験場50年の歩み」に当時、北海道庁経済部農業改良課技師であった源三は「岩手の思い出」という12年間に亘る、場長時代を回顧した一文を寄稿している。
 この内容は場長時代に推奨した農事研究の思い出や場長として各種の委員会の委員や審査員、ラジオ放送への出演、創立30周年記念行事などの活動を振り返ったものである。その中で、「北海道農試から岩手県農試への異動は同じ郷土出身の当時北海道帝国大学総長佐藤昌介博士からの推挙であった」ことや「毎週土曜日、年休を提供して日帰りの出来る町村での農事講演会を開催した」こと、「昭和6年の三陸大津波とその後の凶作に試験場あげて対策指針を作成し指導した」こと等。他に「岩手林檎の普及」、「冷害に強い陸羽132号の奨励(これは宮澤賢治も推奨したと言われている)」、「甘藷や水田二毛作の奨励」といった、試験場での活動。そして源三自身登山やスキーが好きで、職員と早池峰、岩手山、須川岳、八幡平などを征服したことや、都山流尺八の大師範として自宅で職員有志を教えていた等の回顧が記されている。
  おわりに

 猪狩源三は1959(昭和34)年4月19日北海道札幌郡豊平町にて71歳の生涯を閉じている。源三は晩年までも十勝岳泥流で被害を受けたこの地方の土壌改良事業に携わっていたと思われる。その源三はあの泥流で埋められた土壌が豊かな水田に生まれ変わるその報告書(「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書」第7号 昭和37年2月1日発行)を目にすることは出来なかった。
 そして、今日「美しい丘陵地帯」として畑作農業が栄え「丘のまち」ラベンダーの咲き誇る観光地として全国に紹介されていることは想像すら出来なかったであろう。
 祖父の偉業に今更ながら驚きと尊敬の念を抱くところである。祖父源三の研究がここまで活用されていたことを、没後57年となる盛岡市大泉寺に眠る祖父の墓前に報告したい。
                     (2016年5五月20日 猪狩昌和 記)

掲載省略:(写真) 「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書(第7号)」
掲載省略:(写真) 国営直轄かんがい十勝岳地区の昭和41年8月起工、昭和49年3月竣功の「日新ダム」には、源三の調査報告が生かされている。
《参考文献》
・ 猪狩源三 「土壌酸性矯正用石灰岩の粉末度に就きて」
 (1935年北海道農事試験場報告第32号)
・「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」(1940年北海道農事試験場報告第39号)
・「泥炭地水の緩衝能に就いて」(1931年12月10日発行 土壌肥料学雑誌)
・「十勝岳山麓地帯に於ける酸性灌漑水並に流泥被害地土壌調査報告書」
 (第1報〜第4報 1955年〜1959年)上富良野町・中富良野村発行 猪狩源三著
・「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書」
 (第7報・1962年上川地方綜合開発期成会・上富良野町) 千葉 登・片井義也著
・「郷土をさぐる‐第5号」(1986年4月上富良野町郷土をさぐる会)
・「岩手県立農業試験場50年の歩み」(1951年岩手県立農業試験場創立50周年記念会)
・ 三浦綾子著「泥流地帯」「[続]泥流地帯」(1977年・1979年新潮社発行)
・【新】校本宮澤賢治全集第15巻書簡(本文篇・校異篇1995年・筑摩書房)
・ 佐藤竜一「宮澤賢治あるサラリーマンの生と死」(2008年集英社新書)
・ 鈴木 實「宮澤賢治と東山」(1986年熊谷印刷出版部)
・ 千葉 明「肥料用石灰資材の粒度研究」―宮澤賢治の関わりを中心に―
 (2015年 北水会報128・129号岩手大学農学部「北水会」)
《著者略歴》
出 生 地  岩手県盛岡市三ツ割字田畑
現 住 所  札幌市豊平区西岡5条13丁目
最終学歴
  1970年3月(昭和45年)北海道大学工学部機械工学第2学科 卒業
職  歴
 1970年4月〜1998年5月 生活協同組合コープさっぽろ 最終職 常勤理事
 1998年5月〜2001年6月 釧路市民生活協同組合 最終職務 常務理事(和議再建担当)
 2001年7月〜2012年9月 株式会社シーエックスカーゴ(日本生活協同組合連合会子会社)
            最終職 専務取締役補佐
現  況(ボランティア活動)
 西岡公園「植物の会」会員、西岡「小目クラブ(囲碁)」会員、
 西岡「九条の会」会員、札幌豊平教会「朝食を食べる会(子供給食)」奉仕 他
趣  味
 登山・囲碁・読書


機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀