郷土をさぐる会トップページ     第34号目次

後世に語り継ぐ事業
名誉町民酒匂佑一の生涯(前篇)

野尻 巳知雄 (80歳)

  1. 一通の手紙
 故名誉町民酒匂佑一氏の履歴を調べるために、故人と縁りのある梨澤節三氏の案内で、今は空き家になっている旧酒匂宅を訪れた。
 そこで目にしたのは、酒匂佑一氏宛に届いた1通の手紙であった。
 送り主は、鹿児島に住む酒匂佑一氏の母親「カ子(ね)」さんのゆかりの人と思われる松永守道という方からで、「カ子」さんの旧姓が「桐野家」であることから、『歴史的に有名な「西南の役」の勇将、桐野利明とどんな関係があるのか!』との問い合わせであった。
その文面は次のとおりである。

木津志の良光氏より、あなたの御住所をお聞きして、この手紙を出しました。郷土史研究の一環として調べておりましたところ、良光氏の祖母カヲさんは桐野家の生まれで、明治10年4歳で池田助太郎氏の養女としてもらわれ、後、別府袈裟助氏と結婚しておられます。
あなたの母上カネさんも桐野家の生まれで、カヲさんの姉にあたられるとききました。
良光氏に、カヲさんの生まれた桐野家は、西南の役の勇将、桐野利明とどんな関係にあるのか、おききしますが、わからないとのことです。そこで、あなたにお聞きすればわかりはしないかとの良光氏の話で、こうして手紙を差し上げました。
おわかりならば、どうか教えて下さい。略系図でお示し下されば有難いと思います。

掲載省略:空欄がある略系図

右どうかよろしく御教示下さい。
 昭和60年2月14日
           松永 守道
  酒匂 佑一 様

 このほかに資料として「藤原姓 桐野氏系図」「桐野氏系図」が同封されていた。
 酒匂佑一氏は、この手紙により母「カ子」の出生の手がかりに酒匂家の除籍謄本を札幌市役所から取り寄せるとともに、酒匂家のルーツを探るために日本家系協会出版の「酒匂一族」(昭和58年発行)の本を取り寄せている。

掲載省略:(写真)松永守道氏からの手紙
掲載省略:(写真)松永氏手紙添付の家系図
掲載省略:(写真)取り寄せた「酒匂一族」
  2. 酒匂家のルーツ
  「酒匂一族」によると、『酒匂の氏号は、他の氏号と同じようにその地名を起源としており、相模国足柄郡(現神奈川県)に流れる酒匂川の地名を以って氏稱された。平安時代の末期に、相模の豪族鎌倉氏の分れに酒匂氏があり、早く初代島津忠久に従いて九州に下向したものと思われる』と記述されている。
 酒匂宅にあったもので興味深いのは神棚にあった胴鏡で、裏面に「出雲守豊前守藤原政重」の銘が刻まれていることである。「豊前守藤原政重」をネットで調べると、江戸時代の作で「豊前守藤原政重」銘の鏡には「松平豊前守藤原政重」と「松岡豊前守藤原政重」がある。「出雲守豊前守藤原政重」については、戦国時代に東北で勢力を強めた「山内七騎党」といわれる一族に中に、沼沢丸山城主で「山内出雲守藤原政重」の名が出ている。
 このほかに「松平出雲守」は家康の重臣松平重勝の五男で、上総佐貫藩初代藩主「松平勝隆」と出雲松江藩主「松平出雲守直政」の名があるが、いずれも銅鏡との関係は薄い。
 また、豊前の地名は九州福岡地方であり、鏡師の「松平豊前守藤原政重」と「松岡豊前守藤原政重」は江戸時代人物であるが、鏡師として名高い人物であるが、酒匂ルーツの藤原との関係は定かではない。
 酒匂宅の胴鏡がどちらの作の鏡かは定かでないが、ネットで見る限りでは江戸時代に作られたものである事がわかる。酒匂宅の神棚になぜ豊前守藤原政重銘の鏡が据え付けられていたかについては憶測の範囲でしか読み取ることは出来ないが、台座が比較的新しいことを考えると、1985(昭和60)年に取り寄せた日本家系協会出版の「酒匂一族」により、その流れから祖先と思われる藤原系の胴鏡を買い求めたのではないかと推測される。

掲載省略:(写真)神棚にあった銅鏡
  3. 母カ子さんと桐野利明の関係
 酒匂佑一氏の母上「カ子」さんについては、1985(昭和60)年4月13日に前回の鹿児島に住む松永守道氏からはがきが届いており、はがきの裏面には
「お元気のことと思います。その後、御宅と桐野利明の関係が左記のようにわかりました。
つきましては、お父上の名と死亡年月日と年齢、御母上カネ様の死亡年月日と年齢を御教示下さいませんか。
よろしくお願い致します」
と記載されている。

掲載省略:(写真)松永守道氏からのハガキと判明した系図

 このはがきによると、酒匂佑一氏はこのときには先の母カ子さんのルーツについては、返信していなかったものと思われる。
 梨澤氏に取り寄せていただいた酒匂家の除籍謄本を見ると、酒匂佑一氏の母カ子さんは、父桐野源七郎、母ハルの長女として生まれており、北海道に渡ってきたのは1885(明治18)年で、兄桐野利春と共に鹿児島から屯田兵一族として江別に入植している。
 屯田兵の制度については、伊藤廣著「屯田兵物語」によると、北海道に開拓史が置かれてまもなくロシア帝国の南下政策により、当時日本の領土であった樺太(サハリン)にロシア兵が侵略を始めたため、西郷隆盛が『北海道に屯田兵を設置しよう』と発想したのがきっかけで、1873(明治6)年に黒田清隆が「北海道の防備と開拓を目的」に軍隊組織を導入し、その家族を入植させて処女地の開墾を図ろうとした。
 しかし、当初計画の3年間に1500戸、その家族6000人の予定が、1875(明治8)年から1882(明治15)年の8年間で約半分の587戸の入植に終わっている。
 開拓史はこれらの反省を踏まえ、1884・1885(明治17・18)年から本腰を入れて取り組み、札幌の近くの江別、野幌への入植を行い国防と治安の面の強化を図ることが主たる目的であった。そのことから入植者のほとんどが士族出身であったと思われる。
 このとき鹿児島から野幌に入植した団体の中に酒匂佑一の父酒匂平右衛門と、後の島津農場管理人の海江田信哉(次男武信と佑一の姉ヨ子が婚姻)や、佑一の母「カ子」の兄桐野利春が入植している。
 その後「カ子」は、1891(明治24)年に同じ鹿児島から屯田兵として入植した酒匂平右衛門(父酒匂平八、母カ子長男)と婚姻し、1941(昭和16)年12月2日に上富良野村西1線北145番地(現海江田宅)にて70歳で逝去されている。
 先に松永守道氏から照会のあった酒匂佑一氏の母「カ子」さんと西南の役の勇将桐野利明との関係については、「カ子」さんの父桐野源七郎氏も、兄桐野利春氏も桐野利明とは別の系統と思われ、その関係を明らかにする資料は見当たらない。松永守道氏から送られてきている桐野一族の資料を見ても、桐野源七郎、桐野利春の名はどこにも記載されていない。
 また、屯田兵として入植した桐野利春氏と桐野利明氏の関係についても、ネット上で桐野家のゆかりのある人がその疑問を正すべく多くの投稿が見られるが、どの内容を見ても桐野利明との関係は不明のままである。
 松永守道氏から来た『桐野利明との関係が分りました』とのはがきの内容は、その関係がどこから判明されたかは分らないが、総合的に判断するとどう見てもその関係が明らかにされたとはいい難いように思われる。また、酒匂佑一氏が松永守道氏の疑問に対してどのような内容の返信を出されたかについては、本人が故人となられた今となっては不明のままである。

掲載省略:(写真)酒匂佑一氏の母カ子
掲載省略:(写真)佑一氏の父平右衛門
掲載省略:(写真)伊藤廣著「屯田兵物語」冊子
掲載省略:(写真)鹿児島県からの屯田兵名簿に桐野利春・海江田信哉・酒匂平右衛門の名がある
  4. 酒匂家の戸籍から
 戸主酒匂佑一氏は、1916(大正5)年9月25日に雨竜郡深川村メム16番地にて父酒匂平右衛門・母カ子の次男として生まれている。
 1923(大正12)年10月27日に前戸主酒匂平右衛門の死亡により家督相続を行い、1942(昭和17)年11月1日に中村ヨシコと結婚している。
 酒匂氏の戸籍には、母カ子[1872(明治5)年生]、姉モト[次女1901(明治34)年生]、姉ヨ子[参女1903(明治36)年生]、姉カツ[4女1906(明治39)年生]、姉松野[5女1909(明治42)年生]、姉芳[6女1914(大正3)年生]の他、叔祖母エイ、父酒匂甚太郎、母チサ[4女1857(安政4)年生]、と叔父彦八(父酒匂平八、母カ子の次男)の家族7人が載っている。このことは、当時は家族構成が戸主を中心にして成り立っていたことを覗うことが出来、酒匂佑一氏のルーツを知る大きな手がかりとなっている。
 酒匂佑一氏の戸籍から読み取れるのは、佑一氏の父は酒匂平右衛門で、祖父は酒匂平八、祖母はカ子であり、酒匂平八の父で、佑一の祖祖父は酒匂甚太郎、祖祖母はチサであったことが判る。(酒匂佑一氏が記したと思われる鉛筆書きのメモが「酒匂一族」の本の中に挟まっていた事から、佑一氏が同じように除籍謄本から酒匂家のルーツを探り当てていたことが判る。)
 1919(大正8)年叔父酒匂彦八家族 旭川区5条通19丁目右1号に移住
 1924(大正13)年4月15日 姉ヨ子(3女)江別市野幌 海江田信哉次男海江田武信と婚姻(上富在住)
 1928(昭和3)年11月10日 姉カツ(4女)上富良野西4線北33号 金子淳と婚姻
 1937(昭和12)年5月21日 姉松野(5女)歌志内村字下の澤 阿部英一と婚姻
 1939(昭和14)年4月11日 姉芳(6女)富山県新川郡道下村 西尾徳松と婚姻(上富在住)
 酒匂佑一氏の家系図は次の通りである。

掲載省略:(写真)酒札幌市役所から取り寄せた酒匂家の除籍謄本
掲載省略:(図)酒匂家系図

・1930(昭和5)年4月1日 札幌市旧制北海中学校入学 
※ この時期に各種スポーツ(バスケットボール、野球、庭球、卓球、スキー等)を習得した模様である。
・1935(昭和10)年3月3日 同校卒業
・1935(昭和10)年12月1日 札幌鉄道局札幌駅勤務
・1936(昭和11)年12月1日 兵役入営(近衛師団)
・1940(昭和15)年9月1日 北京にて現地満期除隊(勲八等に叙せられる)
・     同 年9月 旧中華民国華北気象台気象科勤務
・1941(昭和16)年12月2日 母カ子上富良野西1線北145番地で死亡
・     同 年10月7日 中村ヨシコと結婚
  5. 酒匂家の足跡
 1885(明治18)年7月、鹿児島県屯田兵として島津藩30名が野幌に入植し、酒匂平右衛門もその一員として入植した。当時の本籍は、江別町348番地にあった。
 1903(明治36)年9月に姉3女ヨ子、1939(明治39)年に4女カツ、1909(明治42)年に5女松野がいずれも岩内町で生まれており、家族は岩内町に住んでいたと思われる。
 1914(大正3)年7月に生まれた姉芳は深川村で生まれており、1931(大正6)年12月に父平右衛門は、深川村3番地(元警察分署跡地)に「私立裁縫女学校」を設置すべく、北海道長官 俵 孫一に認可願いを出していることから、その頃から住所を深川村メム17番地に移し住んでいたようである。
 その後本籍地を、江別町から「札幌市大通西11丁目乙31号(現札幌高等裁判所付近)」に転籍しているが、年月日は定かでない。
 酒匂佑一氏が書いた履歴を見ると次のような変遷が書かれている。

・1930(昭和5)年4月1日 札幌市旧制北海中学校入学 
※ この時期に各種スポーツ(バスケットボール、野球、庭球、卓球、スキー等)を習得した模様である。
・1935(昭和10)年3月3日 同校卒業
・1935(昭和10)年12月1日 札幌鉄道局札幌駅勤務
・1936(昭和11)年12月1日 兵役入営(近衛師団)
・1940(昭和15)年9月1日 北京にて現地満期除隊(勲八等に叙せられる)
・     同 年9月 旧中華民国華北気象台気象科勤務
・1941(昭和16)年12月2日 母カ子上富良野西1線北145番地で死亡
・     同 年10月7日 中村ヨシコと結婚

 妻ヨシコは、写真技師として北京で写真館経営の兄の手伝いをしていた。当時の2人の生活は給料も高額で裕福な生活を送っていたと後に話しており、日本へ帰ったら別荘を買う位、銀行に貯金していたほどであったと聞いている。
 1946(昭和21)年1月、敗戦により銀行預金も含めて全て中国側に接収され、着の身着のままで日本に引き揚げてきた。その当時は住むところもままならず、一時は渋江医院長宅の2階に間借りして、豆選りの仕事などで糊口を凌いでいたという。
 1946(昭和21)年6月1日、当時村会議員であった姉婿海江田武信氏等の伝を辿り、上富良野村役場に奉職、1947(昭和22)年3月1日統計係主任、同年4月1日役場職員組合委員長に推されている。
 次からは、役場職員・町長履歴簿により記載する。

・1948(昭和23)年4月30日 教育係長
・1951(昭和26)年11月22日 公民館主事
・1956(昭和31)年〜1959(昭和34)年6月 町教育委員会教育長
・1959(昭和34)年6月〜1963(昭和38)年6月 町助役
・1971(昭和46)年6月〜1983(昭和58)年8月 体育協会会長
・1971(昭和46)年12月〜1983(昭和58)年9月 わかば会理事長・監事
・1975(昭和50)年8月〜1979(昭和54)年8月 町議会議員
・1978(昭和53)年5月〜1984(昭和59)年9月 自衛隊父兄会長
・1982(昭和57)年4月〜1983(昭和58)年8月 スポーツ振興審議会会長
・1983(昭和58)年8月〜1992(平成4)年11月 上富良野町長・富良野地方自衛隊協力会会長・自衛隊協力会道北地区連合会副会長・(株)上富良野町振興公社取締役社長・防犯協会会長・交通安産推進委員会長・上川南部消防事務組合管理者
・1987(昭和62)年5月〜1992(平成4)年11月 防衛施設周辺整備全国協議会理事
・1990(平成2)年4月〜1992(平成4)年11月 十勝岳火山防災会議協議会会長
・1991(平成3)年5月〜1992(平成4)年11月 北海道基地協議会副会長
・1961(昭和36)年5月18日 中村忠夫・千鶴の次女順子(酒匂ヨシコの姪)を養子に迎える。
・1967(昭和42)年9月19日 養女 酒匂順子 梨澤節三と婚姻。
掲載省略:(写)私立裁縫女学校設置認可証
掲載省略:(写)酒匂佑一氏自筆履歴書
掲載省略:(写真)酒匂佑一氏の軍装姿(昭和11年)
  6. 全国市町村に教育委員会を設置
 1952(昭和27)年11月1日「地方行政の組織及び運営に関する法律」の施行に伴い、地方公共団体は、各市町村に教育委員会の設置が行われ、上富良野町教育委員会の事務局が、前年1951(昭和26)年11月20日に開館していた上富良野町公民館(昔の島津農場倉庫を改装)に設置された。
 初代教育委員長に海江田武信、委員には金子小二郎、飛澤英壽、林 覚、小林八百蔵が当たり、初代教育長に北川与一(助役兼務)が就任した。
 職員には役場総務課教育係 酒匂佑一、教育次長 谷口守人、庶務係長 西口千代(後の倉本)、学校教育係 林給士の4名が発令着任した。

掲載省略:(写真)島津倉庫に付随した酒匂氏の住宅と酒匂夫妻
  7. 成田氏の酒匂佑一氏との出会い
 成田政一氏は、当時日本通運美瑛営業所に勤務しながら、上富良野では中央青年団の一員として主にスポーツに打ち込んでいた。
 ちょうど教育委員会では社会教育を担当する者がおらず、適任者を物色していたところ、この活動が担当者の酒匂佑一氏の目に留まり、『教育委員会では社会教育の指導者を探しているので、是非やってもらえないか』と誘いをかけた。成田氏は、社会教育活動に興味があったので、酒匂佑一氏の誘いを受諾して日本通運を退職し、1953(昭和28)年1月5日付けで、社会教育係兼公民館書記として採用されることになった。
 その年の6月1日付けで、助役が兼務していた教育長の職に、上富良野中学校の梅田鉄次郎氏が就任した。

掲載省略:(写真)昭和29年1月3日公民館前で当時の職員の記念写真(前列左から酒匂佑一・梅田鉄次郎・谷口守人、後列左から林・西口千代・成田政一)
  8. 移動公民館活動
 1954(昭和29)年頃の日本の社会情勢は、終戦の混乱からようやく落ち着きを取り戻し安定してきたが、毎日の生活では娯楽に乏しく正月の凧揚げや羽根つき、盆踊り、上富良野神社祭り、部落の祭り、運動会行事の参加などが主な娯楽で、1950(昭和25)年の12月末に落成した「日本劇場」の映画館は、連日多くの観客が押し寄せるほど娯楽に飢えていた時代であった。
 そんな中、1954(昭和29)年から始められた移動公民館は、地域の小中学校を会場に、5月と9月に実施された。
 無電灯地域には発電機を運び、ナトコ映画(当時連合軍最高司令官総司令部の占領政策で民主化促進運動の一環として各教育委員会に映写機などが貸し出された)の映写機やフイルム、幻灯機などの機材を持ち込み、昼間は小中学生を対象に、公民館職員が子供とクイズをしたり、映画やスライド映写を行い、夜は一般を対象に浪曲入りのスライド映写や、16ミリ映画の上映を行い、楽しい夜を過ごしてもらったという。
 会場はどこも満員で、子どもからお年寄りまで多くの住民が楽しんだ。
 発電機を使用した会場では、機械の不調で修理が夜中過ぎまでかかったこともあったが、誰ひとり帰ることも無く、全員が故障の直るのを待っているほどの人気であった。

掲載省略:(写真)昭和33年5月公民館前で、移動公民館の開催に僻地学校へ出発前に〜左から芳賀正夫、酒匂佑一、福塚賢一、成田政一
  9. 青年学級の開設
 1953(昭和28)年8月14日に、「勤労に従事している青年に対し実際生活に必要な職業また家事に関する知識及び技能を習得させ、一般的教養の向上を目的」とした青年学級振興法が公布された。
 上富良野町に於いても、1954(昭和29)年1月から町内部落の各小中学校や公民館分館を会場に青年学級が開設された、
 青年学級は、地域の青年を対象に主に夜間を利用し、内容は農業の振興策、団体活動の振興、生活知識や教養の向上など広範囲にわたり、講師には町の関係者(農業担当職員)、農業関係指導者(農業改良普及員など)、地域小中学校教職員、教育委員会職員(公民館長、同主事、社会教育主事)、華道茶道教授などが講師となり開講された。ここでも新しい知識や教養を身につけようと、町内に居住する男女の青年が多く集まり、熱心に学習に励んだ。

 開講した学級は次の通りである。

●1954(昭和29)年1月開講
 草分青年学級(旧創成小学校)・江花青年学級(旧江花小学校)

●  同年    3月21日開校
 東中青年学級(東中公民館)

●  同年    4月1日開講
 里仁青年学級(旧里仁小学校)・日新青年学級(旧日新小学校)
 清富青年学級(旧清富小学校)

●  同年    4月20日開校
 江幌青年学級(旧江幌小学校)

●1956(昭和31)年4月1日開校
 上富良野公民館青年学級(公民館)・旭野青年学級(旧旭野小学校)
  10. ボーイスカウト発足
 1956(昭和31)年5月24日、上富良野ににボーイスカウトが発足した。公民館を隊舎に、隊員14名(2班)が入隊し、発隊式が行われた。
   団委員長 一色正三
   隊長   酒匂佑一
   副隊長  成田政一
 発隊当時の隊名は、上川第14団で2年後、日本ボーイスカウト上富良野第1団に改名、発隊後酒匂佑一氏を隊長に、副隊長成田政一氏を指導者として、町内丸一山公園やサッポロビールホップ園(富原)等で宿泊キャンプを実施するほか、日頃の隊活動の指導効果を携え、町内行催事の音楽パレードや交通安全パレード等の先頭のプラカード持ちを担当し出場した。
 酒匂佑一氏は、4年毎に行われる日本ジャンボリーに、上川地区委員長及び北海道連盟理事として、隊員を引率し参加した。
 この頃から公民館活動が活発になり、その一環として新生活運動による会費制の結婚祝賀会が行われるようになった。

掲載省略:(写真)昭和33年9月自衛隊へ1泊入隊しボーイスカウト隊員に話しかける酒匂氏(ボーイスカウト第1団体長)
掲載省略:(写真)昭和43年9月岡山県日本原の日本ジャンボリーに参加のため道内参加隊員らと共に奈良県東大寺を訪れた折に
掲載省略:(写真)昭和43年9月日本ジャンボリーに参加の折り岡山城を背景に
  11. 教育長時のスポーツ・社会教育活動
 1956(昭和31)年10月1日付けで酒匂佑一氏が、上富良野町第3代教育委員会教育長に就任し、兼ねて公民館長に任命された。
 教育委員会発足当時は、スポーツ団体(十勝岳スキー山岳会、スキー連盟、武道愛好会)及び文化団体(文化連盟、俳句会)の事務局を公民館に置き職員が担当し、活動していた。
 冬のスキー活動は、スキー連盟が主体となり進められていた。終戦後、島津の垂水(たるみ)山スキー場を利用していたが、1967(昭和42)年に町営日の出山スキー場が完成し、スキー連盟指導員の行う基礎技術の講習や級別検定の結果、1級から4級まで合格した方の全日本スキー連盟への認定申請事務は、教育委員会職員が行っていた。
 酒匂佑一は文化活動にも造詣が深かった。
 1956(昭和31)年に発足した「このみち句会」の会場と事務局が、翌年の1957(昭和32)年に公民館に移行してから、このみち句会の会員となり、共に俳句を楽しんでいる。
 残念なことに当時の酒匂氏の作品は残っていないが、1986(昭和61)年6月8日に発行された「このみち句会30周年記念誌」に「思い出」として、次に転載する当時を振り返った祝辞が述べられている。
   思い出
          上富良野町長 酒匂佑一


 私は今、丁度30年前の頃を思い出しております。
 まだ古い建物の公民館で、学校の教室を彷彿とさせるような机と椅子の講堂で、初めて句会を開いた時のことがまだ脳裏に焼きついています。
 今のように物資も豊富でなく、文化的な行事も又、施設もない当時、公民館の仕事として音頭とりとなって今は故人となられた本田茂さんや、今なお健在な田浦夢泉さん等が中心となられ開催したのがそもそもの始まりで、私も世話人の一人としてあの時のことが目の前に浮かんできます。
 それがもう30年になるかと、びっくりしている次第です。然も30年がただ経っただけでなく、ますます健在で俳友の皆さんも又、多士済々、いよいよ成熟の度も増し活発化していることは本当にご同慶に耐えません。
 今後とも「このみち句会」が大きく伸びていきますよう、そして会員皆様のますますのご健吟を祈念し、簡単粗辞ですが、お祝いのご挨拶と致します。
 また、このみち俳句会40周年記念誌「ものの芽」[1996(平成8)年6月30日発行]には、30周年記念の折に写した記念写真に酒匂佑一氏が写っている。

掲載省略:(写真)このみち俳句会40周年記念誌「ものの芽」と句集「このみち」
掲載省略:(写真)このみち俳句会30周年集合写真
  12. 自衛隊との協働活動
 1955(昭和30)年9月に、陸上自衛隊が上富良野町に移駐した。
   初代駐屯地司令   鳴川勝一 1佐
   移住部隊・第2特科連隊 ・業務隊
       ・344会計隊 ・警務隊
       ・第2戦車大隊 ・調査隊
       ・301通信隊
 移駐後部隊内のグランド造成が行われ、冬季スポーツを行う施設として、グランド付近を流れる灌漑溝を利用して、スケートリンクが造成された。
 1956(昭和31)年1月27日に、この特設スケートリンクにおいて、町教委、観光協会、スケート連盟関係者等と自衛隊業務隊が協働して、町内初のフイギュアスケート大会が開催された。元オリンピック選手稲田悦子さんと有坂隆裕氏により、町内初のフイギュアスケートの模範演技が披露された。
 この年の3月9日、駐屯地営庭グランドで各中隊が作成した雪像で、第1回かみふらの雪まつりが開催され、町内及び沿線市町村から雪像見学する人々で賑わった。
 このように自衛隊と町民との交流が深まり、その後、町職員、町議会議員、町内関係団体(文化連盟、スポーツ団体、青年団、子供会、ボーイスカウト等)の会員が、隊舎や天幕に宿泊しての体験研修が行われ、夜間キャンプファイヤー等も実施された。
 1967(昭和42)年5月3日、他のスキー場ではシーズンが終了している春の雪解け時期を利用して、第1回全道十勝岳大回転競技大会が、十勝岳温泉コース(上ホロカメットク岳中腹より十勝岳温泉前の沢まで)で開催され、駐屯地の隊員が、コース造成整備や、大会運営役員、通信業務従事などで献身的に努力され、大会を成功に導いた。大会には当時のオリンピック強化選手も多数参加し、後に北海道スキー連盟A級公認大会として、1975(昭和50)年春まで9年間続けられた。

掲載省略:(写真)元オリンピック選手の稲田悦子さんと有坂隆裕さんが上富良野町初のフィギュアスケートを多数の隊員や町民が見守るで披露した。
掲載省略:(写真)第1回かみふらの雪まつり。雪像コンクールでは、2特連4大隊12中隊が優勝 (写真は3大隊8中隊の作品)
掲載省略:(写真)役場・農協幹部職員及び農業関係者自衛隊一日入隊記念〈昭和36年2月〉
掲載省略:(写真)俳人が一日入隊十勝岳山麓で吟行会(隊員とキャンプファイヤーを囲む)昭和36年6月6日
  13. 酒匂佑一氏助役に就任
 1959(昭和34)年6月4日に助役に就任したが、1963(昭和38)年の町長選挙において、海江田町長がまさかの敗北となり6月の任期満了を以って助役の職を解任となり、7月1日付けで町立病院事務長に赴任し、その年に住宅を新築した。
 1964(昭和39)年4月11日に企画室長となり、この頃から十勝岳の観光開発に大きな関心を抱き、同年の9月に株式会社「十勝岳観光開発公社」を立ち上げ、十勝岳観光開発の拠点として国民年金還元融資を受け、翌1965(昭和40)年の春から国民宿舎「カミホロ荘」の建設に着工した。屋体工事、温泉源のボーリングなどを行い、同年10月8日に完成落成式を実施した。
 また、1964(昭和39)年5月には初代ライオンズクラブの会長に就任し、奉仕活動と地域の名士との交流を深めている。
 1966(昭和41)年5月1日付けで消防本部の組織改変に伴い、消防長・消防司令長に就任した。同年12月1日付けで勧奨退職を受け、翌年4月に行われる道議会議員選挙に立起する準備に入った。
 ここから酒匂佑一氏の苦難の旅が始まるのである。

掲載省略:(写真)酒匂佑一消防長と消防職員記念写真
掲載省略:(写真)ライオンズクラブ結成式

                               以下35号後篇へ続く
 《編集後記》
 郷土をさぐる会の『語り継ぐ事業』として、本号では「名誉町民酒匂佑一氏」を特集したが、往年の活躍が広範かつ多方面であるため、当会の編集委員及び当会の合作で、稿をまとめることが出来た。なお、この機会に酒匂佑一氏に関わる人たちについても記述を広げ、また、往時を振り返られるような写真等を多数掲載したので、膨大な記事となったことをご理解願いたい。
 このような事情から、前篇と後編に分け、本号では「13.酒匂佑一氏助役に就任」で区切って掲載した。後半の展開にご期待願いたい。
 著述担当は次のとおりとなっている。長く体育協会役員を担っていた中村有秀氏、昭和から平成に代わる前後に総務課の防災担当であった野崎孝信氏、同時期に上川南部消防事務組合北消防署で噴火諸対策の実務に従事した三原康敬氏、公民館活動及び教育委員会事務局等で酒匂氏と長く職務を共にした成田政一氏、元町職員で公私ともに親交が深く現職町議会議員である中沢良隆氏が執筆を分担した。
 また、元町職員で行政諸般に精通し前の郷土をさぐる会編集委員長である野尻巳知雄が執筆・入力と編集総括を担い、文章の入力浄書には、田中正人氏、執筆も兼務した中沢良隆氏に頼った所が大きい。
 なお、娘婿の梨澤節三氏への寄稿依頼は、「お礼のことば」として寄せられ、末尾に掲載した。
 各項ごとの分担は、名字のみの記載になるが、次のとおりである。
 編纂総括 野尻
1.一通の手紙 野尻
2.酒匂家のルーツ 野尻
3.母カ子さんと桐野利明の関係 野尻
4.酒匂家の戸籍から 野尻
5.酒匂家の足跡 野尻
6.全国市町村に教育委員会を設置 成田
7.成田氏の酒匂佑一氏との出会い 成田
8.移動公民館活動 成田
9.青年学級の開設 成田
10.ボーイスカウト発足 成田
11.教育長時のスポーツ・社会教育活動 成田
12.自衛隊との協働活動 成田
13.酒匂佑一氏助役に就任 野尻
14.道議会議員選挙への立候補 野尻・中沢
15.苦難の日々を乗り越えて 野尻
16.酒匂町長の業績 野尻
17.十勝岳噴火対策 野崎・三原
18.苦悩の避難解除 野崎・三原
19.噴火対策の強化 野崎・三原
20.二人の火山学者の支え 野崎・三原
21.任期半ばの生涯 野崎・三原
22.酒匂佑一氏とスポーツの関わり
 (1) 北海中学校入学 中村
 (2) 北海中学校一年生の思い出 中村
 (3) 上富良野町軟式野球連盟 中村
 (4) 上富良野町バスケットボール協会 中村
 (5) 上富良野町卓球協会 中村
 (6) 上富良野町スキー連盟 中村
 (7) 上富良野町体育協会 中村
 (8) 軟式テニス・ソフトボールでのプレー 中村
 (9) スポーツ関係の表彰受賞歴 中村
―お礼のことば― 梨澤

機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀