郷土をさぐる会トップページ     第34号目次

― 各地で活躍している郷土の人達 ―
静修開拓の地で子ども時代を過ごして

埼玉県さいたま市南区
田畑 保  昭和20年生れ (72歳)

1. 8月22日明方 留萌沖で
 突然ドカーンというものすごい音がして船は大きく傾いた。沢山の人が海に投げ出され、船内は騒然となった。死を覚悟した母は私たち子どもを側に集めて手をあわせ、「なまんだぶつ、なまんだぶつ」と念仏をとなえた。
 1945(昭和20)年8月22日朝4時55分頃、我々親子が乗った第2新興丸が国籍不明の潜水艦から魚雷による攻撃をうけたときのことである。第2新興丸はアジア太平洋戦争での敗戦で樺太から北海道への引き上げをめざす緊急疎開者を乗せて樺太の大泊(おおどまり)から小樽をめざしていた。魚雷の直撃をうけた第2新興丸の2番船倉には横12メートル縦5メートルの大穴があき、ものすごい勢いで海水が流れ込んできた。2番船倉にいた人たちは海に飲み込まれてほとんどが死亡した。甲板にも沢山の人がのっており、雷撃の衝撃等で多数の人が海に投げ出された。
 私たち親子が乗っていた船倉は、大穴があけられた2番船倉ではなかったので海に飲み込まれることは辛うじて免れた。長兄は潜水艦による攻撃の少し前に甲板に出て、白み始めた空を眺め「北海道に近づいたな」と思ったという。その後船倉に戻ったが、そのまま甲板にいれば海に投げ出されていたかもしれなかった。第2新興丸は潜水艦からの攻撃をうけて船首が傾き危うく沈没しかけたが、辛うじて留萌港までたどりついた。
 第2新興丸(2500トン)の乗船者は約3600人、そのうち約400人が犠牲になった。このとき樺太からの引き揚げ船が留萌沖で潜水艦による攻撃を受けたのは第2新興丸だけではなかった。第2新興丸と前後して大泊港を出港した小笠原丸(1400トン)、泰東(たいとう)丸(887トン)も22日朝の潜水艦からの攻撃で沈没し乗船者の大部分が犠牲となった(小笠原丸の乗船者約720名のうち生存者62名、泰東丸780名のうち生存者113名)。なお、小笠原丸は21日に稚内港に寄港し887名が下船している。その中には納谷一家、後の大横綱大鵬(たいほう)の家族も含まれていた。もし稚内で下船していなければ横綱大鵬の誕生もなかったことになる。
 私たちの家族は日本の敗戦まで北緯50度線の国境近くの樺太敷香(しすか)町に住んでいた。敗戦のとき長兄が少学校3年生、次兄が1年生、姉が3歳、生後7ケ月の私と父母の6人家族だった。留萌沖でのことは生後7ケ月の私には記憶できる由もないが、後に母や兄達から幾度となく聞かされたので、あたかも自分が記憶しているかのように私の頭にインプットされてしまっている。
 敷香では父は王子製紙の人絹工場に原料の木材を流送する現場の仕事に従事する傍ら、米の配給なども行う雑貨屋(こちらは母が主に担当)を営んでいた。それなりに安定した生活を営んでいたようである。それが8月9日のソ連の日ソ平和協定破棄、対日参戦、11日からのソ連軍の50度線をこえての侵攻、南下により一変した。日本軍とソ連軍は戦闘状態になり、8月23日の停戦協定まで樺太は混乱を極めた。樺太庁は樺太住民の北海道への緊急疎開の指示を出したが、その対象は13歳以下の子どもと婦女子に限定されたため、父はそのまま敷香に残らざるをえないことになった。そのため母と私たち4人の子どもだけが北海道をめざすことになった。
 敷香から大泊までは鉄道が通じていたが、その距離三百数十キロと遠かった。混乱の中、緊急疎開のため沢山の人が大泊をめざした。そのため大泊までの列車は緊急疎開の人であふれかえり、私たちは辛うじて貨物列車に乗り込んで8月20日にやっと大泊に着いた。大泊の港では北海道への引き揚げ船を待つ人が長蛇の列をなしていた。長時間待たされてやっと小笠原丸に乗れそうになったが、私たちが並んでいた列の直前で小笠原丸への乗船は打ち切られてしまった。さらにしばらく待たされてその次の第2新興丸にやっと乗り込むことが出来たが、船の故障のため一夜を船内で過ごし、出港したのは次の日の21日午前9時であった。もし小笠原丸への乗船が、私たちが並ぶ列の直前で打ち切られなかったら、留萌沖で小笠原丸とともに海底に沈んでいたかもしれない。人の運命は不思議なものである。
 敷香に残された父は、1946(昭和21)年12月から開始された公式引揚げによって3年後に北海道に戻ることになる。
 なお樺太引き揚げ3船の遭難については北海道新聞社編『慟哭の海 樺太引き揚げ三船遭難の記録』(1988(昭和63)年)、鈴木トミエ『海の中からの叫び 樺太引き揚げ三船遭難の記録』(北海道出版企画センター、1990(平成2)年)等に当事者からの聞き取りも含めた詳しい記録がある。
2. 静修開拓へ
 命からがら留萌に上陸した私たち母子5人は、留萌の人たちの好意で3日間ほど留萌の大きな家に泊めてもらったという。その後、落ち着く先を求めてあちこちまわり、網走の斜里(父の兄が農業)、日高の浦河(母の兄が漁業)を経て1949(昭和24)年に上富良野町の静修開拓(注:地名)に移住することになる。
 1948(昭和23)年に樺太から北海道に戻った父が、ここを入植先に決めて一足先に叔父(母の弟)の助力もえながら開拓の準備を進めていた。その1年後の1949(昭和24)年に私たち母子も浦河から上富良野に向かった。旭川を経て美馬牛で汽車を降りた。静修開拓までは歩きだった。
 最初に住んだ家は小さな茅葺きの拝み小屋だった。父達の手作りの小屋である。木造の床のある家に移ったのはその1年後で、静修開拓を離れるまでずっとこの家に住んだ。
 我が家の入植は遅い方だったこともあり、入った所は開拓の一番奥であった。手前の区画が2つ空いていてそこには後から近隣の集落の分家の人が入ってきた。我が家が一番奥に入ったのは父が偏屈で人づきあいが好きでなかったからだと母や私たち子どもが勝手に解釈していた。
 5ヘクタール区画の入植地の真ん中を小川が流れ(後に開拓川と呼ばれるようになった)、その両側の土地が畑になったが、北側の土地は比較的平坦で耕作には便利だった。田畑さんのところは平らでいいね、とうらやましがられることもあったようだ。しかし飲み水の確保には随分苦労したようである。傾斜地であればどこかにきれいな湧き水が出るところがあるが、我が家にはそうした湧き水が出るところがなかった。そのため川の水をそのまま飲み水として使い、とくに冬は深く積もった雪をはねて水を汲んでこなければならず、苦労したのを覚えている。
 入植地の開墾は原生の木を切り倒し、笹を刈り、火入れをしてからの開墾となる。火入れをした後の土地は肥えていて野菜等もよく育ったことを記憶している。はじめの頃は手開墾だったが、その後大きな馬を保有する農家に助けてもらって馬による開墾が行われた。
 既墾地用のプラウは使えず、開墾用の頑丈なプラウが必要だった。馬も1頭では駄目で2頭ないし3頭が必要だった。数頭の馬が牽くプラウが、バリバリと音をたてながら火入れをした後の土地を起こしていくのを側でみていて、子どもながらにすごいなと思ったのを記憶している。そうした苦労を重ねて入植後5〜6年を経て、漸く開拓が一段落した。父や母の苦労も大変だったと思う。入植後何年かすると成功検査というのがあった。父や母はそれを強く意識していて、なんとかそれに通るために頑張っていた。それにパスしなければ土地の払い下げ(所有権の付与)が受けられなかったからである。
3. 開拓の集落
 静修開拓の集落(農事組合)は16戸で構成されていた。11戸は東京方面から、我が家を含む2戸は樺太からの入植で、残りの3戸は近隣の集落からの分家農家だった。北海道の農村は団体移住によるものの他、府県の各地の農村からの移住者が寄り集まって開拓したところが多いが、入植者のほとんどは農家の出身であった。しかし静修開拓の場合は農業の経験のない人、とくに東京のような都市で暮らしていた人の移住が多かったという点でかなり特異な構成であった。そうであればこそ開拓集落でも、裸一貫で入植して開拓を進め、そこで生きていくためには隣近所の助け合い、集落のまとまりが必要である。まだ子どもだった私にはそうした大人の世界のことは分からなかったが、子どもなりに覘(のぞ)いてみることができた部分、体験したことを思いつくままに述べてみたい。

最盛期の静修開拓部落配置図(昭和30年)〜さぐる12号上山佳子著「静修開拓の足跡(そのU)」から

 □ 手間替えでの共同作業

 普段の農作業は家族でこなしていたが、脱穀の作業などは沢山の手間が必要で、近所の農家からも応援に来てもらって、多人数での共同作業となることが多かった。石油発動機によって脱穀機を動かしての作業、今日のような機械による一貫的な作業体系にはなっていなかったので手作業の部分も多く、多数の手間が必要だったからである。近所の農家から応援にきてもらった分、近所での作業にはこちらから応援にでかけるという手間替えであった。

 □ 死んだ馬の肉を集落で山分け

 私が中学生のころまでは馬が重要な動力源であった。とくに春の農繁期の作業には馬の活躍が不可欠で、馬に元気に働いてもらうために農繁期の餌にはとくに気を遣い、馬の好物の人参などを刻んで与えていた。そんなときに馬が足を折るなどで使えなくなる事故がときどき生じた。働けなくなった馬は可哀想だが密殺され、その肉を集落の皆で山分けすることになる。それをそれぞれ持ち帰って家で食べる。一度にはとても食べきれないので、それを味噌煮等にして1週間とか2週間毎日毎日食べさせられることになる。

 □ 父の死

 私が少学校3年生のとき父が病気で倒れ、町の病院に入院することになった。当時車などはなく、開拓の山奥まで来てくれるタクシーもなかった。そこで集落の人が集まってくれて父を戸板にのせ、10キロ近くの山道を交替で肩に担いで運んでくれた。担いでくれた人には大変な負担だったと思う。こちらが困っているときは周りの方々がそんな手助けをしてくれたのである。
 父は入院して20日ほどで亡くなった。6月末で畑の方も忙しいときだったと思うけど、集落の人たちが集まって父の葬式を出してくれた。開拓の集落でもそうしたときの助け合いの慣行ができていたのであろう。

 □ 山の神

 部落の統合のシンボルとして、それぞれの部落に神社が祀られる。静修では静修神社が祀られ、毎年9月に盛大にお祭りが行われていた。
 私が子どものときは芝居の一座が来て、出店も出る盛大さだった。皆祭りの芝居を楽しみにし、一家そろって見学に出かけた。我が家でも皆で出かけ、帰りには寝てしまって兄におぶってもらって家に帰ったこともあった。開拓にはそのような神社はなかったが、小さな山の神が祀られ、春作業が始まる前に皆が集まって式を行っていた。当時開拓ではこの山の神が質素ながら神社に代位する役割を果たしていたのであろう。

 □ 集落の常会

 当時集落ではどこでも月に1度ほど皆が集まって常会が行われていた。開拓でもそうだった。当時開拓には皆が集まる会館がなかったので、常会は集落の役員の家で行われていた。電話はまだなかったので、常会の連絡は各家を回って口頭で伝えていた。忙しい大人にはそんなことをする余裕はなかったので、それは子どもの役割となっていた。私も「今度の常会は何日にどこで何時から行いますので集まって下さい」というようなことを伝えるために、集落の各家を回らされたことを記憶している。
 こうした常会の集まりは集落が集落として成り立ち、運営していくうえで重要なことはいうまでもない。戦後開拓という新設の集落が成り立っていく上で、役場や農協からの指導や支援等が重要だったことはいうまでもないが、このような定期的な寄り合いや生活面での隣近所の助け合い、手間替え等の農作業での相互支援等も随時必要に応じて行われていた。既存の集落に比べると緩やかだったかもしれないが、開拓なりに集落としてのつながりが徐々にできあがってきたとみることができる。

掲載省略:(写真)1954(昭和29)年9月10日に静修開拓10周年を祝った時の写真。懐かしい顔ぶれが並ぶが今ではほとんどが故人となられたのであろう。
4. 水田を造成してあこがれの米をつくる
 貧しい開拓農家にとって、白い米のご飯はあこがれだった。正月等特別のときでなければ米のご飯は食べられなかった。静修でもエホロカンベツ川沿いの地域には水田があり、米が作られていたが開拓には水田はなかった。
 その開拓で、母は水田を造成して米を作ることに挑戦した。私が小学校3年生のときに父が亡くなり、我が家は母子家庭となった。そのとき次兄は中学3年生、長兄は中学を卒業して2年目だった。その母が水田造成、米つくりに挑戦したのである。すごいことをやったなとつくづく思う。我が家は前にも述べたように開拓地の一番奥、開拓を流れる小さな川の最上流で、川沿いに広くはないがヨシ原の湿地が広がっていた。母はそこに目をつけ水田にしようと考えた。
 恐らく農業改良普及所の普及員の人や農協の営農指導の人に相談したのではないかと思う。普及員の人が自転車で足繁く我が家まで通ってきて指導してくれたのを記憶している。当時NHKのラジオで農村をまわって農家を指導する普及員の活躍を描いたドラマが毎朝放送されていた。我が家に通ってきてくれた普及員の人もそのような感じだった。
 我が家の水田造成は、湿地の地中深くのびたヨシの根を掘り取ってそこに客土をして埋め立て、畦をつけて水田を造るという作業だった。専(もっぱ)ら手作業だったので大変な作業だったと思う。そうした苦労を経てなんとか数枚の田、合計1反歩程度の田ができあがった。
 次の問題は苗づくり。今のようなビニールハウスではなく、油紙を貼った障子をおいて温床をつくり、そこに籾をまいて苗を育てる。全く初めての経験である。普及員の人が文字通り手取り足取りで親切に指導してくれた。蒔いた籾が芽を出してくれれば、じょうろで水をやる。それには私も手伝わされた。こうして育てた苗の田植え。これも全く初めての経験で、近所の農家の女性が何人も手伝いに来てくれ、大変賑やかな田植えになった。私は苗運びを手伝わされたが、「保、苗がないぞ」の声がとびかった。
 こうした苦労を重ねてつくった米の収穫は感激だった。稲架(はさ)をつくって乾燥させ、近所の農家にも手伝ってもらって脱穀もした。決して上質の米ではなかったが、これでやっと開拓農家でも米が食べられるようになった。
 今にして思えば、この頃は東北、北海道を中心に造開田が進んだ時期であるとともに、全国的に農村に新しい動きが生まれ始めていた時期でもあった。その新しい息吹が、辺境の開拓地にも及んできたとみることが出来る。

掲載省略:(写真)〜江幌小学校1年生の時のクラスの写真。グラウンドの土手において[1951(昭和26)年]
掲載省略:(写真)〜毛糸をとったり乳を飲むために羊や山羊を飼うようになった。世話をするのは主に子どもの役割だった。[1959(昭和34)年]

5. 開拓の地を離れて
 我が家では長兄が家をでて自衛隊に入り、主に青森県の八戸の部隊に勤務していた。そのため次兄が農業を継ぐ形になった。当時男は冬場外に働きに出ることが多かった。次兄も主に山に働きにでていたが、1963(昭和38)年の1月ころ、働きに出ていた南富良野の金山の方の山で、崩れてきた木材の下敷きになって大怪我をした。3月ころまで上富良野の町立病院に入院していたが、その後旭川の病院に移り、完治するまでにかなりの期間を要した。そんなこともあってか、次兄はその年の秋から東京に出て建築関係の現場で働くようになり、1964(昭和39、私が19歳の時)年には母も開拓を離れて東京に移った。
 その頃から開拓からの離農が、どんどん進んでいくことになる。1960(昭和35)年代、1970(昭和45)年代は全道的に、そして上富良野でも離農が多発したが、江幌、静修では開拓での離農が先駆けになったようである。興味深いのは、開拓では東京や樺太からの入植者が早い時期から離農していったのに対し、近隣集落からの分家で入植していた農家は一番遅くまで残っていたことである。
 こうして我が家は離農して静修開拓の地を離れ、母と次兄は東京で暮らすことになり、長兄も既に八戸(はちのへ)で暮らしていた。私も高校を卒業してからは札幌で15年ほど、その後は東京の方で暮らすことになったが、農学部に進み、農業問題の研究に従事することになったこともあり、静修開拓で過ごしたことには強い思いがあり、またそれが私にとっての原点となってきた。さらにいえば母や兄たちにいろいろ話を聞かされたこともあり、出生の地である樺太敷香も、もう一つの原点となっていたといえるかもしれない。
6. 2人の兄と樺太敷香を訪問
 私たち兄弟は、敷香のことがずっと気になっていた。私にとっては自分が生まれた敷香とはどんなところか、2人の兄達にとっては自分たちが暮らしていたところがどうなったのかと。ソ連からロシアに変わって、私たち一般人でもサハリンへの訪問が比較的容易になった。幸い日本ユーラシア協会北海道連合会というところが、友好親善「サハリンの旅」。ちょうど今から20年前、樺太引き揚げから51年後のことである。残念ながら母は既に亡くなっていた。
 ツアーでは函館から空路ユジノサハリンスク(旧豊原)に飛び、そこからいくつかのコースに分かれた。私たち兄弟3人は、かって敷香で父が技師をしていたという人の案内で、敷香(ポロナイスク)を訪ねるコースを特別に組んでもらった。通訳として、日本語も堪能な樺太在住の朝鮮人女性にも同行してもらった。以下は「日本とユーラシア」という日本ユーラシア協会北海道連合会の機関誌に掲載された私の訪問記[1996(平成8)年8月号]を再掲したものである。
  ◆我が生まれ故郷は柳の原に変貌

 「この線路を過ぎた辺りに横に入る道があるはずですよ」。道案内をしてくれたKさんがいう。確かにその小道はあった。しかし周辺の景色は我々が想像していたのとは全く異なる。柳が一面に生い茂り、ところどころに畑らしきところがある程度である。かつては何十戸かの家が立ち並び、小さいながらも一つの市街地をなしていたはずのところがである。
 半信半疑の思いでその小道に入り、200メートル程もいくと川にぶつかった。昔も家の近くに川があり、母や兄が溺れかかったこともあるそうだが、しかしその川の様子は随分変わっている。近くに家があった痕跡も全く残っていない。それでもその周辺を歩き回っていると、小さな沼にゆきあたった。昔家のそばに『田畑沼』と勝手に称していた沼があった。それがこの沼に違いない、と我々は満足し、皆で写真をとってそこを引きあげた。
 「ここに鉄道と大きな道路が走り、内川鉄道がこう走り、ここからわが家にいく道路があって‥‥」と函館をたつ前の晩、宿で兄達が地図を書いて議論していた。辺りは大きく変貌していたがその地図はそれほどちがってはいなかった。

  ◆残留日本人の方が道案内

 我々兄弟が生まれ育ったのは、敷香からさらに2〜3キロ北にいった中敷香という小さな街である。ともあれこうしてその地を確認することが出来たのは、Kさんが我々の道案内をしてくれたからである。そしてこの中敷香というところを知っていたKさんに巡り会えたのは、通訳・ガイドをしてくれた文さんのお陰である。「昔のことを知っている人を探すにはバザールに行って朝鮮人に聞くのが一番いい」という文さんの判断は全く適切だった。Kさんは残留日本人の一人であるが、全く見ず知らずの我々の突然の頼みにもかかわらず親切にしていただき、大変お世話になった。慣れないロシア料理で苦労しているのを見かねて、我々を夕食に招いてくれただけでなく、翌朝我々の宿舎までお握りやゆで卵の弁当まで持ってきていただいた。お陰で我々はハイキング気分で、北緯50度線や日ソ平和友好の碑のあるところまでのバス旅行を楽しむことができた。
 今度のサハリン旅行では、Kさんのような残留日本人のことや、4〜5万人といわれている朝鮮人の人たちのことについても、文さんからいろいろ教えてもらうことができた。帰ってから李恢成(りかいせい)(編集注:樺太生まれの日本の小説家)『サハリンへの旅』を読み、その問題の複雑さをあらためて思い知らされた。
 小さいときから親や兄たちから聞かされてきた樺太のイメージと、今回のサハリン旅行でふれた現実との落差に、思いは、いささか複雑である。51年という歳月の経過があり、しかも2度にわたる社会体制の転換があったことを考えればそれも当然かもしれない。

掲載省略:(写真)残留日本人Kさんの案内で中敷香を観光する
7. 我が郷里、静修開拓再訪
 開拓の地を離れて50年程が過ぎた2014(平成26)年、我が郷里を訪ねることになった。勿論それまでにも何度かいくことはあった。今回は、あらためて中学校までを過ごした我が郷里がどうなったか、地域の歴史も含めてその変化のさまを地元に残って頑張ってきた方からお話しをうかがい、調べてみたい、との思いからである。70歳を迎える歳になってのセンチメンタリズムも混じっていたかもしれない。そのときは中学の同級生や先輩の方から、資料提供もふくめていろいろ教えていただいた。その調査結果は別にまとめた。
 それにしても我が郷里、江幌、静修地区のこの間の変化は激しい。農業についても多くの農家が離農し(最近は離農しても地元にとどまる人も少なくない)、残った少数の農家が大規模な農業経営を行うという形になっている。それは全道的な動向と軌を一にするものである。そんな中で静修には、有限会社興農社[2002(平成14)年設立]を立ち上げ、百数十ヘクタールの大規模経営を展開しながら、環境保全型農業や6次産業化、農産加工品の販売や直売等にも力を入れ、若い感覚、新しいセンスで農業経営の枠を超えるような新しい事業にも取り組んでいる事例がある。また隣の江花地区では、2015(平成27)年12月にNHKプレミアムで全国放送されたドラマ「はらぺ娘」のモデルとなった若い女性農業者安丸千加さんの活躍等、新しい動きも生まれている。
 我が開拓の地の変化も激しい。かつて東京方面や樺太から入植した農家は姿を消し、その土地のほとんどは近隣の集落の農家・農業生産法人が引き受けて大規模な経営を行っている。かつては急傾斜の畑も少なくなかったが、今は大型機械が走行可能ななだらかな圃場に整備され、景観も大きく変わった。昔の景観を思い描いていた者にとっては「えっ!」と驚くほどの変化である。かつては子ども達が魚を釣った川も、両岸がコンクリートで固められ、昔の小川のイメージとは違ったものに変わっていた。米を食べるために母が苦労して造った水田は、あとかたもなく消えていた。40年ほど前[1970(昭和45)年]から始まった米の生産調整の実施等もあって、江幌や静修からも稲作がほとんど姿を消しつつあることを思えば、それも無理からぬことであろう。
 そんな中で変化していないものがあった。十勝岳連峰の眺めである。それは私にとっては、学校に通うときに、毎日毎日眺めていた景色である。我が家からの眺め、そして学校に行く途中での十勝岳連峰の眺めが、最も素晴らしいとひそかに自分で思っていた。その眺めの素晴らしさは今も変化していなかった。かつての我が家からは少し離れたところだが、開拓で同じように十勝岳の眺めが素晴らしいところがある。そこに神奈川方面から定年退職者が移り住んでいるという話を聞いた。おそらくそこからの眺めの素晴らしさに惹きつけられ、定年退職後の生活を送る場としてそこを選んだのではないか、と勝手に推測している。

掲載省略:(写真)かつての「静修開拓地区」の現在。中央を流れるのは護岸整備された「開拓川」で昔の面影は残っていない。
  おわりに
 とりとめのないことを長々と書きすぎたようである。「ふるさとは遠きにありて思うもの」ではないが、遠く離れ、時間がたてばよけい郷里への思いはつのるものである。正月とお盆には東京で兄弟3人と家族が集まるのが最近の慣例になっているが、そのときいつも話題になるのが、とくにお酒が入れば、静修開拓と敷香のことである。我々兄弟3人にとっては、静修開拓と敷香が原点である。
《筆者略歴》
1945(昭和20)年  1月樺太敷香で生まれる
1949(昭和24)年 静修開拓へ
1960(昭和35)年 上富良野町立江幌中学校卒業
1963(昭和38)年 北海道富良野高等学校卒業
1967(昭和42)年 北海道大学農学部卒業
1972(昭和47)年 北海道大学大学院農学研究科博士課程単位取得
1972(昭和47)年 農林省農業総合研究所入所
1998(平成10)年 明治大学農学部教授
2015(平成27)年 明治大学退職
明治大学名誉教授 農学博士
埼玉県さいたま市南区在住
◆ 編集付記
 江幌と静修地区は、1906(明治39)年のヱホロ殖民区画地公示の前から三井物産株式会社が造材事業を行ったのが開拓の始まりであり、造材事業の跡地に農場や団体が随時入植することで本格的な開墾が進められた。
 江幌地区には滋賀団体[1903(明治36)年]、カネキチ農場[1907(明治40)年]、岐阜団体[1906(明治39)年]、衣川団体[1910(明治43)年]、静修地区では福島団体[1904(明治37)年]、宮城団体[1907(明治40)年]、岡山団体[1916(大正5)年]や、村内転地・道内転住者によって開かれた。
 当初は江幌尋常小学校を中心とする一つの地区であったが、人口の増加に伴って一九1918(大正7)年に分校として静修特別教授場(静修に隣接する美瑛村ルベシベ地区からも通学)を置いたことから静修地区として独立(行政区の設置)した。分校は1929(昭和4)年に本校の江幌尋常小学校に統合して廃止されたが、静修地区はそのまま存続した。
 静修地区には静修1、2、3、4の住民組織単位(部落)があったが、空襲疎開や外地引揚者、地元農家の分家などによる戦後開拓事業[1945(昭和20)年以降]で新たに静修開拓部落が置かれ、1967(昭和42)年3月末時点で静修の総戸数は61戸となった。1996(平成8)年3月末時点で28戸、2016(平成28)年9月末には26戸にまで減少している。
 現在の当地は、大規模な農地整備(国営しろがね地区畑地帯総合土地改良パイロット事業、道営畑地帯総合整備事業及び団体営ほ場整備事業等:昭和45年度〜平成17年度)が行われており、道路、河川の位置や形状も変わってしまい、当時の面影は残っていない。
 国の政策によるこの戦後開拓事業は、全国各地で行われたが、上川管内各市町村で行われた事業を記録するものとして、1970(昭和45)年3月に、当時の上川支庁庁舎内に事務所を置く「上川地方開拓振興協議会」が発行した『上川戦後開拓記念誌』に、静修開拓地区(エホロカンベツ地区)について、著者を「開拓者一同」とした記事があるので、ここに転載する。
  われ等は東京から入植して
    上富良野町エホロカンベツ地区 開拓者一同


 焼き払らわれた東京、食糧のない東京よりはるばる北海道の上富良野村に来て、当時の古い役場会議室に一泊し、上富良野の一番北にあたる静修部落へ子供をつれ役場より12キロメートルもあるところを歩いて、現在のエホロカンベツ地区に入植した。
 当時雑木林で、一面熊笹がおおい茂って居り、この土地が畑になるのかと考えた。しかし食べなければならない又住まなければならない。自分自身及び妻や子供を励ましながら、まず住まいの建設にかかった。堀立で屋根は、から吹き雨風がようやくしのげるだけの住宅であった。冬などは家中、風雪でストーブなどの暖気では暖まらず、よくフトンの中に入って話しをしたものだ。又秋になったら熊が出て子供を小学校まで送り迎えをした。
 開墾の苦労といったら、人力で行うため、抜根等するのに1日1畝開墾が出来れば良い方であった。
 入植面積平均7町5反歩、その内農地に出来る面積約4町歩ぐらいもらった。当時は開墾補助金及び営農資金等などで生活をしていた。又食事はカボチャ、いも、いなきび等なので、家族は栄養失調で、よく病院へ通ったものだ。
 作物の収穫も、1955(昭和30)年より、既農地並に取れるようになった。1960(昭和35)年よりは、開拓者全員が土壌改良を毎年行い、暗渠事業を実施し収穫に拍車をかけた。翌年には、待望の電気も入り、人並の生活が出来るようになった。1968(昭和43)年には、電話も付き大変便利になった。この様にして、現在の開拓地が出来上がったわけである。自分達と一緒に努力して下さった関係者の方々に深く感謝をしております。

機関誌      郷土をさぐる(第34号)
2017年3月31日印刷      2017年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀