郷土をさぐる会トップページ     第33号目次

編集後記

編集委員長 北向 一博

 本号の表紙絵として、過去において幾度もお世話になっている佐藤 喬氏に、一二枚組絵葉書「上富の譜」から「東中・旧岡本さん宅」の使用をお願いしたところ、このままでは細い線が多くて表紙絵には向かないと、わざわざ見映えよく書き直してくださいました。大変ありがとうございました。

 シリーズ連載している「各地で活躍している郷土の人達」では、東中出身の工藤英男氏に執筆いただきました。今では家庭に一台といってもいい位に普及しているコンピュータの、草分けの時期から関わってきた経歴をお持ちで、大阪電気通信大学を卒業後、大阪大学に技官として就職されました。その後同学の情報処理教育センター助手から奈良工業高等専門学校助教授を経て大阪成蹊大学へ移り、経営情報方面の教授として、協業による企業の活性化やまちづくりの分野で多様な活躍をなされています。今年平成二十八年四月からは、太成学院大学へ移られ、経済学部教授として心機を一転されると伺っています。

 前三十二号から始まった『先人の声を後世に語り継ぐ事業』シリーズとして、本号では、故人となられておられますが、昭和五十一年に新たに設けられた上富良野町文化賞の第一号受賞者「本田 茂(俳号 夫久朗)」氏を取り上げています。町の表彰制度や町内の文芸活動の状況も合わせて紹介しました。
 本田氏はすでに故人となられて直接取材はできないため、町内在住のご子息、長男の本田健祐、次男の本田邦光両氏に相談したところ、茂氏が昭和五十四年に著作刊行された『句集 鰯雲』に詳しく掲載されていたため、ここからの転載と両ご子息からの寄稿を中心に構成させていただきました。

 次に、同じくシリーズの「学校の統廃合」では、昭和四十九年三月に閉校し上富良野町西小学校に統合された『里仁小学校』を、地域の二名と当会担当編集委員の三名の記事によって取り上げました。
 菅野 學氏(元町長、上富良野町名誉町民)には、子供の頃の里仁地区の自然をテーマに、思い出を綴っていただきました。今では想像もできないような豊かな環境に包まれていたことが記述されており、後述の資料編担当編集委員が末尾の取材付記で記載のように、まさに童謡唱歌「ふるさと」の世界を見るようです。
 里仁地域の二人目としては、「里仁小二つの記念誌から」と題して、平成十八年に行われた「里仁開基百年記念事業」において発刊された「里仁百年史」の、編集部長であった菅野秀一氏に執筆をお願いしました。資料収集の過程で、昭和三十六年九月一日発行の「開校五十周年記念誌」と昭和四十九年十月三十一日発行の「里仁小学校閉校記念誌」の二つの記念誌に寄稿されている貴重な証言があることを知り、この紹介を中心に記述されています。
 当会の田中正人編集委員の担当による資料編として、「里仁開校設置の背景」と題して、校章・校歌、里仁小学校沿革史、年次ごとの全卒業生と教職員名簿がまとめられました。
 この途上で、里仁小学校の昭和三十六年「開校五十周年記念誌」では掲載者の大半が竹かんむりの「管野」姓となっており、昭和四十九年「里仁小学校閉校記念誌」では草かんむりの「菅野」姓も多くなっていることがわかり、誤植かと前出著者の菅野秀一氏に問い合わせを行いました。この結果、移住元の先祖は「菅野」姓であること、現在は上富良野町側に居住している方は全て「草かんむり」に変えていること、美瑛側の美馬牛地区縁故には、「管野」姓を使い続けている方もおられることを聞き、記事中では全て「菅野」姓で統一記載させていただきました。

 三原康敬編集委員執筆の「町の中の河道」では、昭和五十六年八月五日に発生した台風第十五号による豪雨災害について、上川南部消防事務組合北消防署(上富良野町)の署員として対策に従事した経験をもとに、被災状況と対策経過を実況臨場の視点で記述されており、今後の防災、減災を考える上で貴重な示唆を与えておられます。特に過去の自然地形や、その後加えられた埋め立てや河川改修などの人為的な地形変更に関わって、「河道」が少なからず影響を与えているのではないかと考察しておられます。

 平成二十五年八月に着工した東中地区道営事業では、総合的な農業基盤整備、暗渠排水の整備、給水のパイプライン化などが進められていますが、この事業促進期成会の岩崎治男前会長が、大正十一年東中富良野土功組合設立の立役者である「西谷元右衛門」氏の、東中地区振興への多範な功績を、「東中開拓の父」と題して取り上げています。
 併せて、農業基盤整備を担ってきた東中富良野土功組合から東中土地改良区に至る変遷と、平成十二年の富良野土地改良区への広域合併についても触れられています。

 大正十五年の十勝岳噴火泥流災害被災者の子孫である川喜田 誠、喜多成孝、菊地信一、そして執筆を担当された田中正人の四氏が、今まで様々な文献などで記録されてきた被災状況について改めて振り返るとともに、被災者の末裔に語り継がれている声を採録し、地区ごとの被災の実態を「十勝岳噴火泥流災害再考」と題してまとめられています。過去の十勝岳活動記録からはある程度の周期性も見受けられ、現在は活動が活発化の方向へ向かっている傾向も観測されており、噴火災害への備えを喚起する上では、時機に即した内容になっています。

 野尻巳知雄氏が執筆の「瀧本全應大和尚と大雄寺の変遷」は、「その二」として前第三十二号からの続編となっています。大雄寺施設の改修について、組織された建設委員会議事録の概要が時系列で掲載されており、寺院施設の改築事業の事例の一つとしてとして、大変興味深いものとなっています。
 境内にある「新西国三十三所観世音菩薩」について、十勝岳大噴火横死者追善のために、寄進による三十三体の観音石像(三十三全観音像の写真も掲載)によって開所された経緯についても記述されています。

 当会会長の中村有秀氏は、郷土館ボランティア(町民公募で、当会員からも多くが参加)の当番活動の際に、来館された富良野市の杉山寿一氏との出会いをきっかけに、「杉山芳太郎家に伝承された『百万遍数珠』と『聖観世音菩薩』」と題し著述されています。
 寿一氏の祖母 杉山ムメさんが作り、現在郷土館に寄贈展示されている『大数珠』を焦点に、縁故者をたどり記憶をさかのぼりながらの検証と調査取材から、明治後期から現在に至る杉山家一族の信仰や生活史をひも解いています。
 この記事の中には、『四国八十八ケ所霊場』と町内深山峠にある『新四国八十八ケ所霊場』の関わりや、様々な形で守り、引き継がれている民間の観音信仰についても言及しており、広く浅い視点と狭く深い視点を織り交ぜながら、「そうだったのか」と膝を打つような内容となっています。
          
平成二十八年三月末日

機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀