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杉山芳太郎家に伝承された
『百万遍数珠』と『聖観世音菩薩』

上富良野町本町五丁目十四番二号  中村 有秀
昭和十二年十一月二十八日生れ (七十八歳)

一、はじめに
 平成二十七年九月六日、筆者が上富良野町郷土館の案内説明員ボランティアとして勤務中、富良野市在住の杉山寿一氏が来館されて『私の高祖母 杉山ムメが作った―大数珠―の所在はわかりませんか』と尋ねられました。さっそく、『その大数珠は、ここの郷土館二階にガラスケースに納めて大切に展示保管されています』といって、展示場所に案内しました。
 杉山寿一氏は、『あゝ、あゝ、ここにあったのですね。―大数珠―は今どこにと永年探し求めて来ました。四十五年振りに見ることができました』と感嘆の声をだされ、大数珠に向かって合掌されました。それが『百万遍数珠』であったのです。
 平成二十七年度の上富良野町総合文化祭の特別展示が、『十勝岳噴火と開拓の歴史―目指せ 十勝岳山麓ジオパーク』として開催されました。その際に『大数珠』が展示され、町内外から来場された皆様は、『数珠』の大きさ、数珠玉の数に驚かれるとともに、その説明書には『十勝岳爆発の流木 はい松で造った大珠数(ママ)』と記されているのを読んで、大正十五年五月二十四日発生の十勝岳爆発による百四十四名の犠牲者の霊を、弔うために作られた『大数珠』であることを認識されたことでしょう。

杉山ムメさん
 富良野市在住の杉山寿一氏と出会って、『大数珠』のことと、杉山家及び杉山芳太郎氏に関心を抱き調査を始めました。
 杉山芳太郎氏の上富良野町開基八十年記念誌への『思い出を語る』としての寄稿文と、上富良野町郷土をさぐる誌第四号の『十勝岳爆発と復興作業』及び第八号の『父母の開拓時代』と題しての文を読み、又その他の資料から、『大数珠』は『百万遍数珠』であるとともに、『聖観世音菩薩』も建立されていることを知り、これらについて書き遺したい心境になりました。
 平成二十七年十一月二十六日、富良野市の杉山寿一氏宅を訪問、寿一氏の父 杉山元一氏(杉山芳太郎氏の次兄になる杉山数平氏の孫)と一緒に話を聞くことができました。
 その際、杉山元一氏の父 寿平氏が昭和六十二年に記した『父 数平 五十回忌に寄せて』の冊子を読むことができました。この冊子と、杉山芳太郎氏の書き残された文を参考にしながら記します。

掲載省略:写真〜杉山寿一さん
  ◆『百万遍念仏』と『百万遍数珠』
 『百万遍念仏』は自身の往生、先亡追善、報恩感謝、無病息災、疫病退散、虫送り、雨乞い等の祈願として、民間で広く行われていました。
 元弘元(一三三一)年の大地震後に疫病が流行し、浄土宗本山 京都知恩寺八世の善阿上人は、後醍醐天皇の勅により七日間 百万遍念仏を修したところ疫病が終息したので、天皇から百万遍の寺号と、弘法大師利剣の名号を賜ったといわれています。一日が八万六千秒余り、七日間でも約六十万秒ですので、百万は寝ないで一秒に一念仏としても到達できない数ですから、『七日間、念仏を尽くす』ということなのでしょうか。
 『百万遍念仏』を唱えるのに二通りあり、一つは如法真修又は顆繰(つぶつぐり)といって、一人が七日間又は十日間と限って念仏を百万遍唱えることをいいます。
 二つは、略法草修又は早繰(はやぐり)といって、集団で人々が一〇八〇顆又はその倍数の『百万遍数珠』をくり、一顆をくるごとに念仏を唱えて、その総和をもって百万遍とするもので、これを『融通念仏』又は『大念仏』といい、一つの宗派もなしています。
 実際には、念仏の総計が十万遍でも『百万遍』といい、集団で行う『百万遍念仏』に『大型の百万遍数珠』がいつ頃からを用いられたのか、はっきりしていません。
 京都市左京区にある『知恩寺』の山門には『百万遍念佛根本道場』と銘が刻字された大きな石柱が建てられています。

掲載省略:写真〜百万遍の数珠くりの一般的な様子
掲載省略:写真〜知恩寺山門と石柱
二、杉山嘉三郎家の北海道での足跡を辿る
 杉山芳太郎氏の父 杉山嘉三郎氏、母 ムメさんは、明治三十一年の春に香川県香川郡川東下村(現在の香川県高松市)の南国から、開拓途上の北海道へ大きな夢を抱き、まだ残雪の多い空知支庁奈井江村に子供三人を連れて移住しました。嘉三郎氏は四十三歳、ムメさん三十歳、長男 利助は七歳、長女 コンは五歳、次男 数平は三歳の時でした。
 奈井江村では、少ない面積での畑耕作と炭鉱で働きながら七年間を過ごし、二女 マス、三女 すぎ、四女 よねがこの地で生まれました。
 明治三十七年の春、故郷の香川町で懇意にしていた岩部家の子孫である上富良野村東中在住の岩部義春氏を頼って、上富良野村東六線北十七号に身を寄せ、この地にて三男 芳太郎が生まれました。
 明治三十八年春、上富良野村西一線北二十六号へ二戸分十町歩(約十ヘクタール)を当時五百円で買い求め、入植しました。一部は開墾してありましたが、うっそうたる原始林で昼猶暗く、平地のため中に入ればどの方向に水が流れているのか判らない程の密林で、土地は肥沃な半泥炭地でした。
 杉山嘉三郎氏、ムメさん夫婦がこの地に開拓の斧を入れ、想像を絶する苦労の中から、子供たちの手助けを受けながら、十勝岳爆発の泥流被害も乗り越えて来たのでした。
 今回の取材で、杉山芳太郎氏が執筆された『郷土をさぐる誌第八号』と、富良野市の杉山寿平氏が記した『父 数平 五十回忌に寄せて』の文中に、貴重な写真二枚と杉山嘉三郎家の住宅平面図がありましたので、関係する子孫の方の言葉を含めて記します。
  ◆大正六年『杉山嘉三郎一家』の写真

 写真には十四名の家族の方が写っており、四男六女の子供さんに恵まれましたが、六女のアサさんは大正二年三月に夭逝されましたので、この写真には入っていません。長男 利助氏は、写真を撮った翌年の大正七年九月に享年二十七歳で逝去されました。杉山家の皆様の着物姿と、女性の髪形が印象的であります。

 平成二十八年二月十一日に、西村春治氏(杉山嘉三郎氏の二女 マスさんと結婚された西村之治氏の長男)を訪問し、大正六年の杉山家の写真を見ていただきました。「懐かしいなー」と言って指先で、これは誰、この人は誰と名前を教えてくれました。
 春治氏は、大正九年三月十九日生まれで、現在九十六歳なのに、記憶がしっかりしていて驚きました。
 その際、祖母 ムメさんが作られたといわれている『百万遍数珠』の件も聞いてきましたが、この内容について(百四十六ページ)で記します。

掲載省略:写真〜杉山家家族集合写真〈大正六年〉
三、大正十四年『杉山芳太郎家』の見取図
 杉山芳太郎氏の父 嘉三郎氏は、大正十三年三月三十一日に享年七十歳で生涯を閉じられました。その時、母 ムメさんは五十八歳で、長男 利助氏は大正七年に逝去しています。二男 数平氏は、兄逝去の前年の大正六年に結婚して上富良野村沼崎農場に分家し、三年間耕作しましたが、少しでも広い農地を求めて大正十年に屈足村新得(現在の新得町)に移住しました。しかし、富良野地方と違って気温も低く、作物もあまり取れません。
 父 嘉三郎氏はその状況を聞き、現在地の富良野市下五区に四町歩一戸を買い求めて、大正十二年から二男の数平氏に耕作させました。その翌年、父 嘉三郎氏が逝去されたため、杉山家の家督を三男 芳太郎氏が継ぐことになったのです。
 家督を継いだ杉山芳太郎氏は、家族も多く、住宅・納屋も老朽化していることから、母 ムメさんと相談して、大正十四年六月に新築しました。(見取図参照)

掲載省略:写真〜杉山芳太郎氏
掲載省略:図〜『杉山芳太郎家』の見取図
掲載省略:写真〜御堂(聖観世音菩薩御座所)

 見取図を見ますと、住宅が土台付平屋で四十六坪、納屋が四十坪、馬小屋が十二坪と非常に大きな建物で、その他に、『地蔵』と記してあるところには、『聖観世音菩薩』と『馬頭観世音菩薩』が安置護持されていました。後に『諸龍地蔵』も安置されると共に『御堂』が造られました。
 又、用水路を利用した『水車』(直径十五尺、幅三尺の大きさで、臼の数は五斗目が二器、四斗目が八器、二斗五升目が二器の合計十二器)も設置して、穀物の賃搗を行い、場所柄から搗きに来る人が多く、年中無休の繁盛でした。
 しかし、それから一年もたたない大正十五年の十勝岳大爆発泥流によって、大正十四年六月に新築した建物等は、家屋の流失は免れたものの、約三尺位の泥土と立木によって大きな被害を受けました。
四、杉山家の『聖観世音菩薩』との関わり
  ◆『聖観世音菩薩』建立の契機

 杉山家の『聖観世音菩薩』は、明治四十四年八月開眼と記録され、上富良野村西一線北二十六号の杉山嘉三郎氏(芳太郎氏の父)地先にて『聖観世音菩薩御座所』として安置されました。
 杉山嘉三郎氏、ムメさんが明治三十八年に上富良野村東中から西一線北二十六号に入植移住した時は、長男 利助さんは十四歳、三男 芳太郎さんは生後間もない時で、三男四女の子供さんと共にでした。
 開墾・生活・そしてこの地で生まれた一男二女と、四男六女の十人の子育ては大変な時であったのに、入植七年目に『聖観世音菩薩』をなぜ建立しようとしたのでしょうか。
 それは、二十六号に入植した明治三十八年、二男数平さんが十歳の時、父 嘉三郎氏が大木を伐り倒すのを近くで見に行っていて、運悪く伐り倒した大木の枝が折れ跳ねて頭に当たり、大怪我をしました。旭川の病院に入院、通院し、幸いに治りましたが、後遺症が残って無理のできない身体となりました。このことによって、元々真言宗の熱心な信徒であった嘉三郎・ムメ夫妻は、神仏により深く帰依することになったと、数平氏の長男である寿平氏が『父 数平 五十回忌に寄せて』の書の中に記してあります。

  ◆なぜ第八十三番札所『聖観世音菩薩』

 杉山嘉三郎氏の出身地は、四国の香川県香川郡川東下村(現在の高松市)ですが、この地に四国八十八ケ所の『第八十三番札所 神毫山(しんごうざん) 一宮寺(いちのみやじ)』(真言宗御室派)があって、ご本尊が『聖観世音菩薩』で四国八十八ケ所のお遍路さんを見て育ったことから、杉山嘉三郎・ムメ夫妻は、家族の無病息災、開拓の成功を心から念じながら『聖観世音菩薩』を建立し、永く護持されてきました。

掲載省略:写真〜聖観世音菩薩 明治44年8月開眼
掲載省略:写真〜第八十三番札所 神毫山 一宮寺

  ◆四国霊場八十八ケ所の『聖観世音菩薩』

 四国霊場八十八ケ所は、日本仏教八宗の一つである『真言宗』の開祖である弘法大師空海が弘仁六(一八一五)年四十二歳の時に、自らと人々の厄難を除くために、祈りを込めて歩いた道を弘法修行の道場として札所にしたといわれます。空海入寂後、その霊跡を高弟 真済が遍歴、のちに民衆にも広がったのが四国遍路でした。
 『八十八』という数は、人間の煩悩の数を表し、すべての札所を巡ることで、煩悩が消滅し功徳をもたらすと伝えられています。
 徳島県の第一番札所『竺和山(じくわざん) 霊山寺(りょうせんじ)』から、香川県の第八十八番札所『医王山(いおうざん) 大窪寺(おおくぼじ)』まで、全行程一四五〇キロメートルの祈りと修行の遍路旅です。
 ちなみに、四国八十八ケ所札所で香川県内には、第六十六番札所から第八十八番札所までの二十三札所があります。
 『聖観世音菩薩』をご本尊としている札所寺院は、

  ・第六十九番札所 観音寺(かんのんじ)  (香川県観音寺市)
  ・第八十三番札所 一宮寺(いちのみやじ) (香川県高松市)
  ・第八十五番札所 八栗寺(やくりじ)   (香川県牟礼町)
  ・第八十七番札所 長尾寺(ながおじ)   (香川県長尾町)


ですが、四国八十八ケ所の中で『聖観世音菩薩』をご本尊としているのは、この香川県内の四札所寺院のみです。
 四国八十八ケ所は、真言宗の寺院のみの札所と認識していましたが、今回の調査で、八札所が『弘法大師空海』とは縁がありながらも、次のように他宗派のものとなっています。

  ◎臨済宗 第十一番、第三十三番
  ◎時 宗 第七十八番、第八十二番、第八十七番
  ◎天台宗 第四十三番、第七十六番
  ◎曹洞宗 第十五番


  ◆『深山峠新四国八十八ケ所霊場』とは

 真言宗開祖 弘法大師が祈りを込めて歩いた四国霊場八十八ケ所に神仏の加護を求めての巡拝は、北海道の地からは夢のまた夢であったと思います。
 そこで、加護を求める人々のために、真言宗の富良野寺(富良野)・弘照寺(中富良野)・光明寺(美瑛)・金峰寺(旭川)の当時の住職が中心になって、四国の霊場に習って地元に開所しようと、沿線各地に新たに地蔵尊を安置して、明治四十二年に開創されたのが『富良野沿線新四国八十八ケ所霊場』で、多くの人々の遍路巡拝が行われていました。
 しかし、時代の流れとともに、地蔵尊だけがその地域に寂しくしているのを憂えた石川清一氏・岩井清一氏・宮野孫三郎氏・高橋博男氏が発願され、昭和四十八年に『地蔵尊誘致期成会』が設立され、会長に石川清一氏が就任されました。まず行われた地蔵尊の調査の中心になったのが、発願者の一人である『岩井清一氏』で、調査巡拝として昭和四十七年五月から愛用の50CCバイクで走ったのでした。
 地蔵尊の調査・移設・安置と大変な事業を行い、昭和四十八年八月に『開眼の儀』『お山開き』が行われ、『深山峠新四国八十八ケ所霊場』として開創されました。

掲載省略:写真〜『深山峠新四国八十八ケ所霊場』〜六角堂を中心に安置された『地蔵尊』

『地蔵尊誘致期成会』も昭和五十年十二月に『深山峠新四国八十八ケ所霊場奉賛会』となり、初代会長に石川清一氏が選出されました。
 以下、歴代の会長は次のとおりです。

 □第二代 菅野 學氏
    (昭和五十一年九月〜平成五年四月)
 □第三代 清水一郎氏
    (平成五年四月〜十年四月)
 □第四代 石川洋次氏
    (平成十年四月〜二十四年十二月)
 □第五代 菅野 稔氏
    (平成二十五年一月〜現在に至る)


 昭和四十八年八月に開創された『深山峠新四国八十八ケ所霊場』の地蔵尊は、深山峠周辺を巡る約四キロメートルの参道沿いに安置されましたが、平成三年十月に六角堂に結集安置し『地蔵尊移転の入魂式』が行われました。
 『深山峠新四国八十八ケ所霊場』は、歴代会長を中心に役員及び護持者の皆様によって、諸施設の環境整備に努められており、平成二十六年十月には『深山峠新四国八十八ケ所霊場奉賛記録誌』が編集委員長 米田末範氏を中心に発刊され、内容が非常に豊富で今回の取材に大変参考になりました。

 深山峠新四国八十八ケ所の、ご本尊別の地蔵尊は次のようになっています。

  ●釈迦如来  二十三体 ●千手観音  十三体
  ●十一面観世音 十二体 ●阿弥陀如来 十一体
  ●大日如来 六体 ●地蔵菩薩と釈迦如来 五体
  ●聖観世音  四体 ●虚空蔵と不動明王 三体
  ●弥勒菩薩・文殊菩薩・大通智勝仏
         ・毘沙門天・馬頭観世音 各一体


 深山峠新四国八十八ケ所霊場は、毎年五月十五日に春まつり、十月十日に秋まつりを行っております。読者の皆様には、是非春から秋までの時期にご参拝かたがた、散策を心よりお勧めします。
 なお話が変わりますが、平成十八年四月一日付けの北海道新聞に『北のお遍路 旭川発』との見出しで、『北海道八十八ケ所霊場』の寺院と札所順が決まったと報道されています。第一番札所は旭川市『真久寺』から、第八十八番札所の札幌市厚別区『大照寺』までの全行程は三千キロメートルで、全道を巡るお遍路です。

  ◆『聖観音』と『富良野聖観音』

 『聖観音』は全ての観音菩薩の基本で、慈悲の心であらゆる衆生の悩みと苦しみを救い、楽を与える菩薩と説かれています。やがて十一面・千手・不空羂索など観音思想の展開に伴って、様々な観音が出現すると、それらと区別するために『聖(正)観音』と称するようになったといいます。
 『聖観音像』の基本的な姿は、頭に宝冠を戴き、躰には天衣をまとい、耳飾りや胸飾り・腕輪などの華麗な装身具をつけて、左手に蕾の蓮華を持ち、右手の指先でその花びらを開かせようとする形が多く、左手の蕾の蓮華は容易に悟ることができない人々の煩悩の心を、右手の指先はそれを開かせようとする仏心を意味しています。
 このような『聖観世音菩薩像』を、上富良野において大きく具現化したのが、上富良野町第六代町長(昭和四十六年〜五十八年)であった『和田松ヱ門氏』でした。町長退任後に富良野聖観世音建立期成会長となり、上富良野町西島津地区の丘に約二十メートルの高さで『富良野聖観音像』として建立し、昭和五十九年十月二十五日に開眼法要が執行されました。その後、毎年六月二十五日に富良野聖観音例大祭が行われています。
 富良野地方の開拓と発展に貢献された父祖先人にを偲び、その業績に心から感謝と慰霊の誠を捧げ、遺徳を永遠に讃えると共に、平和と安全及び繁栄を祈願する趣旨で建立された『富良野聖観音像』は、私達を静かに見守り、祈ってくれています。
 和田松ヱ門氏は、十七歳から短歌を始め、和田耕人と号して『富良野聖観音像』を詠んだ短歌を遺しており、氏の心情が響いてきます。

掲載省略:写真〜富良野聖観音像

  ◇観音像 わが終生の 夢なりき
      建立までは 苦難に堪えむ
  ◇念願の 聖観音は 丘の上に
      慈顔湛たへて 町を見守る

  ◆『杉山家一族』と『新四国八十八ケ所』

 杉山嘉三郎氏・ムメさんが、明治四十四年八月に開眼された『聖観世音菩薩』は、三男 芳太郎氏に第八十三番札所として引き継がれました。前記の「『深山峠新四国八十八ケ所霊場』とは」の項で記しましたが、昭和四十八年の地蔵尊の移駐に際し、杉山家一族である『西村家』と『多湖家』がそれぞれの地蔵尊を護持されました。
 札所番号・地蔵尊名・護持者名及びその変遷について、霊場奉賛会記念誌により一覧にしました。この一覧表によって、世代が変わっても篤い信仰心で継承し護持されていることが判ります。
 上富良野町栄町に在住の『西村春治氏』は、『深山峠新四国八十八ケ所霊場奉賛会』の設立以来、相談役・副会長・監事等の役員を歴任されており、杉山家一族を代表する様にその護持に努められています。
杉山家に関わる人々の「新四国八十八ケ所」地蔵尊の護持者と変遷
札所
番号
地蔵尊名 移駐直前の所在地 昭和50年
9月現在
嘉三郎・ムメ
との関係 
昭和62年
新参道現在
平成17年
10月現在
平成26年
5月15日現在
18
薬師如来 中富良野町
弘 照 寺
日の出
杉山 量機
  杉山 量哉 本町3丁目
高藤 忠雄
本町3丁目
高藤 英子
19
地蔵菩薩 東中東8線北18号
弘 照 寺
8丁内
西村 春治
二女 マス
の長男
西村 マス 栄町2丁目
西村 春治
栄町2丁目
西村 春治
20
地蔵菩薩 東中東8線北18号
弘 照 寺
4丁内
多湖 すぎ
三女 多湖 すぎ 大町2丁目
多湖 安信
大町2丁目
多湖信博・由紀
22
薬師如来 富良野市鳥沼東9
川辺仁太郎
北栄区
西村 国夫
二女 マス
の四男
西村 国夫 栄町2丁目
西村 義浩
栄町2丁目
西村義浩・智美
26
薬師如来 東中東8線北18号
弘 照 寺
西富区
西村 三郎
二女 マス
の三男
西村 三郎 西1線北24号
西村 三郎
西1線北24号
西村泰之・紀代美
83
聖観世音菩薩 日の出西1線北27号
杉山芳太郎
日の出
杉山芳太郎
三男 杉山芳太郎 旭町3丁目
尾岸美恵子
旭町3丁目
尾岸孝雄・美恵子
(注)・移駐直前の「弘照寺」は、東中東8線北18号にあったが、大正8年10月21日に中富良野村基線北12号
   に堂宇新築し移転。
  ・表中の住所は表頭年現在の表示によるもので、同一地でありながら表記が異なるものがある。
五、『百万遍数珠』と『杉山ムメさん』
  ◆大数珠の目的

 杉山嘉三郎氏・ムメさんの三男 杉山芳太郎氏が、『上富良野開基八十年 父母が開いた八十年 和して築こう豊かな未来』の記念しおり(昭和五十二年八月発行)の中で、==私の母は、十勝岳爆発泥流で百四十四名の犠牲者を弔うために、流木を拾い集め数珠を作りました。今でも災害の日は、この数珠で供養をしております。==と語っていました。
 そのページの中に、『流木のじゅず』として、首にかけられた写真が掲載されていて、数珠の大きさ・数・長さに驚きました。
 また、上富良野町が昭和五十五年三月発行(増刷:平成五年七月及び平成二十八年度中[予定])した『大正十五年 十勝岳大爆発 記録写真集』(四十二ページ)に『十勝岳爆発の流木 はい松で造った大珠数(ママ)』として写真が掲載されています。

掲載省略:写真〜『大正十五年 十勝岳大爆発 記録写真集』に掲載の大数珠

  ◆大数珠の形状

 この大数珠が、『百万遍数珠』であることを知り、教育委員会に依頼し、数珠の数・大きさ・長さ・重量を調査した結果は、次のとおりでした。
 〇 構成する数珠の大きさと数
  ・大 玉  直径 一二・〇p    二珠
  ・中 玉  直径  六・〇p  一〇八珠
  ・中小玉  直径  四・五p    八珠
  ・小 玉  直径  三・〇p   二一珠
               合計 一三九珠

 〇 総体の長さと重量
  ・長 さ           三・四〇m
  ・重 量           一一・〇s


  ◆杉山ムメさんの関わり

 『百万遍数珠』の数珠は、調査してもらった結果百三十九珠ですが、この数珠を作ることは大変な作業であったと想像されます。十勝岳爆発泥流によって流されてきた立木の処理と、その中から『はい松(マツ科マツ属五葉松類の常緑針葉樹)』の取集・選定・乾燥等に、災害復旧作業と農作業及び大家族のための家事の合間を見ながら、日夜そして幾歳月も費やされたことでしょう。
 上富良野町郷土館に展示されている『百万遍数珠の母珠(達磨)』には、

 ―― 寄贈 杉山 むめ(ママ)
         昭和十七年開眼 ――

と彫刻されています。
 筆者は、数珠玉を作り、孔を開けることは大変な作業ではなかったのかと思い、杉山芳太郎氏の実弟で四男の藤五郎氏の長女『杉山知子さん(昭和十一年七月七日生れ)』にお話を聞くことができました。
 杉山知子さんは、生後二ケ月の九月七日に父 藤五郎さんが、享年二十六歳で逝去されました。その上、世の中は無情なのか、五年後に母 コウメさんが昭和十六年七月十一日に逝去されるという不運に見舞われました。
 西村春治氏の妹さんである『高藤英子さん(昭和六年生れ)』に取材の時でした。両親を亡くした『知子ちゃんは、これからどうなるの』と気遣い、心配して母に話したことがありましたと、涙を流しながら語ってくれました。六歳で両親と死別した『杉山知子さん』は、幸いに祖母 ムメさん、伯父 芳太郎さんに引き取られました。
 その様な環境であったので、百万遍数珠の作製について尋ねると、それは『芳太郎伯父さんと西村春治さんが、ムメばあちゃんから頼まれて、旭川の刳形師(くりかたし)へ運んだと聞いている』と言われました。
 そのことを確認するために、平成二十八年二月二十一日に『西村春治さん』を訪ねて聞くと、『芳太郎伯父と運んだことと、細工された数珠玉は、ムメばあちゃんが数珠糸を丹念に撚り上げて紐にして、百万遍数珠を作り上げました。私も見たし、母 マスからも聞かされました』と、往時を懐かしむように次から次へと語ってくれました。
 『百万遍数珠』は、昭和十七年開眼と彫刻されているので、祖母 ムメさんは七十四歳、母 マスさんは四十三歳、春治氏は二十二歳の時でした。
 杉山家は、中富良野町の真言宗弘照寺の檀家なので、平成二十八年二月二十五日に住職 岩田慈照氏にお聞きしました。はい松の木から丸い数珠に細工し、中心に孔を開けることは、数も多いので素人では難しいことなので、当然刳形師に頼んだことでしょう。又、開眼式は行っているでしょうが、先代の時なので判らないとのお話でした。
 『百万遍数珠』の回し数珠は、仏間の十畳と続きの八畳を開放して、毎年四月七日例祭に使用されたと、西村春治氏、杉山知子さんが語っていました。
 以上の経過により、杉山ムメさんが大きく関わって作られた『百万遍数珠』は、三男の『杉山芳太郎氏』が継承して、引き続き毎年四月七日の祭りで慰霊供養に使用されてきましたが、平成七年七月六日に上富良野町郷土館に寄贈されました。
 その翌年、平成八年五月二十四日に『杉山芳太郎氏』は享年九十二歳で生涯を終えられました。氏の命日は、奇しくも十勝岳爆発から七十年目の日であります。

  ◆数珠とは

 数珠は「すず」とも読みます。仏教で仏菩薩を礼拝するとき手にかけ、念仏・題目を唱えるときに、その回数を数えるために用いる法具です。珠の数は一〇八顆が基本で、十倍・半数・四半数などがあり、数珠をくることは除夜の鐘をつくのと同じ様に、百八煩悩を断つことをあらわします。
 珠材は菩提樹などの木の実・水晶・サンゴなどと種類も多く、法会のときに用いる水晶の装束数珠、浄土宗の二連数珠、修験道の刺高(いらたか)数珠などは特色あるもので、本稿の中心となっている『百万遍数珠』は多勢で繰(く)るための大型の数珠です。

掲載省略:図〜数珠の構造と各部の名称
六、富良野 杉山家の『馬頭観世音菩薩』
 杉山嘉三郎氏、ムメさんの孫になる『杉山寿平氏』が、昭和三十五年十月十七日に富良野市下五区の自宅地先に『馬頭観世音菩薩』を開眼安置されました。平成二十六年七月二日に移設され、今は、中富良野町 真言宗弘照寺に安置されています。
 『馬頭さん』と一般的には言われていますが、形態別にみると、一つは『三面二臂・四面八臂・三面八臂』を菩薩像にするもので、像例では『三面八臂』か多いといい、二つは、石碑に『馬頭観世音』と彫刻されているものも数多くあります。
 杉山寿平氏の建立安置された『馬頭観世音菩薩』は、大きな石に額が取られ、その中に宝冠の馬頭をいただき、忿怒の相をした『三面八臂の馬頭観世音菩薩像』が、線刻の技術で見事に彫られ、裏面には『南無阿弥陀仏 彫刻 斉藤石材店』とあります。子息の元一氏によると、像の下絵は『函館市 真言宗聖徳寺住職 後藤碧厳師』の作とのことでした。

掲載省略:写真〜寿平氏が建立した『馬頭観世音菩薩像』

 また、碑石の側面には次の文が刻まれています。

 ──昭和三十五年八月二十九日 二線川上流にて奇石を発見、息元一と共に自宅に搬入せるも、その後感ずる所あり 同志と相図り之の碑を建立す
    昭和三十五年十月十七日  杉山寿平──

 杉山嘉三郎氏・ムメさんから、二代『数平氏』―三代『寿平氏』―四代『元一氏』―五代『寿一氏』へ受け継がれた信仰への心が脈々と伝承されています。
 馬は、開墾・農作業・運搬そして一時は軍馬として、大きな労働力、戦力であり、また、家族の一員でもあったことから、馬の供養碑と同時に守護神でもあります。
 彫刻されて五十六年を経ていますが、写真のように鮮やかに線刻された像が、弘照寺境内の入口左側に護持されていますので、読者の皆さんに是非お参りとご観覧をお勧めします。
 『父 数平 五十回忌に寄せて』の文中に、次の短歌があります。

 ―― 北国の 生きる姿の 喜びを
     励む心は すぎ(山)にみどりを
               寿平 作 ――
七、杉山家から『郷土館』に寄贈された品々
 上富良野町開基八十周年を記念して、先人の偉業を讃えそして偲び、さらに開拓の歴史を深めて、町の発展に寄与することを希い、第六代町長 和田松ヱ門氏が積極的に推進して、昭和五十三年五月三十一日に旧役場庁舎を模して建設された『上富良野町郷土館』が開館しました。
 建設費及び館内展示物に、有志からの篤志寄付金と数々の展示資料が寄贈され、上富良野町郷土館の落成・開館しおりの中に、展示資料提供者名簿(二三九名)が記載されています。その中で、杉山芳太郎氏が寄贈された品々が次のように記載されています。この時点で、寄贈品の中に『大数珠』はありませんでした。

 □修業証書(七) □古教科書(一三)
 □丸火鉢 □町記念丸火鉢 □陸上競技用投槍
 □片口 □紡毛機 □契約公正証書原本 □御櫃
 □麦櫃 □馬鍬 □箪笥(二) □ちょんな(二)
 □稲刈り結束機 □苗植型付機 □稲抜き千歯
 □稲束用わらつき器 □縄ない機 □泥流地埋土
 □澱粉乾燥用ます(三) □水田株間除草機(二)
 □木銃 □駄鞍


 寄贈された『修業證書』の中に、杉山芳太郎氏の長兄である『杉山利助氏』の『卒業證書』があり、郷土館一階に展示されています。偶然とはいえ、母 杉山ムメさんが作った『百万遍数珠』が二階に展示されていて、享年二十七歳で早逝した長男 利助さんを見守るが如くあり、郷土館職員が意図的に展示したものではありませんが、親子の縁を強く感じました。
 また、杉山芳太郎氏の『第二回青年夜学会』での修得證(大正十二年二月二十六日付)があり、修得科目及び講師の氏名と、当時は上富良野聨合青年会の組織があって、この主催による『青年夜学会』が開催されていることを知り、時代背景と往時を偲ぶことができます。

掲載省略:証書〜利助氏卒業證書と芳太郎氏修得證

 杉山芳太郎氏の『青年夜学会 修得證』の中に記載の講師氏名について若干記します。

◎梅田鐡次郎氏(讀方講師)
 大正四年から大正十三年まで、上富良野尋常高等小学校勤務、昭和二十三年から昭和二十八年まで上富良野中学校長を務めた。杉山知子さんは、中学校二年生の時(昭和二十五年)に梅田校長先生から『水車のある杉山さん!』と声をかけられたと話された。
◎牛田三郎氏(算術講師)
 大正十一年から大正十三年まで上富良野尋常高等小学校に勤務した。
◎佐藤初吉氏(町村制講師)
 当時は、上富良野村役場に勤務し、昭和十二年に美瑛町役場へ、その後助役、道議を経て昭和三十年から三期十二年間美瑛町長を歴任した。
八、杉山家一族から中央墓地への寄贈
 町報「かみふらの」第二四六号(昭和五十四年十一月号)に、「文化の日に開催されている上富良野町表彰式において杉山家に関わる皆様が、上富良野中央墓地に『給水施設並びに、これを保護する鉄製の小屋一棟(百万円相当)』を共同で寄贈された」との記事があり、そこに次のように氏名が掲載されています。

   ・杉山芳太郎(北栄区) ・西村 春治(北栄区)
   ・多湖 安信(西富区) ・西村 三郎(西富区)
   ・西村 国夫(北栄区)  敬称略順不同(筆者)


 中央墓地を利用される皆様が、この施設を利用して感謝の気持ちを持ったことと思います。深山峠新四国八十八ケ所の項にも記しましたが、杉山家関係の皆様の、篤い信仰心と先祖を敬う精神が脈々と受け継がれていることを感じられました。
 また、『杉山芳太郎』の氏名が、次の施設銘版に刻まれています。

 ○上富良野神社『大鳥居』と『社標』の寄贈
    大正十五年八月一日建立
 ○三浦綾子著『泥流地帯』文学碑の建立奉加
    昭和五十九年五月二十四日建立
九、杉山家伝承の稿を終えて
 上富良野町郷土館展示『大数珠』が、実は『百万遍数珠』と称されることが端緒になり、杉山芳太郎氏地先の御堂に『聖観世音菩薩』、『馬頭観世音菩薩』、『諸龍地蔵尊』が、永年にわたって安置護持されていることから、篤い信仰心を持つ『杉山家』に関わる資料収集と聞き取り調査を始めたのは、昨年(平成二十七年)十一月でした。
 杉山芳太郎氏が逝去されて二十年、関係者も高齢になられていましたが、快く取材に応じていただいて、記憶を呼び戻すように往時を語って下さったことに、心より感謝いたします。
 『聖観世音菩薩』が深山峠新四国八十八ケ所への移駐、安置の経過と、香川県高松市の第八十三番札所『一宮寺(いちのみやじ)』について、中富良野町弘照寺住職 岩田慈照師にご助言をいただき、お礼申し上げます。
 杉山嘉三郎家の皆様と同様に、北海道の地での開拓に大きな夢と志を持って、多くの人々が移住されてきました。
 団体で、一族で、個人でと、それぞれ入植は様々です。明治の開拓期から、大正、昭和、平成と時代は移り、現在は四代目、五代目の時を迎えています。
 今回の『杉山家の伝承』について記しましたが、それぞれの家族の中でルーツを含めて『語り継ぐこと』『書き遺しておきたいこと』『聞いておきたいこと』等があると思います。
 各ご家族においては、機会をとらえて「ファミリー・ヒストリー」に心配りをなされることを念じながら、杉山家伝承の稿を終わります。

掲載省略:図〜杉山嘉三郎氏・ムメさん家系図

《取材にご協力いただいた皆様》
・富良野市   杉山元一氏・杉山寿一氏
・中富良野町  弘照寺住職 岩田慈照師
・上富良野町  西村春治氏・高藤英子さん・杉山知子さん
        西村和子さん・多湖信博氏・菅野 稔氏
        佐藤政幸氏・谷本和一氏・米田末範氏
        門脇一哉氏
《参考文献》
・上富良野町史(開基七十周年)      上富良野町
・上富良野百年史            上富良野町
・深山峠新四国八十八ケ所霊場奉賛会記録誌  奉賛会
・四国八十八ケ所巡り            昭文社
・北海道の馬頭観音(七)    『上川の馬頭さん』
・広報「かみふらの」開基八十年記念号  上富良野町
・父 数平『五十回忌に寄せて』     杉山 寿平
・上富良野町郷土をさぐる誌 第四号・第八号
・日本史大辞典               平凡社
・日本国語大辞典              小学館
・国史大辞典              吉川弘文館
・日本民俗辞典               弘文堂
・富良野市下五区郷土誌 第一巻・第二巻
・上富良野町郷土館『落成・開館記念』のしおり
・和田松ヱ門回想録           和田 昭彦


機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀