郷土をさぐる会トップページ     第33号目次

瀧本全應大和尚と大雄寺の変遷(その二)

野 尻 巳知雄 (七十九歳)

本記事内において、名簿等における敬称は、失礼ながら省略させて頂きます。
一、大雄寺功労者の足跡を訪ねて
 大雄寺三代住職瀧本幸朗氏を良く知っているとの情報から、現在大雄寺総代を務めておられる名誉町民の菅野 學氏を訪ねた。
 菅野 學氏が大雄寺の総代に選ばれたのは、昭和五十三年三月(本人は五十四年からと話されていたが、五十四年に完成した大雄寺の本堂建設委員会の記録には、五十三年三月一日の会議から出席者名簿に記載されている)からであったが、当時を振り返っていただき話をお聞きした。滝本幸朗氏についてはあまり詳細な記憶は無く、ただ、『寡黙な方であまり冗談を話されることはなく、真面目で自分には厳しい方であったと記憶している』と話された。
 話の中で『昭和五十四年に完成した大雄寺の建設と平成十八年に新築した大雄寺の建設では、資金面など色々な面で、昭和五十四年の建設では比較にならないほどの苦労があった』とのことであった。
 特にご苦労された点や、当時としては全道的にも近代的な建設であるとの評判の高かった鉄骨ブロック積み二階建ての建造物が、「なぜ建て替えなければならなかったのか」との疑問を解いていただいた。
 『平成十六〜七年ころから、本堂の梁が曲がって来ており、危険であったことと、修理ではアスベストの問題から無理があり、新築せざるを得なかった』とのことである。
 そんなことから、大雄寺の昭和五十四年の建設委員会の構成やご苦労の経過、平成十八年の本堂建設の建設状況などについて、残されている資料に基づきご紹介させていただきたいと思う。
二、老朽化が激しい本堂改築の機運
 大正十一年に建設された大雄寺の本堂は、老朽化が甚だしく、早急な改築が求められていた。改築の話が護持会役員会で話題になったのは昭和五十年三月二日で、本堂・霊牌堂の建設について協議された。
 その内容は(一)建設予算七千万円、内部施設予算三千万円、(二)建設年度を昭和五十三年度とすること、資金の見通しが付き次第に一年でも早く建設することにして、本堂建設趣意書を各檀家に配布することにした。
 その内容は趣意書にあるように、建設資金は、霊牌堂に安置する仏壇を申し込む事によって調達しようと考えていた。
   本堂建設について
                                                    上富良野町大雄寺
 現在の本堂は五十四年前、大正十一年に建築されました。このため老朽化も甚だしく大改築しなければならなくなっております。
 又最近本堂を利用される方が多くなり狭いために大変不便をおかけしております。今回左記のような計画で、新本堂の建立をお願いすることになりました。霊牌堂及び炊事施設等も併設するよう立案致しました。この建設につきましては檀家の皆様より多額の浄財をお願いすることになりますが立派に完成出来ますよう特段の御協力をお願い致します。

 一、建設年次  昭和五十四年(創立一世大和尚七回忌)
 一、総坪数  二四〇坪(鉄骨ブロック造)
 一、予算  七千万円 内部設備三千万円

 建設資金は霊牌堂に安置する仏壇を申込んでいただいて充当したいと思います。皆様の御家庭には立派な仏壇があり又お墓も建立されてはおりますが先祖及びなくなられた方々の位牌を必ずお寺の霊牌堂におまつりしていただきたいと思います。尚お骨もおまつりすることが出来ます。
 仏壇は次のような型式を予定しております。

   一段型(高さ一八〇p 間口六〇p 奥行六〇p)    五十万円以上
  二段型A(高さ九〇p 間口六〇p 奥行六〇p)      三十万円
  二段型B  ABCは寸法は同じですが    (標準額) 二十五万円
  二段型C  仕様細工等が異っています           二十万円

 左記用紙に夫々御記入の上昭和五十年八月末日までに地区役員にお渡し下さい。本堂に見本を安置してあります。詳細はお寺におたずね下さい。尚霊牌堂完成次第現納骨堂は解体致します。

  ※ 左記申込用紙は掲載省略し、原文のままで掲載しています。
 趣意書の配布を終え、昭和五十年三月十三日に納骨仏壇の見本を本堂に安置して、購入の際の目安とした。
三、建築委員会の設置
■五十一年三月に開いた護持会役員会で、建設に必要な委員会構成を図るために、建築委員の選考が行われた。
 建築委員には次の十九名の方々が選ばれている。
   山本逸太郎、坂弥  勇、及川 忠夫、吉河 嘉逸
   佐々木福治、菅原  敏、菊地 幸治、台丸谷清三郎
   佐川 亀蔵、加藤 正夫、中川  清、伊藤 敏夫
   佐藤兵次郎、三熊由五郎、渡辺 徳市、早坂  浩
   岡和田 繁、菊地 悟郎、佐藤 信弘


■五十一年四月五日、早速第一回の建築委員会が召集されて、仮の役員選出と建築委員の補充が行われた。
  《仮の役員選出》
   委員長  山本逸太郎
   副委員長 坂弥  勇、及川 忠夫、吉河 嘉逸
   補充建築委員
      四釜卯一郎、高田 樫三、中西 覚蔵
      西谷 勝夫、芳賀 福栄、斉藤 光久
      佐々木源治


■五十一年五月一日、護持会役員会が開かれ、正式に建築委員会の役員が承認された。
   委員長  山本逸太郎
   副委員長 坂弥  勇、及川 忠夫、吉河 嘉逸
        大場 清一(総代一名欠員)
   会 計  及川 忠夫、四釜卯一郎、中西 覚蔵
        住 職
   監 査  西谷 勝夫、高田 樫三、岡和田 繁
        中川  清、菅原  敏
   委 員  佐々木福治、菊地幸治、台丸谷清三郎
        佐川 亀蔵、加藤 正夫、伊藤 敏夫
        佐藤兵次郎、三熊由五郎、渡辺 徳市
        早坂  浩、菊地 悟郎、佐藤 信弘
        芳賀 福栄、斉藤 光久、佐々木源治


■五十一年九月十四日には、第一回建築委員会が開催され、次の議題が審議されている。
1、建築委員長の後任に山本康夫氏を選出
2、平面図を配布説明
3、現在納骨仏壇の申し込みが七割であるので、残りの三割について申し込みの促進を図ること
4、昭和五十三年度に建築することを目標として計画を進めること
5、世話人宅を訪問して協力を要請すること
 この時点では菅野 學氏はまだ登場していないが、納骨仏壇の申し込みと、入金の進み具合が予定どおりに進まず、役員間ではかなり危機感を抱いていたようである。
 このため、役員自ら出向いて総代世話人宅を訪問して協力を要請しているが、延べ七十戸を五日間に亘り、午前と午後に精力的に各戸を訪問した。

■五十一年十二月、建築委員十七名の参加により、旭川市「大休寺」「法王寺」の視察見学を行い、井野澄雄氏に平面図、正面図、側面図等の作成を依頼した。
四、設計図の完成と建築の経過
■五十二年三月二十六日に、十六名の出席で建築委員会を開催し、井野澄雄氏に依頼して出来上がった仮設計図について、井野氏から説明を受けた。また、現在までの申し込みは八六%であるが、五十二年度末までに申し込みの五〇%の入金、五十三年末までに百%入金になるように、協力依頼の申し合わせが行われた。
■五十二年九月十二日、十四名の出席で建築委員会が開催され、協議決定事項は次の通りであった。
1、設計依頼(山本委員長に一任)
2、各戸に協力依頼状を発送する(別紙)
3、申し込み状況は、九二%である。
本堂建築について
                                                 大雄寺本堂建築委員会
 現在の本堂は大正十一年に建築され五十六年たっております。このため老朽化も甚だしく、加えて狭いため新本堂の建立をお願いすることになりました。新本堂には霊牌堂及び炊事施設等を併設するよう立案致しました。幸いこの建築計画について多数の檀家の皆様より多大の御賛同を賜わり、現在九二%以上の着帳をいただきましたことについて厚く御礼申上げます。
 昨年五月建築委員会が設置され、以来計画について何回となく協議を重ね、又先進施設等の見学も実施して参りました。種々検討の結果明昭和五十三年雪どけと同時に着工の予定で諸計画を進めておりますので絶大なる御協力をお願い致します。建築資金については本年末までに着帳金額の六〇%以上納入下さいますよう御協力をお願い申上げます。
 皆様の御家庭には立派なお仏壇があり又お墓も建立されてはおりますが、先祖及びなくなられた方々のお位牌を是非お寺の霊牌堂におまつりしていただきたいと思います。又霊牌堂仏壇を不要の方も檀家の一員として、本堂建築資金を御寄附していただくようお願い致します。
 檀家の皆々様の絶大なる御協力を得て、立派に完成出来ますよう特段の御配意を重ねてお願い致します。
 建築資金の納入は、上富農協・信金上富支店・道央上富支店に口座を設けてございますので、誠にお手数ですがそちらの方に納入下さいますようお願い致します。
 詳細についてはお寺におたずね下さい。
■十月十一日、地質調査のボーリング開始。

■十一月十一日に開催の正副建築委員長会議では
 1、設計図(平面図)の検討
 2、建築委員台丸谷清三郎氏(死亡)の後任に樋口勇作氏を選任、役員を依頼すること
が決められた。

■十一月二十五日には、正副建築委員長会議の結果を反映し、十七名の出席で建築委員会が開催され、平面図の検討が行われている。

■十二月九日、三十七名の出席で護持会役員会が開催され、左記事項が議題となった。
 1、現在までの申し込み、入金状況の報告
 2、平面図の検討
 3、本設計の依頼
 4、総代による未記帳世話人宅を訪問して協力を依頼する。

■五十三年二月二十三日の正副建築委員長会議では、
 1、設計図見積書の検討(一階百七十七坪、二階百六・五坪)
 2、次回建築委員会の日程について
協議された。

■三月一日、十四名の出席で建築委員会開催されたが、この日は吹雪のために予定審議が未了に終えたため、三月六日に再度開催することになった。この会議から菅野 學氏が初めて登場するが、菅野 學氏が選任された経過は記録に無いので不明である。

■三月六日、建築委員会が開催され、二十名の出席は次のとおりである。
   山本 康夫、坂弥  勇、及川 忠夫、吉河 嘉逸
   大場 清一、菅野  學、四釜卯一郎、高田 樫三
   菅原  敏、菊地 幸治、樋口 勇作、佐々木源司
   佐川 亀蔵、伊藤 敏夫,加藤 正夫、渡辺 徳市
   芳賀 福栄、斉藤 光久、佐藤 信弘、早坂  浩

 この頃から、協力要請を受けた新しい総代世話人が委員に選出されている。この頃以降の議案は、建築へ向けてより具体的な内容になっている。

 1、現在までの申し込み状況と入金について
 (申し込みは九四%で一億九百万円、入金は四千三百三十万円である。役員の努力が実り、目標の一億円の見通しがついたので、予定通りに五十三年度工事着工をすすめることとなった。しかし、旧本堂の解体工事、内部備品整備、外装工事等の費用の不足が予測されたために、総代役員を訪問して、寄付金の増額を要請することとなり山本、坂弥、及川、大場、吉河等の役員が六月三十日から約一か月掛けて六日間で各戸を訪問し増額の要請を行っている。)
 2、指名業者を那智組、岡崎建設、佐川建設、高橋建設、清水組の五社とすること
 3、十一日説明会、十八日入札(両日総代出席)
 4、四月十日着工、九月末日完成
 5、工事監督、山本康夫、及川忠夫、大場清一、四釜卯一郎、菊地幸治とすること

■三月二十日に工事入札が行われ、結果は次のとおりであった。
  落  札  那智組・高橋建設共同企業体
  契約金額  一億円
  工  期  四月十日着工 十月十日完工


 着工から完成までの進捗日程は次のとおり。
・四月十九日、地鎮祭
・六月二十七日、上棟式
・十月二十七日、工事完了検定(上川支庁係官)
  一階本堂  五八五・八九九平方メートル
  二階納骨堂 三五八・八四三平方メートル
   合計   九三七・七四二平方メートル
・昭和五十四年九月三日、落成法要

 落成した本堂と納骨堂の平面図と完成写真を示しておく。当時としては斬新で近代的な建造物の寺院として、高い評価を得ていた。
 注 昭和五十三年五月十五日付の上富良野新聞では、その模様を記事として大きく載せている。また、北海タイムス新聞でも八月四日付の新聞で、工事の模様を掲載していることから、管内でも非常に関心が高かったことが伺われる。

掲載省略:図と写真〜納骨堂平面図と完成写真
掲載省略:新聞〜昭和五十三年五月十五日付上富良野新聞記事
掲載省略:新聞〜昭和五十三年八月四日付北海タイムス新聞記事

■昭和五十八年三月二十七日、建築委員会を開き、会計監査を行った。入金総額一億七千二百三十四万五千五百三十八円、支出金一億五千七百九十三万三百十三円で、差引残額一千四百三十六万二千二百二十五円の決算となり、今後の会計管理は総代に一任することになった。
五、大雄寺の改修が議題に
■昭和五十三年に新築された大雄寺も、建築から三十年を経過した平成十八年四月の総代世話人会議において、トイレの水洗化、エレベーターの設置、駐車場の照明などが議題となって審議されたが、結論が出ず継続審議として持ち越された。

■平成十九年四月五日に開いた総代世話人会議には、前年度から繰越となっていた審議事項の本堂改修事業(アスベスト処理、エレベーター設置、トイレ水洗化、納骨堂拡張)について、総代会での協議事項を菅野 學護持会長から報告され、見取り図並びに見積り等を本年度内に着手し、明年度の世話人会議に報告することが示されて承認された。

■平成十九年七月十一日には総代会議が開催され、改修へ向けた基本方針が審議された。
  出席者 菅野護持会長、大場副会長、三熊監事
      菊池監事、北村監事

 寺院建築に造詣の深い司設計事務所も同席して協議しており、この時点でアスベストの処理、梁の湾曲などの状況から、改修ではなく長期計画による本堂(葬儀場併設)並びに納骨堂を新築する方向で検討し、第一次計画として、本堂を除いた全体完成図(平屋納骨堂、本堂併設のトイレ、控え室、広間等の建設計画を明年度の世話人会議に提出することが決定された。

■平成二十年二月七日、役員菅野、守田、三熊、北村、大場、菊地が出席して総代会議を開き、前回決定した本堂を除いた全体計画の図面見積りを検討した。その上で納骨壇の販売次第で本堂までの同時着工をお願いし、世話人会議にて検討することが承認された。
六、建設委員会を設立
■平成二十年三月二十六日、世話人会議開き、総代会議の決定事項を報告し、協議の結果、本堂改修のため建設委員を選出して準備立案に着手することが決定された。
 建設委員には、
   山本 康夫、菅野  學、三熊 一義、大場 健二
   守田 秀男、北村 啓碩、菊地 哲雄、原田  清
   遠藤 隴一、四釜 喜芳、熊谷 誠志、荒  広之
   中田 宏幹、大友 公二、大場 惣蔵、長谷川久夫
   村上 善吉、小野寺敏昭、及川 克彦、藤山 又一
   林  利定、三浦 憲信、鈴木  努

の各氏が選出され、第一回建設委員会で顧問に山本康夫、会長に菅野 學、副会長に三熊一義、建設委員長に北村啓碩、総務委員長に守田秀男を選び、他の委員も建設、総務に分かれて就任した。
 その後五月、六月、七月と会議を開き内容が協議され、住職と副住職が盆経で檀家周りの際に趣旨を説明し、全檀家に趣意書、寄付金申込書を発送して協力を仰ぎ納骨堂・本堂の改修建設を推し進めて行くことが決定されました。

■十月三日の会議では、新たに監事として大場惣蔵、遠藤隴一の両名が選出された。

■十一月七日の会議では、海江田家の墓所を無縁仏の隣に、三十三観音地蔵は道路に向いて一列に並べて移設、樹木はオンコを数本移設して残りはすべて伐採することで承認された。
大雄寺の境内には、滝本家歴代の菩薩を祭った墓所と、無縁仏像、海江田家墓所、中西家墓所、三十三観音像、子安地蔵尊(慈母観音ともいい、安産、幼児の無事を守る観音像)、水子の霊地蔵、地域の地蔵尊(用水に入って幼子が無くなった地蔵)などが祭られているが、どのような経過から境内に設置されたかについては、一部を除いては明らかではないが、墓所の関係者や島津地区の関係者、地域の関係者等が毎年お参りに来ているという。

掲載省略:写真〜地域管理の地蔵・子安地蔵・島津管理の地蔵

■平成二十一年になると、月一回のペースで会議が開かれるようになった。四月七日の会議では本設計に入るに当たり、今までの経過から司設計事務所に決めることで承認され、また、地元檀家信徒業者による共同企業体の工事受注願いの報告がされた。

■九月十三日総代会議において、司設計より本設計図について概略説明を受け、協議の結果数箇所を見直しして再見積りを求めることにした。
 また、業者の選出については、檀家業者共同企業体から工事願いが提出されていることから、後日共同企業体代表にも出席を求めて設計内容を説明し、見積書の提出を依頼して、価格合意が出来ない場合は入札を実施することで決定した。
七、工事見積りに檀家企業も参加
■平成二十一年十一月三日、総代会議で地元共同企業体代表高橋建設社長から工事見積りの内容について説明があったが、予算よりオーバーしており、司設計より坪単価等の説明をし、再度見積りの提出を求めることになった。
 十二月初旬には、寺院建設に携わった司設計事務所が推薦する業者森永組、橋本川島コーポレーション、近藤建設の三者に見積りの提出を依頼した。
 見積額はいずれも三億二千万円前後で提示されたが、建設委員会では消費税込みの三億円以内を提示し、司設計と地元業者を含めて仕様変更による再見積りを提出してもらうこととなった。

■平成二十二年一月二十三日、総代会議で司設計から設計変更の見直し案の説明を受け、会議の後、高橋建設、黄田建設、佐川建設、橋本川島コーポレーションが同席して、総費用減額について協議したがまとまらず、次回への継続協議となった。

■三月二十七日の総代会議で、司設計より変更点の説明があり、地元企業対代表の高橋建設、川島橋本コーポレーションから見積り金額が提示され、協議の結果仮契約を行うことに決定しました。

■四月六日、本堂納骨堂新設工事の本契約を締結し、五月二十七日に地鎮式を行い工事が本格化した。

■平成二十三年二月二十三日、工事が完了し引き渡し式が行われ、三月十一日に入仏式が行なわた。

掲載省略:写真〜平成22-23年 新築工事平面図と完成写真

■平成二十四年四月二日に開かれた世話人会議で菅野 學護持会長から、本堂納骨堂建設について最終的な報告がされた。
 取材訪問時に、菅野氏から出た「大雄寺の建設に当たっては、今回は前回の建設ほど苦労が無かった」と言った言葉の裏には、今回は資金面で長期・短期とも金融機関からの借り入れが容易であったことがある。このため、檀家各位の支払いが分割でも資金繰りに困らなかったことと、檀家各位が経済的にゆとりが出てきたこともその要因でないかと伺われる。
八、新西国三十三所観世音菩薩
 大正十五年五月二十四日の十勝岳大噴火によって富良野川水域が泥流に埋没したときに、上川支庁管内各町村の青年団員が大雄寺の本堂に宿泊し、常時六十名ほどが復旧の応援に当たった事が記録に残っている。
 この年の七月には、北海道曹洞宗務所主催で同宗二十六箇寺の住職によって、檀徒死者五十二名の追悼法要が大雄寺本堂において厳修された。
 昭和五年五月十一日に、泥流で埋まった庫裡の土台変えと座敷の新築が行われたが、これに併行して同年五月二十四日(泥流被災の日)には伊藤常右エ門の発願により、十勝岳大噴火横死者追善のため、三十七人の寄進によって三十三観音の石像が境内に安置された。石表の文字には「新西国三十三所観世音菩薩」と刻まれている。
九、「新西国三十三所」のなぞ
 「新西国三十三所観世音菩薩」は昭和七年に大阪を中心とした巡礼地を指定したもので、大雄寺境内に昭和五年五月に建立された石像である「新西国三十三所観世音菩薩」は、当時まだ存在していなかったのである。
 また境内に安置されている観音像は、「新西国三十三所観世音菩薩」の一番札所、大阪「四天王寺」本尊「救世観音」であるが、石像は「西国三十三所観音菩薩」一番札所、和歌山県「青岸渡寺」本尊「如意観音」と一致している。以下二番札所、三番札所の本尊も同じく新西国三十三所の札所とは異なっているが、西国三十三所の札所とは一致している。
 では、なぜ「新西国三十三所」の名称が使用されていたかについては、西国三十三所札所の起源に起因しているのではないかと推測される。
十、西国三十三所の起源
 「三十三」とは、観音経に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき、三十三の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与えるため、三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を参拝すると、現世で犯した罪業が消滅し、極楽往生できるとされている。
 三十三所巡礼の起源は養老二年(七一八年)大和国の長谷寺の開基である徳道上人が、六十二歳のときに病で亡くなった折、閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄に送られてくる者があまりにも多いことから、三十三所観音霊場の巡礼により減罪の功徳をうけて、人々を救うようにとの託宣を受け、三十三の宝印を預かり現世に戻された。この宝印に従って霊場を定め、上人と弟子たちは三十三所巡礼を人々に説くが、あまり信用が得られずに普及しなかったため、宝印を中山寺の石櫃に収め機が熟すのを待つことにしたが、何時しか忘れ去られてしまった。
 約二百五十年後の安和元年(九六八年)、花山院が紀州国那智山で参籠していた折、熊野権現が現れ、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受けた。そして中山寺で宝印を探し出し、河内国石川寺(叡福寺)の佛眼上人を先達として三十三霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという。これが三十三所札所と呼ばれているが、大雄寺境内に建立された石碑の「新西国三十三所観世音菩薩」の意味は、七一八年の長谷寺の徳道上人が定めた「三十三所霊場」に対して、九六八年に花山院が定めた霊場を「新西国三十三所観世音菩薩」と表記したものに由縁があると考えられるが定かではない。
十一、西国三十三所霊場と観世音菩薩の寄進者
 西国三十三所霊場と大雄寺境内に建立された三十三観音菩薩像寄進者氏名は次の通りである。
西国三十三所霊場と大雄寺境内に建立された三十三観音菩薩像寄進者氏名
札所 寺  号 本   尊 所 在 地 寄 進 者
1番 青岸渡寺 如意輪観音 和歌山那智勝浦 伊藤 常右ヱ門
2番 金剛宝寺護国院 十一面観音 和歌山市 福屋 キヨ
3番 粉河寺 千手観音 和歌山紀の川市 西谷 イワ
4番 施福寺 千手観音 大阪和泉市 大澤 治雄
5番 葛井寺 千手観音 藤井寺市 根尾 初五郎
6番 南法華寺 千手観音 奈良高取町 佐川 清助
7番 龍蓋寺 如意輪観音 奈良明日香村 山口 ヤノ
8番 法起院 十一面観音 奈良桜井市 菊地 巳蔵
9番 長谷寺 不空羂索観音 奈良市 菅原 寅右エ門
10番 興福寺 千手観音 宇治市 喜多 久吉
11番 上醍醐寺 准胝観音 京都伏見区 久保田 為栄
12番 正法寺 千手観音 大津市 菊地 政美
13番 石山寺 如意輪観音 大津市 酒井 鋭・酒井 基直
14番 園城寺観音堂 如意輪観音 大津市 北川 スエ
15番 元慶寺 十一面観音 京都東山区 熊谷 菊次郎
16番 観音寺 千手観音 京都東山区 熊谷 健治
17番 六波羅蜜寺 十一面観音 京都東山区 藤山 義克
18番 頂法寺 如意輪観音 京都中京区 堀井 ミサ
19番 行願寺 千手観音 京都中京区 伊藤 廣五郎
20番 善峯寺 千手観音 京都西京区 松原 リヤウ
21番 穴太寺 聖観音 亀岡市 山本 リス
22番 総持寺 千手観音 大阪茨木市 片倉 伊右ヱ門
23番 勝尾寺 千手観音 大阪箕面市 為松永四郎、片倉伊右ヱ門
24番 中山寺 十一面観音 宝塚市 伊藤 八重治
25番 花山院菩提寺 千手観音 兵庫県加東市 船引 藤兵ヱ
26番 清水寺 千手観音 兵庫県加西市 分部 亀吉、田中 常七
27番 一乗寺 如意輪観音 姫路市 為佐川政治家・佐川庄七
28番 成相寺 聖観音 兵庫県加西市 益山国次郎、河村秋雄
29番 松尾寺 馬頭観音 舞鶴市 堀江 源作
30番 宝厳寺 千手観音 長浜市 守田 勇造
31番 長命寺 十一面観音、千手観音、
聖観音
近江八幡市 小野寺 丑蔵
32番 観音正寺 千手観音 近江八幡市 田村 岩蔵
33番 華厳寺 十一面観音 岐阜県斐川市 土肥 マサ、庵本 種枝
《注》
「観」〜心の目で見ることであり、この観の働きをもって私達の悩みや苦しみをお救い下さるのが観音菩薩である。
「千手観音」〜千本の手があり、その掌に目が付いている。どんな人達でも漏らさず救済しようとする広大無限の慈悲の心を表している。観音の中でも最も功徳が大きく、「蓮華王」と呼ばれている。
「如意輪観音」〜「如意」とは意のままに智恵や財宝、福徳をもたらす如意宝珠という宝の珠のことであり、「輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指している。この二つの力によって生きとし生けるものを救済しようとする菩薩である。
「聖観音」〜観音様が仏になろうとして修行中であるが、現世に降りてきてあらゆる災難に際して人間を守護しようとされる観音菩薩である。
「准胝観音」〜仏の母といわれ母性を象徴する安産、子授けの観音菩薩である。
「不空羂索観音」〜「不空」とは信じれば必ず願いが叶い空しい思いをさせない、という意味であり、「羂索」とは捕縛用の縄のことで、あらゆる人々の悩みを逃さず救済し、願いを叶える観音菩薩である。
「十一面観音」〜苦しんでいる人をすぐに見つける為に、頭の上に十一の顔があり、全方向を見守っている。それぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれている。現世利益と死後成仏というさまざまなご利益を具えた観音菩薩である。
 「馬頭観音」 馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し、煩悩を絶つ功徳があるとされる観音菩薩である。
最後に
 この原稿の取材にあたり、大雄寺住職瀧本良幸氏及び檀家総代の菅野学氏にはご多忙の中、貴重な資料提供などにご協力いただき、厚くお礼を申し上げます。特に昭和五十三年の大雄寺本堂建設の設計図、会議録、会計報告書などや、平成二十三年度に完成した新大雄寺本堂と納骨堂建設の経過を記した資料、大正十五年の十勝岳大噴火災害の犠牲者を追悼する三十七人による「新西国三十三所霊場観音像」の寄進観音像の写真などの掲載にご配慮いただき厚くおれいもうしあげます。

掲載省略:写真〜「新西国三十三所観世音菩薩」標柱と1〜33番菩薩像
◎参考資料
「インターネットヤフー智恵袋より引用」
「仏教と仏事のすべて」主婦の友社刊外


機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀