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大正十五年 十勝岳噴火泥流災害再考

執  筆 田中 正人(島津)
取材協力 川喜田 誠(草分)
 〃   喜多 成孝(日新)
 〃   菊地 信一(日新)

(失礼ですが敬称全略)
■ 仲間たち
 私は、現在土の会と言う組織に入会している。会員は十七名。上富良野町青少年団体協議会会員OBにより昭和四十八年に設立された(初代会長 岩田 修)。
 当初は、殆どが農業者として研鑽を積みながら、生活に関わる話をしたり、政治経済あらゆる分野に精通した者が中心となって話が盛り上がる。気を遣う必要の無い仲間として長い付き合いを続けている
 最近は、婦人同伴となり和気あいあいの組織となり、焼き肉パーティや旅行を楽しみに集まる。
 その仲間の中に偶然?、それとも必然なのか、大正十五年の十勝岳噴火泥流災害に遭遇した先祖の子孫がそれぞれの地区に住んで居る。
 何気なく付き合いをしていたが、平成二十三年に発生した三月十一日の東北地方太平洋沖地震を契機に、災害について話す機会も増えた。
 更に、平成二十六年には大きな二つの災害があった。
 八月二十一日の広島市北部の安佐北、安佐南の両区が局地的な豪雨となり、土砂崩れによって発生した大規模土石流災害(死者七十名)。翌月の九月二十七日、戦後最大の犠牲者数をもたらした御岳山噴火(死者五十八名 行方不明者五名 二十七年十二月二十日現在)。
 この大きな二つの複合的な災害が合わさったのが上富良野で発生した大正十五年の十勝岳噴火泥流災害とも言える。
 平成二十六年の暮れには気象庁が十勝岳の噴火警戒レベルを一(平常)から二(火口周辺規制)へと引き上げたこともあり、四人の仲間も改めて大きな関心を共有することにもなった。
■ 大正十五年 十勝岳の噴火
 風光明媚と威容を誇る十勝岳も突然自然の猛威をふるう。大正十五年五月二十四日十勝岳が噴火した。
 死者・行方不明者は百四十四名に達し、罹災地の水田は三重県人等の手によって三十有余年かかって開拓した田畑は一瞬の内に泥土と化し、厚さ平均二尺(六十p)内外の土質は硫黄並に硫酸等多量の礦毒を含有する土地となり、併せて木材も流出し、耕地は一面の流木が堆積して莫大な損害をもたらした。
 大正十五年の十勝岳噴火から平成二十八年が丁度九十年を迎えるに当たり、十勝岳爆発災害志等、過去の既刊物から被害状況等を調べ引用。それぞれの地区毎に過去を検証し、被害状況や、犠牲者のことを知りたいと思い立ち、今後の防災活動にも役立てたいと考え、四人の仲間と調査を開始した。

掲載省略:新聞記事〜新聞記事文庫 災害及び災害予防 大阪朝日新聞出典
  (一)十勝岳平山鉱業所

 郷土をさぐる誌(第十八号)樋口義久著「平山硫黄鉱業主平山徳治氏を語る―硫黄王『なぐれ徳』物語」に次の文が掲載されている。(抜粋し誤記は訂正した)
==個人の企業としては限界まで成長した徳治の事業が僅か一夜にして全滅するという信じられない大惨事が発生した。大正十五年五月二十四日の二回にわたる十勝岳の大爆発である。
 正午、第一回の水蒸気爆発があり、大量の土砂が中央火口外輪山から流れ出る谷を埋め、流れをせき止めた。その夜から降り始めた豪雨と熱灰が積雪を融かし一夜にして火口湖が出現した。火口内にはたくさんの蒸気の噴出口があり水は熱せられました。
 午後四時半、第二回目の爆発があり、再び大量の土砂が火口湖へ落下。その衝撃で前日の土砂のダムが耐え切れず、あっという間に崩壊した。
 土石流は谷を削り、野を埋め尽くしながら富良野盆地をめがけて一気に突進した。時速四十q、所によっては熱湯であった。
 平山鉱業所の鉱山は被爆、両基地は土石流の底になり全滅、社員や家族にも犠牲者の出る惨憺たる有様……==
と記述されている。
 また、郷土をさぐる誌第十八号の長井禧武著による「十勝岳爆発災害と復旧工事の思い出」には、火口から二.四qの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎の被害の模様をこう綴っている。
==当日は、折悪しく曇天で、仕事を休んだ人達は皆家の中に居たため、突然の噴火による溶岩と洪水により、一挙に押しつぶされ、建物諸共流されて生存者は居なかった。建物から百b位下ったところで、私も知っていたここの炊事担当者の女の人が亡くなっていた==
とある。


掲載省略:図〜1926年十勝岳泥流の流下域 独立行政法人 防災科学技術研究所 自然災害情報室より転載

 又、硫黄を採取していた熊谷友吉著、郷土をさぐる誌第一号の「硫黄山で遭難した人の手記」には、
==「朝から硫黄山が鳴動してすこぶる危険のようなので、一度視察をしてもらいたい」と元山事務所より電話連絡を受け、中茶屋事務所を出発。到着間もなく大音響と共に飯場が揺れ大きな山(煙)が渦を巻いて覆いかぶさって来た。会計主任の古瀬栄一、山坑主任平山為一、妻のスギ、大沢勇四、佐藤義一等はその場で惨死。私もがけにはい上ろうとした時泥水をかぶり、丹前も引きさかれた。あとで古瀬栄一と思われる人が新井牧場の入口まで流されていたのを家族の方が引き取り、葬式を済ませた。その後、飯場に居た五郎と言う犬が、地面を掘り始めたので、掘って見たらこの人が本当の古瀬さんであったので、再度家族に引渡した==
と生々しく証言されている。
 前記の様に、第一回の水蒸気爆発により大量の土砂が中央火口外輪山から流れ出て谷を埋め流れをせき止めたこと、前夜から降り始めた豪雨と噴火による融雪により短時間にして火口湖が出現したこと、火口内にはたくさんの蒸気の噴出口があり水が熱せられたこと、第二回目の噴火では避難を怠ったこと、多量の岩屑を含む一次泥流が平山硫黄鉱業所に押し寄せたことなどの条件が重なり、結果的に二十五名もの犠牲者を出す要因となった。
 鉱業所の被害者の多くは福島県の吾妻山で硫黄を採っていた若者で、出稼ぎ中に被害にあっている。
 以下、各地区毎の犠牲者名は郷土をさぐる誌第八号、中村有秀著「続・石碑が語る上富の歴史(その七)」からの引用が主である。犠牲となられた方の様子等も取材から簡略に記述した。
故人氏名   年齢  職業         本籍地
藤倉 永雄  三十一  平山硫黄鉱業所砿長  栃木県
  元山事務所到着し電話中惨死 電話握ったまま発見
古瀬 榮一  二十八  同事務員       小樽市
  鉱山事務所 入浴中 行方不明
平山 爲市  三十   同          大分県
平山 スギ  二十二 無           同 
  事務所勤務 夫婦抱き合って泥中で発見惨死
岩本  悟  一十九  平山鉱業所坑夫    同 
小澤 勇四  二十六  同          山口県
  炊事婦の岩木ナミ子の従弟。ナミ子の父の法要を終え山に帰り睡眠中被害に遭遇
山田 彌一  四十   同          大分県
榎谷源次郎  二十一  同          同 
高橋作太郎  二十四  同          福島県
高橋 福衛  二十二  同          同 
阿部  勤  二十六  同          同 
阿部 式次  二十四  同          同 
阿部平四郎  二十二  同          同 
佐藤 儀市  三十五  同          同 
佐藤 頼衛  三十   同          同 
佐藤 喜七  二十七  同          同 
佐藤丑之助  二十四  同          同 
佐藤 亀重  二十二  同          同 
菊田 u次  二十七  同          同 
鈴木 三郎  三十   同          同 
宍戸傳太郎  三十   同          同 
西澤 信吉  二十一  同          同 
尾形 福市  二十五  同          同 
木許彦太郎  二十四  同          大分県
岩木ナミ子  二十四  同  炊事婦     上富良野
  春より炊事婦に採用。父の法要を終え山に帰り被害に遭遇。挙式を控えていた

 昭和三年十月七日、東北大学教授中村左衛門太郎、北海道庁立旭川中学校(現旭川東高)柴原小市教諭の呼びかけにより、十勝岳の研究と現地で火葬に附された平山硫黄鉱業所及び丸谷温泉の惨死者慰霊の為残骨残灰を収容し墓標を兼ねた記念碑と堂宇が建設された。堂宇はその後風化解体し、現在、爆発記念碑だけが、吹上監視所横に存在している。

掲載省略:写真〜十勝岳爆発記念碑
  (二)美瑛地区

 「内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書一九二六 十勝岳噴火」によると、美瑛村では、十勝岳望岳台にあった丸谷温泉(別名美瑛温泉 経営者丸谷吉之助)は、施設の拡充を計画し、新築作業中、第一回爆発の午後〇時十一分頃による熱泥によって一瞬にして家族三名が犠牲となった。
 下手にあたる、現在の白金温泉附近にあった畠山温泉は、宿もろともにポンピエイ川左岸、美瑛川との合流点にて流失。経営者の畠山三郎は下流域の神楽村西御料地十六号、妻は十二線、孫不明。湯治客の堀田ミヨキは十七線で発見された。
 尚、丸谷温泉経営者は原野二十四線で発見。両経営者が同じ五十代の為、遺族が遺体を取り違えて引き取ることも起きている。
故人氏名   年齢   住所      戸主名
丸谷吉之助  五十三  旭川市     丸谷吉之助
丸谷 政幸  二十三  同       同
丸谷 吉幸  二十五  同       同
畠山 三郎  五十六  神楽村     畠山 三郎
畠山 トラ  四十三  同       同
畠山 次郎    六  同       同
堀田ミヨキ   十七  美瑛村     湯治客
  (三)日新地区 その一

 泥流は、美瑛川と富良野川に分かれ、二次泥流となって国有林の立木を根こそぎなぎ倒し、十勝岳から僅か七q地点の日新地区を襲った。
 富良野川を源流とする狭谷の集落を襲った山津波に対して為すすべもなく、多くの犠牲者を出した。
 地区の佐川亀蔵著郷土をさぐる誌第十六号の回顧録「佐川団体と私」の記述では、
==明治の末に、沢と高台に四十数戸入植したが、十勝岳の爆発により日新地区の殆どが全滅状態に陥り人口が減少、佐川政治さんは悼ましくも一家(九名)全滅した==
とある。

    日新地区 その二

 その向かいに住む藤山庄三家も九名の犠牲者を出している。現在上富良野高齢者事業団の会員として活躍している弘毅さん(現在八十三)の聞き取りによると
「藤山家唯一の生き残りとなった義克は機転をきかして山に駆け上り助かったが、家族は道路を走って逃げ遅れ巻き込まれた。災害後は山の高台に住居を構え、その後に、義克の子として私が生まれた」
と語る。
 今回取材に協力頂いた菊地信一家もその巻き添えとなっている。
 先祖の菊地宇藤次は、峡谷から湧き出す飲料水を求め、富良野川沿いに住宅を建て暮らしていた。当日は夫妻で外出。留守を預かったのが次女のエン(当時十七)。隣家の久保木為榮も市街地に行って不在となる為、ナミコ(八)東子(五)の留守をも併せて任される。
 物音がした時はすでに流木が押し寄せ家が半壊。エンは垣の外に押し出された。子供の二人が流木に押し出されようとした時、エンは流木を渡り泥土に入り二人を助け、久保木為榮より深謝された。
 宇藤次は外出先からの帰宅途中に惨死。母は危うく難を逃れた。

    日新地区 その三

 流失した日新尋常小学校の教員であった菊地政美氏の記録では、十勝岳噴火の前日二十三日、尋常小学校正教員の検定受験の為、学校を臨時休校にして旭川に出張。罹災当日の体験はない。
 二十五日の夕方電話で母と妹、妻と長女の家族四人が死亡、男の子三人兄弟の消息が判明するも、鉄道が不通の為、美瑛駅に下車後徒歩で帰宅するが、住む家も日新尋常小学校も流出。在籍児童四十六名の児童の内十一名が惨死した。
 その一方で家族全員が助かった家庭もある。佐々木義男著の『過跡(昭和六十三年発刊)』の記述には、
==爆発を察知した父親の忠治郎が、「俺は曽婆さん(当時満八十五才。目が悪かった)を連れ出す…。早く早く前の山に逃げるのだ…。爆発だ、水が来る。早く早く」。何とも言い表せない、耳をつんざくゴーという物凄い連続轟音、ふと学校方向を見た瞬間、山間一杯に原油の様な泥が学校の上手に横に延びる丘陵に激突し、反転ダイビング(ジャンプ)して、丘陵の教員住宅は勿論、百米余下流の学校を直撃し、あっと言う一瞬で泥流に呑まれて消えた。
 この瞬時の出来事は時間にして二、三秒間、丘陵上の教員住宅の先生家族が子を抱き山手に走る姿、その後から母親が続く姿も当然消えた==
との目撃証言もある。
 父親の忠治郎は十勝岳の山鳴りについて、毎夕食時に口癖のように内地(本州)の津波と、火山爆発を例にとり挙げ、
==川の増水、或いは異状出水の場合は高地に逃げる様家族に話していた==
とある。

 佐々木家は富原へ移転し、後に日の出にも長く住まいした。

掲載省略:イラスト〜佐々木義男著「過跡」より

    日新地区 その四

 その下流域に当たる富良野川とピリカ富良野川の合流地点には、大正六年に当麻より日新へ移転したばかりの喜多久吉が住まいを構え住んでいた。
==久吉は山の爆発異変に気づき、高台に様子を見に行った時にはすでにピリカ富良野川に泥流が逆流し家を襲い、現在の日新ダム当たりまで泥流が到達していた。
 地区の子供たちは細野農場の小作米用倉庫で大勢が遊んでいて、その倉庫が二つに割れ、久吉の五男光義当時八歳の他、共に遊んでいた八名の方は、押水の時に山裾にたどり着き助かり、(割れた倉庫の)もう一方は、直後の引き水時に泥流の中に浮いていた屋根の上の五女房子が渦巻きに飲み込まれ、四男の博愛(ルビ:ひろちか)の他、大沢数馬、片倉兄姉四名、松永四郎の八名がここで犠牲となり、生死を分けた。==
と上富良野町史に記されている。
 助かった五歳の光義が語った被災の様子は、「泥流はドロドロで、木に捕まって浸かっているときぬるま湯みたいなものだった」と、喜多家に言い伝えられている。
 その後、家は川の合流地点より上手に辺たる所に建てられた。光儀は取材協力者、喜多成考の父に当たり、久吉は祖父に当たる。
 久吉は二十六才の時、徳島県海部郡より屯田兵の一員として明治二十六年五月(現上川郡当麻の開村年月に同)に父喜代治、妻シマ、弟留吉、同妻と共に西当麻兵村の兵屋番号一七七に入地し、喜多家の繁栄に繋がっている。

    日新地区 その五

 さて、小学校の復旧は早く、旧校舎位置から約四q離れたところにバラック建の校舎を建設した。
 部落民総出の突貫作業により六月十四日には授業を再開している。日新地区の犠牲者は次の様に多い。
故人氏名   年齢   住所       戸主名
伊藤みどり  七十   新井牧場 細野  伊藤常右衛門
伊藤 清人   十四  新井牧場 細野  伊藤八重治
  兄の家に泊りに行き、流された
伊藤 せい  七十一  新井牧場 細野  伊藤初三郎
岩崎重治郎  七十三  岩手縣  不明  岩崎重治郎
堀江  實    七  新井牧場 細野  堀江 源作
千葉己佐吉  五十八  新井牧場 細野  千葉己佐吉
千葉 テン  五十四  新井牧場 細野  同
千葉コユミ   十六  新井牧場 細野  同
小野寺フミ    九  新井牧場 細野  小野寺丑蔵
大澤 數馬   十五  新井牧場 細野  大澤 治雄
川村 繁雄  二十九  新井牧場 細野  川村 繁雄
  馬を助けようとして流された
片倉トシエ   十三  新井牧場 細野  片倉伊右衛門
片倉 政男   十一  新井牧場 細野  同
片倉登志雄    七  新井牧場 細野  同
片倉マサキ    四  新井牧場 細野  同
松永 四郎  二十一  新井牧場 細野  松永 四郎
熊谷つきよ  三十一  新井牧場 細野  熊谷菊次郎
熊谷よねよ    八  新井牧場 細野  同
熊谷正市郎    五  新井牧場 細野  同
熊谷フヂ子    三  新井牧場 細野  同
熊谷とめよ  二十五  新井牧場 細野  熊谷 建治
熊谷 健男    五  新井牧場 細野  同
藤山 庄三  四十九  新井牧場 細野  藤山 庄三
  下半身が切断され、上半身に子供一人背負って発見された
藤山 ミヨ  四十五  新井牧場 細野  同
藤山 清勝   十九  新井牧場 細野  同
藤山 花子   十六  新井牧場 細野  同
藤山 トメ   十一  新井牧場 細野  同
藤山 喜八    九  新井牧場 細野  同
藤山ミドリ    七  新井牧場 細野  同
藤山 愛喜    五  新井牧場 細野  同
藤山 武司    三  新井牧場 細野  同
佐川むめの  七十七  新井牧場 細野  佐川 岩治
佐川さはの  四十三  新井牧場 細野  同
佐川 鶴蔵   十八  新井牧場 細野  佐川 清助
  馬を助けようとして流された
菊地萬兵衛  三十二  新井牧場 細野  菊地萬兵衛
  前日及川万治郎宅にて婚礼の手伝い、午後から就寝中犠牲に
菊地 キワ  四十八  新井牧場 細野  菊地 政美
菊地たつの  二十三  新井牧場 細野  同
菊地 ハナ   十   新井牧場 細野  同
菊地 和子    一  新井牧場 細野  同
菊地宇藤次  五十一  新井牧場 細野  菊地宇藤次
菊地 ナミ  三十   新井牧場 細野  菊地 己蔵
菊地 金治    五  新井牧場 細野  同
菊地 長治    一  新井牧場 細野  同
喜多 房子   十八  新井牧場 細野  喜多 久吉
喜多 博愛   十三  新井牧場 細野  同
菅原あきの  四十   新井牧場 細野  菅原寅右衛門
鈴木長兵衛  七十五  宮城縣  不明  鈴木 亀松
久保木いよの 二十七  新井牧場 細野  久保木為榮
久保木鐵雄    二  新井牧場 細野  同
高橋 カツ   十   新井牧場 細野  高橋 長助
高橋トミヨ   十   新井牧場 細野  高橋仁三郎
佐藤勝美     五  上富良野村    佐藤勇次郎
伊藤キクノ  三十一  新井牧場     伊藤常右衛門弟妻
伊藤 眞一    六  同        同
伊藤 重子    一  同        同
佐川 政治  四十二  新井牧場 細野  佐川 政治
佐川きちよ  四十一  新井牧場 細野  同
佐川ちはる   十六  新井牧場 細野  同
佐川  正   十四  新井牧場 細野  同
佐川 吉美   十一  新井牧場 細野  同
佐川とくゑ    九  新井牧場 細野  同
佐川ともゑ    五  新井牧場 細野  同
佐川 里代    二  新井牧場 細野  同
佐川かねよ  六十二  新井牧場 細野  同

  (四)草分地区

 狭隘の谷から平地へと押し寄せた時速三十六qの速さと推測される泥流と流木は、富良野鉄道線路をねじ曲げ破壊させ、下流へ泥土を解き放される様に押し流し、草分地区に進入した。

掲載省略:写真〜泥流に流された鉄道レール

 復旧は早く二十八日に予行運転を始めている。
 上富良野尋常小学校は流失を免れ、一カ月後には登校している。
 同地区でも富良野川沿いに多くの犠牲者を出しているが支流に当たる江幌完別川、トラシエホロカンベツ川、エハナエホロカンベツ川の大部分を埋没させたため河川が氾濫。一帯の道路橋梁は所在を失い被害を更に拡大させた。
 現在ここで、船引家四代目として船引武通は農業を営んでいる。
 武通はまだ生まれていないが、祖父に当たる船引藤兵衛は五人の家族と住んでいた。前年四月より女中奉公に来ていた相良右馬治(中富良野村)の長女ハルが犠牲となった。藤兵衛の母かなと三女ツカ子を背負って避難したハルが間に合わず、ツカ子を背負ったまま死体となって浮かび上がっている。
 藤兵衛は泥流に飲み込まれながらも生還。小学五年生の長男武(武通の父)と共に生き残り今の船引家へと引き継がれている。(郷土をさぐる誌第三十号 創成小学校回顧禄 しだれ柳は見ていた 鹿俣政三著 参照)
 船引宅の上手に大きな岩石が流れ着いた。十勝岳爆発を永遠に記憶に留める為それを台座として自然石を鏡石に碑文も刻まれ記念碑が建てられた。
 一年後の昭和二年五月二十四日には、上富良野村仏教団主催の除幕式を挙行。二百余名の参列者があった。

掲載省略:写真〜流されてきた大岩
故人氏名   年齢   住所       戸主名
若林小い志  六十八  西三線北三十号  若林助右衛門
若林 つね  三十八  同        同
若林ヒサ子   十   同        同
若林マサ子    八  同        同
若林 儀治    六  同        同
若林 勵子    四  同        同
  つねは子供四人と共に亡くなり、後日、棺桶五個を並べて火葬された
細谷 りゑ   十八  上富良野村    細谷 祐三
  若林助右衛門の実弟 実の妻 新婚 実が泥中助け様としたが泥中に見失う
分部 しう  七十一  西二線北二九号  分部 丑松
分部富士子  二十八  同        同
分部  治   十一  同        同
分部 初子    五  同        同
分部トシ子    三  同        同
分部美枝子    二  同        同
  家族八人中六人が犠牲。亀吉(当時三五)、丑松(当時七五)は泥流にそれぞれ子供を
  抱えながら押し流され、泥土中で子供とはぐれ、それぞれ九死に一生を得ている
若林 きく  三十七  西二線北三十号  若林仲次郎
若林 チヨ   十五  同        同
若林ウメ子   十二  同        同
若林 八重   十   同        同
若林 とめ    六  同        同
吉田 とき  六十九  西三線北二九号  吉田貞次郎
  村長の母。家族七名は濁流に呑まれ、家宅も泥土に埋没した。妻と子供等は一時泥流に
  流されたが助かった。母のみ横死している
田中 ひさ  六十八  西三線北二九号  田中勝次郎
田中タツエ  二十六  西二線北三二号  田中 常七
田中 榮子    四  同        同
田村 しを  六十九           田村定次郎
田村 やす  七十三           同
向山 たけ  二十三  上富良野村    向山 庄作
松藤アサノ  二十   中富良野村    松藤理一郎
船引 まよ  三十五  西二線北三一号  船引藤兵衛
船引 かな  六十九  同        同
船引ミツエ   十   同        同
船引 春吉    七  同        同
船引ツカ子    二  同        同
相良 ハル   十八  同 中富良野村  同 奉公人
小松田エサ  三十五  西四線北三一号  小松田亀蔵
小松田マサエ   八  同        同
小松田研吉    五  同        同
小松田研造    三  同        同
  家族八人中四人が犠牲に。父亀蔵は半壊の梁の上、主人勇吉は外出中で助かり、長男長女
  は走り逃げそれぞれ生き延びることが出来た
酒井 ハル   十六  西二線北二八号  酒井太三郎
酒井アサイ    七  同        同
木下 タケ  二十二  西六線北三四号  木下和三郎
木下  實    五  同        同
篠原ちやの  二十四  西二線北三十号  篠原 久吉
篠原 澄子    二           同
田村 武夫    七  西三線北二九号  田村  勘
田村 鐵夫    五           同
  家、土地は、流失。子供は水死
 取材協力者の川喜田誠家は、明治三十年八月、三重県伊勢国一志郡矢野村四百十七番屋敷より川喜田辰蔵が同年八月二十二日移住し、西二線北百六十六番地と西三線北百六十三番地の二カ所を開墾。川喜田家の礎を築いた。辰蔵亡き後、幾久治が家督を相続。十五才の時泥流被害に遭遇。吉田貞次郎村長が訴えた「石にかじりついても復興する」を信条に鉄道建設、流木泥流の除去に尽力。二度に渡る開拓話が川喜田家に伝承されている。
  (五)日の出地区

 草分地区の富良野川下流域にあたるのが日の出地区になる。
 草分上流から住宅も壊れずそのまま流され、専誠寺(当時西二線二十七号)の所で潰れた家もあり、専誠寺は浸ったが太い柱を使用していたので壊れなかった(高田秀雄氏談)。
 平成二十六年「和田松ヱ門回顧録」が発刊され、当日の日記には、線路の東側にも泥流が押し寄せ、二十七号のコロコ二川にかかる橋、青年倶楽部会館も線路を越えて全壊、付近の田畑は泥海と化したとある。
 ここでは逃げ遅れた子供が犠牲となっている。
氏名     年齢   住所      戸主名
小田島ヒデ   五            小田島養助
高田美枝子   六   西二線北二七号  高田 信一
高田るり子   四   同        同
高田  勲   二   同        同
  (六)市街地区 救援

 市街地を泥流がおそったのが午後五時頃。消防組員らは雨の中出動し、警鐘を鳴らし急を告げた。
 役場(村長吉田貞次郎)は駅、上富良野尋常高等小学校、明憲寺等の高台に住民を避難させ、駅前大通り十字路に緊急事務所を開設。村は災害直後から人命救助隊による捜索、遺体の捜索活動が富良野川を中心に始まった。隣村の中富良野村からは即日応援隊が派遣された。
 福屋商店(現フクヤ薬局)が臨時掲示場として安否確認の掲示が行われ学校は臨時休校となった。女性(火防衛生婦人会)による炊き出しも始まった。
 山藤病院(現渋江病院)が救療所となり、発見された遺体は遺体収容助へ運ばれた。
 翌日からは近隣町村も応援に加わり、捜索規模が拡大。大雄寺も泥土の進入浸水被害を受けたが応援隊の宿泊施設に利用されている。
 八月二十六日に遺体の捜索は終了したが、蓄積された河川土砂除去の都度発見され、昭和二年七月八日に発見された遺体を最後に、行方不明者は二十一名を数えた。
 牛や馬の死体は、掘り出しが困難の為後回しにされ、衛生上問題となった。
 村葬は七月二十一日上富良野尋常高等小学校屋内運動場にて執行され、会衆は来賓遺族一般合わせて千五百名の参拝者で式場内外に密集したと伝えられている。
 泥流災害からの復興に大きな功績を残し、当日祭辞を述べた上富良野村長吉田貞次郎の努力は、三浦綾子著の小説、「泥流地帯」からもその奮闘ぶりが大いに伝わってくる。

  (七)島津地区

 現在の上富良野橋で、多くの流木や木材がこの地点で堰き止められる様に堆積された。
 橋横手の明憲寺は高台での集合避難所となり、収容人員は一時二千人を上まわり、庫裡本堂に避難民や村民であふれ、野宿する者もいた。
 その下流に当たる島津地区は、午後六時頃に西一線北二十三号、二十四号間の右岸堤防が破れ、泥流は流木と共に氾濫した。地区の被害の多くは、泥流土と流木による被害が主なものである。幸い死者はいない。
 破れた堤防付近は、田中家の本家に当たる田中清吉が大正七年に島津農場に小作として入地したばかりの所。我が家の祖先田中庄蔵は、本家と隣接し大正九年に分家、新築住宅は難を免れたが、水田が被害を受け富良野川の流れも変わり農地が分断した。
 我が家の祖母久(明治三十六年生まれ)は生前、十勝岳噴火に際し、米俵を二階に上げて避難したこと、意外にも知られていない火口湖のことを「湖があった」と時折話していたことを思い出す。
 島津農場での泥流被害に遭遇した小作人の多くは、島津農場内の小作人より相互扶助の原則に従い農地が貸与された。(詳細は郷土をさぐる誌第二十五号)
 島津農場を通過後の泥流は石川団体中富良野村を通過し、富良野北三号付近迄到達した。

掲載省略:図〜聞き取り調査による泥流目撃情報(主な体験者の行動と情報・年齢は噴火当時) 報告書(1926 十勝岳噴火)−内閣府より ※平成4年~9年の間の聞き取りによる
掲載省略:図〜文献調査による上富良野〜富良野での被災状況 出典:北海道旭川土木現業所報告書
■ 大正十五年十勝岳爆発以後終息までの記録
 郷土館には、噴火から昭和四年までの記録が数多く保管されている。その一つが、平成九年に札幌市在住の中村英重氏(略歴後述)から寄贈の北海タイムス新聞の切り抜きである。本文を書こうとした大きなきっかけとなった。
 又、「和田松ヱ門回顧録」にも十勝岳噴火前後終息までの様子が次の様に綴られている。
==五月十三日から山鳴りが聞こえる様になり三十a程の石も噴き上がっている。
 再噴火は九月八日、九月十日に三回ほど小爆発、九月十一日大噴火、九月十一日小爆発、九月二十九日に初雪を観測。麓の初雪が十月十四日。
 十月二十五日は九月八日より大きい噴火が約十分間続いた。==(和田回顧録)
 人体に感ずる地震を伴う爆発が繰り返し発生。
 昭和元年十二月二十五日、翌二年二月十九日の二回にわたる大爆発を誘発させながら黒煙を噴出させ十数回爆発を繰り返し、昭和三年十二月四日の小噴火を境に終息している。(北海タイムス)
 「和田松ヱ門回顧録」からは当時の村の日常の様子が手に取るように判る。噴火泥流災害の混乱と困難から立ち直る経過にも触れることが出来る貴重な記述が沢山掲載されている。
■ 十勝岳
 「十勝は生きている火山という強い印象を与えられる。その地底で絶えず何かが気味悪くうごめいている様である。火口壁の残骸のボロボロの岩尾根や、一木一草もない黒ずんだ砂礫のザクザクした斜面や、噴火の猛威のあとがまだなまなましく残っている。」と、深田久弥著「日本百名山」の一つに十勝岳が紹介されている。

掲載省略:写真〜十勝岳(釧路第一号)北海道開発庁〈1962年9月撮影 朝日新聞社提供より〉

 今後、想定外の山体崩壊を伴う噴火も起こりうる可能性もある。調査したら掲載出来ない位、十勝岳の研究も進んでおり、学術資料も多い。
 気象庁は二十四時間体制で監視カメラや地震計を設置し、住民の安全を守ろうとしている。国も災害に備え、透過型のダムを始め多くの砂防ダム等を建設。泥流監視装置(センサー)も設置し、富良野川の河床も下げられた。
 平成十二年、堤長九一七b、鋼製堰堤では世界一のダムとなる富良野川二号透過ダムが完成。その基礎工事に川喜田君と共に冬期間携わったこともあり、より一層十勝岳防災に強い想いも沸いている。

掲載省略:新聞〜北海道新聞記事スクラップ(筆者田中)より

 携帯電話も多くの人々が持参し、災害発生時には緊急速報メールが一斉に送信される様にもなり、連絡手段は当時と比べ抜群に向上し、地域では安全に避難出来る時間的な余裕もあると考えられる。
 「災害は忘れた頃にやってくる」の諺の例えの様に普段から防災意識を感じながら、時には親しみ、恐れながら十勝岳とともに歩む事が上富良野町の宿命と言える。
 十勝岳噴火泥流災害から九十年を迎えた今、語り部としての生存者もほとんど亡くなり風化されようとしている。
 調査からは新しい史実は何一つ出てこないが、前文の佐々木義男の父親、忠治郎氏の様に防災意識の高いことが家族を守った例もある。
 この十勝岳噴火を再考しながら、町民の知恵で健康で自然豊かな町づくりを目指し、今後一人も犠牲者を出さないことが我々町民一人一人に課せられた大きな課題である。
 今回の取材から、被害の伝承について聞き取りしたらまだまだ掘り起こす話題が個別に埋もれていると感じ、本文に紹介し切れない程の聞き取りが、内閣府の報告書(一九二六 十勝岳噴火)にも多く掲載されているので、是非一度目を通して頂きたいと思います。
 私は今、多くの犠牲者の人生や生活を奪い、様々な人間模様を描いた三浦綾子の小説「泥流地帯」を映像化して、復興した上富良野のことを全国に配信していただける様な映像会社が現れ、その手助けが出来たら良いと考えている処である。
 改めて被害に遭われた方に謹んでご冥福をお祈り致します。
資料編
本編登場の人物と調査資料の文献等について
 郷土を探る会の会員は、様々な分野に於いて広い知識と深い見識を持っている方々の会で。本文校正に際し「十勝岳爆発」の言い回しは不向きとの指摘があった。
 爆発とは、圧力が急激に発生したり圧力が急激に解放される結果、熱・光・音などが発生する現象で、指摘の様に十勝岳噴火の言い回しが正解である。
 私が体験した昭和三十七年の十勝岳噴火は、中学生の時だったことから、十勝岳の山が破壊されるのではないかと思われる程の心理的な衝撃を受けた。
 それゆえに大正十五年に起きた噴火は、泥流災害や、多くの犠牲者があったが為に、一般的に爆発と表現され、今日まで継承されて来たのであろう。
 過去の郷土をさぐる誌の執筆文や引用文にも爆発の言い回しが相当数あり、当時の作者の意図もあり、今となっては訂正は不可能なので、原文のまま掲載することとした。今後は、そこの所を理解された上で本文や過去の文献等を読み進めて欲しい。
 尚、最近の防災関係の資料は、噴火、あるいは水蒸気爆発と明記する表現の文献になっている。
 大正十五年に起きた災害は、「大正十五年 十勝岳噴火泥流災害」と言う表記がふさわしいものなら、今回から後世に伝えていく為の表題としたい。
中村左衛門太郎(なかむら さえもんたろう)経歴
大正・昭和期の地震学者
生年:明治二十四年一月 没年:昭和四十九年十一月
出生地:東京 別名号=傾円
大正  三年 東京帝大理科大学実験物理学科卒
大正  九年 理学博士 中央気象台に入り地震、気象、地磁気等研究。
大正 十三年 東北帝大理学部教授、物理学科で地球物理学講座担当。
昭和二十六年 熊本大学理学部に転じ理学。
昭和三十一年 定年退官、九州物理探査株式会社社長。
昭和三十六年 熊本商科大学教授を務めた。東北大学名誉教授。
著書に「東亜気象学」「地球物理学新講」「子供の気象学」など。
コトバンク(朝日新聞社の登録商標)引用
中村 英重(なかむら ひでお)経歴
昭和二十六年 北海道に生まれる。
昭和五十年  明治大学大学院文学研究科博士課程単位取得後退学。
現在、札幌市教育委員会市史編集室副編集長、北海学園大学大学院・札幌大学非常勤講師、博士(史学)
昭和五十六年より編纂作業を開始した、札幌市教育委員会文化資料室「新札幌市史」の副編集長。
平成元年三月「新札幌市史」第一巻通史刊行から平成二十年三月「新札幌市史」第八巻年表・索引編の完結迄通算十巻の編纂に尽力。
平成十年 上富良野百年史編纂 開拓・移住行財政・宗教を担当し、上富良野町との結び付きも深い。
「北海道移住の軌跡「古代氏族と宗教祭祀」などの著書もある。
現在 札幌市白石区在住。
深田 久弥(ふかだ きゅうや)経歴
石川県大聖寺町(現在の加賀市)に明治三六年に生まれる。
小説家(随筆家)及び登山家。
昭和 十年 日本山岳会入会。
昭和二十四年 錦城山岳会を結成理事就任。
昭和三十四年から昭和三十八年にかけ山岳雑誌「山と高原」(朋文堂)で毎月二山計五十回連載。
昭和三十八年 新潮社から『日本百名山』を出版。
昭和三十九年『日本百名山』で、第十六回読売文学賞。
昭和四十三年 日本山岳会副会長に就任。
昭和四十四年 山渓賞(山と渓谷社)を受賞。
昭和四十六年 登山中の茅ヶ岳にて脳卒中で急逝。

 《調査資料》
十勝岳爆発災害志       十勝岳爆発罹災救済会
十勝岳大爆発記録写真集      上富良野町郷土館
十勝岳硫黄山爆発踏査報告        旭川測候所
上富良野町史              上富良野町
上富良野町百年史            上富良野町
島津百年の歩み             島津住民会
和田松ヱ門回顧録            和田 昭彦
十勝岳爆発罹災者人名調査書       郷土館収蔵
十勝岳爆発義捐金個人別分配一覧表    郷土館収蔵
十勝岳爆発日記 渡辺 円蔵著      郷土館収蔵
避難体験記録『過跡』          佐々木義男
泥流地帯(小説)            三浦 綾子
郷土をさぐる誌      上富良野町郷土をさぐる会
  第一号   十勝岳爆発災害の思い出        田村 嘉市
        十勝岳爆発の思い出          佐川 亀蔵
        硫黄山で遭難した人の手記       熊谷 友吉
  第二号   日新小学校教師の手記         菊池 政美
  第三号   吉田貞次郎先生を偲ぶ         和田松ヱ門
        開拓と十勝岳爆発           立松石次郎
  第八号   続・石碑が語る上富の歴史(七)
             十勝岳大爆発災害関係の碑  中村 有秀
        十勝岳爆発災害の心得について     高橋 寅吉
  第十二号  十勝岳爆発の思い出          佐川 清男
  第十五号  日新の開拓          佐川亀蔵・佐藤正男
        供養・追悼碑             大森 金男
  第十七号  平山硫黄鉱業主平山徳治氏を語る    樋口 義久
  第十八号  十勝岳爆発災害と復旧工事の思い出   長井 禧武
  第二十三号 立松家の開拓入植と敗戦復員まで    立松 慎一
  第二十五号 海江田信哉の功績           田中 正人
  第二十六号 美瑛町に建立されている十勝岳爆発碑  中村 有秀
  第三十号  創成小学校回顧禄 しだれ柳は見ていた 鹿俣 政三
        『十勝岳爆發災害志』を読み解く    三原 康敬
  第三十二号 『ヌブリ(第四号)十勝岳爆發號』    三原 康敬
当麻町史                  当麻町
当麻屯田百年史 屯田兵名簿       当麻屯田会
 www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/.../rep/1926.../6_chap2.pdf
防災基礎講座:基礎知識編   防災科学技術研究所
   (図18.5 1926年十勝岳泥流の流下域)
十勝岳火山噴火緊急減災対策砂防計画に関する検討報告書
 平成二十二年三月十勝岳火山噴火緊急減災対策砂防計画検討委員会
 (上富良野町総務課 服部 久和 課長が関わる)
報告書(1926 十勝岳噴火)
 内閣府中央防災会議(災害教訓の継承に関する専門調査会 平成十九年三月)
十勝岳(釧路第一号)           北海道開発庁
   昭和三十八年三月(1962年9月撮影 朝日新聞社)
大阪朝日新聞 1926.5.26(大正15)       新聞記事文庫
災害及び災害予防(7-024) データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館


機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀