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東中開拓の父
西谷元右衛門を偲びて

上富良野町東六線北十九号 岩崎 治男
昭和十六年四月七日生(七十四歳)

■ はじめに
  西谷元右衛門は、東中八幡神社境内の『西谷翁頌功碑』が示す様に、立派な人物であった。
 富良野岳すそ野より湧きいずる大水源がある。西谷翁は、南に向いて流れていたこの水源を、北向きの東中・富原方面に水路を掘って切り替えを、人力と馬力で五ヶ年程の間に完成させ、緑豊かな水田地帯を造田したのである。
 幾数十年を経過した現在、東中地区道営事業促進期成会を設立し、総合的な農業基盤整備、暗渠排水の整備、給水のパイプライン化などを、未来の農業の為に推進している所である。「我田引水」を乗り越え、皆の稲作水田が共に潤える日が待ち焦がれるところである。
 西谷元右衛門については、本誌郷土をさぐる第二号において、親族である西谷勝夫氏が「西谷元右ヱ門伝」と題する記事を掲載されているが、少し違う視点を加えて、東中地区道営事業促進期成会である会長の私の役割と考え、東中開拓の父としての、西谷翁のかつての偉業を振り返り、ここに記したいと思う。

掲載省略:写真〜『西谷翁頌功碑』
■ 東中富良野土功組合の創立
 大正十一年二月二日付けの認可を受けて、東中富良野土功組合が設立されたが、歴代の組合長は

  初代 吉田貞次郎(上富良野村長)
  二代 金子 浩(上富良野村長)
  三代 本間庄吉(上富良野村職務管掌者)
  四代 田中勝次郎(上富良野町長)
  五代 西谷元右衛門(民選初代)

と四代目までは町村長が務め、ようやく五代目になって実務実力者であった西谷元右衛門が就くことになった。
 元右衛門は設立時から理事として実務を推進しており、この実情が、富良野地区土地改良区史(昭和五十年十二月二十日発行)に記述されているので、この一部を示しておく。
 ◆西谷元右衛門の努力
 水利拡張に一役買って推進したのは、東中富良野土功組合を立ち上げた西谷元右衛門である。
 東中付近の農耕地は、現在の全面積で二八〇〇町歩(一町歩は約九九一七u)だが、その頃は開発されたものは約五〇〇町歩であった。
 第一次世界大戦をきっかけとした豆景気が、終戦とともに去った後、畑作による収入は全く微々たるものとなったので、事情の許す限り造田しなければ生活できない時代背景にあった。
 この時、元右衛門は新たに八〇〇町歩の造田が可能と見込んでいた。

 ◆水源を布部川に求めて
 水田経営をするための絶対条件として、水利の便が求められた。しかし、これは偉大な着目であった。兜谷徳平(富良野用水土功組合)が、丸野伝八の測量技術に依頼して、空知川本流の水を山手線によって導き、富良野平原を造田したのと同様の構想である。
 富良野市字ベベルイ原野南七線地先に水源を求め、自然流下によって、毎秒二七五立方尺を引用する許可を受け、上富良野村及び中富良野村を貫流する灌漑溝を掘ることに努めたのである。
 この工事は東中富良野の生命線であり、ここから流下する水は東中の水稲の慈母であった。自然の川筋を流れれば、富良野市布部で富良野川に注ぐ水を、東中に流路を変更するものであった。この壮大な工事は、東中に住む人々が忘れてはならないものである。
■ 東中地区道営事業の実施
 東中富良野土功組合は、法律の改正に対応して昭和二十七年二月に「東中富良野土地改良区」に改組された。さらに、昭和四十年三月に「東中土地改良区」に改称されたが、「東中富良野土地改良区」への改組早々に、総合かんぱい事業の計画を立て、遂に昭和五十五年に「東中土地改良区」としてこの完成を見て、盛大な総合土地改良事業竣功祝賀会が開催さた。並行して記念誌「清流の郷」の発刊、東中土地改良区前庭に総合土地改良事業竣功記念碑『清流の郷』の建立も行われた。
 この碑文には、昭和五十五年時点に至るまでの、元右衛門に始まる土地改良事業の経過がまとめられているので、長文にはなるが全文を掲載する。

掲載省略:写真〜総合土地改良事業竣功記念碑『清流の郷』
    碑 文

 秀峰十勝岳のふもと、富良野平野の東部に位置する東中土地改良区の地域は、水田適地とし更に良質米の産地として高く評価されるようになったのは、大正十一年二月東中富良野土功組合が認可され、組合長に西谷元右衛門氏が就任(編集者註:実際は初代から第四代組合長は村長が就いたが、実務のほぼ全てを元右衛門氏が采配した)し布部用の水源に着眼され、ベベルイ用の水と合せて自然流下で、一二四四ヘクタールをかんがいし得るまでに努力された結果であり、その功績は偉大であります。
 その後、工藤倭平氏が継承し昭和二十七年二月新たな土地改良法により、東中土地改良区に組織を変更して、初代理事長に中西覚蔵氏が就任し、近代的土地改良区の樹立に精魂を傾けて、国営かん排事業及び国営附帯道営かん排事業の計画をたてられ、その後を受けて床鍋正則氏が理事長となり、計画の遂行につとめ道営温水溜池事業、国営附帯道営かん排事業山手支線並びに第一用水工事、島津地区かん排事業、道営富原地区圃場整備事業、防衛施設周辺整備障害防止事業ではヌノッぺ幹線用水路、広巾用水路、倍本用水路工事、団体営七地区のかん排事業を完成して不動の基盤が確立されました。
 よってここに先人の遺徳を偲び、これらのエ事に携わった関係各位の労苦を讃え、これを永遠に伝えるために「清流の郷」の題字を冠し、総合竣工を記念してこの碑を建立するものであります。

    昭和五十五年六月 (除幕式:六月十日)

        建立 東中土地改良区
        建立 昭和五十五年四月一日
        揮毫 北海道知事 堂垣内 尚弘
■ 東中地区道営事業促進期成会
 直近の土地改良事業は、道営事業を基幹として、平成二十五年八月二十九日に東中地区東六線北十九号から、起工式と共に着工され、現在計画的に施工中である。
 この起工式のしおりに、『東中地区の土地改良事業の変遷』が簡潔に示されており、今まで進められてきた多様な事業内容がわかりやすいので、次に掲載する。

掲載省略:写真〜東中地区道営事業起工式記念写真〈平成25年8月29日〉
  東中地区の土地改良事業の変遷(「起工式しおり」から)
 東中地域が今日の隆盛を見るようになったのは、明治末期に入植された先人達が、困苦欠乏に耐え不退転の開拓魂をもって開墾の荒仕事を成し遂げたことにあります。
 大正十一年に東中富良野土功組合が設立され、布部川、ベベルイ川の両河川を水源としたかんがい溝が築造され、現在も姿・形を変えながらも幹線用水路としてその機能をもつこの用水は、地域農業の生命線であり、基幹作物である水稲の慈母となっております。

●布部川関係(ヌノッペ幹線用水路)
 初期の土地改良事業は、開田による農家経済の安定と地域農業繁栄のため、かんがい用水確保と造田計画の推進が図られました。
 大正十一年に造成されたヌノッペ幹線用水路は、自衛隊演習場の開設により一部移設されながらも、その後昭和四十六年から道営障害防止対策事業(一期)として植林地地点から下流が施工されました。
 また、頭首工並びに上流部の用水を昭和五十六年道営かんがい排水事業により整備され昭和五十九年には布部川関係のかんがい施設が全面整備されました。

●ベベルイ川関係
 昭和四十年から始まった道営並びに団体営かんがい排水事業により全区域に渡り用水路の整備がされました。同時期に昭和四十二年度までの継続事業として道営温水溜池事業(五区温溜)が実施されております。
 また、各頭首工の整備はベベルイ川改修工事により自動転倒ゲートが設置されております。
 その後、障害防止対策事業(二期)によりベベルイ調整池が完成され地域の用水不足が解消されたことは記憶に新しいところにあります。

●道営客土事業
 東中地域で道営客土に関係する事業は二つあり、昭和二十九年より四十一年までの軌道で大運搬し、馬ソリにてほ場まで小運搬を行う上富良野町外一ケ村地区道営軌道客土事業により約一六九.七ヘクタールを実施、もう一つは昭和四十一年より四十八年までの施工はトラック運搬を主体とした中富良野地区道営客土事業により約二三三.五ヘクタールの客土が実施され、水田基盤の構築が図られております。

●道営農地開発事業(開発パイロット)
 石礫と湿地の地帯として開拓以来七十年余り放置されていた倍本地区が道営農地開発事業として発足することになったのは昭和四十六年で、施行面積八一.五ヘクタールを農地開発公社旭川支所により事業が進められ八ヶ年の長きにわたり昭和五十三年度完工され、現在の美田へと変遷されております。

●富原地区道営ほ場整備事業
 北海道総合開発計画により増産一本槍であった食糧増産対策事業から農業基盤整備事業へと変化のあった昭和三十五年頃より、機械化対応と生産性向上の目的で、総合事業として上富良野町で初めて取り組まれた事業となりました。
 昭和三十八年に期成会が発足し、毎夜における話し合いの未、昭和四十一年着手され、面積三五九ヘクタールの事業区域で八八七七枚の水田を一七一九枚へ区画整理し、昭和四十七年度完工され時代の変化と共に農業経営の繁栄へと導いてくれた事業でありました。
 このような事業が昭和五十五年まで進められてきたが、今回実施中の事業には、主に離農を要因とした農地所有者の異動や、賃貸耕作の拡大によって、一経営体が耕作する農地がモザイク状に点在するという状態を招いており、この解消のための換地事業(農地の所有権を交換等で移動して集積すること)が大きな要素として組み込まれているのが、特徴的である。
 TPP関連など多様な条件による制度変更や、受益者実態も流動的であるため、全体事業は確定的ではないが、現時点での事業概要を示しておく。
地区名 東中中央地区 東中南地区
事業工期 平成24〜32年 平成24〜32年
受益面積 220ha 125ha
主要工事 用排水69条(27.9km) 用排水54条(22.0km)
区画整理194ha 区画整理124ha
東中西地区 東中第1地区 東中東部地区
平成25〜33年 平成26〜34年 平成27〜35年
111ha 261ha 287ha
用排水61条(18.1km) 用排水52条(31.6km) 用排水29条(24.5km)
区画整理95ha 区画整理227ha 区画整理88ha
 また、この『道営土地改良事業東中地区起工式しおり』には、『東中土地改良区の歩み』が記載されており、前述と重複する部分も多くあるが、年月の推移と共に、この表現が微妙に異なる部分もあるので、あえて全文を示す。
  東中土地改良区の歩み
 昭和二十四年六月六日農業経営の合理化、農業生産力の発展、農地の改良・開発・保全及び集団化、食糧その他農産物の生産の維持増進の目的を以って、新たに土地改良法が制定され、この法に基づいて土功組合組織を新たに土地改良区と変更することになり、当時の土功組合議員会は法の精神をよく理解し、昭和二十七年二月十一日、土功組合議員会により、大正十一年二月二日に設立された東中富良野土功組合の三十一年の歴史に終止符を打ち、新たな組織の東中富良野土地改良区の設立となった。
 ここに至って顧みるとき、土功組合の設立は、先輩各位のなみなみならぬ御努力の賜であり、特に布部川からの取水に情熱を傾けられた西谷元右衛門氏の功績は誠に偉大であります。
 土地改良区に組織変更後の初代理事長に中西覚蔵氏が就任され、昭和三十八年十一月二十三日に創立十周年記念式典が催され、その挨拶の中で、「地域をうるおす施設としては充分でなく金山ダムによる補水と上流地帯に於ける冷水の温度上昇施設並びに溝路の近代的改修等、問題は山積しております」と言われた事を受継ぎ、昭和三十九年八月、床鍋正則氏が理事長に就任、懸案事業の施行に組合員の理解と協力のもと精力的に取り組み、事業計画に従い、ここにその完成を見るに至ったのである。
(昭和四十年三月二十二日東中富良野土地改良区より現在の東中土地改良区と名称を変更した。
 この記事は、東中地区道営事業促進期成会の会長として書かせていただきましたが、本年(平成二十八年)二月一日付けの役員改選があり、左記のようになっておりますのでご承知ください。
 東中地区道営事業促進期成会役員
       平成二十八年二月一日改選
  会 長  安井 昇一(前 岩ア 治男)
  副会長  高松 成章
  会 計  岩田 浩志
  書 記  工藤 次郎(前 安井 昇一)
  監 事  谷本 博昭
   〃   出倉 哲雄
  顧 問  向山 富夫
   〃   川上 幸夫
   〃   上田 修一

■ 富良野地区の土地改良区の変遷
 富良野地方には、明治三十年以降、次々と開拓入植者などが入地してきたが、当初は牧場や畑地、のちに新規の造田や、畑地の水田への転換が進み、水田経営が定着すると一挙に優良な水利の確保が必要になってきた。
 水利権の獲得は初期には個人でも行われたが、需要の拡大と共に組合を作って集団で取得するようになっていった。
 しかし、限られた水利を公平に分配する方法へと変わらざるを得なくなり、同時に分配するための用水路の設置も担う土功組合が、河川水系を基本として、順次認可設置された。その後、昭和二十四年六月六日の土地改良法の制定に対応して、それぞれ土地改良区へと改組・改称された。
 この経過が富良野地区土地改良区史(昭和五十年十二月二十日発行)に掲載されているので示しておく。

掲載省略:写真〜富良野土地改良区区域図
           富良野地区の土功組合・土地改良区の沿革
     1886(明治19)年   富良野原野殖民地選定
     1913(大正2)年   富良野盆地開発運動展開
     1917(大正6)年6月 富良野土功組合(設立)
☆富良野土地改良区
 1921(大正10)年6月 富良野用水土功組合(設立)
 1952(昭和27)年4月 富良野平原土地改良区(改組)
 2000(平成12)年4月 富良野土地改良区(名称変更)
           〜富良野沿線5土地改良区(富良野平原・草分・東中・扇山・東郷)の合併
 2004(平成16)年6月 本幸地区編入
☆草分土地改良区
 1925(大正14)年4月 草分土功組合(設立)
 1952(昭和27)年7月 草分土地改良区(改組)
 2000(平成12)年3月 合併により解散
☆東中土地改良区
 1922(大正11)年2月 東中土功組合(設立)
 1952(昭和27)年7月 東中富良野土地改良区(改組)
 1965(昭和40)年3月 東中土地改良区(名称変更)
 2000(平成12)年3月 合併により解散
☆扇山土地改良区
 1923(大正12)年2月 下富良野土功組合(設立)
 1952(昭和27)年3月 扇山土地改良区(改組)
 2000(平成12)年3月 合併により解散
☆東郷土地改良区
 1954(昭和29)年2月 麓郷土地改良区(設立)
 1954(昭和29)年2月 東山村土地改良区(設立)
 1954(昭和29)年6月 東演土地改良区(名称変更)
 1969(昭和44)年12月 東郷土地改良区(改組及び名称変更)
 2000(平成12)年3月 合併により解散
■ 記憶をさぐる
 昔のことで、詳細な記憶ではないが、今から五十年ほど前の昭和三十三年頃、東中土地改良区の出会い作業に出役した際に、畦道に座って大先輩の方々から聞いた話を記しておく。
 この広大な用水の灌漑事業は、富良野岳を水源とするペペルイ(中富良野町・富良野市東部富良野岳山麓・丘陵地区のアイヌ名)水系の、豊富な水量をもつ清流に目を付けた西谷元右衛門が、一大決心をして関係機関に熱心な折衝をし、ようやく実現を果たしたものであったという。布部(ペペルイ)川に頭首工を設置し、自然流下の勾配を確保しつつ山坂を迂回しながら、全長約二十qの用水路を五ヶ年で完成させた。
 測量に始まり、現地調査などは土功組合が担って、掘削の作業は、戦国時代の城のお堀仕事のようで、昼夜、厳寒の冬期も休まず、人力と馬の力で、ズリと呼ぶ箱蓑のような道具で進められた。
 このように、素掘りの用水路として完成されたが、この後、東中土地改良区が所管する第二次工事によって、現在のコンクリート構造に整備された。
 東中倍本の湧水、今の町水道の水源地のあたりから山麓を南方に向けてあった、先住民族であるアイヌが使ったけもの道を足場として、作業用の仮道として工事現場まで通っていた。
 入植以前の昔、アイヌの人々は、東中周辺を経由して、熊や鹿、ウサギ、鳥類ではワシやタカなどを獲物として猟をしながら、水のきれいな布部川(ペペルイ)頭首工あたりで一休みして、南富良野町の三の山峠を越えて、新得方面との間を往来していたという。
 新得・日高のアイヌと、旭川・神居古潭アイヌが交流していたのだが、その関わりについては歴史書物にはあまり詳しくないようである。
 かつてのアイヌが通った道筋を流れる水路から、東中の水田地帯に清水が注ぎ、揺れる稲穂が米所を誇っている。
■ 西谷元右衛門の生涯
西谷元右衛門

  西谷元右衛門は明治八年八月十五日、父忠蔵、母ツヤの八人弟妹の長子として、三重県多気郡西外城田(にしときだ)村字野中にて生を受けた。
 齢十四歳、当時の小学校高等部を卒業、同年直ちに同郡飯南村仁柿の雑貨商竹岡商店へ実業見習に入店、明治二十七年勤続六年、二十歳にして独立、雑穀茶商経営、時恰も日新戦役の経済界の不振に遭遇して、志ならず、破綻を迎えるに至った。
 当時、郷土の縁故者である板垣贇夫氏が三重県開拓団長として、明治二十六年北海道幌向村(現在の南幌町)に入植した。
 越えて二十八年第二次移民募集に際し、父の倉蔵と同地に移住した。
 明治三十年、故郷に一時帰り、妻ジュウを迎えて母弟妹一族を伴って入植するに及び、開拓事業成功の緒に着き、併せて雑穀仲買商の経営を成したのである。
 明治三十五年推されて幌向村総代を連続四ヶ年務めた。その間日露戦争となり穀物相場が大暴落を来して大損を受け、加えて四十年四月、父忠蔵の長逝、更に妻ジュウが長患い後、翌四十一年一月病没と重なる悲境に沈み、大きな借財と失意を抱き裸一貫、同年二月末、空知郡富良野村字中富良野に転住、未開地三百三十余町歩、畜産第二牧場の開拓の第三人生に総ての闘魂を傾けた。
 この開拓が、明治四十三年十月開墾附与検査に合格し、併せて森林伐採造材業を営み、これが軌道に乗って、基礎安定を得たのであった。
 明治四十五年四月、三十七歳にて上富良野村村会議員に推され、以来多くの公職を担うことになった。
 大正四年、二年前の北海道大冷害作の体験を糧に、水力の利用による馬鈴薯澱粉製造、精白米麦工場、原木木材の製材工場、これ等を基幹として土木建設業等も次々と起業した。
 当時四千石余の木材資源活用して造材を進め、村内建築界に貢献した。また村内の畑作を水田に転換する先導となって、五百余町歩の造田を果たした。
 さらに、十勝岳山麓ヌノッペ川の引水に依る千三百余町歩の造田計画のために、東中富良野土功組合を設立し、専務、副組合長として、陣頭指揮を執り、この大事業の悲願完成を果たした。
 大正十一年八月、東中三等郵便局が設置され、初代郵便局長を拝命、山間地村民の郵便事業の恩恵に大いなる寄与を成した。
 大正五年十二月、東中信用購買販売利用組合設立に努力し、自ら組合長に就任して活躍したが、昭和十四年示達に依る組合合併に際し、組合員はその徳を慕い同年六月、氏神八幡神社境内に、今裕(こんゆたか)北海道帝國大学総長台字揮毫、子息元雄による経歴文が刻字された頌徳碑を建立し、永くその功績を称えた。
 昭和十三年、支那事変が起こったのを機に、長男の元雄は志を抱いて翌十四年東京市(昭和十八年に東京府と合併して現東京都になる)に転住した。この秋、母ツヤ八十三歳を以て永眠する。この時、製材業を次男五一氏に継承し、郵便局長専任となった。
 昭和十七年夏、上川支庁植民課辻前課長の疑獄事件発生に、たまたま派生的贈賄罪に問われたが、村民福祉に起因した点を考慮され、村民一同の上申書もあって不起訴処分となった。
 しかし、昭和十八年その解決を機会に、永年尽くした公職官吏職を返上し、東京都世田谷区上北沢町の長男元雄のもとに転住した。
 この事件以来妻イツ子は健康を害し、翌十九年二月長逝したことと、東京の環境に馴染めなかった元右衛門は、再び北海道に渡り、次男五一の製材澱粉製造に助力した。
 大東亜戦争は日増しに苛烈を加え、長男元雄の勤務会社も戦火に見舞われ、再起不能の状態となったため、終戦一ヶ月前に富良野町(現富良野市)麓郷木材工業株式会社の全株の委譲を受け、同地に転住して同社の取締役社長に就任した。
 昭和二十三年春、初代の東中農協組合長であった次男の五一は、ふとした病が昂じ、終戦直後の医師困難の時期に病名を誤り、北大病院に入院して加療したが、昭和二十三年十月三十一日に医薬看護の効なく享年四十二歳にて、二男四女の遺児を残して他界した。
 このため元右衛門は、嫁キミが家業に専念するのを助力しながら孫の成長、育成に尽くしていたが、老齢且つは心の痛手が加わり、健康を害して元雄宅に静養中、昭和二十六年八月十五日、奇しくも出生と同じ日に、脳卒中にて忽然として不帰となった。
 「雄光院禅翁道悟大居士」と号し、齢七十七歳、盛大な準村葬、組合葬を以て、今は上富良野町大雄寺納骨堂境内に、元雄が建立した墓碑の地下に分骨し、永遠に眠っているのである。

掲載省略:写真〜右が初代東中農協組合長の五一、左が五一の後を継いで2代目組合長となった元右衛門
掲載省略:写真〜当時の旧東中農業協同組合事務所
◎参考文献
○北海開業事績(大正十年九月二十五日発行)
   地方振興事績調査会
○富良野地区土地改良区史(昭和五十年十二月二十日発行)
   富良野地区土地改良区連合
○総合土地改良事業竣功記念誌「清流の郷」(昭和五十五年六月十日発行)
   東中土地改良区
○道営土地改良事業東中地区起工式しおり(平成二十五年八月二十九日)
   東中地区道営土地改良事業推進協議会
○WEBサイト「水土里ネットふらの」 富良野土地改良区

機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀