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町の中の河道

三 原 康 敬
昭和二十四年九月二十八日生(六十六歳)

■ 豪雨災害の始まり
 昭和五十六(一九八一)年八月五日、台風第十五号による豪雨災害が発生した。前日の四日午前〇時すぎから五日深夜にかけて、二日間(四八時間)の降雨量が合計二六六ミリを記録する集中豪雨で、市街地の大部分が冠水した。五日、午後になって市街地に流れ込む河川の上流域で降雨が激しくなり、午後四時二十五分頃、上富良野高校グラウンドの近くでヌッカクシフラヌイ川の川岸が決壊。濁流は市街地の全域に広がり、住民に避難を伝える水防信号の断続するサイレン音が鳴り響いた。
 前日から町内各所で降雨による小規模な水害が発生していた。用水の道路貫通部分で、土管に漬物樽が詰まった、流木が引っ掛かったなど、小規模の氾濫が多かった。当時、消防職員として勤務しており、現場に出動、水防業務に当っていた。
 五日は、早朝五時頃より、江幌小学校そばの山から教員住宅に流れ込む水を土のう積みで止める作業に従事、十時頃終了した。次の現場、東中のべべルイ川流域の水防業務に向かうよう指示され、木流し・土のう積み工法に従事。十六時頃、作業を終えて職場に戻る途中、降雨が激しくなってきた。高校そばを流れるヌッカクシフラヌイ川が著しく増水して、危険な状態となったため、現場に向かうよう命じられて、第三分団の消防団員十名と一緒に向かった。
 バスから降りて、もう少しで現場に着くというテニスコートそばを歩いていたとき、高校グランドそばの川岸の裏の法面が目の前で崩れて、出水が始まった。目視で、水は深さ約十センチメートル、グランドの地面を這うように広がって進み、高校の体育館の壁にぶつかって、飛沫が軒先まで飛び散った。出水した場所から体育館の壁まで、あっという間、グランドの表面を人間の全力疾走よりも早く、十秒くらいで流れた。一分間くらいで決壊箇所は大きく崩れ、濁流が奔流となって勢いを増し、市街地の中央に向けて氾濫が始まった。

掲載省略:写真〜上富良野高等学校隣接堤防の決壊地点
■ 鳴り止まぬサイレン
 無線機がないので、消防に状況を連絡する必要から、電話を借りるため近くの住宅のベランダの窓を叩いた。防火服を着てヘルメットをかぶった見慣れぬ人が家の中を覗き込んだため、何事かと中の人が驚いていた。事情を手短に話して、一一九番通報を頼んだが、電話がつながらないと言われた。続けて通報を頼んでいたとき、避難を呼びかけるサイレンが鳴り始めた。断続的に続けて鳴らす水防信号のサイレン音で、住民に知らせる最も緊急度の高い信号が鳴らされた。
 家人に通報をやめるよう伝えたとき、増援隊が到着して合流。無線で避難誘導の指令があり、その後は、避難誘導に移行した。
■ 炊飯器のご飯
 上富良野高校の玄関に行くと、校舎の中を通りぬけてきた水は東二線道路に向かって、玄関から勢いよく流れ出ていた。玄関にいた野球部の顧問の教員に、この地域は全員避難しなければならないが、無人になると不用心なことから、二階は安全なので、盗難防止の警戒のため留まるよう話し合った。消防無線で、先生が盗難防止の警戒に残っていることを報告したが、状況に変化があった場合は、先生から対策本部に電話連絡するよう伝えた。教員の車が玄関前にあったので、増水の影響を受けないよう校舎の壁際に移動するため誘導した。
 高校から下流に向かって、一軒一軒無人を確かめて回った。しばらくして、一軒の家におばあさんが残っているのを見つけた。避難を呼びかけたが、家の中から出てこない。断わって玄関に入ると、ご飯を炊いているので、炊き上がるまで逃げないと一点張り。水があふれているので逃げましょうと伝えたが、まだ大丈夫、避難しても食べ物がなければ困るのでご飯を炊いていると頑張る。昔の人は少しのことにも動じないし、肝っ玉が据わっていると感じ入った。
 避難所に向かう道路が濁流の影響で渡れそうにもなく、渡る方法を考える。ご飯が炊きあがったと声がかかり、おにぎりを握ると言い出したので、説得して塩と海苔と炊飯器を持って避難することに決まった。持っていたトビを杖代わりにして、かばいながら濁流を渡ったが、ひざぐらいの水嵩で足をすくわれそうになりながら、道幅六メートルの距離を何とか渡り切った。
 角波商店の所で東児童館に向かうため、北五条通りを渡るのも一難儀した。自衛隊官舎の階段の踊り場から眺めている人の視線を感じながら、時間をかけて慎重に渡り、おばあさんを避難所の東児童館に連れて行った。避難を知らせるサイレンは鳴り止み、一帯の危険な家々からの避難がほぼ完了していた。次に氾濫をどのように止めるか対策を講じるため、出動している職・団員の全員に無線の指令で、休憩を兼ねて対策本部の置かれた消防に一旦戻るよう指示が出た。

掲載省略:写真〜奥の上富良野高校側から手前へ流れる濁流
■ 水の流れは昔の河道跡
 一休みしてから、全職・団員は水防工法作業のため決壊現場に向かうよう指示された。現場の状況を判断した災害派遣の自衛隊から、洪水の濁流を止めるため、径二十センチメートル長さ四メートルの丸太の杭を使う要求が出された。在来堤防の位置において、決壊場所を直線的に締め切る応急仮締切工法の選定であった。水勢を弱める荒水止めに掛(かけ)矢(や)を使い、丸太を人力で打ち込んでいた。途中から重機が入り、効率よく杭が打ち込まれ、杭の川裏に補強の土のう積みを行い、決壊から約五時間が経過した二十一時四十分に、応急作業が終り、丸太と土のうの締め切りが完成して濁流の氾濫が止まった。

掲載省略:写真〜決壊場所を締め切る応急仮締切工施工

 ヌッカクシフラヌイ川から富良野川に流れた、濁流の通った場所の地形を見ると、東四丁目仲通りを北三条通り(通学通り)から元の「日の出会館」があった、現在の「もとまち公園」にかけて見通すと痕跡があるが、北四条通りとの交差点付近が低くなっていることが分かる。この一帯は、昭和三十年代前半ころまで、住宅建設の束石の固定とか、道床の基礎材料に使うバラストと呼ばれる砂利の採取場であった。土地の所有者から許可を受けて掘ったことで、大きな掘り跡が現在の高校あたりから上富良野小学校付近まで、所々にあった。北三条通りと東二丁目通りの交差点、今の宮町二丁目には大きな池があり、小学校の前、北二条通りは、三十年代前半ころ、踏み分け道もなく自然のままであった。東二丁目通りとの交差点から線路方向を見ると、高低差約二メートル位の緩やかな崖になっていた。高校から東児童館前に至り、神社裏から現在の郵便局の所まで、河岸段丘のような地形であったと考えられる。
この手がかりが、昭和十二年生丑年会編の「かみふ物語」に海江田武信さんが「上富良野が誕生してから八十年」と題して執筆している中にある。
 関係部分を引用する。
==又「ヌッカクシフラヌイ川」の現在位置を流れる様になる前の位置は現在の高校のあたりから神社の裏を通り小学校の正門前の低い所を通って富山会館の所から線路の東側を通り国道の踏切りの少し南に鉄道のガードがありますが、そこから郷土館の建った低地から保育所の裏を通って富良野川に合流して居た形が大正初期まで良くわかって居りました。==
 このように書かれており、濁流が市街地を襲った昭和五十六(一九八一)年八月五日、台風第十五号の豪雨災害によるヌッカクシフラヌイ川の氾濫で、富良野川に向けて街中を流れた濁流の流路はまさしく昔の河道に他ならない。
 上富良野町開基百年記念協賛・郷土をさぐる会誌第十五号別冊「ふるさと上富良野〔昭和十一年頃の街並みと地区の家々〕」に、上富良野市街地の航空写真(昭和二十二年頃米軍機が撮影)が掲載されている。この空撮写真は、国土地理院地図として、「一九四八(昭和二十三)年十月十五日、米軍撮影の写真(撮影高度二四二八m)モノクロ」のデータが付けられて市販されている。この写真から、市街地を流れた濁流と昔の河道の流路を正確に確かめることができる。
町の中の河道・流路の痕跡略図(三原作成)
〔地形は昭和23年頃、建物は昭和30年頃〕


 
参考:1981(昭和56)年8月4日から8月5日の雨量
アメダスデータ(上富良野観測地点・1時間ごとの値)
3月4日 8月5日
  時  間   降水量(mm)   時  間   降水量(mm)
1 0 1 0
2 3 2 6
3 4 3 10
4 4 4 14
5 2 5 17
6 4 6 13
7 6 7 14
8 5 8 11
9 2 9 6
10 0 10 13
11 1 11 8
12 4 12 16
13 0 13 21
14 0 14 10
15 0 15 19
16 0 16 8
17 10 17 4
18 8 18 2
19 0 19 5
20 0 20 3
21 0 21 欠測
22 0 22 欠測
23 0 23 3
24 8 24 2
日降水量 61mm 日降水量 205mm

※日降水量、205m/観測史上第1位

機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀