郷土をさぐる会トップページ     第33号目次

学校の統廃合シリーズ(四)
里仁小二つの記念誌から

菅 野 秀 一
昭和二十九年五月十四日生 (六十一歳)

◆はじめに
  平成十八年十一月五日に、里仁住民を中心に多数の関係者を招いて、「里仁開基百年記念事業」のメインである「里仁の郷〜開基百年の礎」碑除幕式と記念祝賀会が行われました。記念事業の一環として、*記念誌の出版もあり、私は、この記念誌の編集部長をおおせつかり、副部長の松本訓明さんと五名の編集委員と共に悪戦苦闘して、ようやく期日に合わせ、この記念祝賀会で配本できました。
 記念誌の編集に際しては、地域の先輩の方々の寄稿や証言、出版物を頼りにしましたが、昭和三十六年九月一日発行の「開校五十周年記念誌」と昭和四十九年十月三十一日発行の「里仁小学校閉校記念誌」の二つの記念誌には、実に多くの情報が記録されていました。
 この度の郷土をさぐる会からの記事依頼は、この開基百年史の編集部長という肩書にあったのではないかと思っています。

掲載省略:冊子写真〜里仁百年誌『里仁為美』(さとはじんなるをよしとなす)

◆里仁小学校二つの記念誌から
 この二つの記念誌から一部を抜粋して掲載しますので、「里仁小学校」の姿を思い起こしていただければと思います。抜粋文の掲載元の『開校五十周年記念誌』(昭和三十六年九月一日発行)は『五十年』、『閉校記念誌』(昭和四十九年十月三十一日発行)は『閉校』と略記します。

掲載省略:冊子写真〜里仁小二つの記念誌
一 大正から昭和初期の頃
初代池田校長夫人 池田よしゑ『五十年』から
……赴任したのは大正元年十月三日でした。その頃の学校は誠にお粗末で狭い運動場のあちこちには、がんぴ(白樺)の木がにょきにょきとはえていた。……休み時間には職員、児童総出で木を切りはらったり、切り株をおこしたりして、……立派な運動場が出来上った。又学校には井戸もなかったが、一寸坂道を下りると崖下に少しの湧き水があったのでその水を生徒児童も私らも毎日飲用した。……細い坂道ばかりで、雪がふる様になるとすぐ道がわからなくなるので神社の下の坂道の両脇にポプラの枝をさした事もあった。……美瑛に行くにも、上富良野に行くにも二里半もの道を歩いて行かなければならないような不便さだった……

掲載省略:写真〜初代校長 池田元治先生

元教諭 小野寺一夫(第四回卒業生)『五十年』から
……神山翁と云う老人が居りましたので私等の父達が翁に寺小屋式でよいから学校の代りに教え戴き度いと頼んだらしいのです。それで私等は昔の石版それに書く物、石筆とハト、マメの書いた本を風呂敷に包み、毎日神山翁宅に通った覚えがあります。……棟梁長谷大工のもとに工事が着々と進んで明治四十四年十月二十五日に落成式を兼ねて開校式を行い、学校名も公立上富良野第三教育所と云い、私等は神山寺小屋学校から新しい此の学校の一年生として入学したようなわけです。……

掲載省略:写真〜開校当時の第三教育所

札幌市教諭 佐藤誠哉(第九回卒業生)『五十年』から
……里仁小学校に入学したのは、大正五年四月で……学校の近くを流れていた小川に昼休み時間よく行って、雑魚すくいをしたものだが今でも流れているだろうか。……

町議会議員 菅野 稔(第二十五回卒)『閉校』から
……里仁小学校々歌のように、昭和五年の早期に設立されたという歴史の深さも他に類をみない。これも又特筆にあたいする。
  章は天使の鳩にして かざす平和の大道を
  仁義至誠に照らされて 共に携え歩むこそ
  我等が日頃の理想なり いざ讃えなん里仁校
 校歌としては異質にさえ感ずるこの歌詞の中に、里仁校にゆかりのある多くの人々の心を知る事ができる。……
二 昭和初期から戦中の頃
二代校長 熊谷二三男『五十年』『閉校』から
……私の目に映るのは荒 周四郎さんでこの方は豊里部落の開拓功労者の第一人者で、人格高潔温容玉の如く黙々として勤労を楽しみ、……正しい教育を守り抜く蔭の力となった功績は筆舌に尽し難く、次に田浦金七氏は荒氏と共に教育に力をつくしこの方、又保護者会長として一生を捧げたと称しても過言でないと信じます。……

掲載省略:写真〜2代校長 熊谷二三男先生

五十周年記念協賛会長 荒 猛『閉校』から
……第二代熊谷先生は、教育のかたわら常に部落の指導にも当られ、当時部落は、四分五裂の大事件が起り何とか善良化する方法をと相談致しましたところ、……これを一つの名称にする事が良いということになり……学校名から里仁部落に、各団体もこれに改称致しました。……

上富良野農協 松田徳三(第三十四回卒)『五十年』から
……太平洋戦争の最中に入学し、敗戦して卒業、物資不足と混乱の中で育った私共であります。少年時代の夢、めまぐるしい時代の流れで夢も変らざるを得なかったが、その一つ。それは「広い大自然で雄大な山を仰ぎながら、合理的な而も酪農機械化を中心とした立派な農業をやりたい」と思うことであった。……その後、私は協同組合運動に特に友愛と協同の高い理想に夢を描き、若さと情熱を傾けてこの道に飛び込んだのでありました。……
三 戦後から昭和三十年代の頃
三代校長 田中権吉『五十年』『閉校』から
……二十年六月十一日、前任地志比内国民学校を後に……午後二時過ぎこの地に着きました。……その頃、戦時下体制の学生動員のため四年生以上の児童と共に草けずりをかついで、あちらこちらと校下の援農、食糧増産に一役買った児童も実によく働いたものでした。……昭和二十一年マッカーサー司令によりその年の八月奉安殿撤去、その台石をそのまゝに二宮尊徳翁の石像建設のこと、……九月十五日、時の金子村長さん、町内の各学校長さん、校下全員参列除幕式をして沿線初めての尊徳石像にほほえんだのも深い思い出です。……教員生活一生の思い出は、昭和三十六年九月新築の体育館での、開校五十周年式典でした。……

  掲載省略:写真〜3代校長 田中権吉先生
  掲載省略:写真〜二宮尊徳像設置工事(昭和21年8月)
  掲載省略:写真〜体育館新築工事(昭和36年)

里仁小学校同窓会長 菅野 學『五十年』から
……開校五十周年に当り同窓会は、同窓生の皆さんの御協力を得て校旗を新調したのでありますが、緑の旗地に星と鳩の図案は誰の作か知りませんが、ほんとうに立派なもので其の意味するところ、緑は希望、星は真理、鳩は平和と、校風として此の学校に学んだ人々の胸に強く生かされております。……

里仁青年団長 久保貞雄(第三十八回卒)『五十年』から
……長年無電灯地帯であったが、今は文化の恩恵を受け、部落発展と共に一部をのこして各戸に電灯が付き、又記念すべき年に立派な体育館を新築され、……時代のうつり変りを耳で聞く時代から目で見るテレビに変り、馬の時代からトラクター、耕耘機に変り世は機械万能の時代となりました。……
四 昭和四十八年閉校に想う
PTA会長 菅野忠夫(第十五回卒)『閉校』から
……私共入学の頃は、初代の池田校長先生で、教室内も寒く、習字の時などは硯の水が氷り幾度か中止したこともありました。……時が流れ、満州支那事変、第二次大戦のさ中、昭和十六年国民学校となりその頃は第二代熊谷校長先生で、部落の戸数七十余戸、生徒数も百名、青年団員五十余名もおりました。……私達青年は、毎晩夜学に通い論語、漢文等を教わったものでした。戦争も敗戦で終りを告げ、食糧、物資難の時代が到来、時に第三代田中校長先生は、……御苦労された姿が眼に浮びます。……その後任には、堂々たる立派な体格の第四代千田校長先生、奥さんも教育者で教室等も仕切り日夜教育に専念、父兄からも特に感謝されておりました。……その次には、第五代岡部校長先生が赴任され……職員住宅、へき地風呂等もでき、喜びの裡に楽しい日課を送りより良い教育が行われておりました。……。後任として第六代白沢校長先生、大友、助乗両先生の三人で日夜教育に専念されましたが、生徒も十四名の小数となり、……引継の準備万端お骨折りをいただき、最後の卒業式並に閉校式共に三月二十一日終了の運びとなりました。……

  掲載省略:写真〜4代校長 千田稲造先生・5代校長 岡部二郎先生・6代校長 白沢 勇先生

高校生代表 泉 隆一(第五十三回卒)『閉校』から
……急な坂道を、雨の日も雪の日も毎日通い続けたあの学校、友達と遊びながら通ったあの学校、三個学年が一緒に授業したあの学校、廊下を走っては立たされたあの学校、いつもいたずらをしては先生に怒られたあの学校、放課後ソフトボールで遊んだあの学校、新しい体育館だけが、特に目立ったあの学校。紅白に分かれて、黄色い声を張りあげて行った運動会。せりふを忘れて、ひや汗をかいた学芸会。小学校の事が次々と思い出されてきます。……
◆おわりに
 学校の統廃合シリーズの今回の号では菅野 學氏(私の伯父)が昔の里仁の自然をテーマに、また、田中正人氏(郷土をさぐる編集委員)が資料編として学校の沿革について書かれるとのことで、私が書く内容を悩んだ末、開基百年事業に際して収集した写真と、里仁小学校の「開校五十周年記念誌」と「閉校記念誌」に掲載の寄稿文から、これらの一部を抜粋してかつての里仁小学校を紹介することにしました。同時に掲載のお二人の記事と併せてお読みいただければ幸いです。
 なお、昭和二十二年の教育制度改正により、義務教育が小学校六年と新制中学校三年になったため、里仁小学校卒業生は新設中学校に通わなければなりませんでした。昭和二十三年度の一年間は上富良野中学校へ、昭和二十四年度からは遠距離通学の解消のため、美瑛町と上富良野村の組合立として委託料を負担する美瑛第四中学校(後に美馬牛中学校)に通学し、以降この状況は昭和五十二年度まで続きました。PTAの関係から越境した美馬牛コミュニティができていて、今もこの期間の中学校同窓会を中心につながりが残っています。

  掲載省略:写真〜美馬牛中学校20周年(昭和43年9月4日)

機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀