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学校の統廃合シリーズ(四)
エホロ完別川の畔(ほとり)で

菅 野   學
大正十三年一月十五日生 (九十一歳)

◎ エホロ完別川
  国道二三七号線旭川〜富良野間のほぼ中間点に美馬牛峠がある。この峠の稜線の北側が上川、南側が空知の群界であり、上富良野と美瑛町の町界である。さらに、富良野盆地の入り口でもある。
 水の流れもここを分水嶺に美瑛側は北に、上富良野側は南へと流れている。峠から下るゆるやかな坂道。誰が名付けた坂なのか開運坂と人が言う。この坂道に沿って流れる川がエホロ完別川である。
 水源を町の最北端里仁津郷農場から発し、周囲の湧水を集めて十q程下り富良野川に合流する。
 富良野川は強酸性水のため魚も住めない川なので、エホロ完別川に住む生物にとって完全に陸封された川でもある。
 川幅が広いところで二メートル。水深も三〇センチ程の小川で、瀬があり、澱みがあり、川底の小砂が見える。澄んだ水が小さな瀬音を立て、ひねもす流れている。
 明治四十年にこの地の開拓に入植した人達はこの川の近くに住居を構え、棚田を作り畑を拓いて農業生産に励んでいた。私は大正十三年この川の畔で生まれた。
 昭和十一年三月、里仁尋常小学校を卒業した私にとってこの小さな川は母なる川でもある。薄れ行く子供の頃の記憶を辿ってみる。
◎ オンコ橋
 開運坂を下り終わった処にこの川に架かる最初の橋があった。手斧(ハビロ)で削った太い角材を渡し、厚さ五センチ程の板を横に重ねて敷き、両端を二十センチ程の角材で押さえ四隅に高さ一メートル位の柱を立てて欄干にした木の橋であった。
 まだ自動車の通らない頃、この橋を渡るのは人と馬、鉄輪の馬車が時々通る位で子供達には又とない集まり場所、遊び場であった。橋の右側の岸に大人が両手で抱える位のオンコの古木があったことから誰云うことなくこの橋を人々はオンコ橋と言っていた。
 このオンコの木はかなり伸びていたのか、途中三メートル位の所から切りつめられ残った太い幹の空洞に時々小鳥が巣を作っていた。二、三本残った小さな枝には秋になると毎年のように赤い実をつけ、この実を採って食べた。
 橋桁の下の淀みにはいつも小魚が群れており、時には蛇の住み家で橋の上で長々と寝ている蛇の姿を時々見かけた。
 橋の目印になっていたオンコの木も枯れそうでなかなか枯れることなく、その生命力の強さを誇っていたが、昭和三十年代になって国道の拡張工事が始まり遂に切り倒された。橋も木から一時土管に変わり間もなく始まった河川改修と国道の舗装工事でコンクリート橋となった。
 開拓以来、半世紀に亘って利用されて来たオンコ橋もオンコの木も今ではその存在を失い面影は無い。

掲載省略:写真〜オンコ橋のイメージ
◎ 八ツ目鰻
 春四月、雪解けとなると、真っ先に川岸の雪が解けて水量も平時の三倍くらいに増水する。大人達からも「危ないので川に近寄るな」と注意される。
 それでも空には雲雀(ひばり)が囀(さえず)り、川岸に福寿草、エゾエンゴサク、カタクリの花が咲き、座禅草、フキノトウ等、賑やかになると子供達は遊び場を求めて川岸に集まる。
 その頃になると雪解け水も徐々に減って川底もきれいに見える様になり、最初に眼にするのが八ッ目(やつめうなぎ科、魚類とは異なる種)である。泥じょう位の大きさで口に吸盤があり、小さな砂利をくわえて川の瀬に集め、頭を川上に向け群れている。
 下流の石狩川に住む八ッ目鰻は大きいのに同じ姿をしたこの川の八ッ目はドジョウをスリムにしたような十五センチ程の大きさで、「吸い付かれると離れないぞ」と大人達の言うことを真に受けて、子供達はこれに近づこうとしなかった。今にして思えば春先の川遊びは危険なので、子供達を川から遠ざけるための作り話であったような気がする。また、この魚を捕って食べたという話を聞いたことも無かった。
 六月頃になると姿が見えなくなり、翌年の春になると戻ってくる不思議な魚であった。

掲載省略:イラスト〜八ツ目鰻
◎ ドンコ
 子供でも飛び越えられる程の小さな川であるが数多くの生物が住む豊かな川で、川底の石を除けるとザリガニが出てくる。川砂の中にはカラス貝が口だけを出して隠れている。その口に柳の細い枝を差し込むと閉じるのでそれを引き上げ捕ったものである。これを食べたことが何回もあったが固くてゴムを噛むようであり美味しいものではなかった。
 また、数は多くなかったが小さなハナカジカが住んでおり、子供達はこれをドンコと言ってよく釣りをしたものである。釣りと言っても針で釣るのではなく、当時畑にいたミミズを掘り出して大きいのを何匹か木綿糸に通して数珠つなぎにしたものを丸めて一メートル位の柳の棒先にくくりつけ川底に入れると忽ち二・三匹とカジカが寄ってきて食いつく。頃合いを計って素早く引き上げるとカジカが喰いついたまま上がって来るという簡単なもので、ドンコ釣りは子供達の楽しみの遊びの一つであった。
 この釣り道具をジュズと言っていたが、お寺参りに使う数珠に似ていたからであろう。このカジカを味噌汁の具にしてよく食べさせられたが、頭が大きく骨ばかりであまり美味しいとは思わなかった。
 後年公用で新潟県に出張した時、村上市でこのカジカに似た魚料理をご馳走になった。新潟ではこの魚をゴリと言っていたが、どう見てもカジカそっくりであった。今でも奥地の清流で養殖しており、いろいろなゴリ料理を出されたが非常に美味しかったことが記憶に残っている。

掲載省略:イラスト〜カジカ
◎ ザリガニ
 川石の下には必ず居たのがザリガニである。捕らえようとすると尾を使って後ろに逃げる。前に這って出るが危険を感じるとすぐ後ろに隠れる。
 身欠き鰊の頭を沈めると寄ってきて大きなハサミで食いついたところをを引き上げて捕る。
 昭和天皇が、旭川に行幸された折り宿泊されたホテルでザリガニ料理を召し上がられたと聞かされたが、このザリガニを茹でると見事に真っ赤になる。子供のころ食べたことがあったが美味しいものではなかった。
 そのザリガニが昭和二十年頃に忽然この川から姿を消してしまった。当時の大人達もこれを不思議がり、ザリガニも戦地に出征したと噂されたものである。

掲載省略:イラスト〜ザリガニ
◎ ウグイ
 開拓の時代からこの川に一番多く棲んでいたのがウグイとエゾホトケドジョウで、子供のころウグイをタモで掬った。ホウウグイとヤチウグイの二種類が居た。体が褐色で黒い横縞の入っているヤチウグイは食べると苦みがあるのであまり食べなかったが、ホウウグイは川魚特有のクセがなく美味しい魚であった。定かではないが本ウグイが訛って伝えられたものと思う。小さい時には体に一つのサビもなく、全身銀色に光る美しい魚で、川から掬ってバケツに移すと、他の魚と異なってすぐ酸欠で死んでしまう。大きくなると二十センチ以上になり肌がくすんだ銀色に変わり、焼き魚にすると油があり、この川で一番大きくなり食べても美味しい魚であった。
 子供の頃、釣りが好きで遠くの川まで出かけたが、この川に住むウグイのように美しく銀色をした魚に出会ったことはない。
 今思うと魚の住めない富良野川に川下を陸封されたこの小さな川の固有種であった気がする。

掲載省略:イラスト〜ウグイ
◎ ドジョウ
 エホロ完別川にはエゾホトケドジョウと内地ドジョウの二種類のドジョウが棲息していた。
 ホトケドジョウは昔から住み、川魚としてはよく食べた。味は淡泊で泥くさくなく味噌汁の具に使われたり、油で揚げると結構美味しかった。
 北海道に本州から渡って来たとされ、柳川ナベに使われる内地ドジョウも沢山住んでいた。
 もともと外来種で大正の始め頃、私の三軒隣の荒武造さんが出身地の宮城県から取り寄せて放流したのが始まりと聞いている。それが年中水の引かない泥田を根城に繁殖し、春水田に水が張られると一気に全水田に広がり、田の草取り頃には手で掴める程に増えた。
 その頃になって何処から来たのか棲んでいなかった小鮒(ぶな)が川で繁殖すると共に、いつの間にかカラス貝、カジカ、ザリガニ等の昔からの生物がその姿を消して行った。おそらく外来種によって絶滅したと思われる。それでもこの川に棲む川魚は豊富であった。

掲載省略:イラスト〜エゾホトケ、ホトケドジョウ
◎ カンカン鳥
 豊富な川魚を餌にネズミ、イタチ、キツネ等の他、鳥類が季節毎に渡って来た。
 春、頭上高く空を鳴きながらながら旋回し、時々ジェット機の様な大きな羽音をたてて急降下してくる鳥シギに何度も驚かされた。
 夏鳥で鳩程の大きさがあり、余り遠くへは飛べないカンカン鳥。赤い足をしてオスは全身黒く真っ赤なトサカを頭につけている。メスはオスより一回り小さく茶色で地味な色をし、青田の中を餌になるドジョウを探して走り回る。オスがカンカンと甲高い鳴き声を出すので、誰言うとなくカンカン鳥になったと思うがシギの一種で正式な名前は知る由もない。

掲載省略:イラスト〜各種シギ類
◎ スナガ鳥(カワセミ)
 瑠璃色の背に赤い色の腹をした川の宝石と言われているカワセミが時々短い鳴き声を出して餌を求め川の上を往復していた。子供の目でも美しい鳥に見えた。
 当時の人々はこの鳥をカワセミと呼ばずにスナガ鳥と呼んでいた。たまたま我家の家の下の崖に巣を作った。直径十センチ程の巣穴を崖の中腹に作り、親鳥が交互に餌となる川魚を運んでヒナを育てていた。子供の好奇心からヒナの姿を見たくなり、崖をよじ登り巣穴に手を入れてみた。丁度子供の腕が入る程の横穴で思いの外深くて、ヒジの中程まで入れて探してもヒナまで届かなかった。
 大人達が付けたスナガ(巣長?)鳥の名は、このことから付けられたと思われる。この後が大変であった。巣穴から抜いた腕に鼻をそむけたくなる様な川魚の腐臭がこびりつき、洗ってもしばらくその臭いが残り閉口した。

掲載省略:イラスト〜カワセミ
◎ 結 び
 それから数十年後、多くの生物を育んできたこの小さな豊かな川が一瞬にして死の川へと変わる大きな異変が起きた。
 農家が水田の除草作業の苦労から解放されることを目的に初めて水田除草剤(注釈)が開発され、農家はこの農薬を一斉に使用した。が、この除草剤は強烈な魚毒性があり、散布した翌日には無数のドジョウや蛙が水田の中で白い腹を上に向けて死んでいた。それをカラスがついばんでいた光景は今でも瞼から離れられない悲惨なものであった。
 その頃から農業の近代化、機械化が始まり、馬に変わってトラクターが入り、総ての農作業が機械に頼る様になった。いつの間にか農耕馬も姿を消し、強力な大型機械による作土の深耕、ロータリー耕により保水力を失った作土は大雨毎に流亡し、毎年のように被害が発生するという結果になった。
 その対策として河川改修が始まり、魚の棲む原始河川がコンクリートの護岸へと変わった。
 農業の近代化、合理化は多くの川を住みかとする生物を犠牲にしながら今日へと進んで来た。
 冷たい川水に素足を赤くして小魚を追い回していた子供達の声も絶えて久しい。川辺の草花も賑やかに泳いでいた小魚の群も、水鳥も獣類も今ではその見るべき姿もない。総てが遠い昔の物語になった。
 いつの日か再び、この川に生物の戻ることを期待しながら毎年度々川面をのぞいて見ているが、未だに生き物の姿はなく、唯、わが母なる川は、昔と変わらぬ瀬音を立てながら悠久の彼方へと流れ去って行くばかりである。
(注釈) 水田除草剤
 一九五七年に使用開始された除草剤PCP(ペンタクロロフェノール)は、水田の最大の雑草であるヒエに除草活性があることから、倍々のペースで普及していき、その五年後には過半数の水田で使われるほどに成長した。ところが、魚に対して高い毒性をもっていたことから、各地で問題となってきた。一九六二年には琵琶湖や有明海で大量の魚が死亡する事件が起こり、その原因としてPCPが散布直後の大雨で流れ出たものであった。国会でも取り上げられ社会問題化となった。一九六三年からは、それら地区でのPCP使用に制限が加えられた。
 自然環境に農薬が多大な害を及ぼす可能性があることを、日本国民が認識した発端となった。
◎参考参考資料
農薬ネット http://nouyaku.net/
◎ 菅野 學氏 経歴
大正一三年 一月一五日 上富良野村西一二線北三六号にて出生。
昭和一三年 三月 上富良野町尋常小学校高等科卒。
昭和一八年一〇月 里仁国民学校代用教員。
昭和一九年 三月三一日 里仁国民学校教員退職。
昭和一九年 満州七二八部隊入隊。憲兵を目指す。
昭和二〇年 終戦後シベリアに抑留。
昭和二四年 帰国。農業に従事。
昭和二七年 上富良野町農協青年部長。
昭和三一年 上富良野農民同盟書記長。
昭和二九年 里仁小学校同窓会長。
昭和四一年 上富良野町農業協同組合理事。
昭和四五年五月 上富良野町農業協同組合三億円事件発生。
昭和四五年 専務理事。
昭和五一年 深山峠新四国八八箇所霊場奉賛会会長。
昭和五四年〜 農協組合長理事。上川生産連理事。北海道信用農業協同組合連合会理事。
ホクレン農業協同組合連合会理事。厚生連監事等歴任。
昭和六〇年 農協事務所研修施設を落成させる。
昭和六三年 北海道農協中央会より農協功労表彰受賞。
平成 二年 北海道産業貢献賞受賞。
平成 四年一二月二七日 農協組合長理事等退任。
     一二月二七日 上富良野町第六代目町長就任。
平成 六年 上富良野町農業協同組合より名誉組合員の称号を受ける。
平成 八年一二月 二期目を目指した町長選挙で対立候補に僅か十票差で破れる。
平成 九年 上富良野町自治功労表彰。
平成一一年 名誉町民に推挙。
明治後期から大正初期にかけた里仁・美馬牛周辺地図


機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀