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語り継ぐ事業 上富良野町文化賞第一号
本田 茂(俳号 夫久朗(ふくろう))の足跡

さぐる会編集委員長 北 向 一 博 (六十二歳)

 文中の敬称は、引用・転載・寄稿部分を除き全て省略させていただきます。
◎ はじめに
  本誌の前第三十二号から、「語り継ぐ事業」として、町内の各分野で大きな足跡を遺された方をピックアップして、その功績と共にできる限り当時の生活や社会背景も含めて、記事として掲載していくことになった。前号では名誉町民 宇佐見利治、平成十七年度町文化賞 千々松絢子の御二方を掲載したが、本号では町文化賞第一号受賞者の本田 茂(俳号 不久朗、昭和五十二年に改称し夫久朗)を取り上げる。
 本田 茂の表彰内容は『昭和三十一年、本町で初めての俳句の同人会であるこのみち俳句会設立の中心となり、以来俳句を通じ町文化の発展に寄与。昭和四十年文化連盟の結成とともに副会長として各種文化団体の育成強化に尽力され、不自由な体にも屈することなく、会のリーダーとして活躍』であり、この記事も文芸活動を中心に記述することになる。

 まず、上富良野における文芸活動を振り返ると、既に大正期に始まっており、昭和五年九月二十日に発刊された村の広報『我村』に青年会会員の投稿論文にまざって巻末に短歌や俳句の掲載欄があり、創作活動が活発だったという。戦後になると、戦時中の抑圧的な風潮を払拭するかのように、旺盛な活動の復興が見られ、終戦直後の昭和二十年十一月には、和田松ヱ門(耕人)、石川清一、青地 繁(紫雲)らが中心となって「噴煙短歌会」が発足、昭和三十一年一月に田浦 博(夢泉)、本田 茂(不久朗)、岩田悌四郎(雨滴)を中心にして「このみち俳句会」が結成された。
 昭和四十四年四月には、赤間玲子が発起人となり女性による「りんどう俳句会」、昭和四十七年二月にはりんどう俳句会に所属する人々を中心に千々松絢子を代表に「りんどう俳画会(後に蕃光俳画会と改称)」が発足している。(上富良野百年史)

 私(筆者)は元町職員で表彰事務を担当したこともあり、この機会に、町の顕彰・表彰制度についても概要を掲載する。
 名誉町民条例が昭和三十六年三月に制定され、町民や町の関係者に関して、「広く社会文化の興盛又は町の発展に寄与し、町民が郷土の誇りとし且つ深く尊敬に値すると認められる者」に名誉町民の称号を贈り顕彰することになった。この第一号は、昭和四十年に田中勝次郎(昭和二十二〜三十年、村長・町長)に贈られた。
 名誉町民条例と同時に、「町の政治、経済、文化、社会その他各般にわたって町政振興に寄与し、又は衆人の儀表と認められる行為があった者を表彰」する表彰条例も制定され、当時は「功労、善行、納税、勤続」の四分野で表彰された。現在は、幾度かの制度改正を経て、町部局所管顕彰は「名誉町民」、表彰条例に基づく表彰は「自治功労・社会貢献・善行・勤続」の四分野になっていた。文芸などの文化活動はスポーツ活動も含めて、この表彰条例による「善行表彰」が適用されていたが、文化連盟や体育協会などから表彰区分の見直しを求める声が出ていた。
 「善行表彰」は、人命救助、治安維持、災害防止及び交通安全などの公益活動を対象としたもので、文化・スポーツは『多年町の公益・公務に助力し成績顕著なる者』を適用してきたのである。
 そこで、文化・スポーツ分野の表彰を町教育委員会の所管として分離して、昭和五十一年に新たに教育委員会表彰規則を制定し、文化賞・文化奨励賞、スポーツ賞・スポーツ奨励賞を設けた。
 文化賞・スポーツ賞が、この分野の町の最高表彰であったため、表彰者がまれにしか輩出しないため、平成十五年にスポーツ賞に準ずるスポーツ功労賞を、更に平成二十二年に文化賞に準ずる文化功労賞を新設し現在に至っている。
 なお、文化賞が新設された昭和五十一年の受賞者は第一号の本田 茂、第二号には国壮流詩吟会を結成し、リーダーとして後進の指導にあたるほか、各詩吟コンクールで活躍した黄田義栄が受賞している。
●歴代文化賞受賞者
番号 年 度 氏 名 番号 年 度 氏 名 番号 年 度 氏 名
1 昭和51年度 本 田   茂 10 昭和62年度 冨 樫 銀次郎 19 平成13年度 陳   西 瑜
2 昭和51年度 黄 田 義 栄 11 昭和63年度 青 地   繁 20 平成15年度 松 本 紘 子
3 昭和52年度 菅 原   敏 12 平成元年度 葛 本 武 志 21 平成17年度 千々松 絢 子
4 昭和56年度 高 橋 静 道 13 平成4年度 和 田 昭 彦 22 平成18年度 安 西 英 雄
5 昭和56年度 木 村   了 14 平成5年度 堀 江 富 雄 23 平成21年度 本 間 ヒサ子
6 昭和60年度 田 浦   博 15 平成7年度 村 岡 八 郎 24 平成24年度 東中清流獅子舞保存会
7 昭和60年度 安政太鼓保存会 16 平成9年度 村 田 六 輔 25 平成24年度 志 賀 記 代
8 昭和61年度 西   武 雄 17 平成9年度 森 本 京 子 26 平成27年度 村 上 和 子
9 昭和61年度 田 中 喜代子 18 平成10年度 葛 本 美智子      

◎ 本田 茂(夫久朗)の経歴
 本田の経歴については、町内在住のご子息、長男の本田健祐氏(七十四歳)及び次男の本田邦光氏(七十二歳)のお許しを得て、昭和五十四年に著作刊行された『句集 鰯(いわし)雲(ぐも)』に掲載のものを、参照させていただく。なお、この項目以降についても、当該句集の参照記載を主体にしている。
 本田 茂の父茂一は富山県西礪波郡東蟹谷村名畑三六四八番地で父重郎右ヱ門、母もとの三男として生まれ、同郡数波村の父甲谷権兵衛、母いよの三女の妻ヲトと共に、明治四十一年十勝の清水町に渡道し、翌年上富良野草分(雑貨商)を経て、大正二年に西一北二十四号(現在地)に移住して農業に従事した。
 昭和十八年第八区島津区々長(当時一四五戸 九三四人)、昭和二十三年には町農地委員会委員を務めるなど地域の人望を集めた。
 茂は、この茂一の長男(文末掲載の家系図参照)として生まれている。以下、波乱に富み、文芸を愛し篤志を尽くした生涯の内、主だったものを示す。

掲載省略:写真〜茂の父 茂一

〇大正二年九月五日草分で生れる。
〇昭和三年、高等小学校高等科、青年学校を卒業終了する。
〇昭和十八年九月、大東亜戦争に召集され旭川第四部隊入隊した。北千島守備隊として従軍中に負傷し戦傷病者となり、以後昭和三十二年まで十八回もの手術を受ける。
〇昭和二十九年、登別厚生年金病院において「嶺(れい)峯(ほう)句会」を設立し『だるま抄』自選発行した。
〇昭和三十一年、中心となって甜菜増産会連合会を設立し、以後十五年間にわたって会長職を務める。中富良野町との一元集荷、貯蔵土場誘致を実現し、昭和四十六年に上富良野町長功労表彰を受けた。
〇昭和三十一年、茂の発案で「このみち俳句会」を設立し、現在も後継者により活動存続中である。
〇昭和三十二年、身体障害者福祉協会上富良野分会設立が設立、初代会長として十三年歴任する。
〇昭和三十四年、北海道身体傷害者福祉協会上川支部副支部長に就き、八年間歴任する。
〇昭和四十一年に、上川支庁から身体傷害者福身体傷害者福に対する功労表彰を受ける。
〇昭和三十五年、美瑛町と統合した北海道傷痍軍人会富良野地区支部を結成し、支部長に専任される。
〇昭和三十八年、西島津行政区長になり、設立された郡部区長会の初代会長に選任、四年間歴任する。
〇昭和四十年十月、有志達と共に文化連盟を結成、副会長に就き、昭和五十一年から二年間は事務局長を務めた。
〇昭和四十一年、土岐錬太郎主宰の推薦によりアカシヤ百歌集同人となる。
〇昭和四十三年五月、札幌医大病院に入院し、両足共に義足となる。
〇昭和四十三年、西小学校建設促進期成会常任理事に就く。
〇昭和四十四年、上富良野町公民館兼福祉センター建設期成会理事に就く。
〇昭和四十五年七月、戦没者一七二柱を祀る忠魂碑建設期成会常任理事兼監査に就く。同年十月一日に、厚生大臣から戦傷者上川地区相談員に委嘱される。
〇昭和四十六年、俳句会設立功労者として町の善行表彰を受ける。
〇昭和五十一年十一月三日、第一回上富良野町文化賞(第一号)を受賞する。
〇昭和五十二年六月、土岐錬太郎アカシヤ主宰より『不久朗』の俳号を受け改号となる

〇昭和五十二年七月九日、道傷痍軍人会及妻の会、家族の会全国大会の札幌市で永年の援護功労者として堂垣内知事より感謝状を受ける。
〇昭和五十二年八月二十日、上富良野町開基八十年式典で産業功労賞を受賞する。
〇昭和五十三年、上富良野町郷土館期成会会計兼鑑査役に就く。
〇昭和五十三年四月二十日、福田内閣総理大臣より紺綬褒章(教育振興に百万円寄付)を受章する。
〇昭和五十四年一月五日に町立病院入院する。
〇昭和五十四年十二月句集『鰯雲』を出版(俳号夫久朗)、翌年一月八日に町文化連盟 西会長を筆頭にする発起人により出版記念祝賀会(出席九十一名)が開催される。
〇昭和五十五年一月十二日、上富良野町立病院より旭川石田病院へ転院、腎不全で三年二ヶ月に及ぶ人工腎臓透析の生活が始まる。
〇昭和五十八年二月二十二日、七十二歳で逝去。(慢性腎不全、糖尿病)

掲載省略:写真〜甜菜貯蔵場誘致功労上富良野町長賞〈昭和46年〉
掲載省略:賞状〜このみち俳句会設立及び活動功労として『町善行表彰』〈昭和46年〉
掲載省略:写真〜神社境内『忠魂碑』建設世話人一同完成記念〈昭和45年〉
掲載省略:賞状〜『上富良野町文化賞』証〈昭和51年〉
掲載省略:賞状〜『援護功労者知事表彰』〈昭和53年〉
掲載省略:賞状〜紺綬褒章〈昭和53年〉
掲載省略:写真〜祝賀会しおり〈昭和54年〉
◎ 『鰯雲』発刊の動機及び回顧
 『鰯雲』巻末に「発刊の動機及び回顧」について付録として掲載されているので、一部語句や旧字体の修正と説明の付記をして転載する。
  ==『鰯雲』から==(抜粋)

 大東亜戦の終末に近い昭和十九年、北千島守備隊に服務中負傷したのが原因で、終戦後復員してから特発性脱疽という、生きながらにして私の両下肢が末端部からミイラ化していった。
 各地の病院を転々と渡りあるき、約十年間に延べ十八回にも及ぶ切断手術で、文字どおり一寸きざみの連続であった。
 また、当時終戦の混乱と食糧難の渦中の時代で、家族らと遠く相隔った療養生活のうち、激痛と孤独の連日はともすると、苛立と焦燥のあまり、切断手術を医師より言渡された際、生きる望みを失い自殺さえ考えた位であった。然し、そんなとき療養所で一諸だった南雲玉朗さんや、樋口游魚(註)さんらの熱心な俳論及び、毎月欠かさず指導に来られた、土岐錬太郎(註)先生の人柄と抒情性に富んだ生活俳句に心うたれ「アカシヤ」に入門、それ以来俳句のとりことなってしまったのである。

掲載省略:写真〜茂の短冊(俳号が不久朗と夫久朗の両方があり、昭和52年を境とした作句の時期が読み取れる)

註〜樋口游魚(ゆうぎょ):本名・樋口昭七郎、北電室蘭支店に勤務する傍ら「アカシヤ俳句会」で活躍し、平成二十五年一月八十四歳で逝去。昭和、平成と室蘭を中心に道内文学界に足跡を残した。
註〜土岐錬太郎(ときれんたろう):本名・金龍慶法は大正九年新十津川で生まれた。円満寺住職の傍ら、アカシヤ俳句会を設立し同人主宰、北海道新聞俳壇選者、現代俳句協会会員、後に分離した社団法人俳人協会評議員となり、道内俳人活動に大きな功績を遺し、昭和五十二年七月五十七歳で逝去した。

 いわば俳句によって、存命の尊さを識らざせられたといっても過言ではない。
 昭和三十年の暮、雪まだ深い真冬日の或日の事、たまたま役場に諸用のため出掛け知人並びに職員等と煖炉を囲み懇談に花を咲かせしとき、本町に文芸誌を飾るにふさわしい同志の集いのないことのさびしさが指摘されたのに発奮、当時本町内に住む最も経験豊かな俳句作家の田浦夢泉氏が里仁部落に居ることを知り、その頃上富良野新聞の編集発行をしていた岩田雨滴(俳号)氏や同新聞の印刷を請負っていた上富印刷会社の社長会田久左ヱ門氏等に依頼をなし、同好者を町内全般につのった。俳句会は、第一回を昭和三十一年一月二十八日、信用金庫の階上で開いた時に始まった。集ったのは大部分が初心者ばかりであったが、総数約三十有余名という盛大なものであった。
 二・三回と度を重ねるうち会の名称を記名投票で行った結果、私の提案による「このみち俳句会」の名称が良いと万場一致で採択され命名されたが、それ以来こんにちに至るまで毎月一回の月例俳句会を一度も休んだことのない位会員たちの熱心な研修ぶりは、活目に価するところ大であると存じる。
 私が結婚したのは満二十五歳のときで、五体満足で妻(現在入院中)と接することのできた期間といえば、生涯中僅か三年数ケ月間であった。そんな夫を腑甲斐無いとも思わず、むしろ傷痍軍人の妻であることを誇りと自覚し、幼い子供達の養育に艇身したのだった。また著者が療養所から一時帰郷等で帰宅した際、たまたま俳句会によく出向いたものだが、そんなとき、どんなに多忙な日でもじっと黙認していたようだった。
  〜〜 中 略 〜〜
 各諸先生方のご援助とご労苦に対し、万腔の敬意と謝意を表し、また、今後一層のご指導とご鞭撻を賜わりますようご懇願申し上げ擱筆するしだいであります。

                       昭和五十四年十一月吉日 本田夫久朗
◎ 新聞記事に見られた出版の反響
 『鰯雲』の発刊を取材し、昭和五十四年十一月二十一日に掲載された「北海道新聞」と「北海タイムス」から、それぞれ記事の一部を抜粋して掲載する。
《北海道新聞上川地方版から》
……本田さんは二十八年までの初期の作品を集め、三十年に「だるま抄」という最初の句集を出しているが、これはガリ版刷りで、今回の「鰯雲」が、製本した句集としては初のもの。作品は年代順に「妻の案山子」「薯の花」「ラベンダー」「車椅子」の四つの見出しを付けている。「世話ばかりかけた家内を詠んだものが中心です。家内がいなかったら、今の私はなかった」と本田さん。句集を手に、わき上がる感激をかみしめながら入院中の妻ツヨノさん(六三)の回復を祈るばかりだ。句集はB6判、二百四ページ、四百部発刊。……

掲載省略:写真〜昭和54年11月21日北海道新聞上川版


《北海タイムス上川地方版から》
……俳句との出合いは、北千島で兵隊仲間と戦場俳句″をやったのが始まり。二十三年アカシヤ俳句会に入門、本格的に句作に取り組んだ。四十年に町文化連盟を設立、初代副会長のまま現在も務めている。四十一年アカシヤ百花集同人、地元のりんどう俳画会会員としても活動している。元来は農業経営者でビート増産会連合会を設立、永い間役員を歴任、行政区長なども務め、義足でバイクを乗り回したこともある異色の努力家。
これまで町の善行表彰、第一回町文化賞、産業功労賞、紺綬褒章など数々の栄誉を受けている。鰯雲の名は、秋空に整然と広がる鰯雲のながめが、いつも本田さんの心をひきつけ、そこから名付けたという。
「今日まで生きてこられたのは温かく見守ってくれた周囲のみなさんと、苦労をいとわず尽くしてくれた妻のおかげです』と、インクの香のする鰯雲を手にしみじみ。……上富良野の自然や闘病生活、さらに病床の妻を思う心情が行間ににじみ出ており、『感動した』という評が次々に寄せられている。なお付録の著者年譜、記録写真は町教委の村端外利主事が協力、編集した。……

掲載省略:写真〜昭和54年11月21日北海タイムス上川版

◎ 句集選者 岡澤康司の序評
 『鰯雲』には三百五十句が掲載されており、茂の意を汲みながら岡澤康司が選んだものである。茂が「アカシヤ百花集同人」であると共に選者の岡澤がアカシヤ主宰のため、自費出版ながら『アカシヤ叢書(そうしょ)第三十一集 句集 鰯雲』として発刊されている。
 岡澤康司は本名・岡澤彰といい、大正十一年に妹背牛町で生まれ、平成十八年に逝去している。昭和二十四年、北海道大学農学部卒業後北海道庁に勤務しながら、昭和二十八年に土岐錬太郎が主宰する「アカシヤ」に参加、昭和五十二年に土岐を後継して同人主宰になっている。
 この岡澤が『鰯雲』冒頭に、主な句の句評も合わせて、序文を寄せているので抜粋転載する。
  ==『鰯雲』―序文から==(抜粋)

……正に俳句があったればこそ、生き抜き耐へぬかれたのであって、この句集に一貫して流れるものは、生々しいまでの闘病の記録である。
  他郷にて 鳴子俄に 吾子想ふ
は、鎮痛の注射も効かぬ激痛のベッドで、一本だけになった右足がはたして残るかどうかの心の動転の只中に、ひと刻でも想いを家郷に転ずることによって、苦痛をしのぐよすがとし、また、
  樹氷咲き 家恋ふ眉を 責めたつる
は、全く脚も腿も失ってしまって、痛みつづける神経さえも除去する手術を行った作者の涙ながらの家恋いの唄であった。
  いかづちや 脚切りおとす 電気鋸
  下肢に 血のかへり来ず また雁わたる
 だが一方、長い入院生活の陰で黙々と田畑を守り、家計を助けて、四人のお子さんを立派に育てあげられた千代奥さんの献身的なご苦労があったことも銘記しなくてはならない。
  あれは妻の 案山子脚のみ 大き杭
  家計簿の 締あざやかに 妻の除夜
  雪解雨 しみじみ晩年 泣かぬ妻
 これらは、その奥さんに対するせめてもの労りのつぶやきであった。……彼は、長い闘病生活の中で終に両脚を失った。だがその悲惨な格闘の末に掴み得たものは万物に注ぐ限りなき愛情であった。
  差柾の 緋がオリオン はげませり
  鳶も少年 たつきの霜の 納豆売
  茄子の紺 したたる果報 頒ち合ふ
  えにしだに 雨如才なき 紬売
 これらの中に漂うヒューマンなまなざしには心打たれるものがあり、また、
  母の忌の 菜殻火闇を にほはしむ
には、強烈な印象を受けたのを覚えている。今日は母の命日。あの菜殻火の中に母の面影がうかぶ、その菜殻火の匂ひを匂ひとして、作者はいま母の化身の菜殻火をじっと見詰めるのである。更には、
  癒えし子に 水からくりの 玉はづむ
  春暁の 火の香に野鍛冶 老いきれず
などにも、温い目が感じられて好ましい。……
◎ 子息が語る「父の思い出」
 現在も町内に住む長男の本田健祐及び次男の本田邦光両氏は、父上茂の思い出を次のとおり語ってくれた。

 我が家は四人兄弟で、長男(昭和十六年生)、次男(昭和十八年生)は町内に在住しています。本人の思い出を語るには誠に僭越と感じるところですが、編集者からの依頼のことでもあり、思いつくまま書かせていただきます。
 父、本田 茂(以下本人といいます)は昭和十八年、北千島に従軍し、翌十九年に投下爆弾で負傷、終戦で帰国したものの両足の傷は深く、当時の医療水準では思うにまかせず、国立登別病院に入院、昭和三十九年までの約二十年間、十数回にも及ぶ切除手術、その後四十三年にも大手術を受け、その半生は病魔との闘いでもありました。
 自分たちは当時幼少期であり、本人の負傷当時の記憶はあまりありませんが、我が家は農家であり、戦時中、戦後の混乱期に本人不在のため、その労働力を補うため、国の施策による食糧増産の援農報国隊として当時の函館商業高校から、平久保 栄氏(平久保氏は札幌上富良野会会員)、磯野俊雄氏の両大兄が約六か月間当家の営農作業に携わっていただきました。
 時は流れ、やがて自分たちも小学校へと進み、家業手伝いも日課となり、小体に鞭打ち夜暗くなるまで農作業の手伝いを余儀なくされました。
 父母が健在の普通の家庭では、父親が主導権をにぎり重労働は男性の仕事でありますが、我が家では本人不在のため、祖父と母という変則的な家庭環境の中、また舅と嫁という立場での農作業をしながら、母は時には父の役割を果たさなければならず、自分たちの食事、洗濯、養育と多くの苦労を背負っていました。
 このような状況の中、終戦からしばらくして、農業には欠かせない男手確保のため、十年近く東北地方から奉公人を雇っていました。これらの手配は本人が手続きをしていました。
 昭和三十年代半ばから私たちも高学年に入り、家の手伝いも大人並みとは言えないながらも大切な戦力となり、特に長男は一人前の労働力として期待されましたが、当時は畜力、人力を頼りとした重労働であり、小柄な私達には体力的にきついものがありました。
 このような家庭環境の中、本人は絶望にも近いはがゆさを心に、病床のかたわら俳句との出会いがあり、入退院を繰り返しながらも、多くの知人友人に支えられながら、俳句に限らず趣味のカメラ、フィルムの現像、ラジオの組み立て、読書、書述等多くの分野に楽しみ、生きがいの場を求めて行ったような気がします。
 今でも鮮明に覚えていますが、ランプ生活から一転して電気が普及してきた頃、当時としては画期的な上富良野ラジオ放送局(KRH)が開設され、本人が放送所の放送主事を務めていたことを誇らしく思ったものでした。
 本人の四十代から晩年にかけては、積極的に町・農協の様々な組織へ参画したり、義足という大きなハンディがありながらも健常者と同じようにバイクを乗り回し、家族の心配をよそに諸方に出かけていました。
 特に筆字に愛着を示し、いつも俳句辞書を携帯し、硯(すずり)・筆で短冊に俳句を書いていたことが忘れられません。また、しばしば各組織、団体から賞状書きを依頼され、作成していたことも記憶にあります。
 おこがましい限りですが「博覧強記」という言葉のごとく何かにつけて物知りとして頼られ、体のハンディがありますが何事にもポジティブで逆境に強い父でありました。
 晩年、慢性腎不全を患い七十二歳の生涯を閉じましたが、本人を思い起こす機会を与えていただきました関係者に、心よりお礼と感謝を申し上げます。
                                             本田健祐・邦光 記


掲載省略:写真〜家族の団らん(昭和54年)
掲載省略:写真〜北見市相の内にて(昭和43年9月)
掲載省略:家系図〜本田家家系図
掲載省略:家系図〜長澤家-岩崎家家系図

◎参考文献
■アカシヤ叢書第三十一集「句集 鰯雲」(昭和五十四年)本田 夫久朗(茂)
■「上富良野百年史」(平成十年)   上富良野町
■郷土をさぐる誌 第二十四号 十勝岳爆発・山津波に遭遇して 岩ア 治男
■「えべつ昭和史」(平成七年)      江別市
■「文化のあゆみ〜創立五十周年記念誌」(平成二十五年) 上富良野町文化連盟
■北海道新聞(昭和五十四年十一月二十一日上川版) 竃k海道新聞社
■北海タイムス(昭和五十四年十一月二十一日上川版)竃k海タイムス社

機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀