郷土をさぐる会トップページ     第33号目次

― 各地で活躍している郷土の人達 ―
人生をふり返り…そして今

大阪府枚方市 工 藤 英 男(六十五歳)

 はじめに

  原稿依頼を受ける前に、母からラベンダーの冨田忠雄さんが、亡くなられたとの連絡がありました。
 上富良野を出て、子供の時の憧れの松下幸之助さんの松下電器(現パナソニック)がある京阪沿線に住み、四十七年、三度目の職場も、この三月で定年退職になる歳になってしまいました。幼少期から高校生までの思い出と十八歳で大阪に出てからの学生時代と三つの職場を体験して得られた人脈や経験と、最後に上富良野(主に東中)とのかかわりについて、思いつくまま書かせていただきます。


 幼少から高校生のころ 
 小学校時代の思い出は、夏には山々にラベンダーが咲き乱れ、一升瓶に入ったラベンダーの絞り汁を風呂に入れて入ったことや、隣の島田さんから、牛乳を一升瓶で分けていただき毎日飲んだことや、小学六年の時に十勝岳の噴火があり、噴煙が高度一万二千mに達したのには、非常に恐怖を感じました。
 中学校時代の思い出は、高橋寅吉さんが、ため池に氷を張らせたスケートリンク(郷土をさぐる 第三十号)で、我も忘れてスピードスケートで遊んで、両耳が凍傷になり、耳が膨れ上がり包帯で顔が隠れる程でした。クラブ活動は、浜 巌先生(郷土をさぐる 第九号)の指導する温床クラブで、温室での花作り、学校やバス停などを、パンジー、マリーゴールド、サルビアなどの花で飾りました。

掲載省略:写真〜浜先生と温床クラブの仲間(昭和40年)

 初めてのアルバイトが、「ホップ摘み」(郷土をさぐる 第六号)でした。
 中学二年の時、体育の成績が悪いので放課後、跳び箱飛びの練習をしていたら、落下して右腕を捻挫してしまいました。初め町立病院でギブスをして、二・三週間目にギブスを外してマッサージに通ったのですが、固まって腕が動かないので整骨院を転々とし、最後に千葉整骨院(郷土をさぐる 第十五号)の千葉陽一先生にお世話になりました。今でも大変懇意にさせていただいています。確か、東京オリンピックの開会式を整骨院のテレビで見たように記憶をしています。

掲載省略:写真〜千葉先生ご夫妻と(平成18年2月)
掲載省略:写真〜祖父との家族写真(昭和42年)

 「東中開基八十年誌」によると、大正十三年に富良野より上富良野東中に入植した祖父(倭平)が徳島から北海道に移住し、私はその三代目を継ぐはずの長男でしたが、父が勧める永山の農業高校に行かず、富良野高校の普通科に進みました。元々、機械いじりが好き(愛読書は「模型とラジオ」、「初歩のラジオ」)で工業高校に行きたかったのですが、長男なので農業高校に行くべきか悩んでいたら、父が担任の先生に相談して普通科に決めてきました。
 高校時代の思い出は、入学した時に校舎が火災でなかったため、体育館を間仕切り教室にして学んだことと、冬の体育が二週間に一度、丸一日の北の峰スキー場でのスキーの授業でした。クラブは、美術部と物理クラブに所属していました。
 コンピュータとの出逢いは、IBM(アイビーエム:米国に本社を置くコンピュータ関連の世界企業)という会社が電子計算機を作っているとのことを教えてくれた物理の下村久人先生の話からでした。これをきっかけとして将来、コンピュータの仕事に就きたいと思い始めました。当時の現実は、大学ではコンピュータの学科どころか電子工学科もあまり無く、コンピュータの勉強ができるところを探して辿り着いたのが、東京のコンピュータ専門学校でした。一方では、大学には未練があり、東京の電気通信大学の夜間に行きながら、コンピュータ専門学校に行きたいと父に伝えたら、中途半端なことをしないで大学を受験したらと助言がありました。
 しかし、母からは、三人の子供を高校に行かすのも家計的に困難な時期、私学の大学に行くと家が潰れるからやめて欲しいと泣いて懇願された思いが脳裏に焼き付いています。浜先生からは、将来農業を継ぐのは、長男とは限らず最も賢いものが継がなければ成り立たないと聞かされましたので、弟の次郎に農業を託しました。
 大阪でのくらし
  一 学生時代
 大学紛争のさなか、東大入試のない年でした。弟の寂しそうな姿を後に、青函連絡船に乗り、特急日本海で大阪に向かいました。
 当時、学園紛争とはまるっきり関係ない大学だと信じて、大阪電気通信大学に入学したのですが、入学して間もなく大学紛争の煽りがあり、大学がロックアウトになり、四年間のうち授業があったのは、半分もなかったように思います。その間に、憧れの松下電器でもアルバイトをすることができました。
 学生時代には、三人の先生に特にお世話になりました。卒業研究でお世話になった池田潤平先生(人間工学、品質管理)、情報工学の授業でお世話になった石桁正士先生(情報理論、数値解析)、前方後円古墳のコンピュータ処理で著名な小澤一雅先生(パターン認識)です。

掲載省略:写真〜大阪電気通信大学(昭和44年)

 二年の時に、コンピュータのクラブ(EDPSセミナー)に入部し、忘れられない思い出は、夏の合宿で、朝九時から夕方五時まで、コンピュータの原理やアセンブリ言語のプログラミングの勉強会が実施されました。当時は、パソコンのような機器はなく、先輩がコンピュータ替わりに宿題を出し、夜中までこれを解くといった特訓もありました。朝は五時ごろに起こされ、大声での挨拶練習で一日が始まり、このような日課が六日間続き、最終日は慰労会で、卒業生も駆けつけ、アルコールの洗礼を受け、布団が敷かれた横に洗面器が用意されていたのが印象的でした。
 学生時代に一回だけ触らせてもらえたパラメトロン計算機であるOTSUDAC-1を掲載します。機械語でのブログラミングでした。

掲載省略:写真〜パラメトロン計算機OTSUDAC-1

 三年の時、クラブの先輩(太成学院大学の吉川博史教授)の紹介で、日本IBMのデータセンターでのアルバイトがあり、当時の大型計算機であるIBM 360/65のカードの読み込みやラインプリンターからの結果の取り出し、磁気テープや磁気ディスクパックの取り付けなどのオペレーションの補助の仕事でした。
 夕方五時から夜十一時までの勤務で、途中一時間食事休憩があり、一月の給料は、二年後の公務員になった時の月給と変わらないほど高給でした。さらに、社員からPL/I(ピーエルワン:汎用プログラミング言語)のプログラミングについて学び、半年間の経験でしたが、人生の大きな財産となりました。
 四年の時に、クラブの友人(元新野農協の天羽秀典さんとセンコー商事の平林一夫さん)とホンダN360で北海道にドライブ旅行、この時に帰郷して、十勝岳連峰をバックに父と撮ったのがこのスナップです。

掲載省略:写真〜十勝岳連峰をバックに父と平林さん

 求職活動の最中に大学の掲示板に、大阪大学でのコンピュータ要員(日本で初めて国立大学に情報工学科ができ、そこに設置された計算機の管理)の求人を見つけました。躊躇なく応募を決心し、この際に卒業研究でお世話になっていた電子技術総合研究所大阪支所の支所長である納谷嘉信先生に紹介状を書いていただき、公務員になるキッカケのご縁をいただきました。納谷先生は、産業色彩学、品質管理の研究では「新QC七つの道具」で著名な方でした。
  二 大阪大学での思い出
 大阪大学では十七年間勤め、初めの九年間は基礎工学部の情報工学科の技官(教務員)として中型計算機であるFACOM 230-45S、次の一年は大型計算機センターの豊中分室の助手として日本電気の計算機の管理、最後が全学的な規模の情報処理教育センターで七年間助手として、三菱電機の大型計算機であるMELCOM COSMO 900Uと超大型計算機のIBM 3090-200とパソコンであるIBM 5550/5540を400台の管理・運用する業務のみならず、授業支援システムの開発でした。
 情報工学科では、一期生の学生が四年生で、学生さんとは一歳しか違いませんでした。大学院生は、電気工学と制御工学の出身の方がいました。そこでは、四十年も前に、今ではごく普通になっている「人工知能」(志村正道先生、のちに東京工業大学工学部の情報工学科を創設)や家電機器等に採用されている「ファジィ理論」(水本雅晴先生、のちに母校の教授になられた)や今大方の方がパソコンのみならず携帯やスマホでも、お世話になっている日本語入力機構である「かな漢字変換(牧野 寛博士の開発)」、さらには、計算機上での連珠や将棋のゲーム等が、身近なところで研究されていました。前出の志村先生から、研究室の技官を探して欲しいとのことで、親友である鹿児島の串木野出身の花立耕平さん(現、東京工業大学)を推薦し採用され、一緒に楽しく働くことができました。

掲載省略:写真〜情報処理教育センターの演習室(昭和62年4月)
掲載省略:写真〜情報工学科のFACOM230-45S(昭和54年)


 情報理論の田中幸吉先生、符号理論の嵩 忠雄先生、グラフ理論の藤沢俊男先生、計算機言語学の都倉信樹先生(大阪電気通信大学学長)、パラメトロン計算機MUSASINO-1の開発の高島堅助先生、ネットワークの宮原秀夫先生(第十五代大阪大学総長)、ソフトウェア工学の鳥居宏次先生(第三代奈良先端科学技術大学院大学学長)が在籍されていました。
 情報処理教育センターでは、全国規模の研究集会を七つの帝国大学と三つの工業大学で組織して、第一回は九州工業大学、二回目が東北大学の順で、北は北海道大学、室蘭工業大学から南は九州大学まで持ち回りで開催され情報交換をしていました。
 さらに、IBMのコンピュータを導入している大学とのワークショップがあり、神戸の六甲山ホテルにて大阪大学の主管で開催しました。
 また、退職時の直属の上司である西尾章治郎先生が、昨年八月から第十八代大阪大学総長になられたことが非常に名誉に思う今日この頃です。大阪大学の退職前に、両親が来阪した時のスナップです。

掲載省略:写真〜西尾章治郎先生を激励する会(平成27年11月)
掲載省略:写真〜大阪大学の待兼山庭園で両親と(平成2年3月)

  三 奈良高専での思い出
 高専(工業高等専門学校)は、中学校を卒業して、五年間で大学相当の専門教育が受けられる憧れの学校でした。その学校の教員になれるとは夢にも思っていませんでした。奈良高専に移籍した時は、情報工学科の完成年度で、一期生が五年生の時でした。「プログラミング」、「情報処理」、「ソフトウェア工学」、「データベース」などの講義のみならず、担任や寮の当直、クラブ活動の顧問(卓球、バドミントン、硬式野球)、企業見学、卒業旅行の引率等がありました。
 さらに、専攻科の設置の作業と奈良先端科学技術大学院大学との接続でした。新居浜高専と共に全国高専に先駆け平成四年に設置されました。
 特筆すべきことは、野球の顧問をしていた時に、高専大会の全国大会で優勝をしたことです。運動音痴の小生が、途中で負けて北海道旅行に行く予定を持ちながらのチームの引率でしたが、あれよあれよと言っている間に勝ち進み、奇跡的に優勝してしまったのです。その時の学生監督は、専攻科から奈良先端大に進み、今は母校の教員になって、野球部の顧問です。

  四 大阪成蹊大学での思い出
 日本情報倫理協会でお会いした日本ユニシス(株)の松田貴典さん(のちに、大阪成蹊大学副学長)が、大阪成蹊大学に、四年制大学を企画し情報系の学部を創設されるとのことでご縁をいただき、平成十五年四月から現代経営情報学部教授に転身することになりました。開かれた大学や地域貢献の一つとして、学生のみならず一般市民を対象とした各種公開講座やフォーラムなどが開かれていました。この中で、多少なりとも小生がかかわったものを紹介します。

  ◆ 公開講座
 公開講座「二十一世紀を元気に生きぬく!」では、同僚の方の講師発掘によって、次のような方々に登板していただきました。
 平成十六年は「耀く女性起業家」をテーマに、「インターネットで起業?夢をビジネスに育てるには?」潟nートギフトの池田文子社長と「小学五年生の起業物語?ハルカのペーパースコップ誕生」ハルカファミリーの丸野遥香社長(高校二年生)でした。
 平成十七年は「企業が求める人財」をテーマに、「若者を活かしてみんなHAPPY!」キャリアコンサルタントの中村弘成氏でした。
 平成十八年は「地域と知恵の連携」をテーマに、「GISで商売繁盛!〜GISマーケティング最前線」鰍iPSの平下 治社長と、公開シンポジウム「甦る大阪」大阪ガス元副社長の山田廣則氏でした。
 平成十九年は「人間力のすすめ」をテーマに、「グローバル化の下での選択肢」米国P&G社元日本代表の川元彰夫氏でした。
 平成二十年は「限界なき挑戦」をテーマに、「終わりなき挑戦」をテーマに日本レーシングマネジメント鰍フ菅原義正会長(パリダカに三十年間連続出場、二十回連続完走のギネス記録を持つ)でした。(本学の中山晴樹先生[旭川出身で元パナソニック]が企画された)

  ◆ 起業支援フォーラム
 平成十七年には、「元気の出る起業支援フォーラム」をドリームゲート近畿と関西創業サポートセンターと本学園教育研究所の共同開催で大規模なイベントが実現できました。起業の本音トークでは、『プロポーズ大作戦』の「フィーリングカップル5vs5」にヒントを得て、「女性の起業家vs男性の起業家?どっちが○○!?」でした。女性の代表はブースト・パートナーズ鰍フ鶴岡秀子社長と六人の女性社長、男性の代表はドリームゲートのチーフ・プロデューサーの吉田雅紀氏と六人の男性社長でした。この中には、奈良高専の卒業生で京都大学の大学院生の時に起業した誉田商事椛纒\取締役の誉田太朗氏や、息子が世話になっている潟hアズの戸田克己社長にも参加してもらいました。

掲載省略:写真〜起業支援フォーラム(平成17年)

  ◆ 火曜サロン
 平成十六年度から十九年度の四年間、火曜日の夕刻に関西で活躍されている起業家を招いての勉強会を「火曜サロン」と名付けて、後に「起業サロン」と名称を変えて行いました。第一回目が「一人で起業そして十一年目」潟vロアシストの生駒京子社長(母校での後輩)を皮切りに計二十四名の方に登場していただきました。
 このほか知る人ぞ知る著名な方としては、二回目に、「学生ベンチャーはこうして立ち上げる?体験談を通して?」藤原礼征氏(大阪大学総長になられた宮原先生のゼミ生)、四回目は、「未だ人生は語れず」富士コンピュータ販売鰍フ森 和明社長(母校での親友)、六回目は、「もっと知りたい! 流行るお店の秘密」有限会社ヴェックスの寺田勝紀社長でした。

  ◆ 特別講座の起業塾
 平成二十年度から二十四年度の五年間に開催した特別講座の起業塾では、テーマを「君もショップオーナーになろう」、「君も社長になろう」、「君も起業家になろう!」として、延べ回数が八十六回、延べ講師数が三十六名、延べ参加数が一八六五名でした。参加者の大多数は、社会人で他大学の学生の参加もありました。
 このイベントは、前出の起業サロンでお世話になった寺田勝紀氏のご協力によるものでした。ここで、特筆すべきことは、各講座最後のビジネスプランコンテストの審査委員長は、杉田定大氏(元経済産業省大臣官房審議官)、細川信義氏(エンゼル証券椛纒\取締役)、前出の吉田雅紀氏(あきない総合研究所代表取締役)、小西一彦氏(兵庫県立大学名誉教授)のそうそうたる方でした。

  ◆ 北海道での農業体験
 平成十六年に、インターンシップの事前調査(元本学の多方一成先生が企画された)として、三泊四日で学生四人を引率して、上富良野町役場を表敬訪問し田浦孝道総務課長(後に、副町長:小学校からの同級生)からお話を伺い、にんじん工房である多田農園を見学し、にんじんジュースを試飲して、工藤農園においてメロンの収穫体験およびハウスの撤去作業の体験と地元の関係者との懇談も行いました。

掲載省略:写真〜上富良野町役場表敬訪問田浦総務課長(平成16年)

 また、前出の千葉先生のお世話で、名物である「さがり」を賞味することができました。
 平成二十六年に、食ビジネスコースでの「北海道における農業体験」のインターンシップで、八泊九日で学生五人を引率して、新得の共働学舎に六泊七日(日曜日には、池田町ワイン城の見学)で酪農の体験学習に来ました。その後、多田農園では、人参ジュースとワイン用のぶどう栽培や第六次産業についての講義を聴き、加工場などを見学し、「にんじんジュース」や「うの花おやき」をご馳走になりました。
 また、小生の実家で弟の次郎が経営する工藤農園では、メロンの栽培の話と「トア・ルージュ」でのメロンのケーキの試食と、隣の農家五人のお母さん達が営むファームレストラン「あぜ道より道」での昼食に学生を引率しました。

掲載省略:写真〜多田農園にて(平成26年)
 異業種交流会について
 小生が参加している異業種交流会について、代表的ないくつかを以下に、ご紹介します。
  ◆ VEC交流会
 VECとは、一般財団法人ベンチャーエンタープライズセンターの略称で、ベンチャー企業の発展を支援するために、昭和五十年に経済産業大臣の認可を受けた団体として設立され、起業家と支援者の交流を促進するための起業支援事業活動を行い、意欲有るベンチャー企業の創出と発展を支援している集まりです。
 昨年のTBS系の「下町ロケット」の撮影現場を提供された潟tジキンの小川洋史会長も参加されています。写真は、「創立四十周年記念イベント」で本学の留学生の女子学生が参加した模様です。このイベントの懇親会でも、弟のメロンを味わっていただきました。なお、事務局長の澤村さんは、上富良野通で、弟の紹介で「カミホロ荘」にも泊まっていただきました。近いうちにVECの有志での上富良野ツアーの企画を希望されています。

掲載省略:写真〜VEC創立40周年記念イベント(平成27年)

  ◆ 末金会
 「末金会」は、例会は毎月最後の金曜日に、二十年以上続く京都の老舗異業種交流会です。この会には、元大阪ガスの木村隆之さん(会場のあるKRP:京都リサーチパークを造られた方とのことです)の紹介で入れていただきました。
 起業家と支援者を結びつける交流の場として立ち上げられ、経営者、ビジネスマン、アーチスト、伝統工芸関係、学生などが交流を深めています。この会の七月には、例年、弟のメロンを振舞い、秋には従兄弟の多田ワインを試飲していただいています。

掲載省略:写真〜末金会での恒例の集合写真(平成27年6月)

  ◆ 関西ベンチャー研究会ネットワーク
 前出の小西一彦先生らが設立され神戸・大阪・北摂・京都の四つのベンチャー研究会の組織があります。
 神戸ベンチャー研究会は、毎月第四土曜日に、大阪ベンチャー研究会は毎月第三土曜日に、北摂ベンチャー研究会は偶数月第三水曜日に高槻市や茨木市で、京都ベンチャー研究会は奇数月第二水曜日に開催されています。
 例えば、大阪では、「地域活性化とベンチャー」、「六次産業とベンチャー」、「ものづくりとベンチャー」、「ICTとベンチャー」、「学生とベンチャー」、「女性とベンチャー」、「シニアとベンチャー」、「環境・健康とベンチャー」などのテーマで、複数の起業家さんが登場されます。その後、講師の方との交流会・懇親会が盛大に開催されています。

  ◆ 元気城下町クラブ
 「元気城下町クラブ」は、奈良県大和郡山市の上田 清市長の音頭の元に、概ね年二〜三回、十八時一分から大和郡山市内で開催されています。
 肩書き抜きでこの市内を元気にする意欲に燃えた人が集まる場、又共通の問題意識を持つ人たちの輪に入れるような場の提供を行い、産官学が共に「元気」を取り戻そうと、第一回は、平成十五年八月に、筒井の松下電器産業(株)にて開催され、この一月には大和郡山市商工会館「まいどほーる」で三十九回目が開催されました。

掲載省略:写真〜元気城下町クラブでの鏡割り(平成28年1月)

 おわりに
 幼少のころの事と大阪での活動に、思い出を書きましたが、最後に、故郷に関連することを書いて締めくくりたいと思います。
 昨年の十二月関西でも、北海道スペシャル「ドラマ『農業女子 はらぺ娘』」が放映され、注目の上富良野です。
 三重県知事が主催するイベントで、三重県の津市と上富良野町が姉妹都市であるということを、津市役所の職員のいつも和服の素敵な谷 智子さんから聞き、不思議なご縁があると驚きました。たまたま小生の娘の旦那が三重県の大紀町出身です。二年前になりますが、東中中学校の閉校式があり、で中学校の恩師である数学と美術を担当された川口大洲先生に再会することができました。
 札幌在住の西田俊夫さん(元留萌支庁長・上川教育長)と上村昭夫さん(元札幌テレビ)らのお世話で「東中小・中学校クラス会」を開催された時の写真を掲載します。また、今回の執筆のご縁をいただいた平成二十二年に開催の富良野高校の同期会の写真も付記します。

掲載省略:写真〜東中小学校・中学校クラス会(平成24年3月)
掲載省略:写真〜富良野高校 第19回卒業生(昭和44年度卒業)同期会(7-12組)―平成22年10月16日

 そこで、廃校の活用の参考になればと思い、親友の事例を紹介したいと思います。前出の森社長が、兵庫県相生市にある旧相生市立相生中学校校舎を再利用して、相生学院高等学校という私立の通信制高等学校を平成二十年に設立しています。
 現在、二十数ヶ所の分校を設置し、昨年夏の全国高校総合体育大会(インターハイ)のテニス女子団体で初優勝しています。

掲載省略:写真〜相生学院高校テニス部祝勝会

 また、例えば、前出の多方先生がご専門(参考文献)のスローライフ・スローフードなどの教育機関の夏の学校(サマースクール)や野菜の乾燥設備の工場などに、廃校が活用できたらと願っています。
 最後に、ささやかな夢ですが、ラベンダーの花が咲き乱れる頃に日の出公園で、カントリーライブができたらと思っています。たまたま、ご縁ができた熊本のチャーリー永谷さん(八十歳)は、阿蘇で二十七年間、一万人規模のイベント(「約束の日」としても知られる「カントリーゴールド」)を続けられています。そこに、四年前に出演できたブルーグラス・カーネルズも、上富良野での演奏を夢見ています。

掲載省略:写真〜カントリーゴールドでのブルーグラス・カーネルズ(平成25年10月)

 帰省のたびに、仏間の部屋で愛読していた「郷土をさぐる」に寄稿させていただく機会を得ましたことに感謝をしております。四十数年、関西に住むことになったのは、亡き妻(和代さん)との出会いと徳島の親族である「お城の病院」の善成 務先生ご夫妻と元徳島新聞社記者の島 常之ご夫妻らの温かいご支援のお陰で、新たな妻を迎えることができました。さらに、たくさんの方々との出会いに感謝をしております。
《参考文献》
「グリーンライフ・ツーリズムへの創造:ニューツーリズムと着地型ツーリズム」多方一成著
《工藤英男氏の経歴》
昭和三八年三月 上富良野町立東中小学校卒業
昭和四一年三月 上富良野町立東中中学校卒業
昭和四四年三月 道立富良野町高等学校卒業
昭和四八年三月 大阪電気通信大学卒業
昭和四八年四月 大阪大学基礎工学部文部技官
昭和五八年七月 大阪大学情報処理教育センター助手
平成 二年四月 奈良工業高等専門学校助教授
平成一五年四月 大阪成蹊大学現代経営情報学部教授
平成二三年四月 大阪成蹊大学マネジメント学部教授
平成二八年四月 太成学院大学経営学部教授


機関誌      郷土をさぐる(第33号)
2016年3月31日印刷      2016年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀