郷土をさぐる会トップページ     第32号目次

編集後記

編集委員長 北向 一博

 ここ数回の当会役員改選期では留任を基本に若干の異動で経過してきましたが、昨年平成二十六年四月の総会において、前会長の成田政一氏の強い意志で勇退されたことに伴い、今回は大きく役員構成が変わりました。
 編集委員長は、前任の野尻巳知雄氏が幹事長・編集委員に就任したことから、私北向が幹事・編集委員長を仰せつかることになりました。新たな編集委員も加わり、巻末に掲載の構成になっています。今後とも、編集委員一同「かみふらの郷土をさぐる」の発刊に努めますので、皆様のご協力をお願いたします。

 本号の表紙絵には、過去において幾度もお世話になっている佐藤 喬氏にお願いし、十二枚組絵葉書集「上富の譜」から「江幌・照井さん旧宅」と題する絵画を使わせていただきました。佐藤氏は、平成九(一九九七)年に上富良野町江幌にアトリエを兼ねた住宅を建てて移住、翌年に同住宅に自作展示館「江幌小屋」を開館し、旺盛な制作と発表を続けておられます。また、地域に根差した活動もなされており、残念なことに平成二十七年三月末で閉校が決まっている江幌小学校での絵画指導や、江幌開拓百年記念誌「江幌の一世紀」(平成十八(二〇〇六)年十二月二十五日発行)、江幌小開校百年誌(平成二十三(二〇一一)年二月二十日発行)の編さんにも大きく貢献されています。被写体となった旧住宅にお住まいだった照井さんには、この紙面を借りてお礼申し上げます。

 「郷土をさぐる」も出版を重ねること本号で三十二号を数え、郷土歴史の継承等に大きな成果を残してきたものと自負していますが、今後も、成果を引き継ぐとともに、さらに発展をさせ四十号・五十号に向かっていかなければならないと考えています。今のうちに「残しておかなければならないこと」「聞いておかなければならないこと」、今だからこそ「継承しなければならないこと」を観点に、本号から『先人の声を後世に語り継ぐ事業』として、編集委員及び役員が手分けして、町に功績を遺した方々への直接インタビュー取材を行うことを基本に、この記事を掲載していくことになりました。

 本号では二名の記事を掲載し、まずお一人は、上富良野町昭和五十四(一九七九)年自治功労表彰者である宇佐見利治氏の、「第二の故郷での悲願成就」と題した記事です。表彰は町議会議員や行政委員会・審議会の功績を讃えるものですが、この自治功労に限らず、今は少なくなってしまった従軍の語り部として、また、戦後経営に携われた映画館・劇場に関わる当時の娯楽の一端やご家族との近況を交えて、几帳面に記録し書き溜めてきた記事に、現在満一〇五歳を迎えてなお元気な語り口を、ご子息の宇佐見正光氏が文章化し、再編集したものを掲載させていただきました。なお、文末の三原編集委員による「編集委員解説―宇佐見さんの従軍したアッツ・キスカ戦の時代背景―」には、映画や小説などで目にするアッツ島、キスカ島、ミッドウェー諸島の戦闘や、宇佐見氏と同地で同時期に、奇しくも米軍として従軍されていたドナルド・キーン氏(米国出身の日本文学者・日本学者。大正十一(一九二二)年生まれ、九十二歳。現在日本国籍)との関わりについて記述されています。

 「後世に語り継ぐ事業」の二人目は、平成十七(二〇〇五)年度上富良野町文化賞を受賞された千々松絢子氏で、上富良野においても戦前から様々な方によって茶・華道は教授されていましたが、戦後の大衆文化活動草創の時期に、先達であった田中喜代子氏を筆頭に、多くの流派で教授が活躍しました。この中で、茶・華道としては比較的遅い時期ながら、昭和五十四(一九七九)年に「池坊梅窓会」、「表千家宗絢会」を開門、一方では茶・華道開門以前から俳句や俳画の会にも所属し、その後代表を務めるなど、公民館講座や文化祭などを通じて町民に幅広い普及活動をなされています。取材は、担当編集委員によるインタビュー形式で行い、記事は「茶・華道と出会って」と題して、本人の口述文体で整理して掲載しました。

 次に倉本千代子氏による「上富良野の故郷〜三重県津市からのメッセージ」です。上富良野町の開基百年を迎えた際に、上富良野町と三重県津市が友好都市提携を行ったことを契機に、名古屋市に本社を置く中日新聞三重支局が、「故郷へのエール」と題した六回連載のコラム記事を掲載しました。上富良野町と津市の繋がりを、三重支局の記者が来町して直接取材した内容が掲載されています。倉本氏も取材を受けたことから、通常では入手が困難なこの記事のコピーが届けられて手元に残っていたことから、「当時から十七年あまりも過ぎ去ったけれども、友好都市提携の意義を改めて知ってもらいたい」と、この記事の紹介を中心にした寄稿を頂きました。新聞記事の全文採録のため、中日新聞から新聞著作物使用許諾を得て掲載しています。

 上富良野町の開基は、明治三十(一八九七)年の富良野村としての入植開拓によるものですが、人口の増加と共に子弟教育のために簡易教育所、後に小学校、昭和二十二(一九四七)年以降は中学校が開校してきました。しかし、住民基本台帳人口で、昭和三十三(一九五八)年十二月末最大の一九、一八二人を記録して以降減少に転じ、今年平成二十七年二月末で一一,二〇〇人余り、併せて昭和四十年代頃から徐々に進行してきた少子化は、学校の統廃合を時代の流れとしてきました。この足跡を「学校統廃合シリーズ」として掲載しており、この第三番目として「江花小学校」を取り上げました。
 依頼記事として、卒業生で上富良野町在住の渡部洋己氏から「江花小学校の思い出」、上富良野町を離れて暮らす加藤 隆氏から「江花小学校時代の周りの環境と生活」と題した執筆をいただきました。渡部氏は第五十回昭和三十五(一九六〇)年三月、加藤氏は第四十九回昭和三十四(一九五九)年三月の卒業で、偶然ですがお二人は同時に在学されていたわけで、同じ時期を二人の視点から垣間見ることができました。資料編として江花小学校の沿革を執筆いただいたのは田中正人編集委員で、掲載した卒業生名簿の扱いについては、田中編集委員が記述のとおり、個人情報として保護するよりも、地域の連帯や故郷の継承のために郷土史料として残すべきものとして、郷土をさぐる会編集委員会の総意として掲載しました。今後も継続する当シリーズにおいても、可能な限り全卒業生の名簿を掲載していく予定ですので、情報収集へのご協力と合わせて、ご理解をお願いいたします。

 編集委員の三原康敬氏による「ヌプリ(第四号)十勝岳爆發號」は、三原氏が収集、研究されている近代古書の中に発見した北海道山岳会発行の会誌「ヌプリ」の「大正十五年十勝岳噴火を特集した特別号」を紹介し、分析執筆されたものです。特に、泥流災害からの復興に大きな功績を残した吉田貞次郎上富良野村長の寄稿文の全文を掲載しており、当時の惨状と復興への意気込みが、如実に伺えます。

 副編集委員長岩崎治男氏の「東中金毘羅神社の合祀」は、先に本誌第二十七号(平成二十二(二〇一〇)年四月発行)で「東中神社の歴史」として、東中の各地区毎にあった神社の由来と合祀などの経緯を記した記事の、その後を綴る補説として投稿されたものです。
 平成二十二年当時は、氏子の減少に悩みながらも地域で守られていた「東中金毘羅神社」でしたが、この後の離農転出者や後継者のない氏子の高齢化により、平成二十五年二月一〇日に東中神社へ合祀し、廃社に至った経過が記述されています。

 当会幹事長(前編集委員長)の野尻巳知雄氏による「瀧本全應大和尚と大雄寺の変遷」は、昭和二十一(一九四六)年十月に行われた開村五十周年記念式典で、「社会・交通教育衛生功労者」として表彰された瀧本全應氏について、当時住職を務めた「曹洞宗大雄寺」の推移を含め、刊行資料や遺稿、聞き取り取材などによりまとめられたものです。膨大な記事のため、本号で「その一」、次号第三十三号で「その二」の二回で掲載します。

 当会会長の中村有秀氏は、昭和八(一九三三)年二月に北海道によって開業し、その後昭和二十二(一九四七)年に営林署へ、昭和五十三(一九七八)年には上富良野町へと管理者が変わり、平成九(一九九七)年に新築の「吹上温泉保養センター」の開業と共に廃止されたヒュッテ「白銀荘」に関わって、有志により寄贈設置された遭難防止用の鐘について、「十勝岳 白銀荘に甦った『白銀之鐘』が樹林に鳴り響く」と題して掲載しています。
 鐘の設置から、一時所在不明の時期を経て、再び吹上温泉保養センター(新白銀荘)に甦えるまでの経緯について、十勝岳連峰への登山やスキー基地の一つである白銀荘を起点に、様々な人々や団体の繋がりが浮き彫りにされています。
平成二十七年三月末日

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀