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十勝岳白銀荘に甦った『白銀之鐘』が樹林に鳴り響く

上富良野町本町五丁目   中村 有秀
昭和十二年十一月二十八日生れ(七十八歳)

一、『白銀之鐘』の調査の発端は―
 郷土をさぐる誌第三十号(平成二十五[二〇一三]年四月一日発刊)に、―石碑が語る上富の歴史(その十八)―として、中谷宇吉郎博士『人工雪誕生の地』記念碑について私が記しました。
 中谷宇吉郎博士が、十勝岳白銀荘(旧)で雪の結晶の研究をされたことと、上富良野町出身で北海道大学教授の金子元三博士(郷土をさぐる会初代会長金子全一氏の実弟)と中谷宇吉郎博士とは北海道大学の物理学分野での研究の仲であったことから、昭和三十二年に上富良野町で『中谷宇吉郎博士講演会』が開催されました。
 その講演会の開催日が不明でしたので、平成二十四年十二月に旭川市立中央図書館で新聞マイクロフィルムにて調査をしたところ、旭川市での中谷博士の講演会(昭和三十二年十二月八日 旭川市四条九丁目 北洋ビル)の記事が、昭和三十二年十二月九日付北海道新聞に掲載されていましたが、上富良野町での開催についての記事がありませんでした。
 その調査の折、驚くことに『昭和三十二年十二月十日付』の北海道新聞に、

  ― 十勝岳白銀荘に『遭難防止の鐘』
         十人の若い人たちが作る ―

との記事を見つけました。
 『白銀之鐘』が設置されてから五十七年を経ているので、その『十人の若い人たち』の消息は、そして『白銀之鐘』は今どこに等々の探究心が湧きあがったのが、調査の発端でありました。
二、『昭和三十二年十二月十日』付の北海道新聞
 その記事とは
 冬山スキーでにぎわう、十勝岳山麓の白銀荘に、八日から『白銀之鐘』と刻んだ大きな鐘がつり下げられた。
 この山では、毎年のようにガスや吹雪にはばまれて遭難するアルピニストがあるため、荒天でも良く通る鐘の音を頼りに冬山を楽しんでもらおうと、旭川市二条七丁目の野原典雄さん(二十九歳)ら十人の若いアルペングループが、互いに費用を出し合ってつくったもの。
 鐘の大きさは三十五センチ、重さ三十キロで、荒天やガスで遭難の恐れがある時、白銀荘の管理人が打ち鳴らすことになっているが、その音は三キロ四方に響き渡るそうで、スキーヤーたちにはまさに『生命の鐘』と喜ばれている。
と記している。
 この記事に基づいて、五十七年前の調査に着手したのでした。
三、五十七年前の北海道新聞記事の
    グループ代表『野原典雄氏』はいまどこに―
 雪の結晶研究と人工雪の作製の『中谷宇吉郎博士』の調査で、偶然に見つけた『白銀之鐘』の記事でした。
 『白銀之鐘』の設置の動機、参加した仲間、資金造成、設置の苦労話等を聞きたくても、唯一の手懸かりは新聞記事の中でのグループ代表『野原典雄氏』(当時二十九歳)のみでした。
 五十七年前に、旭川市二条七丁目に在住されていましたが、時代は大きく変わった現在、旭川市の中心地に在住しているとは考えられず、また、当時二十九歳であったので現在は八十七歳の高齢になっておられるので、『白銀之鐘』についての調査は難しいと考えました。
 また、昭和三十二年の白銀荘の管理人は『村上義夫氏』でしたが、昭和四十一年に交通事故で逝去されていることや、上富良野十勝岳山岳会関係者に聞き取りを行った結果、設置経過は不明とのことでした。
 結局は、新聞記事にある『野原典雄氏』を捜すことしか方法は残っていませんでした。
 無駄を承知の一か八かの気持ちで、NTTの電話番号案内に電話をしたところ、『野原典雄氏』の名義で電話番号の掲載があり、住所も五十七年前のそのままでした。
 筆者も非常に驚くと共に喜びが溢れ、『白銀之鐘』設置の調査の大きな前進となりました。
 しかし、電話の名義はありましたが、果たしてご健在であるのか不安もよぎりましたが、とにかく『野原典雄氏』宅へ電話をして私の身分を申し上げ、五十七年前の『白銀之鐘』を設置時のグループ代表であった『野原さん』ですかと尋ねると、『はい、私です』との元気な声が返ってきました。
 早速、取材の日程調整を行い、平成二十六年一月二十一日に訪問しましたが、意外な事実が次から次へと出てきました。
四、元気でおられた『野原典雄氏』に取材する
 平成二十六年一月二十一日、旭川市にてご健在でおられた『野原典雄氏』の自宅で、発起人の一人であった『渋谷正己氏』(旭川市東鷹栖に在住で、後に記す「OYOYO会」の事務局担当)も同席されて取材を行いました。
 今から五十七年前の『白銀之鐘』設置のことなので、野原氏、渋谷氏は昭和三十二年に思いを馳せながら語ってくれました。
 取材は時程に沿って項目別に行いましたが、その内容を記します。
@ 『鐘』の設置目的は――
 本文の一〇一頁に、『昭和三十二年十二月十日付の北海道新聞記事』にて詳細に記してあるので、省略します。

A 営林署及び白銀荘管理人との打ち合わせは――
 昭和二十年代の後半から、十勝岳登山とともに白銀荘を利用していた『野原典雄氏』と山仲間は、白銀荘管理人とも懇意になり、白銀荘管理人から『ここに鐘があって、それを鳴らせば位置や方向を確認することもできるのになー』という話を聞いた。
 何年か経った昭和三十二年、野原氏を中心に若い山仲間が『白銀荘に遭難防止の鐘を!』と立ち上がり、当時の白銀荘管理人の村上義夫氏に相談した。
 村上義夫氏は、白銀荘の運営を所管する富良野営林署に『遭難防止の鐘』寄付申し出がある旨を報告し、受入れ体制の了解を得て、野原氏に連絡した。

B 『遭難防止の鐘』設置資金の造成活動は――
 富良野営林署からの『遭難防止の鐘』の寄贈受入れ決定により、野原氏は若い山仲間十六名による発起人会を組織し、代表に最年長の『野原典雄氏』(当時二十九歳)が就いた。
 発起人の氏名・年齢・当時の職業・在学学校名及び現在については、本文一〇八頁「五項」に記す。
 発起人会が作成した『白銀之鐘設置予算書』の内訳は次のようになっている。
 品 名:号鐘一個・直径三十八p・重量八貫目
 場 所:十勝岳白銀荘
 予算額:二五、〇〇〇円
 内 訳:号   鐘  一八、〇〇〇円
     号鐘彫刻費   一、〇〇〇円
     設立諸経費   二、〇〇〇円
     運 搬 費   二、〇〇〇円
     通 信 費   二、〇〇〇円
 資金造成活動は大変であったと述懐されていた。それは、発起人十六名の内、北海道学芸大学旭川分校(現在の北海道教育大学旭川校)在学生が十一名を占めていることと、年齢が代表の野原氏を除いて二十歳から二十四歳の若い山仲間であったので自己財源に乏しく、寄付募金が頼りであった。縁故、知人、友人への寄付募金のお願いで、発起人の皆さんは『十勝岳白銀荘に遭難防止の鐘を!』と奮闘された結果、寄付金は二三、八〇〇円を確保できたと記録されている。
 寄付金の御芳名簿は、白銀荘管理人を通して富良野営林署に提供されたが、現在は所在が確認できない。
 発起人代表の野原氏は、当時はコピー機もないので、御芳名簿が残っていないのが誠に残念であると語り、同席の渋谷氏も頷(うなず)いておられた。

C 鐘の命名及び発注と刻銘のデザインは――
 『遭難防止の鐘』の命名は、どのような経過で決定したのか聞いたところ、白銀荘管理人との協議の中で『白銀之鐘』と自然に決まったという。
 従って、寄付金趣意書及び予算書にも『白銀之鐘』として表題に記されている。
 『白銀之鐘』は旭川市の宮川仏具店に発注され、同仏具店の子息と野原代表が同級生の関係であったため、『号鐘』と『彫刻費』は大勉強してもらったとのことである。
 彫刻のデザインは、発起人の『畠山良樹氏』が担当され、下記のように刻銘されている。
白  銀  之  鐘
一九五七年十二月 八日
 筆者が平成二十六年八月二十五日、第二十五回O(オ)YOYO(ヨ ヨ)展の最終日に『白銀之鐘』を持参して観賞に行ったところ、当時の発起人の方が数人おられ、磨かれた『白銀之鐘』との五十七年振りの再会に、感嘆の声が上がりました。
 その時、刻銘のデザインをした『畠山良樹氏』もおられ、当時、西暦にするか邦暦にするかと悩んだが、今思えば西暦にして良かったのかなーと。

D 櫓(やぐら)工事の資材準備と櫓立の掘削は――
 白銀荘から四方に響く様にと、高さ五メートルの櫓(埋まる部分を入れると約七メートル)になるアカエゾ松柱二本と、それを連結させる桁や、鐘の保護のための小屋根、二本の柱を支える添え木等の資材全部が、富良野営林署によって準備された。
 『白銀之鐘』設置発起人会の予算・決算の中にも、前記の資材関係が一切計上されていない理由が解けた。
 また、約七メートルの櫓を立てる資材や掘削も、白銀荘管理人の村上義夫氏が、初秋の頃から作業を実施し準備を進めていた。
 『遭難防止の鐘』の寄贈を受けるために、営林署においても様々な対応策が図られていたことに、驚きを感じると共に、現在では考えられないことである。

E 『白銀之鐘』の運搬はどのように――
 昭和三十二年十二月七日(土曜日)、発起人十六人中の十人が鐘の運搬と、翌日の設置作業に参加した。
 参加者の大半は大学生であったため、七日の午後の旭川発の汽車に直径三十五p、重さ三十s(八貫目、一貫は三・七五s)の『白銀之鐘』を、吊り下げ穴に鉄棒を通して、左右から持って乗車した。
 午後四時頃、上富良野駅に到着すると、白銀荘管理人の村上義夫氏がトラックを用意して出迎えた。まずトラックで中茶屋まで運び、中茶屋から白銀荘までは、スキーをはいた発起人十人の仲間により、交代で背負って上げられた。
 明日は『白銀之鐘』の櫓を立てる日だと、その夜は興奮しながら眠りに就いたのだった。

F 深雪の中での設置は大変だったのでは――
 昭和三十二年十二月八日(日曜日)、午前八時頃より作業開始で、白銀荘管理人の村上義夫氏が準備してくれた櫓用の柱(アカエゾ松二本)に桁を打ち付け、それに鐘と小屋根の取り付ける者と、掘削した穴の排雪をする者に手分けして、作業は順調に進められた。
 いよいよ櫓を立てる作業に入った。重い櫓を全員で持って穴まで運び入れて、四方に張ったロープを慎重に操作しながら、村上管理人と野原発起人代表の息の合った音頭の掛け声で、ついに櫓を立てることができたのであった。当時の様子を聞くと、「意外に苦労しなかった」という。
 その時、作業に携わった一同から大きな歓声が上がると共に、抱き合ったり握手をしたりで、喜びを分かつ情景が今でも瞼に浮かぶと、野原氏が語ってくれた。
 『白銀之鐘』の初打ちは野原代表が行い、引き続き参加した仲間が次々と打ち鳴らし、最後に村上管理人が『登山者の安全を祈願』して、三打を五回打ち続け、十勝岳のタンネの森に鳴り響いた。
 『白銀之鐘』の設置を無事に終え、午後二時頃白銀荘をスキーで出発して、美瑛町の白金温泉に向かい、そこから美瑛町営バスで美瑛駅へ、美瑛駅から列車で旭川に帰って来たのだった。
 野原典雄氏は、白銀荘管理人の村上義夫氏に物心両面でお世話になったことを振り返り、『今更ながら感謝の気持ちで一杯です』と語られた。
掲載省略:写真「後列左から:村上義夫(管理人)・牧 登氏・渋谷己氏、前列左から:野原典雄氏・上野 実氏(昭和30年2月 白銀荘前での村上管理人とグループの面々
五、『白銀之鐘』設置発起人の当時と現在
 若き山仲間が、純粋な気持ちでの『遭難防止の鐘』設置の発起人となった十六名の皆様の、当時の状況と、五十七年後の現在の状況について記します。
 この中で、発起人十七名中に北海道学芸大学旭川分校在学生が十一名と多いことが、目につきます。
 また、五十七年後の現在は、七名の仲間が逝去されており、歳月の流れを感じます。
 野原典雄氏代表の八十六歳を先頭に、八十歳代の高齢となっても健在の発起人の皆様は、かつての山仲間としての交流と、各々の趣味を生かした『OYOYO展』の出品に、意欲と生き甲斐を見い出されておられます。

掲載省略:図「昭和50年代末頃の白銀荘(右)と勝岳荘(左)の版画絵 ※背景の十勝岳連峰は、実際は正面向いにあり、建物と背景の位置を反転配置したイメージ構図となっている。(北海道電力 河村 健氏の作:提供 釧路町 土田美樹子さん)」
氏名 年齢 昭和32年の状況 職歴と退職時の勤務校 57年間の足跡 特記事項
1 野原 典雄 29 時計店経営
ボーイスカウト隊長
マルテン時計店・パーラーのはらオーナー、山岳・動物写真家 フォト集団「北限」主宰  
2 渋谷 正己 22 北海道学芸大学、旭川分校在学 旭川養護学校 学芸大学卒業後、宗谷・上川管内で教員 マラヤのトレッキング、キリマンジャロの登頂、日本版画協会及び日本山岳会会員
3 畠山 良樹 22    〃 正和小学校(旭川)   〃  、旭川で教員、教育行政にも関わる 書、スキー指導員
4 三上 瑞世 22    〃 末広小学校(旭川)   〃   、旭川で教員  
5 藤田 和弘 24    〃 門別小学校(日高)   〃   、日高管内で教員 陶芸
6 牧   登 21    〃 向陵小学校(旭川)   〃  、旭川で教員 死亡(平成18年1月24日)
7 丹  雄三 21    〃 鷹栖養護学校   〃  、旭川・上川管内で教員  
8 上野  実 22    〃 旭川養護学校   〃  、宗谷管内・旭川で教員 死亡(平成22年1月1日)
9 江尻 真誠 21    〃 龍谷高等学校(旭川)   〃  、空知・上川管内で中学校・高校教員 死亡(平成26年8月10日)
10 野田  誠 20    〃 札幌手稲養護学校   〃  、上川・宗谷管内、札幌で教員 死亡(平成24年4月6日)
11 脇神 玲子 22    〃 大町小学校(旭川)   〃  、釧路管内・旭川で教員 死亡(平成25年)、油彩、ろうけつ染
12 千葉  寛 22 会社員   旭川北高卒業後、会社員、岩内スキー場マネージャー 死亡(平成12年11月5日)
13 小畑 節朗 21 北陸銀行   旭川東高卒業後、北陸銀行  
14 森田 生子 20 北海道学芸大学旭川分校在学   学芸大学卒業後、会社員、主婦 死亡(平成4年)
15 薬丸 澄子 20 会社員   高校卒業後、会社員、主婦  
16 武岡 妙子 20  〃   高校卒業後、会社員、主婦  
六、『白銀之鐘』設置場所の変遷
@ 昭和三十二年十二月八日
 白銀荘(旧)の右横にアカエゾ松を二本組み立て、高さ約五メートルの櫓を組んで設置された。

掲載省略:写真「新聞に掲載された櫓」

A 昭和四十五年頃
 長い間、自然環境の厳しい中で風雪雨に耐えて、岳人や登山者の方向案内や、針葉樹林帯に鐘の音の響きに疲れも癒されてきたが、櫓が倒壊の危険もあったことから、昭和四十五年頃に白銀荘(旧)入口の庇の下に取り付けられた。

掲載省略:写真「白銀荘軒に移設された鐘〜写真提供:釧路町 土田美樹子さん」

 この写真は、『郷土をさぐる誌』第三十一号の、十勝岳三段山と白銀荘に魅せられた『田村義孝氏の没後三十年を偲ぶ』の取材で釧路市に行った折、妹の土田美樹子さんより提供をいただいたものである。

B 平成二十六年九月二十一日
 『二〇一四 全国フットパスフォーラムinかみふらの』が上富良野町で開催された。
 十勝岳パスのゴール地点が『白銀荘』となったので、全国から参加された皆さんと、昭和三十二年十二月に設置した当時の四名の方と共に、『白銀之鐘』の除幕と鐘鳴式が行われた。
 除幕者及び鐘鳴者は次の方々であった。
 ・昭和三十二年設置時の代表者  野原典雄氏
 ・上富良野十勝岳山岳会長    富樫賢一氏
 ・十勝岳パス参加代表―最も遠方の参加者―
          (北九州市) 内田 晃氏
 ・十勝岳パス参加代表―最年少の参加者―
        (士別市・五歳) 徳竹諒太君
 昭和三十二年設置当時の発起人の参加者は、代表者 野原典雄氏(八十七歳)、事務局 渋谷正己(七十九歳)と、『白銀之鐘』刻銘デザイン者 畠山良樹氏(七十七歳)、『白銀之鐘』記念スタンプ作製者 萩原常良氏(七十九歳)と、皆様が高齢にも拘わらず元気で出席され、若き時代の情熱を感慨深く思い巡らせ、当時のことを語っておられた。

 なお、再設置された『白銀之鐘』の下に、白銀之鐘の由来について記した説明文が掲載してありますので、機会があれば、鐘を鳴らして響きを聞くと共に、ご一読ください。
七、『白銀之鐘』の記念スタンプが作成される
 昭和三十四年十二月十日付の北海タイムス紙を、野原典雄氏が保存されており、その紙面に『白銀之鐘』の記念スタンプ寄贈の記事がありましたので、史実の一端としてここに転載します。
白銀荘に記念スタンプ贈る――旭川B・S
 ボーイスカウト旭川第一団ローバースカウト隊(隊長 旭川市 野原典雄さん)が、十勝岳登山口の上富良野町白銀荘に、登山記念スタンプを寄贈した。
 これは、同隊が三年前の十二月に登山者の安全を願って建立した『白銀之鐘』建立三周年を記念して六日寄贈したもの。
 野原隊長ほか十八名の隊員が出席して、和田白銀荘管理人に手渡した。
 記念スタンプの製作者は、昭和三十三年にグループに入った『萩原常良氏』で、OYOYO山の会の会員であると共に、ボーイスカウト、油彩、北海道版画協会会員で、版画では個展も開催している。
八、『白銀之鐘』設置から『OYOYO会』へ
 昭和三十二年十二月八日、十勝岳白銀荘に『遭難防止の鐘〜白銀之鐘』を設置した若き山仲間は、その後も山仲間として行動と交流を深め続けようとなり、昭和三十三年に『OYOYO(オヨヨ)会』を結成し、その会の『おんどとり』(音頭取りの意と思うがあえて平仮名表記)として『野原典雄氏』がなった。
 『白銀之鐘』設置の一年後に、発起人代表の野原典雄氏が設置に賛助いただいた方に宛てた、次のような文が残っていましたので掲載します。
拝啓
 雪がふたたびやってまいりました。
 貴下には益々御清栄のことお慶び申し上げます。
 さて、十勝岳白銀荘に「白銀之鐘」を設置いたしましてから一年、御賛助いただきました「白銀之鐘」は、いよいよ健在でタンネの森で朝夕に美しい音色を、十勝の峰々にひびかせております。
 一年めぐり来た今日、あらためてお礼申し上げます。我々発起人一同は、この一周年の日に、初冬の山を訪れ、冬山の安全を期し、御賛助くださいました貴下の心の端を十勝岳の山小屋で静かに思い度いと存じます。
 鐘も一年成長しました。この成長は、北海道のアルピニズムの正しい発展だと信じます。
 今後一層「白銀之鐘」をはぐくみやしなって下さいますよう、一年目の誕生を迎えるにあたって御礼とお願いを申しあげます。       敬具
   昭和三十三年十二月一日
             野 原 典 雄 他
             発 起 人 一 同
 『白銀之鐘』設置後は、毎年十二月の第一又は第二土曜日〜日曜日に、白銀荘において山スキーと鐘を鳴らすことを楽しみに、会の恒例行事として続けられました。
 会員の多くは教員であったため、勤務地や仕事の関係で白銀荘行きは昭和四十年代の途中で途切れましたが、各々の会員同士で情報交換を行い、冬山、夏山にと山行を楽しんでおられました。
 『OYOYO会』の大きな活動の一つに、会員及び会員の家族も出展できる『OYOYO展』があります。
 これは、会員及び家族の特技や趣味を生かした作品を出品、展示するものでした。
 第一回の『OYOYO展』は、三十七年『カサブランカ』(旭川市内の喫茶店で今はもうない)開催、以降毎年八月下旬に旭川市三条通り八丁目『ヒラマ画廊』で開催されています。
 今回の取材で、鐘設置の発起人で会員の『渋谷正己氏』から、保存されていたOYOYO展の案内はがきの提供をいただきました。
 それは、第七回(平成八年―一九九八年)から第二十五回(平成二十六年―二〇一四)までのものでした。
 この案内文を通読して驚いたことがありました。その一つは、必ず『おんどとり―野原典雄』とあること。二つ目は、案内文が会員が毎年交代で作成し、作成者の個性溢れたイラスト(山関係が多い)とユニークなコメントが書かれ、読んでいて山仲間、芸術仲間の集団ならではのものと思いました。三つ目は案内文がカラー印刷で、各々に作成者独特の色彩感覚が感じられるものです。
 この案内はがきの代表作として、『白銀之鐘』のイラストとユニークなコメントのある第十七回(二〇〇六年開催)と、直近の昨年(二〇一四年)開催の第二十五回の案内文を掲載します。
 郷土をさぐる誌は白黒出版のため、第十七回案内は紫がかった紺色、第二十五回案内は緑色の版面であることをお示しておきます。

掲載省略:図「第17回・第25回OYOYO展案内ハガキ面」
九、おんどとり『野原典雄氏』とは
 『白銀之鐘』の取材において、この会の『おんどとり野原典雄氏』の経歴や人生観について尋ねましたが、多くは語ってもらえませんでした。
 OYOYO会として昭和三十五年に三月に、十勝岳縦走隊長となって成功したことを知り、卓越した指導と行動力に驚きを感じました。
 野原典雄氏が主宰する『フォト集団 北限』が、平成十三年に発行した『点描二〇〇〇年・旭川』写真集は、二十世紀最後の年の西暦二〇〇〇年の『旭川の街の表情と市民生活の息吹』をテーマにして、元旦から大晦日までの一年間を取り続けた記録です。
 写真集巻末「撮影者十八名」の紹介頁に、『野原典雄氏』について記してあり、氏の写真家としての活躍もあることをお示しすべきと考え、ここに転載します。
―― 野原典雄 一九二八年五月十四日生 ――
 私達は毎年多くのフィルムを消費して写真を撮っているが、写した写真をどうしたら多くの人に見てもらえるのか、その発表の場を見失ったらその写真は無になってしまいます。
 発表すると言うことは大変な事だけれど、写真を撮るときと同じくらいのエネルギーを持っていなくてはと思います。

 賞 歴 ――――――
  一九六九年 浅岡信一写真賞受賞
  一九七四年 写真集「ここにいのちが 精神薄弱児  の生活記録」発刊
  一九七六年 旭川動物園のポスター制作(一九九八年まで)
  一九九五年 二科写真部会友推挙

 個展・出展 ――――
  一九五三年 山岳写真展 旭川・札幌にて(一九九八年まで二十三回開催)
  一九五九年 北海道アンデパンダン展(一九六六年まで八回出品)
  一九九三年 嵐山寸描 ヒラマ画廊
  一九九九年 風貴堂ギャラリーオープニング記念展出展

 職 業 : 会社役員  写真歴: 昭和四十九年から
十、『白銀之鐘』の稿を終えて
 本稿の冒頭にも記しましたが、雪の結晶『中谷宇吉郎博士』の調査で偶然に見つけた、昭和三十二年十二月十日付の北海道新聞記事『十勝岳白銀荘に―遭難防止の鐘―十人の若い人たちが作る』がこの稿の始まりでした。
 この新聞記事を持参し、『白銀之鐘』の所在について、現在の『吹上温泉保養センター白銀荘』を所管する上富良野町役場産業振興課商工観光班の深山主幹に、調査を依頼しました。深山主幹は、直ちに調査に着手してくれ、『白銀荘の倉庫に保管されている』旨の連絡と、『白銀之鐘』と刻銘された真っ黒になった鐘の写真を撮って提供を受けました。
 『遭難防止の鐘』ということで、上富良野山岳救助警備隊長の角波光一氏に、道新記事と鐘の写真を持参し、この鐘を何とか復活できないかと相談を持ちかけました。角波氏は、上富良野十勝岳山岳会の富樫賢一会長と伊藤欣治副会長と協議し、五十七年前に設置された『白銀之鐘』を復活する方針が決定されました。
 角波氏は、真っ黒になっている『白銀之鐘』を何とか綺麗にしようと、多湖鉄工所に相談したり、色々な薬品や研磨剤を使用するなどの試行をしながら、見事に磨き上げてくれました。その苦労に感謝を申し上げます。
 平成二十六年九月二十一日、『全国フットパスフォーラムinかみふらの』十勝岳パスのゴール地点である白銀荘前での、『白銀之鐘』再設置除幕と鐘鳴式の準備と実施一切を、山岳会の富樫氏と伊藤氏、山岳救助警備隊の角波氏が取り進めていただきました。
 『白銀之鐘』復活の設置場所については、深山主幹と白銀荘の松田施設長のご配慮に心よりお礼申し上げます。
 旧白銀荘の入口に吊ってあった『白銀之鐘』の写真について、上富良野山岳会関係者に問い合わせましたが、「いつも見ていたが写真までは撮っていない」とのことでした。
 平成二十六年一月二十一日、旭川市の野原典雄氏の取材をし、その翌日に釧路市に向かい釧路町に住む土田美樹子さんの取材を行いましたが、この取材中に旧白銀荘入口に吊ってある『白銀之鐘』の貴重な写真があったので感激しました。
 旭川市、釧路市への取材は、日程的に大変でしたが、歴史の一こまの証明として、意義深いものでした。
 今回の稿は、端緒から、多くの関係者のご協力とご支援によりまとめることができ、また『白銀之鐘』の復活に一役を担えたことに、心からの感謝とお礼を申し上げます。

掲載省略:写真「右が発見時、左が研磨後の白銀之鐘」
掲載省略:写真「左から渋谷正己氏(事務局)、畠山良樹氏(鐘刻銘デザイン)、野原典雄(会長)、萩原常良(記念スタンプ製作)」
掲載省略:図「平成二十六年十月七日付北海道新聞記事〜登山者守った鐘17年ぶり復活」
[取材に協力をいただいた皆様](敬称略)
旭川市   野原 典雄・渋谷 正己・畠山 良樹
      萩原 常良・野田 育郎・戸梶 静夫
釧路町   土田美樹子
上富良野町 富樫 賢一・伊藤 欣治・角波 光一
      深山  悟・松田 靖司
士別市   徳竹 諒太(五歳)
北九州市  内田  晃
[参考文献]
●旭川市立中央図書館所蔵
  北海道新聞・北海タイムスマイクロフィルム
●八〇年 さらに ……白銀荘の思い出の栞
  上富良野町体育協会・上富良野十勝岳山岳会
  上富良野スキー連盟の三団体による編集発行
●旭川市史 第三巻 昭和三十四年七月一日発行
  平成二十六年十月七日付北海道新聞記事

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀