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瀧本全應大和尚と大雄寺の変遷 その一

野尻 巳知雄 (七十七歳)

  本記事掲載者の敬称は、全て省略させて頂きます。
 一,開村五十周年記念功労者表彰者
 上富良野町史(昭和四十二年刊)に記載されている昭和二十一年十月に行われた開村五十周年記念式典の功労者表彰に、「社会・交通教育衛生功労者」として、宗教部門では近藤義憲、中村功雄、瀧本全應、内田是証、長尾乗教の五名の名前が載っている。
 近藤義憲は「真宗大谷派明憲寺」の初代住職であり、内田是証は「高田派専誠寺」の初代住職、長尾乗教は元東中地区にあった「真宗興正派専妙寺」の四代目の住職であるが、「曹洞宗大本山永平寺御直末大雄寺」だけは中村功雄と瀧本全應の二名が表彰を受けている。これは大雄寺の歴史に関係があるものと思われる。
 表彰者の一人中村功雄は「曹洞宗永平寺派説教所」として、明治四十年十月に創設した功労者であるが、大正六年一月に愛知県の某寺の本師が還化したために帰還している。その後を瀧本全應が引継ぎ同年一月二十八日に赴任したと町史に記載されている。
 瀧本全應は、宗教関係の活躍のほかに一般社会においても多くの公職で活躍しており、そのことから大雄寺の創設者ではないが、上富良野の発展に尽くした功績者として表彰されたものと思われる。
 このように瀧本全應は多くの公職により、昭和四十四年に上富良野町自治功労者表彰を受けている名僧で、郷土の誇りとして上富良野の歴史に残されるべき人物と思われるが、今までの郷土をさぐる誌には一度も登場をみていない。
 このことは、氏に関する資料がほとんど残されていない所以もあるが、今回、大雄寺の歴史と共に記録を残させて頂くこととした。

掲載省略:写真「瀧本全應氏」
 二,説教所から曹洞宗「大雄寺」へ
 曹洞宗永平寺説教所は、明治四十年十月二十七日に布教師中村功雄法義(法義=仏法の教義を広める者)が布教のために来村開設し、明治四十二年に信徒が百八十人ほどになったので、寄進により三十坪の本堂を建設して十月に入仏式を行ったものである。
 大正二年に説教所境内敷地を島津公爵より二百五十二坪の寄進があり、一寺建立の基礎をかためて説教所開設の認可を受けた。
 大正六年に島津農場の管理者海江田信哉の尽力により、寄進地に加えて更に現在地九百坪を借りることとなり、堂宇、庫裡を建設して、寺号公称の認可を受ける予定であったが、大正六年一月に創始者の中村功雄が突然愛知県に引き上げてしまったため、寺号公称の認可申請は一時保留のまま棚上げされていた。
 その後永平寺の指示を受けて瀧本全應が赴任して管理者となった。
 同年十月十四日に大本山永平寺御直末となって、貫主明鑑道機大禅師不老閣貎下(永平寺六十六世禅師)に拝謁した。「仏國山」という山号は、大本山永平寺貫主日置黙仙禅師(貫主明鑑道機大禅師と同じ)の命名で、揮亳は永平寺北野元峰禅師(六十七世禅師)である。
 大正七年七月二十九日に、二ヵ年で本堂を建立することを条件に「大雄寺」として正式に寺号公称の認可を受けたが、大正七年以来の物価高騰と不作により、二カ年での本堂建立は不可能となったために、三ヵ年に期間延期願いをし、大正十一年四月二十二日に檀徒百二十戸による浄財を受けて本堂建立の起工が行われた。
 建設委員長に山本一郎、委員に大場金五郎、加藤伊之松、神谷清五郎、伊藤常右エ門、井上清助、金子浩、桑原忠四郎、古川貞吉、遠藤巳之助、下平森市の諸氏で、会計は西谷元右エ門、北川乙吉であり、一年後の大正十二年四月二十二日に落成、入仏式が行なわれた。
 この年に、基本財産として畑地五町歩を買い求めて登記したが、戦後の農地法によって買収されてしまった。
 昭和五年九月十五日聖徳太子講を水田国太郎、井上哲朗、金沢喜代吉、黄田嘉平、遠藤藤吉、佐々木左エ門によって発起され、聖徳太子像を安置する聖徳太子堂を四十一年七月一日に落成をみて、毎年一月二十日と七月二十日を例祭としている。
 十二年四月島津公爵より境内地として三千二百七十二坪の寄進を受け登記した。
 十五年八月二十七日大本山永平寺六十八世貫主泰慧昭大禅師を拝請して二千六百年記念法要を厳修する。
 二十四年八月納骨堂を建立。五十三年本堂・納骨堂を新築、六十三年に庫裡を新設した。

掲載省略:写真「本堂正面全図・寺の背面より十勝岳を望む(大正七年)」
写真「聖徳太子堂」
写真「皇紀二千六百年御親化記念」
 三,十勝岳爆発と大雄寺
 大正十五年五月二十四日、十勝岳の爆発で上富良野村の富良野川水域が泥流に埋没したとき、上川支庁管内の青年団員が大雄寺の本堂に宿泊し、常時五六十名が復旧応援に当たったが、瀧本全應夫妻と檀家の婦人部役員は、献身的に宿泊者の接待を行った。
 この年七月六日には、北海道曹洞宗務所主催で罹災した五十余戸に大本山から見舞い品が送られ、同宗二十六箇寺の住職によって檀徒死者五十二名の追悼法要が大雄寺本堂において厳修された。
 昭和五年五月の十五日には、伊藤常右エ門の発願により、十勝岳爆発横死者追善のため、三十三名の寄進により三十三観音の石像が境内に安置された。

掲載省略:写真「十勝岳爆発新西国三十三所観世音菩薩〜33観音と銘板」
 四,瀧本全應禅師の生い立ち
 創立二世「大雄寺」住職瀧本全應は、福井県武生市池泉町において父大塚幸一郎、母すわの次男として明治二十四年十月八日に生まれ、三十一年三月に七歳で同県遠敷郡野木村盛雲寺の徒弟となり三十六年に十二歳にて「得度」した。
 明治四十年から四十三年までは福井県小浜市の発心寺で、また、四十三年から四十四年までは福井県三方郡巨人龍院寺で修行を積み、四十四年夏からは、福井県桂林寺住職三浦大雄大和尚により立身し修行を重ねた。
 大正三年九月四日に同寺にて「転師」となり、同年九月十一日に同寺にて「伝法」を受け、大正十年二月一日「大雄寺」の住職となった。
 瀧本全應が北海道に来たのは大正三年で、空知郡砂川町で明治二十四年三月に開祖した、最も歴史の古い寺院である曹洞宗「天津寺」に勤めた。
 戸籍簿によると大正四年に「天津寺」住職瀧本謙成禅師に認められて長女ヨシの婿養子となり、大正四年六月二十八日に戸主瀧本謙成が滝川町戸籍吏に婿養子縁組の届けを出している。
 その後、上富良野の曹洞宗説教所の住職中村功雄が愛知県に引き上げたために、その後任として本山の命を受け上富良野へ移住してきた。
 瀧本全應は、大正六年一月二十八日に上富良野村曹洞宗説教所主任となり、大正十年二月一日に「大雄寺」住職に赴任している。
 五,瀧本全應の宗教活動と表彰歴
 瀧本全應は、宗教活動においても数々の功績を残している。
 昭和十年二月十四日に北海道曹洞宗三代(組長制度から北海道曹洞宗務所第十四教区に変更後は二代目となる)第十四教区長(上川管内)となり、 昭和十年から二十六年まで五期十六年間という長い期間にわたり教区長を勤め、昭和十六年には北海道宗洞宗務所代表教区長も勤めている。
 二十二年に高祖大師七百回大遠忌北海道支部委員となり、二十四年に高祖大師御忌法会大本山焼香師を務め、二十六年五月一日北海道曹洞宗務所会計となり、三十一年に九月大本山永平寺副監院となっている。
 表彰では、昭和五年五月十五日大本山永平寺二祖道光普照国師六百五十回法要で永平寺から表彰を受け、十五年十月二十五日永平寺管長表彰、二十三年九月三日・二十六年三月二十七日の二回北海道曹洞宗務所長の表彰、二十七年九月二十九日管長表彰紅章を受けるなど、宗教関係の功績により恩衣の緋衣や多くの表彰を受けている。昭和四十四年十月に大雄寺住職を退き、長男瀧本幸朗に引き継いでいるが、四十五年六月に補権大教師を、同年七月には可黄恩衣を受けた。
 六、瀧本全應の社会活動
 瀧本全應の社会活動では、昭和四十四年に上富良野町自治功労者表彰を受けているが、その足跡をたどってみると、昭和二十三年十二月一日から四十三年十一月三十日までの二十年間の長期にわたり「民生委員児童委員」を勤めている。このことからも如何に瀧本全應の社会的信望が厚かったが伺われる。
:民生委員=民生委員法に規定されている市町村区域に配置されている民間の奉仕者であり、身分は非常勤の特別職公務員とされている。任期は三年で改選は十二月一日となっているが、昭和二十八年に統一されたもので、以前は任意に決められていて、上富良野村時代は七月一日であった。職務は地域住民の生活状態を把握し、援助を必要とするものに対して相談、援助、情報を提供することとされている。
 瀧本全應は、民生委員の他にも昭和二十九年五月二十五日から四十七年十二月二十四日までの十八年七ヶ月間を、「保護司」として活動している。
註:保護司=保護司法・更正保護法に規定された法務大臣から委嘱を受けた非常勤の無給国家公務員である。任期は二年で職務は保護監察官の職務を補佐し、保護区内の犯罪者の教化改善と更正を助け、犯罪予防の啓発に努めることを任務としている。
 また、この他にも「人権擁護委員」を昭和三十年十一月一日から三十五年四月十五日までの二期四年と五ヶ月を勤めている。
:人権擁護委員=人権擁護委員法に基づき、法務大臣が委嘱する非常勤の民間奉仕者である。職務は国民の基本的人権が侵犯されることのないように監視し、もし、これが侵犯された場合には、その救済のために速やかに適切な処置を採るとともに、自由人権思想の啓発に努めることを使命とする。
 また、昭和三十四年五月十二日から四十五年五月まで十一年間、富良野警察署長の委嘱を受け「少年補導員」を勤めている。
:少年補導員=都道府県条例に基づき各警察署に少年補導員を委嘱しており、任務は街頭補導、パトロール、登下校の見守り、少年犯罪の防止の啓発など少年の非行防止の任にあたる。
 この他にも、昭和二十八年には社会福祉協議会役員、三十一年に民生委員推薦委員、三十六年には青少年問題協議会委員などを多くの役職を歴任し、社会事業の発展に多大な貢献を残した。
 滝本全應はこれらの社会活動の実績により、昭和四十三年十一月三十日に、厚生大臣・北海道知事から感謝状の贈呈があり、四十四年九月十四日には北海道社会福祉協議会長表彰、同年十一月三日に上富良野町自治功労者の表彰を受けている。
 このような公職や献身的な社会活動と、宗教関係の布教活動と役職によって残された功績や実績が広く知れ渡っており、歴史的にも名僧としての知名度も高く、宗教関係者や多くの町民からも深く慕われ尊敬されていたが、昭和四十八年二月二十五日、多くの人々に惜しまれつつも八十三歳でその生涯を閉じている。
 七、大雄寺三世住職瀧本幸朗の宗教活動
 瀧本幸朗は、名僧瀧本全應禅師の長男で、大正十年八月二十七日に生誕し、昭和八年十月十五日、十二歳で得度している。立身後旭川大休寺住職佐川玄
彝大和尚に師事し、十六年に駒沢大学を卒業後、昭和十七年から十八年まで旭川市「大休寺」専門僧堂で安居となり修行している。
 修行と言えば、私の友人で元富良野工業高校(現緑峰高校)の教師であった伊藤幹男氏が、「昭和五十九年に四泊五日の日程で永平寺の参禅に参加したことがあったが、その時に永平寺の高僧のひとりに『上富良野の瀧本老師は共に修行した仲で、今も親しくしていただいているが、お元気でおられますか』と聞かれたことがある」と、話されていた。
 曹洞宗では、住職になる前に永平寺での参禅が義務のようになっており、瀧本幸朗も永平寺の参禅に参加されてその時の同志かと考えたが、現住職瀧本良幸師の話によると幸朗師は永平寺での修行の履歴は無く、永平寺の高僧とは大学時代の友人で現在熊本市に在住している上月照宗師ではないかとのことであった。上月照宗師(百歳)とは、現在も年賀状のやり取りをされているという。(永平寺の参禅の修行内容については、後の章で紹介します) 
 瀧本幸朗は、昭和二十八年四月に青少年教化員に推され、三十九年までの十一年間の長きに亘ってその職務を全うされた。
 二十四年四月に旭川市法王寺長女佐藤初代さんと結婚し、二十五年九月七日に長男良幸が生誕している。
 三十九年四月三日に管内梅花流師範となり、四十四年四月梅花流特派師範となって、以後ご詠歌の指導に当たっていた。第四教区の梅花講研修会では、三十九年四月十九日から四十八年六月までの十年間を事務局長の職を勤め、翌四十九年七月から五十七年七月までの九年間を研修会会長を勤めている。
 第四教区関係では、四十九年から五十八年までの九年間を、第四教区長の職を勤め、その集大成として「第四教区の沿革史」を編纂している。
 四十五年に大本山永平寺の参与となり、四十八年七月一日から永平寺副監院を勤めている。
 また、四十一年に組織された曹洞宗教区の寺院家族による「寺族会」では、初代幹事から瀧本幸朗氏の夫人瀧本初代氏が五十年まで勤め、五十二年に会計の職を、五十六年には副会長を勤めている。
 瀧本幸朗は現職時代に老朽化した大雄寺の寺院の建て替えを行っている。
 昭和五十三年に鉄筋コンクリート造り二階建てで、一階部分に本堂を百七十坪の面積で、二階部分は納骨堂に百六坪を新築し、昭和六十二年には平屋建ての庫裡百七坪を新築している。
掲載省略: 写真「瀧本幸朗氏」
写真「昭和62年新築の佛国山 大雄寺」
八,瀧本幸朗の社会活動
 瀧本幸朗の社会活動歴は、教育関係の分野が多い。昭和二十二年四月から上富良野村中央青年会長を、二十二年九月からは連合青年団長を二十四年十二月まで勤めている。
 三十一年ボーイスカウト上富良野第一回委員となり、その後、旭川共立女学校教諭、上富良野中学校教諭、富良野高校上富良野分校講師、二十八年八月二十日からは公民館運営審議委員兼社会教育委員を三十一年九月三十日まで勤め、三十一年十月一日から四十年八月までは教育委員として、四十年九月から四十二年八月までは再び公民館運営審議委員兼社会教育委員を、四十二年十月から四十八年九月までは教育委員長を勤めている。
 このように瀧本幸朗は、宗教活動、社会活動に多くの功績を残しているが、平成二十年一月二十六日に八十八歳の人生に幕を降ろしている。
 大雄寺住職は、全應老師と幸朗老師の二代に亘って宗教活動と社会活動に貢献した多くの実績を残されているが、現在は、四代目の住職良幸師が大雄寺の跡を継いでいる。
 瀧本良幸師は、昭和二十五年九月七日に父瀧本幸朗・母初代の長男として生誕し、昭和四十八年に駒沢大学仏教学部仏教学科を卒業、昭和五十七年一月十一日に上富良野町在住の山本幸一、和子夫妻の長女眞由美さんと結婚し、真希、幸弘、全孝、有香の四人の子どもに恵まれている。
 現在は、大雄寺住職として活躍をされているほか、昭和六十年大本山永平寺参与、平成七年には大本山永平寺副監院、第四教区教化主任、教区庶務、教区護持会事務局を務め、大本山永平寺北海道御直末会事務局を担っている。
 平成二十二年からは「人権擁護委員」を勤めている。
 特筆すべきは、先に建設した大雄寺本堂、庫裡の工事でアスベストが含まれていたことから、平成二十三年二月に、本堂三百五十一平方メートル庫裡五百四平方メートル、と納骨堂その他を含め千百六十一平方メートル、合わせて約二千十七平方メートルの大雄寺を新たに新築し、二十三年三月十一日に入仏式を厳修していることである。現在は現住職の長男幸弘氏(昭和五十九年二月十九日生)が、副住職として大雄寺の運営に携わっている。

掲載省略:写真「瀧本良幸師と長男幸弘氏」・「大雄寺全景(現在)」
九,永平寺参禅の修行(伊藤幹男氏の体験談から)
 先に少し触れたが、伊藤幹男氏が富良野工業高校で教職にあった昭和六十年三月発行の「富良野工業高校生徒会誌『朋友』第二十二号」に「永平寺の世界」と題して、永平寺での参禅の経験を掲載している。この中から抜粋して紹介したいと思う。

 ◆「永平寺の世界」 教諭 伊藤幹男

 昨年の暮れ、永平寺で参禅(師について禅の修行をすること)し、帰ってから『どんなことをしたのか』『それが何になるのか』等、生徒に質問を受けた。ここに書く機会が与えられたので、以下の項目に分けて、一、参禅日課、二、参禅に学ぶ、三、食事の作法の意義、四、道元の哲学の四点について順次説明し、その疑問に答えていきたい。
     一 参禅日課
 参禅者の中には、期間が二泊三日の者と四泊五日の者とがおり、終わって帰る者と途中から入ってくる者とがたえず出入りするので、人数は常時約十名。
 参禅者も修行僧(約百五十名)と同様、次の日課に準じて修行する。
 四時三十分 起床洗面。夏は一時間早くなる。
 四時五十分 暁天(ぎょうてん)(明け方)座禅。一回の坐禅時間
       は、一?(ちゅう)(一本の線香が燃え尽きる
       時間。四十〜四十五分)。
 六時    朝課。全修行僧が読経のため一堂に
       会する法堂(はっとう)に我々参禅者も参列する。
       冷えきった畳の上に素足で正座。一
       日のうちで最も寒くて冷たい。
 八時    粥坐(しゅくざ)おかゆ、たくあん、ごま塩だけ
       の朝食。
 九時    坐禅。
 十時    作(さ)務(むえ)。禅堂、控室、手洗等の清掃。
 十一時   坐禅。
 十二時   斎坐(さいざ)。ごはん、みそ汁、たくあん、
       一品あるいは二品のおかず、それ
       にお茶の昼食。
 十三時   作務。外の作業。天候の都合で中止。
       映画(永平寺紹介)、法話、茶話会、
       写経等に当てる。
 十四時   坐禅。
 十五時   坐禅。途中で経(きん)行(ひん)が入る(座禅中、
       足の疲れを休めるため、途中で立っ
       てひと呼吸ごとに半歩前進し、ゆっ
       くり堂中を歩くことを経行という)。
 十六時   坐禅。
 十七時   薬石(やくせき)。昼食と同じ献立の夕食。
 十八時   坐禅。
 十九時   夜坐(やざ)(初夜の座禅)。
 二十時   開(かい)枕(ちん)。就寝。
 以上の日程で、参禅者も、修行僧とは別の場所であるが、それと同じ作りで出来ている禅堂で、寒気、足の疲れ、睡魔、雑念とのたたかいを終日続ける。
     二 坐禅に学ぶ
 私の参禅経験は、今回が初めてというわけではない。かって学生の頃、鎌倉円覚寺(臨済宗)の大接心(一週間の坐禅)で行じたことがある。
だから、坐禅の仕方については、その時すでに、次のように教わっている。足を組んで、臀部(おしり)を後ろに突き出すようにして座り、背筋をまっすぐに伸ばす。頭の天辺(てっぺん)が天に向かって伸びていくような気持ちで首を伸ばし、顎をひく。鼻先がへそと垂直になり、両耳が両肩と垂直になる。へそから上は、身体のどの部分にも力を入れてはならない。当然、肩の力をぬく。舌を上顎につけて、口を閉じ、鼻で息をする。要するに、へそから下の腹部、すなわち丹田に力を入れてする腹式呼吸である。息をはくときは、出来るだけ時間をかけて少しずつ絞り出すようにし、吸うときは、自然にすーっと息を入れる。右の手のひらの上に左の手のひらを重ね、右の親指の上に左の親指を重ねる。頭の中は、何も考えず、無にする。
 円覚寺と永平寺は、同じ禅宗であるが、宗派が違う。それで座禅の仕方にも多少の違いがあり、手の組み方、呼吸の仕方などはいくぶん異なるが、大すじにおいては全く同じであることから、今回の永平寺の参禅には、自信を持って臨んだのであったが、実際に座ってみると、何度も注意され、直されたりした。
 私の姿勢に正しくないところを指摘されたということは、坐禅の仕方について自分が知っているとこれまで思っていたことが、単に頭だけで理解していたにすぎないということ、そして、間違っている自分の姿勢を自分では正しいと勝手に思い違いをしていたということになるからである。私は、坐禅をまだ身体で知ってはいなかったことに気づかされたのであった。
 教えられたことは、@右肩が少しあがる。A上半身が僅かに右に傾く。B臀部のうしろへの突き出しが不十分である。C顔がわずかにうつむきがちになる。ただこれだけのことを直すことなのであるが、それがなかなか大変なのである。注意されると自分でも意識して直すように努める。ところが、時間が経つにつれ、型がくずれ、もとの癖にもどってしまう。自分がそれに気づかない。また、直される。何回となく同じ事を繰り返し指導を受け、だんだん身体でわかってくると、身体全体が以前よりも自然で楽な感じになり、自分の坐禅に深みが増したような気分になってくるのが、なんとも不思議である。
 私は、坐禅というものが、人類の長きにわたる知恵が生み出した最も疲れない、楽で自然な姿勢であると考える。
     三 食事作法の意義
 食事も、禅堂で複雑な作法にもとづき、坐禅の姿勢で厳しく行われる。まず、食事に使う道具の紹介から始めよう。
@ 応量器(おうりょうき) 一人の食量に応ずる器で、仏教修行の食器。大きさの異なる四つの鉢(おわん)で、順次重ねると一つに収まる。
A
B 刹(せつ) 幅三センチ、長さ二十センチほどの平たい竹製の棒の先にガーゼを巻き付けてあるもの。応量器や箸を洗う道具。
C 箸袋 箸と刹を収める紙袋。
D 布巾 ハンカチ大の布
E 前掛 膝に当てるハンカチ大の布。
F 包蔵布 すべての食事道具を包み収めるハンカチ大の布。
 これらが、食事に係わる道具のすべてである。どれ一つにしても欠かすことの出来ない大事なものであるから、心を込めて大切に取り扱わなければならない。
 そして、その一つ一つの取り扱いに、細かな作法が決められている。食事中に守らなければならない動作の数は、ざっと数えて百ほどに及ぶ。応量器、刹、箸の持ち方、置き方、洗い方、布巾、前掛の使い方、持ち方、たたみ方、包蔵布の広げ方、包み方、結び方。修業僧から食物を受け取る際の動作、挨拶(合掌低頭)。食事後、道具を順次積み重ねひとまとめにする手順等々。
 永平寺の食事作法は、円覚寺のそれに比べて、はるかに複雑で厳しい。初日の説明で一度教えられただけで、次の食事から自分一人の力でやらなければならない。これがまた大変なことで、参禅者は、最後まで苦労する。手順を間違えたり、次の動作を忘れて考え込んだりしていると、修行僧から叱咤の声がとんでくる。「『何をしているのか』、『そんなことを教えましたか』、『置き方が違う』、『無駄な音をたてるな』、『隣を見るな』、『いつまでたったらできるのか』、『姿勢をくずすな』などと、びしびし厳しくせまってくる。 
 修行僧のその厳しい指導が、日が経つにつれて、私にはだんだん優しいものに感じられてくる。そして、作法の一つ一つの型が、よくよく考えてみると誠に自然で理(筋道)にかなっていることがわかってくる。無心になってそれを体得しようと最後まで頑張ったのであった。参禅者の中には、それに堪えられないものもいた。東京から来て三泊四日で終えた四十代初めのある男性は、『もう二度と来たくない!』と、心証を害して帰っていった。
 わが国の伝統文化は、古来、作法や型を重んじてきた。評論家の唐木順三氏によると、「すき」(数奇、茶道など風流に好むこと)から、「すさび」(遊び、なぐさみ)へ、そして「さび」(みがきぬかれた、もの静かでひっそりとしたおもむき)にいたるわが国の芸術理念の伝統が、型の極限までの探求を通してはぐくまれてきたというのである。ようするに世阿弥の芸術にしても、わがまま勝手な考えを捨てて、基本となる型のけいこ・練習をのぼりつめることによって身体を自在にこなしうる自由自在の境地を確立したものであったし、また、「格(きまり、流儀)に入りて格を出る」という芭蕉の考えも、型のけいこの極限をくぐりぬけることによって新しい境地を切り開こうとする精神からでたものであったというわけである。私は道元のあみだした食事作法も、型の文化のこの形成過程の中に位置づけることができるのではないかと考える。
   四 道元の哲学
 『坐禅や食事作法ができて、それが何になるのか』という疑問に答えるためには、道元の世界に入っていかねばならない。思想家の考えを理解することは大変むずかしいとよく言われるが、それは、その内容がむずかしいというよりも、最初からそれを毛嫌いしたり、反発して受け入れまいと身構えたりしてしまうからである。学ぼうとする姿勢の無い者には、真理は開かれてこない。
「真理は、信念をぶちこわすがゆえに、苦痛を与える」。これは、哲学者ニーチェの言葉である。「厳しい真理を前にして自分の信念をぶちこわすことは、誰にとっても苦痛なことである。だから、人は真理に対して目をつぶり、安易なものに逃げ込もうとする。その誘惑にうちかって自己自身に立ち向かっていく勇気や厳しさが、真理を知ろうとする者には必要だ」、とニーチェはうったえているのであろう。
 道元の言葉に、「只管打坐は、心身脱落、脱落心身なり」というのがある。「只管(しかん)打坐(たざ)」とは、余計なことは考えないで、ただひたすらに、一心不乱に座禅に打ち込めということ。「心身(しんしん)脱落(とつらく)」というのは、身体も心もぬけおちて、一切のとらわれがなくなり、自由自在の境地に達するということである。
 さらに、道元はいう。「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法(まんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身、および佗(た)己(こ)の心身を脱落せしむるなり」。
 世の中は無常である。一切が、はかない。名誉も権勢も金銭もみな、はかなく無意味である。無意味なものをあたかも意味のあるもののようにこじつけて、それにすがって生きる自分をわすれてしまえ。捨ててしまえというのである。そして、一切を捨ててしまって、なおかつ、捨てようとする自分の心をも捨てるところまでいってはじめて、仏意(仏の心)・仏法(仏の説いた道、教え)の方から自分に働きかけてくるということが生じるというのである。万法(一切の存在、万物の法則)によって証せられる(証明される、証拠だてられる)というのは、そうゆうことであり、そこまでいかなければ、本来の自己が現れてこないということである。
 人は、本来自己にたちかえったとき、行往(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)、すなわち、食事、洗面、洗浄、勉学等の日常のすべての威儀(立ち居ふるまい、動作)もまた面目を一新する。日常の生活が浄化(清められ)され革新(前と打って変って新しいものになる)される。
 なおかつ道元は、「道は無窮なり」という。一新されて悟りの境地に達したからといって、慢心し(おごりたかぶる)、そこでとどまってしまうならば、法縛、すなわち悟りに縛られてしまうことになる。悟りに執着することもまた捨てよというわけである。
 それではなぜ、人はそこまで徹しなければならないのか。それは、それぞれが本来の自己をとりもどすことがないならば、結局自分本位、利己主義、生存競争、利害打算にとどまり、人と人との真の交わり、連帯を確立することができないからである。
 古代ギリシアの哲学者、ソクラテスが求めたものもまた同じであったのではなかろうか。ソクラテスは、「己れ自身を知れ」、「無知の知」(精神のよさについて無知であることの自覚)ということを人々に呼びかけた。当時、アテネの民主主義は、金権政治の中で腐敗堕落し、人々は、名誉、権勢、金銭を求めて競いあっていた。ソクラテスは、街頭で人をつかまえては、そのドクサ(偏見)に気づかせることを仕事とした。群衆の前でソクラテスとの問答に破れ、自尊心を傷つけられたとする権力者や有名人たちは、ソクラテスが青年達によからぬ教育をし社会を混乱させているといういかにももっともらしい理由をこしらえて裁判にかけ、抽選で選出された裁判官たちのある者をかどわかし、あるいは買収するなどの策を弄(ろう)して、ソクラテスを死刑にいたらしめる。ソクラテスは、命をかけて最後まで本来の自己を追求してやまなかったのであった。
 古今東西の思想家、とりわけ現代ヨーロッパの実存主義者たちが切実に求めているものもまた、「己を自身を知れ」、「無知の知」(精神の良さについて無知であることの自覚)を人々に呼びかけたソクラテスや道元の思想につながる。
 自分自身を問いつめることをやめ、他人に支配され他人のまなざしのもとに生きることによって主体性をなくしている人間のことを、ハイデッカーは「ひと」、ヤスパーは「現存在」サルトルは「惰性体」とか「世界―内―自己―外―事物―内―存在」などと定義し、人間がその状態から超越して実存(本来的自己、真実の人間)をとりもどさなければ、人と人との真の交わり、連帯に到達できないと、これら実存主義者たちは力説しているのである。
 わが国でも今から七百年以上も前になる道元の思想が、修行僧たちによってとだえることなく受け継がれ、その精神が今も永平寺に生き続けている。
(原文は生徒に寄せた文章なので一部省略訂正しています)

掲載省略:図「大雄寺瀧本家々系図」
次号につづく

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀