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『ヌプリ(第四号)十勝岳爆發號』

三 原 康 敬   昭和二十四年九月二十八日生(六十五歳)

  書 誌
 『ヌプリ』は北海道庁内に大正十二年創立され、昭和十年に解散した北海道山岳会発行の会誌で、北海道の山の雑誌としてアイヌ語の山を意味する言葉を題名に付けて刊行された。会誌の『ヌプリ』はその間、四号の刊行で終わっている。『ヌプリ(創刊号)大正十三年一月一日発行』、『ヌプリ(第二号)北海道山岳写真号大正十三年十二月十日発行』、『ヌプリ(第三号)北海道山岳紀行号大正十五年一月一日発行』、『ヌプリ(第四号)十勝岳爆発号大正十五年七月二十日発行』である。
 最終の刊行となった第四号は、上富良野の歴史に深いかかわりのある、大正十五年十勝岳噴火を特集して特別号として出版している。会誌の『ヌプリ』は主に山岳紀行文などをまとめて、冊子として出版しているが、この第四号は『今度の比類ない変災を永遠に記念するためにいつもだしているヌプリの特別号として多くの先生方にお願いして十勝岳爆発記念号を出すことにした。』と、巻頭の「十勝岳よ」で述べている。「編集の後へ(編集後記)」では、会長が―特別号を出して爆発の真相を各方面から収録したら、世の中に十勝岳爆発の概念を与える一方法ともなろうし後々までこの稀有の惨事を伝えることにもなるだろうと―意見を出し、出版することになった経緯に触れている。
 特筆すべきことは、上富良野村の吉田貞次郎村長が災害を受けた苦難についてまとめた文章が掲載されていることである。災害復旧の多忙な業務の中、泥流災害が発生して間もない時期に、村長を中心に村役場の総意をもって村の存亡にかかわる窮状を世に知らしめるため、復興への決意を込めた原稿がまとめあげられたものと考えられる。
 『ヌプリ(第四号)十勝岳爆發号』の書誌は次のようになる。
 編輯兼発行人 竹 内 武 夫
 発行所 北海道庁内 北海道山岳会
 発行日 大正十五年七月二十日
 定 価 非売品
 判 型 菊判(縦・二二センチメートル、横・一五センチメートル。)
     平綴じ、針金綴じ製本。
     序一頁、目次二頁、本文五二頁、写真九頁・一八枚、略図二枚。
 印刷所 札幌印刷株式会社
 この書籍の書誌は、以上のとおりである。
 本に書かれている内容が分かるように、読みやすいよう、一部、原文の旧字体を新字体に改め、目次を掲げる。

掲載省略:写真「冊子〜ヌプリ(第四号)十勝岳爆發号」

ヌプリ第四号目次
  ◆写 真
 □爆発前の十勝岳
 □十勝岳の高山植物
 □爆発後の噴火口と噴火口視察の土木部長一行
 □泥流の上より火口を望む
 □噴火口の直下
 □運鉱場より第一坑に至る鉄道の破損
 □火口内の測量基点から南壁を望む
 □山上付近より泥流の全体を望む
 □上富良野寺裏の流木堆積
 □富良野軍人分会員の流木整理
 □上富良野線路付近の惨害
 □破壊せる家屋と鉄道
 □泥 流 に 悩 む
  ◆記 事
 □十 勝 岳 よ
 □十勝岳爆発について…………………………中 川 健 蔵…1―2
 □十勝岳噴火口に登りて………………………加 勢 情 雄…3―8
 □火山生活の新現象……………………………渡 邊 萬次郎…9―14
 □十勝岳硫黄山爆発原因と現状………………田中館 秀 三…15―22
 □一 包 の 生 命…………………………西 村 真 琴…23―26
 □火山活動と森林………………………………林   常 夫…27―32
 □上富良野地方災害地に於ける農業に就て…石 建 国次郎…33―37
    十勝岳の頂にて…………………………向     陽…38―39
 □十勝岳爆発の史実……………………………河 野 常 吉…40―41
 □狭義の火山力増進……………………………渡 瀬 正三郎…42―46
 □十勝岳爆発に依る惨害につきての感想……吉 田 貞次郎…47―51
    編集の後へ………………………………竹  内  生…52

  噴火災害の寄稿文
 目次にあるように、四七頁から五一頁にかけて、被害を受けた上富良野村の窮状と復興への決意を述べる吉田村長の一文が掲載されている。現在、この書籍は入手が困難であることから、貴重な資料価値があると思われ、『ヌプリ(第四号)十勝岳爆發号』に掲載された吉田村長の寄稿文の全文を伝えるため、パソコンで変換できないことから新字体にした文字を除いて、旧字体と旧仮名遣いのまま引用する。難解な文字には、ルビを付した。

掲載省略:図「十勝岳硫黄山爆發火口畧図」
十勝岳爆發に依る慘害につきての感想
          上富良野村長  吉 田 貞 次 郎
 大正十五年五月廿四日午後四時十分俄然十勝岳爆發して泥流を噴出し山腹の急斜面を流下して蝦(え)夷(ぞ)松(まつ)、白樺、の密林約一方里の積雪、表土、樹木、石等の一切を根底より奪ひて富良野川の峡谷に突入し、新井牧場に散在せる地物の一切を呑み盡(つく)して益々猛威を加へ三重團體(だんたい)の平野に浸入して人畜、家屋、田,畑、道路、橋梁、灌漑溝、排水溝、鐵道(てつどう)、河川等、人力を以て營々苦心三十年に亘り建設したる一切を厚さ數(すう)尺の泥流と無數(むすう)の流木を以て被覆し凄慘(せいさん)たる光景到底筆舌の盡(つく)す能はざる慘況を現出するに至れり此間僅々二十七分間其の被害の迅速なる唯々自然の偉大なる力を驚歎(きょうたん)するの外なし慘害の報一度世に傳(つた)はるや朝野の同情翕然(きょうぜん)として集まり救護に賑恤(しんじゅつ)に災害復舊(きゅう)に大々的活動を見るに至り本村復興の爲め災害後直に夫々の方策を講ぜらるゝに至りたるは罹災村民一同の感激に堪えざる所なり今災害の跡を顧み差當(あた)りたる自己の感想を述べ一つは以て官廳(かんちょう)其他一般江湖の恩顧を感謝し一つは以て將来本村復活の爲め世人援護を希(ねが)ふ(う)所あらんとす。
、十勝岳の鳴動は四月十二日以降?々(るる)繰返し此間旭川測候所に依頼して原因調査を遂げたるも其後大なる變化(へんか)なく火口にありて硫黄採掘せる平山礦業事務所にありても事業を繼續(けいぞく)しある爲め假(か)りに爆發噴火等のことあるも大慘事を惹起する等のことなしと豫想(よそう)し何等避難の處置を講ぜざりしは多數の人命を損じたる今日に於て實(じつ)に遺憾の情に堪えず殊に今回遭難者の内には高齢の婦人多く是等は亡夫と共に本村草分の最初より本村開拓の爲めに身骨を碎き以て今日の基礎を築き上げたる功勞者にして此の尊き人々を今回の慘事に非業の最後を遂げしめたるは天命とは云え乍ら返すくも残念の情に堪えず只(ひた)管(すら)冥福を祈りて止まざるなり。
、慘害の報一度天聽(てんちょう)に達するや直に御内帑(ないど)金御下賜の光榮に浴したるは罹災民一同恐懼感激の至りに堪えざる所にして電報を拜受するや直に夜中各避難所に人を派して聖旨を傳達(でんたつ)し罹災民をして災害復興の爲め再び移住當(とう)初(しょ)の決心に立歸(かえ)らしめ以て優渥(ゆうあく)なる天恩の萬分一に副い奉らんことを謀り同時に北海道廳(ちょう)長官の視察を仰ぎ絶大の同情に浴し道廳(どうちょう)全員を擧げて救護事務及本村復興の爲め努力せられあることを報じ骨肉を失ひ家産を倒盡(とうじん)したる罹災民の志氣を鼓舞する所ありたり。
、今回の慘害は其の被害程度深刻にして罹災者困窮の情は到底涙なくして之を見るに忍びずと雖(いえども)其の被害區(く)域一小局部に止まりあるにかゝはらず朝野の同情と援助とを集中し各官廳(かんちょう)、新聞社、各政黨(せいとう)、在ク軍人會、青年會、其他あらゆる階級に亘り義捐(ぎえん)に救護に全力を傾注せられたる厚志は誠に豫期せざる罹災民の幸慶にして偏に道廳(どうちょう)其他關(かん)係(けい)官廳(かんちょう)各言論機關(きかん)の御厚意に依ることゝ感銘に堪えず日夜感謝しある所なり。

、今回災害を受けたる土地は大部分水田にしてしかも本村最上位の肥沃なる土地に屬(ぞく)し其の生産力平均反當五、六俵を下らずまた富良野村發(はっ)祥(しょう)の由緒ある草分部落として到底此のまゝ遺棄するに忍びず且つこの部落の興廢(こうはい)は延いて本村の盛衰に多大の關係を有し一朝罹災地恢復(かいふく)の望みなしと云ふに於ては忽ち市街地の戸數半減し一村財政の破綻となり集収すべからざる慘況を呈すること誠に燎然たり故に之が復興は本村自己の立場よりまた本道拓殖促進の大局より一日も速かに之を成就し罹災民並に一般村民をして其の緒に安んぜしむるを肝要なりと思意し災害復舊(ふっきゅう)の經費を國庫(こっこ)に仰がんとす併しながら罹災民はまた徒に喪心疑惧することなく飽くまで自己の全力を注ぎ復興事業就中(なかんずく)自己の生業恢復(かいふく)につき勉勵(べんれい)すべきものなりと信ず唯罹災民の多くは今日無資産の状態に陥り之を相當(そうとう)に助勢するにあらざれば再び立つ能はざる位地にあり此點(このてん)官廳(がんちょう)の御憐察を乞はんとする所なり。
、災害地一帯被覆せられたる泥流は或は硫黄分を過多に含みて耕土に適せずまた富良野川の流水は酸性強烈にして灌漑水に適せずまた山腹崩壊の爲め出水一時に氾濫し平常水涸渇して從前の面積を灌漑する能はざる等の諸説一部に傳へらるゝも以上何れも單に推測若くは局部的の見解に過ぎずして何れも正鵠を得ず、現に罹災以後試作しつゝある水稻、蕎麥(そば)、玉蜀黍(とうもろこし)、燕麥(えんばく)等の作物は生育正常のものに比し甚しく劣れりとは云ふを得ざる状態にあり土壌の性状もまた日を經るに從ひ暫次良好に赴き何等悲觀の要無しと信ず目下罹災民をして鋭意試作を敢行せしめつゝあり水量の如きも其の後の降雨に徴するも何等平常と差異あるを認めず。
、今回の災害地は原則として罹災民をして其土地に止まらしめ一日も速に之を復興せしむるを以て大方針とするも中には耕土全部を流出したるもの又は所有地大半河川の流身となりたるもの等あり之等は止むを得ず他に移住せしめて新に農業を營ましむる要あり依て本村の西端に連なり本村にあらざれば交通の途なき留邊蘂御料地の解放を受け以て是等一部の罹災民を収容するに努めんとす。關係當局にありても夙(つと)に此點に留意し同情を垂れられあるは感謝に堪えざる所なり。
、災害地復興の主眼は土木事業の完成にありと信ず此點につき道廳當局の迅速且つ同情ある措置に感激を禁じ得ざるものあり本村として先づ國費を以て全額の負擔(ふたん)を受け大要左の事業を完成せられんことを希望す。
、無數に亂(らん)雑(ざつ)に堆積せられたる流木を除去して土工作業の出來得る状態に土地を整理し
、各河川を浚渫(しゅんせつ)して河水の氾濫を収め
、道路を復舊して罹災地並に奥地の住民をして速に車馬を通ぜしむるの程度に達せしめ
、縦横に排水を堀鑿(くっさく)して荒涼たる原野の乾燥を計り
、區畫(くかく)を整理して各所有地の限界を定め
、灌漑溝を全部復舊して速に造田の方法を講じ
、泥流に委したる水田を國費を以て、補助し土地を改良して再び昔日の美田たらしむる
等各種の方策を講ずるに於ては少くも五ヶ年後從(じゅう)前(ぜん)に劣らざる程度の生産を恢(かい)復(ふく)する必ずしも至難ならずと信ずるものなり。
、罹災者は一時周圍(しゅうい)の高臺(たかだい)にある農家を借り受け収容したるも八月以降収穫期に達せば何れも他に移轉(いてん)するを必要とす殊に冬季に於ては到底現在の家屋に居住するを得ず依て速に罹災者の定住すべき土地を確定し無利息長期償還の資金を政府に仰ぎ住宅を設けて民心の離間(りかん)を防止するの要ありと信ず。
、十勝岳爆發と日を同うして糸屋銀行突然休業し罹災民中同行に預金せるものも全く金融の方途を失ふに至れり本村は此際産業組合を通じて罹災民の經濟(けいざい)上の援助をなし進んで産業恢復の方法を講ずるの要あり然るに産業組合は今回の慘害に依り直接の被害を受けざるも組合員財産流亡の結果は延いて組合の損失を來たし經營上一部の障害を受くるに至れり依て産業組合に長期無利息の資金を供給して其活動を促し以て本村永遠の福祉を攝iするに努めんとす。
一〇 、荒廢(こうはい)に歸(き)したる土地並に罹災したる村民に對しては諸税其他の公課を免除し、速に民力の恢復を圖(はか)り且つ荒廢せる土地の復興を助勢するを刻下に於ける喫緊(きっきん)事なりと信ず。
一一 、爆發(ばくはつ)の原因に關(かん)し諸説紛糾して何れが眞(まこと)なるやを確むるを得ずと雖(いえど)吾人は火山の權威(けんい)者田中館學士の説を眞なりと信じ學士の説を基礎として復興の大計を樹てんとするものなり罹災者目下の心理状態は甚だ不安定のものにして地主、自作者等土地に十分愛着を有するものも果して此の泥土が此まゝ耕作に適するや否やを疑いて容易に手を下すの勇氣なく小作者の如き當然(とうぜん)自己の勞費(ろうひ)を用ゐ(い)て造田又は開墾せんとするの意志なきものあり災後一ケ月を經過して尚復興に關(かん)する自(じ)發(はつ)的計畫(けいかく)の進まざるは吾人の頗る遺憾とする處(ところ)なり、學士の説に從えば千年を以て數(かぞ)ふ(う)る將來はいざ知らず吾人の子孫の代に於て慘害を再びする等のことなしと山災若し意識して吾人に此の苦艱(くなん)を與(あた)ふ(う)るものとせば吾人は此の試練に直面して所謂(いわゆる)千載一遇の好機なりとし人事を盡(つく)して勇往邁進し不撓不屈斃(たお)れて後止むの覚悟を持するを以て當(とう)然(ぜん)の處置(しょち)なりと信ずるものなり。若し夫れ僅少なる復興費の負擔(ふたん)に恐れを抱き自己中心に立脚して愚論を吹聽(ふいちょう)し一村の興廢(こうはい)を度外視する等の徒(やか)輩(ら)に至りては光榮ある過去の歴史を冒?(ぼうとく)するものにして自ら求めて自己の將來を縮少せんとする瞶々者流なり共に刻下の大計を断ずるに足らずとするものなり。
 このように、日本の火山噴火災害史上他に例を見ない、泥流被害の惨状を切々と訴え。村を挙げて開拓当初の努力を無駄にすることなく、災害に屈しない復興への並々ならぬ決意を述べている。
多忙を極める災害復旧の業務の中、北海道庁の主導で作られた北海道山岳会の求めに応じ、吉田村長は被災してから一ヶ月ほどの短期間で当面の所感をまとめあげ、『ヌプリ(第四号)十勝岳爆發号』に寄稿したものと思われる。北海道各地の自治体でも他に経験したことがない大災害を克服するため、村を挙げて復興にあたる方針を表明した。
 この掲載文は、幾多の困難があろうとも災害に屈することなく、上富良野の大地を守り抜くよう、常に十勝岳の火山災害と正面から向き合わなければならない上富良野の宿命を、後世の人々に呼びかける文章であるともいえる。

掲載省略:写真「破壊せる家屋と鉄道」
掲載省略:写真「爆発前の十勝岳(大正十四年八月撮影)」
  噴火の前兆
 十勝岳大正噴火の当時、火山研究は観測機器、観測手段のどれをとっても現在とは比べようもなく、火山学は黎明期の発展段階であった。噴火口で硫黄の採掘事業がおこなわれ、十勝岳が火山であるという認識はあったが、明治時代後期に開拓の鍬が下され、人が住むようになって歴史の浅い麓の上富良野では、十勝岳が災害をもたらす危険な山という認識はなかった。努力して開拓した平坦で肥沃な大地が広がる、耕作に適した土地で、火山噴火の大災害がもたらされる地域であることなど、当時はまったく思いもつかないことであったと考えられる。
 開拓が進み、人口が増え、穏やかな平穏な日々が続いていたとき、山に異変を感じた経緯が吉田貞次郎村長の寄稿文に書かれている。四月十二日以降、十勝岳が鳴動し火山活動の異常な現象があることから、旭川測候所に原因調査を依頼した。その後、大きな変化がなく、平山鉱業が火口内で硫黄採掘事業を継続していることもあり、火山の予備知識があるわけでなく、噴火の前兆として十勝岳の火山活動が活発化し、異常な状態にあるなど判断する事は出来なかった。村の存亡に影響を及ぼす噴火爆発と大惨事が起こることなど予想もつかず、対策を講じなかったため、多数の人命を失ったことを悔やむことが書かれている。寄稿文の「一、十勝岳の鳴動は…」に書かれている内容から、村長はじめ村民が一様に十勝岳の異常を感じていたことが推測でき、後から考えると噴火の前兆ととらえることが出来る現象である。
 地球上にある世界各地の火山は、それぞれ個々に特有の性質を有していることが、火山研究者により解明されている。十勝岳の火山活動を研究している火山学者が、『昭和三十七年噴火』、『昭和六十三年噴火』の火山活動経過を詳細に亘り研究・解明して、噴火に至る十勝岳に固有な火山活動現象を、前兆現象として科学的にとらえている。北海道大学理学部の有珠火山観測所(火山物理学専攻)と地質学鉱物学科(火山地質学専攻)の火山研究者が十勝岳の火山現象を長年にわたり研究・解明して、学術研究書に研究成果として発表している。
 学問としての火山学の研究が進展した今日、火山現象は詳細に解析されており、科学技術の発達がもたらした観測機器により精密な観測を継続することで、過去の噴火と火山現象を研究・分析した多くの十勝岳に関わった火山学者により火山活動が解明されつつある。冷静に活動の前兆をとらえると、十勝岳の火山活動は大規模な火山噴火が突然始まり、避難などの対策が遅れるようなことはなく、大きな噴火活動はある程度予測できる火山であるといえる。
現在、十勝岳の火山活動をとらえるために各機関の観測機器が十勝岳を取り巻くように配置され、噴火に結びつく異常現象をいち早く分析できるよう、充実した観測体制がとられている。

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀