郷土をさぐる会トップページ     第32号目次

学校の統廃合シリーズ(三)
江花小学校の思い出

渡部 洋己  昭昭和二十二年九月二十一日生(六十七歳)

 江花小学校は、明治四十一年に仮校舎が創られ開校となり、正式に江花小学校となったのは、昭和二十二年で、我々が小学校五年生の時に、開校五十周年の式典が行われました。
 私が入学したのは昭和二十九年で、全校児童数は百人を超えていました。私の学年は少なく十五名でしたが、当時は保育所も無かったことから、入学した時が、同級生互いの初顔合わせでした。無論通学は歩きで、私は二・五キロ位でしたが、遠い人は五キロ位あったのではないかと思います。毎日通った通学路も、冬は長靴にスキーを履いて、山越しに近道をしました。吹雪の時は集団下校になり、上級生は下級生を守る、それが集団生活の決まりと自然と身に付いたものでした。
 私は勉強があまり好きではなかったので、勉強のことはあまり記憶がなく、楽しかった課外生活のことが思い出されます。
 先生は、校長先生を含め四人で、一教室で二学年が学ぶ、複式学級でした。
 当時は菊池校長先生で、子供ながらに思ったことは、道徳教育には厳しく、校歌にもあるように「誠の道をひとすじに」でした。
 礼儀正しくは基本で、挨拶は絶対に欠くことは出来ないものでした。このことはいつまでも忘れることがなく、私が親の立場になって、自分の子供が世の中に出ても、誰にでも挨拶の出来る人間にと、しつけたものでした。そのことが子供達が非行に向かわないものと信じている一人です。
 冬の暖房は石炭のダルマストーブで、秋になると四年生以上は、山へ行って焚付け用の木の枝を集め、背負って学校まで運んだ思い出があります。

掲載省略:写真「かつての江花小学校全景」

 また作業と云えば、五年生の時に、開校五十周年を迎えるための準備のことです。グランドの周りに記念樹のヒバを植えるために、校舎から児童が二人一組で、人糞の肥桶を担いで階段を下り、ヒバに与えたことや、体育館のステージに幕を張る準備に、高い窓の欄間に上り作業したことは今でもよく覚えています。現在ではPTAや同窓会などが担う作業であり、考えられないことでした。当時はやはり全戸が農家で、父兄にはあまり負担をかけたくないと考えてのことだったと思います。
 それでも冬の農閑期には、一日おきに四人位の親が、味噌汁を作りに家庭から野菜を持ち込み大きな鍋で味噌汁を作ってくれ、その味はたいへん美味しく、おかわりをして食べたことを今でも覚えています。
 また、戦後の食糧不足もあって、米国からと思うが脱脂粉乳が配給され、それを弁当箱に入れて帰り、食べると甘くてとても美味しかったことも、今では懐かしい思い出です。
 私は勉強が苦手でしたが、スポーツは少し得意だったので、冬はスキーで鍛え、六年生の時に、現在の日の出スキー場で先生と一緒に技術検定試験を受けました。
 結果は私が二級合格で先生が三級だったので、すこし得意気になったことも。
 また夏休みの思い出は、毎朝学校に集まってラジオ体操があり、上級生の頃、親の大きな自転車にまたがりフラフラしながら通い、学校で顔を洗い歯磨きをして、きちんと身なりを整えてからラジオ体操をしたこともありました。
 学校での休み時間等は、すこしの時間があればソフトボールを上級生から下級生まで一緒になり楽しんだこと等思い出に残る出来事です。
 当時はやはり終戦後で、親達は農作業に忙しく、子育てに手が回らないこともありそのことは先生も解かっていて、児童達を我が子のように接してくれた様に思われ、当時二十歳位の女性の荻原先生は、現在神奈川県に住んでいますが、六十年も経った今でも北海道に来た時には我々に会いに来てくれ、当時の思い出話をしてくれます。
    各学校行事の思い出
一 運動会
 江花小学校の運動会は毎年六月一日と決まっていた様で、町内では一番早かったと思います。グランドは校舎から一段下がり、中央には楢の大木があり、一周百五十メートル位のグランドで、当日は農作業も休みで手造りの弁当を持った家族が大勢で応援して大変賑わっていました。
 児童たちは何日も前から練習を行い、運動会当日は白い運動着と白い足袋で統一され、競技の賞品には学用品が用意されていたので、みんな張り切っていました。
 何といっても楽しみだったのは、こんな田舎にも出店が来ていて、そこには普段は食べられないバナナ等があり、帰りには水鉄砲等を買ってもらうのが楽しみで、年中行事の中で運動会が一番の楽しみでした。

二 学芸会
 学芸会の時期は農作業の終る十一月に行われ、劇や合唱、楽器の演奏と人数が少ないので何度も出番があり、その為の練習は毎日で、劇のセリフを覚えるのが大変でした。
 しかし、先生も二学年を教えることで、今思うと先生のほうが大変だったと思います。

三 スキー大会
 児童は通学に毎日スキーで馴らしていることもあり、スキー大会はみんな張り切っていたようで、中学に行っても優秀な人もいました。当時は、ほとんどが長靴でしたが、スキー靴が欲しくて、親にねだり、やっと五年生の時に買って貰ったのですが、スキー大会の日に風邪をひいて、枕元にスキー靴を置いて寝ていたことが悔しくて、今でも思い出されます。

掲載省略:写真「当時の学芸会風景」
    日常生活
 学校の休みの日は、よく隣の家へ行き五〜六人でかくれんぼや、鬼ごっこで男子も女子も一緒に遊び、おやつ等は買ったお菓子は無く、ぐすべり(グズベリー)やカリンズで時には、祖母がじゃが芋やカボチャを煮てくれました。畑に生えている雑草の大黄(ギシギシ)の茎の皮をむいて、食べたこともあり、酸味があって、それもそれなりにうまいものでした。
 昔から我が家には梨の木があり、秋には良く実を付けて、楽しみでした。
 しかし、それは売り物で祖母が管理していたため、自由に食べると怒られ、子供達は落ちた梨しか食べられず風が吹いて落ちるのを待っていて、台風が来たときは、喜んでいた様に思います。
 我々の小学校時代は戦後の食糧不足で口に入るものは何でも食べたけど、食中毒もなかったし、アレルギーなんて言葉も聞いたことも無かったように思います。
 我が家に電気が入ったのは、小学校の頃だったと思います。電気の配線工事後に銅線が落ちていると珍しくて良く集めてきたりしました。テレビは、この辺では隣の家が一番早く導入し、白黒テレビで、日曜日には子供達がテレビの前に釘付けになり、赤胴鈴之介や怪傑ハリマオ等を真剣に見ていました。
 冬はスキー遊びが主で、学校から帰って来ても良く遊んでいました。家の周りの山で、ジャンプ台を作り毎日のように遊んだものですが、今思うと、ゲーム等無い時代、こんな平凡な山でも皆で遊べば楽しかったのだろうな〜と振り返っています。
    家の手伝い
 小さい頃は電気も無かったし、水は井戸水で家から十メートル位離れていたので、風呂に水を汲むのは大変でした。電気が入ってからは、ポンプで水が出るのが画期的に思えたものでした。
 暖房は薪ストーブで、一日に焚く薪を、夜までに運んでおくのが私の役割でした。
 馬は二頭いて、夏は人参を小さく刻むのが仕事でした。またウサギも飼っていて、ウサギの世話は子供達の仕事でした。
 冬になると親達は、収穫物に使う俵や縄を編んでいました。縄は機械で編んでいたので自分も体験してみたかったけど、小さかったからさせてもらえなくて、大きくなればそのうちにと思っていたけど、何年もしないうちにやめてしまい、今思うと少し心残りです。
 私が小学生時代、江花地区に九十戸余りあった戸数も、六十年後の現在は三十七戸に減り、この地区も少子高齢化は避けられず、淋しい限りです。
 それでも、江花地区は他の地区に比べ、若い農業後継者が多く頑張っているので、農業で生き残れる良い時代になってほしいと願っています。
 そんな思い出多い江花小学校も、西小学校の建設に伴い、昭和四十二年三月で五十九年の幕を閉じ、西小学校に統合し、江花からは四十八名がスクールバスで通うことになりました。
 江花小学校の卒業生は、延べ九〇五名になります。その江花小学校も、今では校舎も無く、学校の周りに生えていた大木だけがその面影を残しており、平成十六年、江花開基百年の記念事業として、江花会館の建設と合せて百本の桜の植樹が行われ、十年経った今では花も咲くようになり、春には多くの花が咲き誇り、町民の憩いの場として親しまれています。
 今思えば在校中に、開校五十周年を迎えられたことが、小学校の思い出として、何時までも忘れることが出来ないものとなっています。
掲載省略: 写真「江花開基百年事業で新築となった江花会館(上)と、この時に取り壊した旧江花小学校の国旗掲揚塔(下)」
写真「第50回昭和35年3月の私の卒業記念写真」

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀