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上富良野の故郷
三重県津市からのメッセージ

上富良野町大町 倉本 千代子(八六歳)

 今を遡ること十七年前、町の開基百年を機に、上富良野の女性史を発刊すべく、その完成へ向けて大詰めを迎えていた平成九年八月、津市の中日新聞三重総局の記者、坂口千夏さんが取材に来られました。
 その折に送って頂いた記事『故郷へのエール』が、私の備忘録の中に残されていました。
 そこには、この地に生まれ八十六年を生きた私にも、改めて認識させられる感動の上富良野の姿がありました。そして、その礎となった故郷、三重県津市への思いを新たにすることになったのです。
 振り返って私も二度、津市を訪問しましたが、市役所の庭には「津市・上富良野町友好都市提携記念碑」と記された石のモニュメントと共に、ラベンダーも植えられていました。
 また、三雲町(松浦武四郎の出生地。二〇〇五[平成十七]年一月一日に、松阪市、一志郡嬉野町・三雲町、飯南郡飯南町・飯高町が合併し新しい松阪市となっている)の松浦武四郎記念館の前庭にもラベンダーが植えられていました。そして、館内には北海道の名付け親であると共に旅行家、探検家、作家など様々な面で多芸多才ぶりを発揮したことの紹介や、武四郎が著した日誌、地図類が展示されており、特に武四郎が踏破したとされる順路、地名が細やかに記された地図など、北海道に関する資料なども初めて目にするものでした。
 また、津市の重要文化財に指定されている高田寺本山専修寺や、その近くにある吉田貞次郎家の墓所を参拝する事ができましたが、特に感慨深かったのは吉田貞次郎邸が存在していることでした。
 津市煙草販売組合の会長を勤めておられるという井ノ口さんが購入され、今も当時のままに保存されていて、家の中を拝見させて頂きましたが、木造の古民家ながらも凛としたたたずまいに、今も尚、上富良野の先祖が此処に在するような気がして、改めて津市との縁を深く知ることになりました。
 上富良野の今を生きるものとして今一度、郷土の歴史を振り返ると共に、次世代への指標ともなればと「ふる郷・津市からのメッセージ」を伝えたいと思います。
 中日新聞は、名古屋に本社を置き、営業エリアは東海、近畿、北陸地方にあり、上富良野町においては、特別のつてがない限り目にすることはできないため、この機会に記事「故郷へのエール」をお披露目するものです。

掲載省略:写真「6回連載の新聞記事」
注: 中日新聞の著作権許諾を得て、三重総局による一九九七(平成九年)八月十九〜二十六日、六回の掲載記事全文を採録し、掲載いたします。年齢は掲載当時のまま、また、写真については紙面のコピーを使用しましたので、不鮮明となっています。

『故郷』へのエール [1]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月十九日(火曜日)から

開拓精神 大規模農園を開園
 新天地を求めて安東村(現・津市)から田中常次郎たち一行が、北海道上富良野町へ旅立った。それから百年―。「何にもないのが津の特徴」。そんな言葉がまかり通る県都・津市にとって、先人の不屈の開拓精神はまばゆい。今、街づくりが模索される中、田中らのチャレンジは手本になるかもしれない。
 七月末、津市と上富良野町が友好都市提携を結んだのを機に、開拓の心を継ぎ、北の地に根付いた子孫たちの活躍ぶりや、今も根強い「故郷三重」への思いなどを紹介する。
(三重総局・坂口千夏)
 赤や薄紫色のサルビア、ヒマワリ畑ー。見渡す限りの地面を、色とりどりの絵の具で塗りたくったような華やかな園内に、一本のニレの木が、すっくと立っていた。
 ここ、上富良野町のフラワーランドは、観光を取り入れた生産者主導型の農業を目指して、平成四年六月にオープンした。広さ百f。国内の花木生産・販売額が下から二番目という北海道では、数少ない大規模農園だ。
 社長の伊藤孝司さん(五七)は、三重県から富良野にわたった開拓団の子孫だ。町の歴史は一行がこの地に足を踏み入れた夜、ニレの木の下で野宿したことから始まった。その故事に習い「先人の郷土愛を継承し、自らの心を新たにするために」と、シンボルのニレの木を、農業人生をかけた園内に植えた。
 開拓の歴史に重なるように、十五歳から農業を始めた伊藤さんの人生も「山あり谷あり」だ。町内一の農家を目指し、遠方への通い作までして水田を拡大したところ、減反政策がスタート。数年がかりで米から畑作に切り番えるはめになった。
 平成元年、念願の百f経営を達成。息子二人の協力で順調に見えた農場を、今度は農産物自由化と農産物価格の下落が一度に襲いかかった。
「年々目減りする収益に、とうとう、五十歳をすぎて園芸に転職″することになりました」
 準備に三年。富良野を代表するラベンダーだけでは、夏のひとときしか客を呼べない。偶然に知り合った、故郷三重県の園芸第一人者、赤塚充良さん(津市)の助言を生かし、初夏に咲くジャーマンアイリスとの二本柱で、フラワーランドは開園した。
 その後も、冷夏、干ばつ、長雨と、悪天候に見舞われ、赤字は累積するばかり。会社に見切りをつけた専務が退職する事件も起きた。「生まれて初めて」の営業活動に走り回り、経営が軌道に乗り出したのは昨年になってからの話だ。
  振り返る わずかに五六年
    前を見て 限りある身の 力試さむ
 自ら市場を切り開き、農業を通じて、都市との交流を積極的に進める心意気を歌に託した。「今年は、来園二十万人を突破できそうだ」。その成果は、アイデアと行動力、そして何よりも先祖から受け継いだ不屈の開拓者精神がもたらしたものだ。

掲載省略:写真「人生をかけた観光農園の一角に、往時の開拓精神のシンボルとしてニレの木を植え、記念碑を立てた伊藤さん=上富良野町のフラワーランドで」

     ◇   ◇
〈メモ〉三重県から北海道に入植した開拓団「三重団体」の中から、田中常次郎を団長とする一行八人が、明治三十年四月十二日、富良野川をさかのぼり、上富良野草分地区に定住した。この集団移住は、同町だけでなく、富良野盆地全体を通じての集団開拓の第一歩となった。

『故郷』へのエール [2]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月二十日(水曜日)から

語り継ぐ 開拓団の歴史に光
 「光もないうっそうとした原始林を切り開き、風雪に耐える百年の歴史が始まったのです」―。
 上富良野町の開基百年を祝う七月三十日の記念式典。アナウンスが流れる中、六百人を超える町民が、開拓に汗を流した先人に感謝を込めて黙とうをささげた。
 上富良野町では、今、歴史を再発掘する動きがあちこちに出ている。町で最初の商店や施設の写真を集めているグループもある。「かみふらの女性史をつくる会」もその一つだ。
 「住む場所も、食べ物もない開拓の時代。女性は開墾に励み、炊事や育児もこなしていた。でも、女性の力に焦点を当てた歴史書は一冊もないんです」。倉木千代子会長(六八)は、女性史編集の動機をそう語る。
 会員七人が、二年がかりで五十人から話を聞き取った。長く富良野に住んでいる八十代が中心で、最高齢は九十五歳。
「学校は、クマザサを押し分けるような所を近道しても八`。女はほとんど登校できなかった」
「真っ黒な麦飯。豆の塩煮。食生活は粗末で、今と比べると家畜のえさに等しい」
 お年寄りの口から、苦労話が次々と飛び出した。
 一回に二時間はかかる聞き取り調査は、一人につき最低三回。それでもお年寄りは話し足りないのか、語るに任せると五、六回になることもあった。
「子供にも語ったことがない話を開かせてもらえたんです」
 事務局長の羽賀美代子さん(四九)はこうも言う。「苦労話なのに、明るく穏やかな表情で淡々と語る。その姿を見ているだけで感動しました」
 編集作業を通じて、最初に富良野にくわをおろした三重の開拓団のことも再認識した。
「三重は心のふるさとなんですね」
 この二年の間に、語り部の一人が亡くなった。「協力してくれた人のために早く完成させたい」と、現在、校正作業を急いでいる。来年二月には発行できる見込みだ。
 本の完成で、会の活動が終わり、というわけではない。次は出来上がった本を基に、高校生と語り合う機会も持ちたい。お年寄りの人生観を肉声でも残したい。歴史を語り継ぐ責任を自覚した会の活動は、いま始まったばかりだ。

掲載省略:写真「女性史の校正作業を急く倉本会長(右)と羽賀事務局長=上富良野町社会教育総合センターで」

『故郷』へのエール [3]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月二十一日(木曜日)から

県人会 記念館建設で後押し
 上富良野町草分地区。
 富良野一帯の歴史はここから始まった。そして今「草分」で、先人の軌跡を紹介する開拓記念館の建設が進んでいる。この記念館設立を強力に後押ししたのが、開拓団の子孫たちでつくる三重県人会だ。
 全国から入り込んだ開拓団の中でも、三重出身者の結束は強い。
 最初の入植者が三重県人。大正十五年、泥流にじゅうりんされた町の復興で、旗振り役を務めた故吉田貞次郎村長も三重出身。草分地区そのものが、昭和の時代まで「三重団体」と呼ばれてきた理由はいくつもある。
 県人会の会員は、開拓当初から二〜四代目にあたる五十人。三重の地を踏んだことがない人も多い。だからだろうか。会員たちと話していると、
「三重の方言で話してくれ」
と頼まれる。
 安東村、一身田村…。親から教わった地名を挙げ、
「まだあるのか」
とも聞いてくる。陸上自衛隊上富良野駐屯地に三重出身の司令官が着任すると、会で表敬訪問している。そんな行動を、岡和田繁会長(七三)はこう解説する。
「子孫にとって、三重は切っても切れない縁で結ばれたふるさと。町の開基百年、津市との友好都市提携と大きな行事があり、歴史への関心やじいちゃんたちが生まれた土地″への思いも高まった」
 記念館は十月に完成する。「開拓の由来を知らないと、未来への展望も生まれない」とする県人会が、昨年春から一年間、町に働き掛けた成果でもある。
 町づくりの先人である田中常次郎(開拓団長)と吉田村長の胸像が建ち、吉田村長の自宅を一部移築した館内には、泥流からの復興を伝える記録が展示される。
 県人会のもう一つの願いは、
「三重にいる一族を捜し出す」
ことだ。津市との友好都市提携をきっかけに、三重県との交流をひんぱんにしたいと考えている。
開墾に精いっぱいで、故郷との音信も途切れたままに代替わりを重ねて
「三重の役所にも百年前の書類は残っていない。こちらに残っている記録には、入植日ぐらいしか書いてない。親類がいるのか、調べるすべも分からない」
のが現状だ。
 県人会からは、今秋にも三重を訪れる計画が持ち上がっている。初めて訪れる故郷に、自分のルーツを探り当てる材料は残っているだろうか。会員たちは、期待と不安の思いを抱きながら、その訪問の日を待っている。

掲載省略:写真「「三重県人会」の祖先たちが氏名や入植日を書いた木簡を収めた草分神社。今でも子孫の心のよりどころだ=上富良野で」

『故郷』へのエール [4]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月二十二日(金曜日)から

土地への思い 大災害地再び緑に
 緑のじゅうたんのような水田。あちこちでたわわに実るメロン。
「上富良野じゃあ、北海道でとれる作物は何でもできる」
 農家が自慢する、そんな豊かな土地を、七十年前、硫黄を含んだ泥流が覆い尽くした。
 今も白煙を上げる雄峰・十勝岳が、大正十五年五月二十四日に噴火。わずか二十五分で、泥流が田植え期の農地と百四十四人の犠牲者をのみ込んだ。
 当時、商業高校生だった高士茂雄さん(八五)の記憶は今も生々しい。三重団体の両親が耕してきた草分地区の土地は、
「一面が深さ一bの泥水と、根こそぎ倒れた生木に石。硫黄がぷんぷんにおって鼻をつまんだ。土地ごと洗濯機でもまれたようだった」。
 地面を中和しようと石灰をまいた。ほかの地域から運んだ土も盛った。それでも、硫黄にやられた土地は、三年は草も生えない。
「泥が乾いて硫黄が吹き上がった畑は、コンクリートみたいに白く、ぱんぱんに固まった」
 高士さん一家をはじめ、三重からの入植者はほとんど、生活のためにいったん町を離れた。
 昭和十九年、高士さんは妻と三人の子供を伴って独立。農協に勤める傍ら、草分に戻って六f近い土地を一から耕し直した。地質が変わり、稲しか作れない。地力も落ちた。
「いまだによそが十なら、ここは八。なのに、何でここにとどまったのかと自分でも思う。生まれ育った土地は、住めば都の言葉通り」
 稲作が軌道に乗った矢先に、減反政策が始まった。町の減反率は四八%。
「ひどいと思ってもペナルティーがあって逆らえん」
 田の一部を野菜に切り替えた。今、長男の清一さん(六〇)がメロン栽培を試みている。
「メロンは手間がかかり、栽培面積は広げられん。悪あがきみたいなもんだ」
 大災害を克服し、見渡す限り農地が広がる上富良野町。その町でも
「後継者がなく、農業を辞めたいという人ばかり。北海道は親が興した一代きりの土地。内地(本州)だと、親譲りの地で先祖に申し訳ないという気はあろうが、ここでは辞めるのも簡単だ」
と明かす。農業を取り巻く環境の厳しさが、若者の農業離れに拍車をかける。
「それでも農業をやっていてよかったよ。年とった今でも、やれることが確かにあるから」
 笑ってそう語る高士さんは、かくしゃくとした姿で今日も、何十年前と同じように、畑で精を出す。

掲載省略:写真「泥流の被害を克服した土地で、最近、メロン栽培も試みている高士さん親子=上富良野町草分で」

『故郷』へのエール [5]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月二十三日(土曜日)から

新世代 薄い三重の存在感
 偶然というのだろうか。北海道上富良野町から昨年春、津市の三重短期大学へ進学した女性がいる。
 法経学部二年、伊藤富美子さん(二〇)。何も、津にこだわったわけではない。法律を学ぼうと、全国で進学先を探した時、三重短大は選択肢の一つでしかなかった。
「確か、受験を控えた冬だったと思います」
 茶飲み話に、祖母が町の開拓の歴史を話してくれた。
「小学校の時に、三重団体のことも習ったはずなんですが、忘れていたので…。たまたま選んだ学校が、自分が住む町とつながりがある、という偶然に驚いた」
 三重への親近感を深めて、春を迎えた。それから一年たった今冬、郷里の親からの電話で、町と津が友好都市になる計画を聞いた。
「偶然が続くなと面白く感じました。これが縁なのでしょう」
 帰省した折には、家族や友人に、津や三重の様子を教える。そのたびに、実感することがある。夫婦岩(二見町)。鈴鹿サーキット(鈴鹿市)。
「富良野でも、こんな観光スポットは有名ですが、それが三重県にあるということは、知らない場合が多いんです」
 遠く離れた北海道で、三重の存在感は薄いのだ。
「津と上富良野が友好都市になったのも一つの縁。こんな機会がなければ、互いに行き来することはそうそうない。大きなイベントよりもまず、互いに理解し合うことから始めるべきだと思う」と。
 就職の時期を迎えた今、
「名古屋、大阪に近くて交通が便利。人の感じもいい」
と思う三重に、このままとどまるという。
「住んでみて初めて、その土地もよく分かる。単に遊びに来た人より、私は三重のことを理解できる立場にある」
 自分が見て、感じたことを、これからも上富良野の人たちに伝えるつもりだ。それが「交流の手助けになればいい」と思っている。

掲載省略:写真「『上富艮野町の家族や友人に津のよさを知ってもらいたい』と話す伊藤さん=津市内で」

『故郷』へのエール [6]
津市−上富良野町100年目の友好交流
中日新聞 一九九七年(平成九年)八月二十六日(火曜日)から

新町商店街 交流≠ナ活性化探る
 雄峰・十勝岳を間近にのぞむ上富良野町東部の温泉郷。「これや。これが、ぴったりや」。津市公式訪問団の一員として現地を訪れていた津新町通り商店街振興組合の別所莞至理事長、倉田新常任理事の二人が、町道わきにごろごろある石の一つを指さした。
 縦一・四b、幅と奥行きは一b前後。青みがかった黄土色で、ごつごつとした表面。七十年前の爆発で吹き出した火山岩の一つだ。朝六時前から探し回った目当ての石は、来年、商店街のモニュメントになる。
 新町通り商店街も全国の例に漏れず、市街地の空洞化に悩んでいる。空き店舗も二十軒近くと、全体の一〜一・五割を占める。
 三年ほど前のことだ。江戸時代の津城主・藤堂高虎が郷土史家に注目され、名を冠した祭りや芸能が出てきたように、「過去には何か、学ぶべきものがあるはず」ー。わらをもつかむ思いで、組合幹部が郷土史を調べると、明治時代の開拓者・田中常次郎の名を見つけた。
「田中の開拓精神を、街の活性化の手本にしよう」
 すぐさま行動に移し、独自に上富良野との交流を始めた。
 田中一行は入植初日、ニレの木の下で休んだ。その故事から、商店街の街路樹にニレを選んだ。歩道整備がおわる十二年までに、六百五十bの通り沿いに百二十本を植える予定だ。
 毎年恒例の夏祭りで、昨年、今年と上富良野の町花・ラベンダーを客に配り、津との交流の歴史をPRした。もちろん、今年は友好都市提携の調印式の写真も会場に飾った。
 モニュメントの設置もその一環だ。条件は「一目で上富良野との交流が分かるもの」。そこで、町が昔、泥流から復興を果たした気概も伝えようと、火山岩が選ばれた。
「にぎわいを取り戻すだけなら、スポーツセンターをどんと持ってきて、商店街を利用すれば割引なんてことにすれば話は早い」
と別所理事長。しかし、まちづくりには必ず「芯(しん)」がいる。それが新町商店街の場合、歴史に根差した上富良野との交流であり、先人の開拓精神の継承なのだ。
「一瞬だけ派手にイベントをぶつのではなく、日常の商店街を見てもらったら、上富良野との交流が分かる、というスタイルをとりたい」
 商店街の花いっぱい運動に、ラベンダーは使えないか。上富良野の農産物をうまく商売に生かせないか。特色ある商店街づくりに向けて、まず何をすればいいのかー。
 生き残りをかける新町商店街は、街の再生に向けて上富良野の開拓史から新たな挑戦″と不屈の精神″を学び取ろうと必死だ。

掲載省略:写真「商店街のモニュメントに使う火山石をさがす倉田理事(手前)と別所理事長=上富良野町十勝岳温泉郷で」                        
終わリ

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀