郷土をさぐる会トップページ     第32号目次

第二の故郷での悲願成就

上富良野町自治功労 宇佐見 利治(満一〇五歳)

◎生い立ち
 光陰矢の如く、大東亜戦争終戦後 早七〇年の歳月が流れ食糧難に嘆き、生活にうろたえた当時のことが今は夢。豊富な物資、インターネット社会などでの生活、平和な日々を過ごす現在、想い起し忘れ得ないものは、祖国の栄光を信じ妻子や肉親を残して、戦場にあたら尊い生命を捧げた幾多の戦友達の面影が、今も胸をしめつけるのである。
  短きを 何かなげかむ 君がため
      御玉のために 捨つる命は
と自己の信念を歌に託して、後に続く者を信じ悠久の大義に殉ぜられし戦友を偲ぶ時、片時も心やすまる日々のなかったことが、走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。
 その様な状況下にあって、第二の故郷吾が上富良野町より、遠くは日清・日露の戦いを初日として大東亜戦争に至るまでの間、従軍された方々は激戦地において赫々(かくかく)たる武勲をたてられたのである。
 私は、明治四十二年十二月二十三日に福島県いわき市川前町大字上桶売字沢尻で、父徳蔵(昭和四十九年三月十八日九十七歳の天寿を全うした。)母ヨシ(昭和二十三年十一月二十三日六十六歳で他界した。)の五男(男九人・女三人)としてタバコ農家に生まれた。
 当家は、遠祖人皇第五六代・清和天皇の皇子貞純親王の後胤六尊王・源 經基の第六子、源 清光を祖とする。菩提所は「浄土宗顕彰山公願院安楽寺」である。
 私は、片道三qある上桶売尋常小学校を卒業後、小野新町高等小学校に進学、当時の教育の根源は「教育勅語」、この勅語の精神は「主として忠君愛国」を先生から全身に叩き込まれていった。そして乃木希典大将を崇拝する私は、「ようし、将来は軍人になって陛下に忠勤を励もう」と決意するのである。高等科三年を卒業後、暫くは家族を支えながら農業に従事していた。
◎軍人への憧れ
 昭和三年六月一日、現役志願兵として近衛歩兵第二連隊第五中隊に入営、入隊と同時に峻烈なる本業基本教育で鍛え抜かれながら志を持ち、夜中じゅう勉学に励んできたのである。一期の検閲終了後、昭和四年六月一日、選抜され豊橋陸軍教導学校に入校、昭和五年五月二十八日同校卒業。この間、陸軍歩兵伍長、歩兵軍曹、歩兵曹長に任官し昭和十三年八月一日、憧れの陸軍士官学校に入校、同月十日に陸軍歩兵准尉を拝命するのである。
 この間、中隊にあっては、銃剣道を中心に中隊ごとに競い合い、「鬼の軍曹と評されるように」厳しい指導をしながら兵隊達を育成してきた。
 更には戦場での戦いを想定し、戦闘図(攻撃要図)等を作成し演習など取り組んでいたのである。

掲載省略:写真「私の生涯を讃える頌徳碑が福島県いわき市の生家に建立され、一族で祝って下さった(平成7年4月14日生家にて)」
◎戦場での武勇伝
 昭和十二年七月七日、日中戦争(盧溝橋事件)が起き、昭和十四年五月十一日、ノモンハン事件が勃発する。私は、同年七月三十一日陸軍士官学校を卒業後、直ちに同年八月一日満州派遣歩兵第二十六連隊に転属となって同事件に参加するが、出陣に際し「我に会いたくば尊皇に生きよ、尊皇の存する所常に我あり、天皇陛下万歳」を遺言に残したのである。
 そして、同年八月十九日チチハルの須見新一郎連隊長のもとへ増援部隊の大隊副官として派遣の栄誉に浴するのである。その際、「大君の御楯として喜んでノモンハン戦線に向かう今日の嬉しき 尊皇の士宇佐見臣」と書き残して戦線に立つのである。
 同年八月二十九日、敵の優勢なる戦車部隊の猛攻を受けて我が将兵、約七割を失い「ホロンバイル」の大草原を血で染める事態になった。奮戦中に、全身に十八か所の銃弾破片を受けたが野戦病院での軍医が手術の達人(麻酔なしでの手術)だったことから生き残れた。ハイラル病院入院、奉天旅順経由護送され同年十二月東京第一陸軍病院に収容される。今も胸に銃弾が残っている。

掲載省略:写真「陸軍少尉任官の時」
◎アリューシャン列島攻略
 陸軍少尉に任官。九死に一生を得て陸軍病院で治療後、昭和十五年八月旭川歩兵第二十六連隊留守部隊付となり、中尉に進級して第九中隊長を命ぜられる。昭和十七年三月独立歩兵第三〇一大隊(北海支隊)第4中隊長を拝命。その折、大本営は、米国アリューシャン列島への攻撃作戦が計画された。
 出陣に際して、北海支隊、穂積松年支隊長から将兵一同に訓示が行われ「この度、我が北海支隊は大命を拝し米領アリューシャン群島の攻略に任ずる」と部隊の編成から極秘を遵守してきた攻略地点がここに明示されたのである。一同に緊張の色がみなぎっていたことを鮮明に思い出される。同年六月アッツ島に上陸し占領、第四中隊が一番乗り、チチャゴフに日章旗を掲揚した。同年八月北海支隊はキスカ島に転進上陸し警備についたのである。
◎奇跡の撤収作戦
 大尉を拝命、戦列厳しい状況下の中で、アッツ島「山崎保代守備隊長」以下将兵は十八日間にわたる激戦の末、太平洋戦争で初めて「玉砕」、アッツ島を失い全部隊はキスカ島へ転進。大本営は北方軍(第五方面軍)樋口季一郎司令官の要求で撤収作戦を計画、守備兵約五二〇〇名が濃霧に紛れて素早く撤収することに成功し「奇跡の撤収作戦」(昭和十八年七月二十九日)と評されたのである。
 その折、本部との連絡は敵国に傍受されることを恐れ撤収作戦に向け五日間、宇佐見中隊は三〇qを往復し撤収作戦に参画した。キスカ島撤退作戦では大本営は見捨てようとしたようだが、「木村昌福司令官」のお蔭で「阿武隈・木曾」と駆逐艦等で国に帰ることができたこと「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」帝国軍人として天皇陛下に万歳をした。
 又、中隊長として二名の部下を失った悲しさを想いながら最後に乗船、所要時間は僅か五十五分、救援艦隊と陸海軍守備隊の用意周到な準備と戦場での決断の賜物、武器(三八式歩兵銃・短剣など)・弾薬を海中に投棄させ船体も浮上でき、島から北回りで北太平洋を南下し本国を目指し一路航海した。

掲載省略:写真「宇佐見氏の軍事功績を示す勲章及び従軍記章」
◎戦況の推移と共に
 北千島占守島に上陸警備に当たる。昭和十八年八月陸軍大尉、北千島守備隊に編入作戦参謀として陣頭指揮をとる。昭和十九年三月一日仙台飛行学校及び調布飛行場、豊橋航空施設を経て同年六月一日第一〇一大刀洗(たちあらい)甘木(あまぎ)航空部隊教育隊長、同年六月十日陸軍少佐に任官、昭和二十年三月一日第二一五岡山飛行場大隊長として本土防衛に備えた。昭和二十年八月六日には広島原爆を体験し、同年八月十五日終戦、同時に西部航空部隊終戦処理隊長として米軍に武器、弾薬を引き渡す。昭和二十一年三月復員除隊。
◎戦後の心境
 昭和三年六月より昭和二十一年三月まで職業軍人として軍務に精励した中にあって、銃弾などを受けながら生きながらえたのは、私の母親も戦列厳しい状況で、千年育った天然記念物になっている「杉の木」のご神木に、毎日手を合わせ「国のため・親のためにと朝な夕な 励む我が子を神守りませ」とお百度参りをしてくれたお陰かも知れない。十八発の銃弾を受けながら急所を外れており、これは正に神のご加護と戦友たちの「御霊」が守ってくれたことを考え、生き残れる者、自らの手で英霊の武勲功績を讃え後世に顕彰し、日本の限りない発展と世界の恒久平和を願い、上富良野(三野優氏・久保茂儀氏の協力により期成会を設立したのが大きい事と渡辺悟郎遺族会長からの強い要請など)や札幌・九州の大刀洗に、戦友たちや有志に呼びかけて「社殿」「忠魂碑」の建立を行ってきた。常に、人を大事にしながら、昭和天皇の崇敬会の代表としても、「国家」と「自衛隊」「上富良野町」の繁栄を願ってきた。
掲載省略: 写真「第28回アッツ・キスカ・北千島戦友会50年慰霊祭(平成7年3月29日:東京都千代田区靖国神社にて)」
◎町議会議員活動
 長い公職追放が解除され、育ち行く我が子の小学校入学により、上富良野小学校のPTA役員に選出されたのが公の場への第一歩であった。
 以来、教育に情熱を燃やして次代を担う学校教育のお手伝いに専念、四十二歳でPTA会長に選出され、荒廃した校舎整備と教育の機会均等を訴えた。更にこの実現を確かなものにするため、昭和三十四年、上富良野町議会議員の選挙において町民の熱い思いと負託を受け最高得票を得て初当選、議会活動がスタートしたのである。特に、教育の重要性を唱えて教育意識を高揚し、教育環境の整備充実に努力、今日の礎を確立することに繋がってきていると感じている。
 又、小学校から中学校へ、そして高校へと一貫した教育が重要と考え、当時本町には公立高校が無いことから、議会の中でも議論をしながら高校誘致への陳情のため町議会議員二十六名で知事公邸を訪問、当時の北海道知事町村金五氏に陳情したのであった。
 これらの積極的な行動による念願が叶い、現在の道立上富良野高等学校設置の実現に結びついたのである。又、西小学校の開校に向けては、町議会教育民生委員長として、当時の教育長 久保茂儀氏と連携し日新・草分・江花・里仁の各小学校の通学区域変更により、新設校設置の論議を展開、その実現に向け東奔西走したものである。
 更に、旭野小学校の上富良野小学校への統合も推進し、厳しい町財政の中、町理事者は快く理解を示され、決断してくれたものと今も感謝の念で一杯である。
 私は、常に教育に求められているのは、豊かな独創性と確固たる自律心であると思っている。これを身に付けるためには、成長する能力に応じ、伸び伸びと学ぶ教育環境を整えることが重要である。この固い信念をもって、PTAの皆さんや議会議員などの支援を頂き行動したことが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
昨年度、上富良野小学校が改築されたと聞き、歳月の流れをひしひしと感じている。

掲載省略:写真「選挙運動車上で(右から私、姪の伊藤桂子、次女陽子)」
◎役場庁舎移転新築
 更に、書き残しておきたいことは、当時、海江田武信町長が任期満了を迎えるにあたり、節目となる重要政策に位置付けて、役場庁舎建設の発議を起こし、これを実現させたことである。当時の役場庁舎は狭く、2〜3か所に分散していた時代であった。町の伸びゆく発展の途上において、町長が執務を統一しえない環境で、町政執行は困難であるとの趣旨を交えて議論した。反対意見を乗り越えて将来展望を見据えながら、地方自治体は富良野経済圏を統一すべきであるという私の持論から、現在地より一歩でも南寄りを主張したが他の意見(現在地・宮町4丁目)も多かった。又、当時の上富良野町は木材の町だから木造建築の声も高かった。
 今、考えてみると幼稚な議論であった。更に、将来の高齢社会を考え、永久建築でエレベーターを付けるべきだと強調したが、財政的に無理と言われ断念したことが残念でならない。聞信寺がエレベーター付の本堂を落成した現実を見て、さらに一抹の寂しさを感じているところである。
 しかしながら、町の苦しい財政の中で総三階建ての庁舎が竣工、総額一億三千万円、当時とすれば見事な建築であった。町民の記憶に、永遠に残る業績を遺して、ご勇退したことは支持した者として無上の喜びを感じている次第で、海江田町長の功績を讃えたい。
 更に、自衛隊の水道水の問題についても当時、衣笠駿雄防衛庁統幕議長(近衛歩兵第二連隊戦友)から防衛庁への表敬訪問時に協力してほしいとのお話があり、十勝岳からの水源確保にも尽力し、実現を叶えたことが思い起こされる。
掲載省略: 写真「昭和54年11月3日上富良野町表彰式にて。左から安井 洵、高木信一、私、谷 与吉、清水一郎、大場清一の各氏」
写真「上富良野町自治功労章」
◎叙勲の栄誉
 その様な中で、私も永住を決意した愛町精神と議会に選出されて町の発展と町民の幸せのために、又、子供たちに誇れる教育環境整備など微力ながら献身的な活動をさせて頂いた。この二十有余年の議員生活を通じて、善きも悪しきもあったと思うが、善行活動が認められ、当時総務課長であった樋口康信氏が熱心に上申するための諸手続きを進めていただいた。その後、叙勲決定の通知を受け尾岸孝雄町長から「高齢者叙勲」の伝達の栄誉に浴したのである。
平成十年二月に海江田博信氏を発起人代表として、中川一男氏、青柳輝義氏、平塚 武氏、會田義隆氏、村上和子氏、杉谷久巳氏、柿原光夫氏、前田光弘氏、長井良光氏、中條良一氏が中心となり、「叙勲(木杯)受章と米寿を祝う会」の開催を賜ったことは今なお思い出される。
又、月日が流れ「百歳のお祝い会」も盛大に開催頂き只々感激に堪えない次第で、涙がこぼれる極みである。

掲載省略:写真「高齢者叙勲証」「木盃一組」
◎家庭生活を振り返って
 昭和十六年に妻(トミヱ)と結婚したが、戦列厳しい状況の中で家庭を守りながら、従軍する私の帰りを待っていた。昭和二十一年三月復員後、その家内の実家である上富良野で生活がスタートした。当時、先代の伊藤七郎ヱ門翁・義母(リキ)が山七(屋号) 伊藤木工場(後に伊藤木材工業株式会社に社名変更)を設立、時代は木材業が主流をなしていた。私は、衣類行商や雑貨販売などを手掛ける中で、昭和二十四年十月長男(正光)が誕生した。その折、伊藤翁から長男誕生を機会に、映画館経営の話題が持ち上がり、間もなく建設に着手、昭和二十五年十二月一日株式会社日本劇場が開館されて、専務取締役として経営に参画した。
 又、昭和二十九年四月からは取締役社長に就任、当時、上富良野劇場経営の桐山英一氏とは良きライバルとして競い合った。無声時代の弁士による舞台演出からトーキーへと変遷し、その時の入場料は四円九十九銭であった。新東宝の映画を中心にしながら東映・日活・大映・東宝の映画も上映し、東京オリンピック開催時期とも重なる娯楽映画の黄金時代の歴史を築いてきた。この劇場では、木工場から出る「おが屑や薪」を、夏の暑い時期にリヤカーで運び、冬期間のスチーム暖房の燃料にしていたことを思い出す。
又、自衛隊駐屯地においても一か月に四回映画を上映し、演習後の隊員の娯楽には映画が一番と奨励して頂いた歴代の駐屯地司令にお礼を言いたい。

掲載省略:写真「私と待望の第一子 長女範子」
◎家族の近況
 劇場開業の昭和二十五年から昭和四十七年頃まで映画が全盛期を迎えていた。しかしながら、斜陽の波が押し寄せ、同時に閉館と進んでいく。その劇場を甦らせたのが妻(トミヱ)であった。次女(陽子)と協力して、画廊喫茶「モナミ」を設立し、今も常連客と昔懐かしい話題は尽きない。
 私は、長女(範子)、次女(陽子)、長男(正光)と子宝に恵まれ、長女は、短大を卒業後、中学校の教員として教壇に立ち結婚後は、民生児童委員・保護司・調停員として社会貢献に努めている。
 次女は、妻の残した喫茶店を経営している。長男は、大学を卒業後、民間の金融機関に勤務しその後、富良野市役所の職員として奉職し三代にわたる市長を支え業務に精励し、更に、教育長の要職を務めてきた。
 その折、長男から子供たちの学力向上は勿論だが、潜在的な能力を引き出したい、そのための富良野市独自の演劇教育などに重点を置いて気概を持って進めたいと力強い話を聞いた。
 息子の正光も昨年、富良野市自治功労、北海道教育功績者表彰、北海道社会貢献賞(自治功労)を受け、現在、富良野市代表監査委員を拝命している。又、我が子供たちも良き伴侶にも恵まれ孫やひ孫も逞しく成長しており安心している。
 特に、満百歳を迎えた年の平成二十一年七月に、初孫であった文詩(つやし・現在、成田市在住。文詩の子=ひ孫が昨年平成二十六年十一月四日で一歳になっている)の結婚式が、千葉県千葉市で行われた際に、家族、親戚一同が参列する中で、百歳を迎える私に、ご慶事に相応しい高砂を披露する機会をもらった。又、帰りに、靖国神社で亡き英霊の御霊に参拝し皇居を廻り戦前・戦後の厳しい時代を生き残れたことを噛みしめていた。
 先代から受け継いだ劇場も引き続き、町民に愛される憩いの場所として喫茶経営しており、この後も孫(雄介)が継承することになっている。
掲載省略: 写真「在りし日の妻と孫たち(昭和62年正月)」
写真「初孫の文詩の結婚式にて(平成21年7月)」
写真「高砂を披露する私」
写真「初孫の文詩がひ孫を連れて帰郷(平成26年7月)」
◎後世に伝えたいこと
 早いもので、私も満一〇五歳、第二の故郷で多くの先輩達や家族、友人たちに支えられながら約七十年間、上富良野町や息子宅で生活を送ってきた。その様な中で、歴代の町長たちが町民の声を聴き計画を立案し町づくりに反映してきたが、気にかかるのは、わが故郷の歴史を築いてきた駅前周辺、観光の町としての玄関口、ここの再開発事業の推進と併せて、教育環境である。現在、向山富夫町長や服部久和教育長が中心になり、町議会とも連携し老朽化している学校建設が優先的に推進されていることに敬意を表したい。
 もう一つは、学力向上は大変重要だが、子供たち一人一人の個性を伸ばすこと、つまり潜在的な能力を引き出し、個性を大切に夢や希望をもって将来自立できる子供たちを育てることが、教育には最も重要である。そのためには、多くの経験や体験をさせることで、知恵が授かり故郷への愛着を感じてくる。家の中でのゲームなどに時間を費やす子供たちが多いと聞くので、まちづくりの方向性をしっかりと見極める時期に来ていると感じている。
 更に、富良野広域圏との連携である、特に、経済や観光・医療・福祉分野は大変重要な行政運営に結びつく。住み続けたい町、上富良野町を目指し、粉骨砕身した町政を切り拓いていくことを老婆心ながら切望する。
 私の弟・妹も百歳を超え、一世紀以上を生きる喜びを家族と共にかみしめている。又、忘れ得ない戦場で尊い命を捧げた幾多の戦友達を恒久平和を信じながら想い起している。併せて、海江田武信氏、酒匂佑一氏、尾岸孝雄氏を始め多くの町民の方たちと出会い、支えて頂いた生涯を書き綴れたことに感謝すると共に、「上富良野町郷土をさぐる会」の方々に厚くお礼申し上げたい。
 ありがとうございます。

◆編集委員付記◆
 本記事は、宇佐見利治氏が書き置いたものに、長男正光氏(富良野市在住・富良野市代表監査委員)が利治氏からの聞き取りを追記し、整理されたものです。
上富良野町昭和五十四年自治功労表彰功績

 永年にわたり町議会議員として町政に参画、各般にわたりその職務に精励し、自治の振興発展に貢献された。

●上富良野町議会議員
 昭和34年4月30日〜54年8月24日(20年4月)
    [主要所属常任委員会等]
   昭和34年5月〜38年4月 教育民生副委員長
   昭和38年5月〜40年8月 教育民生委員長
   昭和48年9月〜50年8月 土木建設副委員長
   昭和50年8月〜54年8月 議員会長
●行政委員会・審議会
 ・昭和38年5月〜40年10月  国民健康保険運営協議会委員
 ・昭和42年8月〜50年8月          10年5月
 ・昭和39年7月〜45年3月  病院運営審議会委員 5年8月
 ・昭和40年11月〜54年10月  都市計画審議会委員 14年
 ・昭和36年9月〜40年8月  社会教育委員兼公民館運営
                審議会委員     4年

 編集委員解説

 
  ―宇佐見さんの従軍したアッツ・キスカ戦の時代背景―
 「先人の声を後世に語り継ぐ事業」で宇佐見利治氏の業績を掲載することになり、宇佐見氏の長男正光氏と同級生であることから、会長とともに正光氏を訪ねて執筆を依頼した。
 宇佐見氏がこの記事の中で過去の戦争に触れているが、奇しくも、今年(平成二十七年)は、日清戦争の終結から百ニ十年、日露戦争終結から百十年、太平洋戦争の終結から七十年の節目の年である。ここに、宇佐見さんの従軍したアッツ・キスカ戦について時代背景を記してみる。
 アッツ・キスカ両島の攻略戦は、日本本土が米空母から飛び立った陸軍機により爆撃されたため、ミッドウェー島攻略を行うことになり、その陽動作戦として計画されたとされている。宇佐見さんは歴史家・戦史家が認める、精鋭ゆえに常に最激戦地に投入された最強師団の宿命を持った第七師団に配属となり、その任務の一端は郷土をさぐる第十八号に掲載された佐藤光玉氏の手記【奇跡の生還「キスカ島の激戦」】により、アッツ・キスカ戦の経緯を知ることができる。
 昭和十七年六月八日に第七師団歩兵第二十六聯隊基幹の北海支隊がアッツ島に上陸し、七日にはキスカ島に海軍陸戦隊が上陸した。約三か月後の九月一日から十八日の間に北海支隊はキスカ島へ移動した。アッツ島よりもキスカ島が米国本土に近いことを危惧した海軍の要請で、陸軍の増援を頼んだためと言われている。
 その一か月経過後放棄されたアッツ島に、山崎部隊が派遣となり、昭和十八年五月三十日、大本営はアッツ島玉砕を発表。キスカ島の将兵を撤退させる作戦が決定された。軽巡洋艦、駆逐艦による一挙撤退で、この運命は濃霧に任せる作戦であった。作戦の指揮は第一水雷戦隊司令官木村昌(まさ)福(とみ)海軍少将が執り、キスカ湾の滞在を一時間とし、効率よく収容するため、携帯兵器の放棄を陸軍に申し入れた。菊の御紋章が付いた三八式(さんはちしき)歩兵銃を放棄しろと言うのであった。これはガダルカナル撤退の際、出航が遅れた例を踏まえての言葉と言われている。
 第一水雷戦隊は、この作戦に当時最新鋭のレーダーを装備した駆逐艦と旗艦に気象予報担当士官が乗り組み出撃した。第一次作戦では、気象士官の予想した天候回復を受け、期待した濃霧に恵まれなかったため、木村司令官は無念の中で「帰ろう、帰ればまた来ることができる」と呟いたと言われている。
 そして第二次作戦で七月二十九日、キスカ湾に入港した。浜から沖の軍艦に向かう大発(だいはつ)に乗船した兵士の手から次々と銃が海に投げ込まれた。北方軍司令官樋口季一郎中将の自分が責任をとるという現地指揮官に状況判断を委ねた結果で、装備を捨てたことで船が浮き、沖の軍艦に向かうことができたのである。このことが宇佐見さんの本文で、毎日の日課のように宿営地と浜を往復したこと、乗船の際、武器の海中投棄を命じた苦渋の決断について綴られている。
 キスカ島の「奇蹟の撤退作戦」が行われた後、上陸した米軍はこの撤退作戦を「パーフェクトゲーム」と舌を巻いたと言われている。また、戦史家は「史上最大の最も実践的な上陸演習」と皮肉った。無人となったキスカ島に、いかにも人がいるように偽装工作して撤退した結果、惑わされた米軍は、アッツ上陸作戦を上回る兵力を投入した。
 昨年(平成二十六年)、郷土をさぐる会事務局に教育委員会を通じて、第二十三号に掲載された「戦後六十年アメリカで発見された兄の日記」(著者は上富良野町在住の丸田義光氏)をネットで調べたと問い合わせがあった。新潟県柏崎市にオープンした「ドナルド・キーン・センター記念館」の関係者からの問い合わせで、資料提供などの相談であった。キーン氏は、戦時中、ハワイで情報士官として日本軍に関する資料を分析しており、その際、丸田氏の資料分析に関わったのか確認するための問合せであり、丸田氏の了承を得て、資料を提供した。
 不思議で偶然な出来事、キーン氏はキスカ島撤退作戦に通訳官として従軍していたのである。キスカ島で「ペスト患者収容所」と書かれた看板を通訳した結果、ペストの医薬品の緊急輸送、本人の隔離と騒動があったエピソードが残されている。
 アッツ島の攻略後、接収された日本軍が残した写真が、「アンカレッジ歴史美術博物館」に所蔵されていることが『アッツ島玉砕十九日間の戦闘記録』西島照男著、北海道新聞社刊の二〇二頁に掲載されている。宇佐見氏が所蔵する写真から、さぐる誌の第十八号と十九号に掲載された佐藤光玉氏の手記に関連した写真を借りた際、米軍接収と同じ写真があり、宇佐見氏が写った写真に他ならないので、この資料を分析したか確かめてみたいと考えている。宇佐見さんの部隊がアッツ島からキスカ島へ、急いで移動したことから、写真だけがアッツ島に残されて米軍に入手されたものと考えられる。         (編集委員・三原康敬記)

機関誌      郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷      2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀