郷土をさぐる会トップページ     第31号目次

編集後記

編集委員長 野尻巳知雄

  早いもので、私が平成十三年に上富良野の郷土誌「郷土をさぐる」の編集委員長の仕事をお引き受けしてから、十三年の年月が過ぎてしまいました。
その間、節目となる二十号・二十五号・三十号の記念号を発刊し、なんとかその大任も無事勤めることが出来たのも、編集委員の方々や会を支えて下さった多くの会員の方や、賛助会員のご支援の賜と感謝に堪えません。
 本年度発刊の「かみふらの郷土をさぐる」が私の編集委員長としての最後の編集後記を書くこととなりました。本当に長い間おつき合いいただきありがとうございました。

 三十一号の編集では、表紙絵に札幌在住の辻内祐二氏の絵を使わしていただくこととなりました。辻内氏は上富良野出身の札幌上富会の会員で、平成十四年に会社勤めを終えてから趣味の絵画を本格的に始められ、札幌市民芸術祭美術展に出品して秀作賞を受けるなど、多くの賞を受けておられます。今回上富良野に旅行されて十勝岳の風景を描かれたものを使用させていただきました。

 シリーズ「各地で活躍している郷土の人達」は、札幌在住の小川清一氏から「ふるさとの山々を想う」と題して、故郷を離れてからもなお郷土を愛し、父から受け継つがれた山林を有効に生かすため、桜の苗木で山林を埋め尽くそうとする壮大なプランを着々と進められておられます。何年か後に桜の花が満開になると、山全体がピンクに染まったすばらしい景観が醸し出されることと期待したいものです。そんな郷土愛に満ちた熱い想いの寄稿を寄せていただきました。

 同じく、シリーズ「各地で活躍している郷土の人達」で、札幌在住の松岡常義氏からは、「ふるさとを想う」と題して、旭野地区で過ごされた幼少期から少年期の思い出の数々を寄せていただき、同級生が写っている卒業写真では、上富良野に残っている同級生を訪ね名前を記入させていただきました。

 旭区に住む児玉光明氏からは、「ハンターは俺の生きがい」と題して、郷土をさぐる編集委員の岡田三一氏が取材に当たり、質問形式でハンターについての思いや、熊撃ちや鹿撃ちの場合の注意点など豊富な経験を基にした話が記述されています。このような聞き取りによる原稿は、今後も計画的に古老の人々を訪ねて記事にする予定となっています。

 「昭和前期の祭りの催し物」をテーマに、会長の成田政一氏と副会長の大森金男氏が、むかし懐かしい上富良野神社祭典で行われたサーカスや見せ物の数々について記載していただきました。当時は上富良野神社祭典の人出や催し物は上川管内で最も賑やかであったといわれていますが、今では想像もつかない事柄について記述していただきました。今はもう知る人も少なくなっている貴重な歴史の一ページであると思います。

 「上富良野で見たオーロラ」は、大森さんが昭和三十三年二月十一日に見た、十勝岳の麓に現れたオーロラ現象について記述されています。写真の十勝岳とオーロラ現象は、その時のオーロラ現象ではなく、他の地域で発祥したオーロラの写真と、十勝岳の写真を合成したもので、こんな現象であったと伝えるために敢えて合成写真を作成したものです。こんな現象が再び現れると楽しいのですが…。

 「選挙こぼれ話」その2は、昨年に引き続き倉本千代子さんが実際にあった自身の選挙についての記述をしていただきました。当町では初めて女性の町議会議員の誕生であり、女性が議員になることが如何に難しいものであるかについて、赤裸々な問題を克明に記述されておられます。今では女性の政界進出は当たり前のような認識が広がっていますが、当時しては大変な事であり、その困難な状況の中で見事に当選されたことには、心から拍手と敬意の念を表さずにはおれません。

 「大沢と振り子の沢」は、三原康敬氏が記述されました。十勝岳の地図に記されている各地点の表示を、北大山岳部が一九二八年に発行した「北大山岳部々報一号」の記述を基にかかれており、当時の吹上温泉が十勝温泉と言われていたことなどが記載されています。

 「学校統廃合シリーズ」では、昨年の創成小学校(草分小学校)に引き続き、今年は「上富良野で最初に統合した旭野小学校」について、倉本千代子さんが記述されました。旭野小学校が、「不息小学校」と呼ばれていた当時から旭野小学校に名称が変わり、統合までの学校の様子などを残された記録と記憶をたどりながら記述されています。

 「昭和三十七年頃の上富良野における農業」は、上富良野ばかりでなく、「日本の農業全体が大型化に進む」という大きな転換期を向かえておりましたが、その状況と上富良野の状況を重ね合わせて、当時の事柄を水田地帯の変革状況を中心にして記述されております。

 私の書いた原稿「上富良野町字名廃止の経過について」は、私が役場に奉職してから三十年以上も「字上富良野」「字中富良野」と言った字名が使用されており、その他にもほとんど使われておらず、地名の位置を特定することも難しい「字ヌプカクシフーラヌイ川上流」などの字名を無くし、すっきりした地名と事務の簡素化を図りたいとの思いを綴らせていただきました。

 十勝岳三段山と白銀荘に魅せられた「田村義孝氏の没後三十年を偲ぶ」は、中村有秀氏が郷土館に残されていた「旧白銀荘宿帳」を基にその利用者の中から、毎週の様に白銀荘を利用されていた田村義孝氏に注目し、当時の利用状況とその背景にある生活環境や友人関係などの記録の外に、遭難にあった当時の状況について細かに記裁されています。
 記述の中で、昭和五十八年四月にNHKテレビ「十勝岳山麓早春賦」『高田敏江火山灰地を行く』に出演され、その台本に取材協力者として私の名前が記録されていたとの記載がありますが、私には当時の記憶がほとんど無く、中村さんからその旨を伝えられたときは非常な驚きを禁じ得ませんでした。
 田村孝義氏が遭難されてから今年で三十年を迎えられ、ご遺族の方や知人の方々が白銀荘に来られて当時を偲ばれた事も併せて考えると、何かの巡り合わせを感ぜられずにはおられません。非常に良いタイミングの原稿であったと思います。

 最後に今年は例年になく大雪で、我が家の狭い庭には堆く雪が積み重ねられて残っていますが、今年で最後となる編集後記の記載を終え、今までのみなさんのご愛読に感謝とお礼を申し上げ、筆をおろさせていただきます。
平成二十六年三月末日(野尻記)

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一