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昭和三七年頃の上富良野における農業

上富良野町基線北二三号
田中 正人 昭和二十三年四月十三日生(六十五歳)

当時の世相
 上富良野農業の歴史を振り返る時、昭和三七(一九六二)年頃の世相が地域にとっても町にとっても大きな転換となった事が数多くある。
 馬から機械へと農作業も生活様式も変わり始め、十勝岳の爆発があり、日新ダム建設で水没する関係者(後述)に動揺を与えてもいた。
 現在私が勤務している高齢者事業団の仕事依頼先から廃棄される寸前であった上富良野町農業協同組合(以下農協)の信用限度額査定名簿(昭和三七度版)が偶然にも手に入った。組合員全員の所在が判明しているもので機会があればこの頃の農業の様子を書き残したいと考えてもいた。我が家の生活、農作業の様子等から昭和三七年当時を推測頂きたい。

  ◇  ◇  ◇

 当時私は上富良野中学二年生。家族は七人。進路を農業に定め高校進学を決めた大切な年度でもあった。
 この年六月二九日に五人が死亡した十勝岳の噴火は、家から見ると朝日をさえぎり覆いかぶさるような噴煙は不気味であった。

掲載省略:写真「昭和37年十勝岳噴火」

 煙は一万bにも達し、自然の力の大きい事に只々驚くばかりであった。前日にはゴロゴロと山鳴りがして、時折の稲光に、「明日になったらどうなるの」と、子供心に心配でもあった。
 七月に入り、薄暗い印象の中学校の木造校舎の一階で、十勝岳噴煙の吹き下ろしや、風向きを眺めるのが毎日の日課であった。
 この頃は、余り目的意識を持たない普通の生徒として学校に通っていた。
 テレビは三月に受信契約数が約一千万件を突破したと報じられたが、まだ家にはテレビがなく肩身を狭くして友達の所に通って視ていた。
 翌年、ようやく我が家にも地域でも遅いテンポでテレビが導入され、そのテレビ視たさに学校から転げるように帰り、ブラウン管から流れる歌謡曲「高校三年生」を覚え、大河ドラマ「花の生涯」や「紅白歌合戦」(共にNHK)を家族揃って視た時、「テレビっていいな」と、つくづく感じた。
 最も精巧と言われた偽造の円札が出回り、日銀は千円札の図柄を聖徳太子から伊藤博文に替える事になったのもこの年。
農作業の様子
 私の家は大正九年に西一線北二四号に於いて祖父の庄蔵が島津農場の小作として入地し、大正一五年十勝岳噴火に遭遇。前年に新築した家の近くまで泥流が押し寄せたと祖母の久から伝えられた。

掲載省略:写真「大正14年住宅と納屋が一緒の建前風景」

 草分け地区の被害に比べると軽微であったと言えるがそれでも、泥流の除去作業や稲の生育に障害があり、被害田には毎年石灰をまいたが、生育の遅れは昭和三七年になっても影響していた。
 家は島津三北農事組合に属し、島津農場の解放を受けた昭和一二年から日も浅く、収支も個々の管理で出来る様になった事から、地域も活気付いていた。
 未だ作業は馬と手作業が主体で、田の区画も狭く、一fの面積に五十枚程の水田があった。
朝早くから畦草を刈り取って馬に食べさせ、馬の手入れが終わると朝食であった。
 三軒共同で耕耘機を入れていたが、代掻はまだ馬に頼っていた。稲の苗床は障子。その張り替えは決まって春先。
 家では紙(一間用:1.8b)からビニール(二間用:3.6b)障子への転換時で有り、痛み具合で張り替えられた。前年の糊剥がし作業は子どもでも少しは役立っていた。
 たこ足の実蒔き作業は殆ど無くなり、田植えも手作業で、農協手配の組をはじめ、地域の共同作業で行われた。家では家族や親戚を頼りながらの田植えであった。

掲載省略:写真「3軒共同の耕転機(S37)」
掲載省略:写真「代かきは馬で行なっていた(S37)」
掲載省略:写真「昭和20年代の苗床」

 除草剤(PCP)が普及し始め、琵琶湖で大量の魚が死亡する事件が起こり、除草剤が自然環境に影響することが判った。農薬の安全使用へむけての取り組みが始まるきっかけとなり、上富良野でも用水に沢山いたザリガニ等も急激に姿を消した。
 この様に除草管理作業は楽になりつつあったが、稲が実るまでは除草機を押したりヒエ抜き作業に追われた。
 九月二十日頃には鎌入れとなり、一斉に収穫作業となる。直前にはハサ木を立てる。垂直の穴は前年に稲わらで塞いだ穴を見つけ出し一間間隔に立てられる。
 日中に刈り取り、陽が落ちる頃になると一斉にハサ掛け作業となる。祖母は背丈が小さい為、八段ある縄に下の一、二段届くのが精一杯。家族全員での作業となっていた。おにぎり、南瓜やイモの煮つけが夜食となる事もあった。
 日劇会館から北島三郎の「なみだ船」が聞こえて来る中、営業終了の「有り難うございました」のアナウンスが聞こえる一〇時頃までは黙々と作業は続いた。これから一踏ん張りするのも常であった。
ハサの取り入れは原始的ではあったが口に含んだ状態で水分を測定し、「パリッ」と砕けたら乾燥状態が良い事から取り入れられる。風の多い年は比較的乾燥も進み取り入れも早い。収穫の遅い年は初雪も早く、ハサにも雪が積もり当然乾燥も遅くなる。
 父に真似て水分測定すると米も「グニョッ」としていて歯ごたえも悪く、乾燥も遅れる事は子供でも判った。
 荷馬車にうずたかく積まれた稲束を納屋に運び込み、買ったばかりの脱穀機で稲わらと籾とに分けられた。
 籾摺り作業も一回毎に籾を運び入れるのは母の役目。父は機械の調整と計量包装作業を忙しくこなしていた。まだ俵での出荷だった。計量も天秤秤を使っており、桟さん俵で入り口をふさぎ、縄で器用に俵をだわら転がしながら一俵ずつ縛り上げ包装された。
 上富良野食糧事務所(現中町一丁目松田宅付近)へも馬に頼り、農協倉庫に歩み板を踏みしめながら梁の高さまで積み上げられた。農協は米を早く出荷するよう奨励しており、そんな米は貨車積みになる事が多い。父は歩み板を使う事がないので少し得した気分になっていた。
 叺(かます)での出荷となるのはもう少し後の事である。
 俵を編んだり、桟俵(さんだわら)を作るのは収穫を終えてからで、俵編機で四百枚ほど父母祖母で毎年作った。
 そんな努力の積み重ねがあって、今日の田中家がある。
日新ダムの建設
 土地改良のなかで、最も大きな規模の事業となったのが、日新ダム建設事業(当初清富ダム、正式事業名・国営直轄潅漑事業十勝岳地区)である。
 詳細は「日新ダム完成迄」(『郷土をさぐる仲川善次郎著』五号)上富良野を含む富良野盆地の水田を大きく育んできた主要水系は、富良野川とヌッカクシフラヌイ川共に十勝岳に水源を発するため硫黄分を含み、酸性の水のため稲の生育や収量の低下を招き、水量の確保にも大きな問題を抱えていた。
 戦後になり食糧の増産が叫ばれ草分土地改良区の呼びかけに中富良野上富良野の鉱毒防止促進期成会が昭和三十年に結成。運動は本格的に開始される。
 三七年の十勝岳噴火によって富良野川の水質に与える影響が再びクローズアップされダム建設が具体化される。
 三八年度には、実施設計予算額三〇〇万円が認められた。実施設計及び諸調査の過程で、海江田武信町長を委員長とする清富ダムから日新ダム対策委員会と名称を変更した後、水没農家二六名などに対する問題の検討が開始されたのは二月の事である。
 さらに三九年に入ると関係町民に対する現地説明会なども行われ、年末の四十年度予算内示によって事業は認められた。
 四一年一月二一日、役場で関係者が列席し水没補償関係基準書の調印が行われダム建設に向かって前進して行く。
上富良野農協
 上富良野の農業は、昭和三三年に草分地区の富田俊三氏が町で最初となるトラクターを導入。息子の弘司氏は事前に免許を取得後、札幌から一昼夜かけ自走したと、当時を振り返る。

掲載省略:週刊新聞上富週報記事「農機具大型化の先駆け〜大型トラクター活躍」

 同地区二区更生の第一生産組合は昭和三十六年に町で最初の農業法人を組織。
 東中では、昭和三七年度に農機具に投資した資金が年間収入の一割以上に達し、農家経済が危ぶまれる程の過熱であったと伝えられ、これより急速に農業の近代化が進むと同時に、農業人口も徐々に減少して行く事になる。
 上富良野農協は、昭和三四年に鉄筋コンクリート二階建のビルを建設し、生活改善による会費制の結婚式が行われた。東北から出稼ぎに来る結婚適齢期の女性も多く、自衛隊員や、農家にそのまま嫁ぐ者も沢山いて、当時の町内の若い多くのカップルはここで結婚式を挙げた。

掲載省略:写真「昭和34年建設の農協事務所」

 昭和三六(一九六一)年に北海道農協中央会によって創設された「組合員勘定」(以下組勘:クミカン)は、上富良野農協でもすぐ運用が開始され、農家と農協とに資金の運用に於いて双方に利便性をもたらした。
 組勘は貸付と預金が統一されたもので、営農貯金積立の見返りに営農資金を供給する事が出来、貸付残の状態になっていれば貸付金の金利、預り残であれば普通貯金の金利が発生し、信用事業の一部門として処理される仕組みとなっている。
 営農計画書に基づき農協は査定を行い、信用限度額(貸付の限界額の事)を決めて個々に通知。その範囲内で資金が供給される。
 信用限度額は前年の販売実績と今年の販売計画額を足して二で割りその八割が販売の基礎となる。そこから約定諸払い金を差し引いた額を信用の程度を見る物差とし、個々により差違があるが一四〜一五%上乗せして補正し評定額が定められた。
 生活費も経営費も同一勘定で処理され、農協以外の取引を含めて経営内容が把握出来ない欠点もある事から、農事組合毎に連帯保証させる事によって、貸付金の確実な回収をも実現させていた。
 農協の組合員数は名簿配置図(次ページ、点在する住民は割愛)の上で九三三戸。この時、富原に隣接する東中の一部はすでに農協に加入し、農業が産業として町や地域を支えていた事が改めて実感出来る。東中の農業者は約二八十戸程いるが、東中農協合併前であり、参考までに昭和三七年版上富良野町戸別明細図を掲載した。
 農協も販売や購買事業の拡大とともに、店舗の売り上げ実績も上昇し、三八年にも改造が行われ、第二店舗、第三店舗と拡張している。
 四十二年四月三十日上富・東中両農協が合併。荻野昭一氏が本誌第二八号に執筆した昭和四十五年に発生した三億円事件へと繋がって行く。
参考資料
「日新ダム完成迄」 仲川善次郎著    郷土をさぐる誌第五号
「三億円大騒動」 荻野昭一著     郷土をさぐる誌第二八号
昭和三七年度版 信用限度査定名簿   上富良野農協
ふるさと上富良野 郷土をさぐる誌十五号別冊
「清流の里ひがしなか」 東中住民会
「島津百年の歩み」 島津住民会
「里仁百年誌里仁為美」 里仁百年開基百年記念実行委員会
「さくらの杜えはな」 江花開基百年記念実行委員会
「江幌の一世紀」 江幌開拓百年事業記念実行委員会
「とみはら」 富原開基百年記念誌編集委員会編
「江幌開拓九十年誌」 江幌誌編纂会
「上富良野百年誌」 上富良野町
「上富良野町史」 上富良野町
「組合五十年の歩み」 上富良野農業協同組合 等
「上富週報」 昭和三五年五月十三日版
参考サイト 農薬の歴史―農薬ネット
  nouyaku.net/tishiki/REKISHI/REKI1.html
取材協力
日新清富  大内 吉治  沼倉 政男
日の出 浦島 義弘 佐々木政義  和田 昭彦
西崎  清
草分 富田 弘司  池田 義貢  佐藤 耕一
金谷 幸雄  川喜田 誠
島津 北村 啓一  松下  浩  岡和田一広
江幌 包子 義昭  村上  博  中瀬  実
静修   加藤 忠美  伏見 金二
旭野   倉本千代子  林  光男  工藤 弘志
富原   向山 富夫  伊藤 里美  中沢 忠則
向山 久恵  小川 邦夫  佐藤 洋一
山田 義明  中田 善一
里仁 菅野 秀一
江花   大場 清次  大場 健二  中田 宏幹
下記地区別地図は、上記取材協力により作成したものです。
ホームページ掲載の都合から、縮小図となっていますが、図をクリックすることで拡大図をご覧いただけます。
 富原地区  島津地区
 日の出地区  江花地区
 草分地区  江幌静修地区
 旭野地区  日新清富地区
 里仁地区  東中地区

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一