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「大沢」と「振り子沢」

三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十三歳)

和辻記号の十勝岳地図
 「北大山岳部々報一号」(一九二八年刊)に、和辻廣樹氏が『冬の十勝連峯』と題して、一九二八年四月に書き起こした一文がある。十勝岳連峰の特徴について書いた山岳案内文とも言える、十勝岳を登山する際の留意点並びに要所となる地点について、詳しく解説する文章として最初に掲載されている。
 地形の説明に使用するための地図が、折込として付いており、主要地点を表す呼び方のAからZのアルファベット記号が付けられたこの地図の中の地点が、十勝岳の主要な場所を地点としてとらえる場合、簡単で最もわかりやすいことから今日に至るまで活用され、現在もなお北海道内の山岳界に知られて普及している。
 「北大山岳部々報一号」の巻末にある年報の四四ページに地図の説明があり、折込図の名称は、『十勝連峯登路圖』で、『陸地測量部五万分一地形圖に、登路その他を書き込み、その儘凸版になしたるものなり。』という経緯が書かれている。
 現在の「北海道大学山岳部・山の会」のホームページにこれまでの部報内容を紹介するコーナーがあり、一号のタイトルとその概略で次のように『冬の十勝岳・和辻廣樹。一九二六年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D、Z、H、O、P、Nなどの地点名がAから入っている地図がついている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。』と載せている。

十勝岳連峰と北大山岳部
 記念すべき「北大山岳部々報一号」の巻頭を飾る和辻廣樹氏が書いた、タイトル『冬の十勝連峯』の書き出しを原文のまま引用する。(長文なので、書き出しに止める。)
『白銀に輝く立派な形の數々の高峯、美しい針葉樹の林、常に素晴らしい雪、そして針葉樹林中の出湯、北海道のサンモリッツとも云うべき冬の十勝は、私達山へ志す者に對しては、大きな魅惑の力を持って居る。實に冬の十勝は冬の山として、私たちの最も喜ぶべきものを兼ねそなへた山の一つである。かゝる點に於て、十勝連峯の右に出る山は恐らく北海道には他にあるまいと思はれる。かく冒頭して私は、冬の十勝連峯に關して書いて行こう。』
で始まり、十勝岳の魅力と美しさを賛美する言葉で書かれている。北海道帝國大学文武會山岳部が発行した部報一号の最初に、十勝岳と上富良野のことが書かれていることは地元の上富良野でもあまり知られてないと思う。『参考のために地図を入れた』とこの中に書かれており、和辻廣樹氏が大正十二年十月三十日陸地測量部発行の五万分一地形図「十勝岳」に、主要な地点をA点からZ点まで記号を入れて作成したことがわかる。

地名の謎解き
 陸地測量部の「十勝岳」地図は、等高線とか地形が実際と合わないところがあり心もとなく、記号を記入できないところもあって、それを補完する略図を掲載している。吹上温泉から大砲岩に至る登山コースを説明する略図であるが、現在は山岳遭難事故の恐れがある、上級者でも登攀の難しい危険な難所として、登山道は通行禁止の閉鎖が行われている。
 掲載されている略図に、「十勝温泉」の地名が記載されているが、これは、現在の「十勝岳温泉」地区のことではなく、「吹上温泉」地区を指している。
 陸地測量部の「十勝岳」地図では、この場所が「瀧の湯」という地名になっていて、推定であるが馬蹄型の地形で、地形的に現在の「吹上露天の湯」がある地点と言える。また、陸地測量部の「十勝岳」地図は「大正十五年十勝岳噴火」前の大正十二年発行であり、「吹上露天の湯」周辺は崖の途中から温泉が噴き出していて湧出量が多く湯温も高かったと思われ、温度の高いお湯が滝のように流れていたので「瀧の湯」という地名が付けられたと考えられる。
 略図には断面図が描かれていて、現在の「大沢」の名称が「前十勝沢」となっており、「尾根X」は「ナマコ尾根」のことであり、「沢EF」は「振り子沢」で、「振り子沢」の地名の由来は、富良野川の源流部の沢の名称が「大沢」か「振り子沢」であるか確かめるために訪ねた北大山岳部OBの方に、「E点」から沢をスキーで「F点」へ滑り降りる際、急斜面なので転倒しないよう、重い荷物を背負った体を振り子が振れるようにスピードが上がらないよう、左右の尾根と尾根に振って注意して滑ることから、「ナマコ尾根(尾根X)」と「C尾根」の間の沢を「振り子沢」と名付けたと説明を受けた。

十勝と十勝温泉
 和辻氏をはじめ北大のOB・学生は、十勝岳連峰を「十勝」と親しみを込めて呼ぶ場合が多く。北大理学部の火山研究者も「十勝」と親しみを込めて呼んでいる。北大山岳部が十勝岳連峰の各ピークに挑んだアルピニズムの黎明期に、登山基地となった「吹上温泉」を、親しみを込めて「十勝」の温泉と言い換えていたものと考えられる。そのことを知る手掛かりが、「北大山岳部々報一号」の巻末にある。
 部報を発行する費用をねん出するためなのか、山岳用品の店とか温泉宿の広告のページがあり、レイアウトと広告文は学生が考えた吹上温泉の広告がそれである。広告文に「吹上温泉」と「十勝温泉」の地名が書かれている。スキーを付けた登山者が崖尾根から富良野岳を望むスケッチは坂本直行氏が描いたと編集後記で触れている。

登場した人物と文献等について
【和辻廣樹】(わつじひろき)
 一九〇五(明治三十八)年四月十日、京都市に生まれる。一九二三年、北大予科入学。本科では畜産の牛学を専攻。一九二九年、北大農学部卒業。北大在学中は山岳部の設立に深くかかわり、登山とスキーはもちろんのこと、趣味は広くバイオリンの奏者として札幌交響楽団の一員でもあった。一九三〇年、朝日新聞社入社。一九三七(昭和十二)年四月二十四日、三十三歳で没。

【坂本直行】(さかもとなおゆき)
 坂本龍馬の子孫として、一九〇六(明治三十九)年七月二十六日、釧路市に生まれる。一九二四年、北大入学。一九二七年、北大農学部卒業。北大在学中は山岳部で活躍、山仲間と後輩から呼ばれた「ちょっこうさん」として知られる。農業、牧場経営のかたわら、北海道をモチーフとした風景画と植物画を描いた画家。六花亭の包装紙のデザインを手がけた。中札内美術村に坂本直行記念館がある。一九八二(昭和五十七)年五月二日、七十五歳で没。

【十勝連峯登路圖】(和辻廣樹氏作成)
 「北大山岳部々報一号」の折込図。縦十九・二センチメートル、横十五・二センチメートル。陸地測量部の地図(大正十年測図、五万分一地形図旭川八号「十勝岳」。縦四十六センチメートル、横五十八センチメートル)の一部を縮尺はそのままとして切り取り、記号を付して作成した。

【北大山岳部々報】(戦前編)
 縦二十三・五センチメートル、横十六センチメートルの「菊版」というサイズ。「一号」昭和三年(一九二八)六月発行から、「七号」昭和十六年(一九四一)二月発行まで。発行所、北海道帝国大学文武会山岳部。株式会社第一書房から昭和六十一年四月五日、限定三〇〇部の復刻版発行。

【陸地測量部】
 現在の国土交通省国土地理院の前身。陸軍参謀本部に所属し、陸地の測量、軍用地図その他の地図の調整・修正、測量に関する調査・研究を行った機関。

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一