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選挙こぼれ話(その二)

倉本 千代子

或る日の話題から
 当時、私は婦人学級に在籍していたが、学期末には一年の集大成として「こてまり」と言う文集を作っており、最後の仕上げに皆でテーブルを囲み製本作業をしている時に突然、一人の学級生が『今度の選挙に倉本さん出たらいいよね。私達応援するよね…』と発言すると『そうだよね、私はご飯炊きするわ』『みんなでリヤカーに旗を立てて町中を歩くよね』『今度は女の人を絶対に出るべきだと思うよ』等々、ひとしきり雑談が続いたが、選挙運動とはどんなものか理解していた訳ではなく只、無責任に言い乍らの笑い話で済んだに過ぎなかった。
 それから数カ月が過ぎて巷では八月の選挙の話が聞かれるようになって来た。その頃、習い事に通っていた教室でも話題になったので、私は信頼のおける友人に例の話をしたところ、『女性が進出する機会かも…』と言うことで、後日二人で話し合った結果『何とかやってみよう外』との結論になった。
 しかし何から何をどうやったらいいのかもわからないので、先ず我が家の夫に話してみようと言う事で、その足で早速その話をしたところ、夫は、『誰と言う事は別として女性が出る事はいいと思うし、その為に動く事は賛成なのでやってみたら…』とOKが出た。友人もご主人に話した結果了解が得られたので、別の友人にも賛同を求めたが、「お金にならない事はしない」とあっさり断られてしまった。然し乗りかかった舟は前へ進めなければと機会ある毎に『どうしよう、どうしよう…』で話は進まず、あんなに積極的だった友人も何時しかその事には触れなくなり、時が経つうち○○後援会の看板が立ち趣意書の配布に廻る姿が見られるようになった。
 どちらにしても結論をださなければ間に合わない、私は再度、友人に相談した結果、もはや誰彼と言っている余裕がないので、私が出るしかないとの結論になり、俄かに慌ただしくなった。それが七月二十一日のことだった。然しここでもまだ決定には至らず、その頃、友人は急を要する病気を抱えていて二十五日の診断の結果を待って最終結論を出す事になっていたのだ。
 七月二十二日、立候補するにはどうすればいいのか説明を受けようと役場に出向いたところ、あっという間に役場中に広まり、『倉本が出るらしい』と忽ち街中に広がり、俄然周りが騒然となった。
 その日のうちに知人からは「祈必勝」の熨がかかった品物が届き、姉からは『本当か!』と電話が来るし、弟からは『笑い者になるだけだから止めろ!』と言われるわで、只でさえ上の空なのに頭の中が真っ白になった。が、私はもう前へ進むしかないと覚悟を決めた。もう自分が動くしかないと先ずテニス仲間の友人に電話で依頼し、選挙人名簿の書き写しなど始めることにしたが、その友人も手術後間もなく静養中だったのに快くOKしてくれて、翌日から二人で消防署二階で作業を始めたが膨大な量に唖然とした。
 三日目からは私一人で頑張ったが後で考えると、これがどれ程の効果があったのかなと…。
町議選に立つ決意
 その頃、私は「郷土をさぐる会」に入ったばかりで(当時は比較的高齢の有志と言われる男性のみだったが、女性の記事が少ない事もあり、取材など女性会員が必要と言うので、私も好きなジャンルなので誘われるままに二人の友人と共に入会した)
 早速、島津の及川うめよさん宅に取材に伺うことになったが、その日は三度目で、友人の車で向かう道すがら事の次第を話したところ、すかさず『倉本さん、私応援します』と。その一言で私の決心は揺るがぬものとなった。『でもご主人の許しを得てからにしてくださいね』そんなやりとりでその日は終わったが、翌日『夫は公務員でも妻の人格は別なので一向に差し支えありません』と。何という有難い言葉…。心強い助っ人を得て勇気百倍、もう恐れるものなしだ。
 然し『後援会長もOK・事務所も提供する』と言ってくれていた参謀格が突然『公務を持っているので出来ない』と言うのだ。後援会もなければ正真正銘の勝手連でと言うことになったが、後援会がなければ看板も立てられないポスターも作れないと、H女史が情報を仕入れて来てくれたのだ。それでは選挙運動が出来ないと言うので急遽、私が自己流で後援会規約を作り後援会長は『名前だけでも』とご近所さんに、会計はH女史と親戚にお願いして早速、夫の車で上川支庁に届け出たところ一発OKが出た。先ず第一段階クリアだ、その足で看板屋へ、然し他候補の先役がいっぱいでと断られる始末、何とか引受けていただけるところがあって、四枚だけ発注したのが七月二十九日だった。
 事務所は自宅で狭い場所を片付け取敢えず友人、親戚十人余りでスタートする事になった。選挙カーは自家用車の予定だったが、それでは音負けする(小型スピーカーしかつけられないので)との専門家のアドバイスもあり大型を探すも、もう手遅れで町内では借りる事が出来ず、夫が友人にお願いして隣町の農家で御用済みになり倉庫の隅に埋もれていたワゴン車を、お借りする事が出来た。三人がかりで掃除をしてシートの背にレースをかけると立派な選挙カーに変身した。八月三日のことだ。
 七月三十一日、趣意書が出来上がったが、私のミスで違反になる部分があり作り直すことになったが、夜間のため印刷屋に連絡がつかず急遽、他町の業者が夜の九時に来てくれて四百枚だけ作る事にした。(配布の時間がないので。)
 八月二日、白黒の誠にお粗末なものだったが取り敢えず後援会長、H女史、私の三人で知り合いとか自衛隊官舎など一日がかりで配布したが、これもほんの気休めに過ぎなかったのだと…。
感謝と悲哀
 八月三日、一応、後援会と言うよりは応援者と言うことで十五人が集まってくれた。ハガキの宛名書きなど分担して貰う。積極的に『私は五十枚』とか『まぁ仕方がない何とか…』など、勿論私も頑張って何とか期日までには書き上がった。八月四日、車に看板を取り付けポスターも貼って、大工仕事が得意な義兄、義弟、長男、夫で立派に完成、上々だ。何となく緊張してファイトが湧いて来たような…。八月五日、選挙用車検閲のため役場へ夫、義弟で。
 実は運転手を依頼していた方がドタンバになって断って来たので、退職後は表に出る事に消極だった夫が『よしッ!、お父さんが運転する』と急遽運転手としてデビューすることになった。
 八月六日、立候補の届出、後援会長と義兄が役場(各候補は先を争って第一声を上げ乍ら走り出している。私もいよいよ出陣だ。総勢十八人(女性十四人男性四人)ささやかながらジュースで乾杯、先ずは咽喉をうるおして、ビラ貼りは男性三人、一応は後続車もついてさわやかに第一声を上げた。中富良野から夏休み中の女子大生を伴って駆けつけてくれた友人、矢張り女子大生で後援会長の娘さん、二人のウグイス嬢がまたさわやかで感謝感謝、信じられない程に幸せな出発だった。
 中にはご主人が他候補の後援会長であるにもかかわらず『我が家は各々自分の意志で決めるので』と連日応援してくれた友人もいたり、みんな婦人学級やテニスクラブなどを通して信頼関係を培ってきた人達だ。しかしリヤカーを引いて歩いてくれるはずの人も食事を作ってくれる人も、口火を切った人さえも何時しか何の音沙汰もなくなり『線路を越えて東へ行ったら大変な事になるから』とか…。と思えば或る高齢の女性が『後援会に入れて頂きます』とわざわざ名簿を届けてくれたり、選挙は様々な人間関係をも壊してしまうような怖くて悲しいものなのかと…。
 男性候補者は俄かに警戒し始めるし、『ここまで来たら前へ進むしかない外これはもう私でなければ出来ない事だ外自分がやってみるべきだ外』と。そんな中で何くれとなく親身になって支えてくれたH女史には、どれだけ勇気付けられ助けられたことか、期間中も早朝から夜遅くまで一日たりとも欠かす事なく、彼女の几帳面な性格そのままに心からの支援があってこそ最後まで頑張り通す事が出来たのだと、今尚感謝の念を禁じ得ないのだ。
 私は只ロボットの如く今日は何処を廻るのやら、行き先はドライバー任せ、時には街頭演説もしてみたり、しかし道行く人もまばら、立止まって聴いてくれる人もない、時にはオフィスの二階の窓からのぞいている姿もかいま見られたが、それにしても何と寂しい街(町)なのだろうと思いながら、真夏の炎天下に倒れそうになる自分を奮い立たせながらも、ほんの五日間の戦いであったが自分が自分でないようでもあった。然しどれだけの人が受け止めてくれたのか、組織票があるわけでなく、ましてや後援会さえもないのに票読みなど出来るはずもなく、増してや当選するなど予想もつかないのが正直のところだった。
 女性候補者が出たとあって他の候補者は、これまでないフィーバーで町中が色めき立っている。夫の退任にからんで『仕返しではないか…』とか、何かと悪いイメージが先行し、不利な条件の中で戦わざる得なかったし、加えて同じ町内会から既に男性が立候補を表明しており、しかも、その後援会長をとの依頼を受け乍ら断った経緯もあったり、極めて厳しいものであったから…。
 最後の夜は、各候補者が市街地に集結してスピーカーの音量も最高に『お願い!お願い!』の連呼で、正に選挙カーのオンパレードさながらにヒートアップしていた。街中の人達がお祭りの行列を見るかのように表に出て眺めていたが、この時ばかりは私もマイクを握り議会にも女性が必要であること、そしてその力を信じて欲しいと声の限り訴え続けた。
 「戦い済んで…」、午後八時、全てが終わった。私は、落選した場合は顔を出しずらいだろうと、運動期間中の応援に対する感謝の気持ちをこめて「御苦労さん会」の席を設け労をねぎらい、何時ものように笑顔でそして疲れ切って解放してもらった。
見事当選する
 一夜が明けて投票日を迎え、投票用紙に自分の名前を書くことになるなんて夢のような、そして緊張感を覚えた。立会人席に居並ぶ面々も気のせいか、好奇とも軽蔑ともつかない視線を送っているような、或いは私のひがみだったのかも…。
 開票が始まる時刻になって友人達が集まって来て「結果はいかに」気になり乍らも明るい雰囲気の中にいられた事が有難かった。そしていよいよ結果が出て何と三百二十四票を頂いて当選となったのだ。我ながら「お見事」と言うしかなく、嬉しいと言うより有難くて只々感謝の涙が溢れるばかり、東西南北グルリと頭を下げた。そして上富良野の歴史が始まって以来、初の女性議員として議会に臨むことになったのだった。
 これからの一期四年と言う任期の中で何をどうすべきなのか、責任の重大さを思い緊張のスタートだったが、先ずは大失敗から始まった。翌日、選挙管理委員会から当選証書を授与される事になっていたのに、事前の説明を受けた者との連絡がとれていなかったのと私自身、書類に目を通さなかった事で、担当者からの電話に大あわて、夫からは「何をやっているんだ」と叱られ乍ら大急ぎで役場へ。会場には全員が揃い緊迫した空気の中、しかも上手から入ってしまい、指定の席についたが頭の中は真っ白だった。勝井委員長より当選証書を戴いた時には、やっと落着きを取戻し新たな感激と希望が湧いて来たのを覚えている。

掲載省略:新聞報道紙面「初の女性議員が誕生〜上富良野町議選の開票結果」

 それからの四年間、一つ一つ新しい体験をしながら男性の独壇場だった議会と言うものを嫌と言う程感じて、女性進出の重要性そして難しさを思い知らされた気がした。全く未知の世界へ飛び込むのだからそれなりの覚悟はあったはずなのに、実際は甘いものではなかったのだ。
選挙は魔物
 そして四年間はあっと言う間に過ぎて二期目に向けて動き出したのが平成七年二月だった(当初の撤を踏まないよう早めにと)。しかしその頃、高齢の姑が寝たきりで自宅介護しており、私は議員活動も思うように出来ず極度の疲労状態だった。が、そんな事は言っていられないのだ。その時期が来て他候補者は支援者訪問など始めているのに、私にはその組織もなく車の運転が出来ないので「当てはあれども足がない」状態の中、当初は一期だけと引受けて頂いた後援会長にも引続きお願いする事になり、H女史、他の友人で近隣、市街地など趣意書を持って挨拶に廻ったが、公示日が来た頃には疲れもピークで体力的にも限界に来ていたりで、正に介護の合間に車に乗ると言う状態で我ながら「こんな事で戦いが出来るのか」と不安ばかりが先に立ち、体がついて行かないのだ。或る先輩議員の夫人からは『二期目は大変なんだよ!電信柱にも頭を下げて歩かなければ…。私なんか父さんに内緒で菓子折を持って頼みに歩いたんだよ…』と懇懇と聞かされていたが、私は『今はそんな時代ではないのでは、私にはそんな事は出来ない。』と口ではハイハイと言い乍ら心の中では反発していた。
 後になってみれば『やっぱりありだったんだ…』と納得したが。ちなみに新しく応援に加わってくれた二人は選挙戦に入っても顔さえ見せる事はなかった。目的は他にあった事を後で知る事になり茫然としたものだが…。
 そんなこんなで自分乍ら不本意な戦いをして、終わってみればほんの三票差で落選、泣くに泣けない涙も出ない而し納得できる結果だったが、只々、応援してくれた人達に顔向けが出来ない申し訳なさで情けなかった。
 『絶対大丈夫と思っていたのに…、票が足りないなら電話をくれれば二票や三票どうにでも出来たんだよ…』とか、或る候補者から電話で『【倉本さんは絶対大丈夫、トップ当選だから…私が危ないので助けて!。】って頼まれたので家の二票上げてしまったの…。』また一方では『倉本さんはゴミの有料化を提案しているってビラが配られたのが響いたんだよ…。』などなど数々の情報がよせられたが、全ては後の祭りで『私は正道を行く…。』なんて思い上がっていた自分を責めるしかなかった。気が付けば一本の電話さえもしていなかったのだから…。やはり選挙は魔物なんだと納得しながらも口惜しかった。がそれ以上に残念な事があった。
 敗戦から間もない或る夜、或る友人の家に立ち寄る事になり、そこで意外な言葉を聞いたのだ。『倉本さん、もう選挙には出ないで、他の事なら何でも協力するから…』『選挙は矢張りお金だと思うよ…。』と。然し私は何を言われても只々自分の不徳を詫びるしかなかったが『七十歳になったら自分史を書きたいと思っていたので神様が早めにそのチャンスを与えてくれたのかも…』なんて言っていた。(実はいまだに出来てはいないが)「それがいいよ、出来上がったら私たちも一生懸命売るから…。』と。
 然し私は言葉とは裏腹に『一体この人達は何を考えているのか、たった一つの女性の議席を失ったのに、所詮は他人事なのだ。』と、もっと言えば私にとって最大の支援者であり信頼している友人に対する陰口が許せなかった。『倉本さんはいいけれど側についている人が嫌だから応援しない。』とか『何であの人が…』とか、何故他人のせいにしなければならないのか、上富良野の女性ってこの程度だったのか、私は落選したのは誰のせいでもない、自分がそれだけの人間だったのだと割切り、涙も出なかったし平静でいられたが翌日、心配して訪ねてくれたH女史が涙を流してくれた事が辛くて、彼女の信頼を裏切った責任を何かの形でとらなければ…と思いを強くしていた。
冷たい目も気にせずに
 勿論これは今に始まった事ではないが、長い歴史の中で培われてきた封建的な風土、矢張り男性社会の習性から自立できない女性自身の問題なのか?自分をも含めて只々情けなかった。そんな中、九月某日M自衛隊幹部の送別会が行われ私は出席をためらっていたが、ここでも『倉本さんは何も悪い事はしていないのだから堂々と出席しましょう。』とH女史の助言があり、当時の司令さんには個人的にも婦人学級などでも特にお世話になっていた事もあってH女史と共に出席した。案の定周囲の目は冷ややかで中には『倉本さんよく出て来れたね、俺だったらとても来れないわ…』と直言する元同僚もいたり、敢えて無視している周囲の雰囲気を感じながら身の置き場がないような…平静を装うのが精いっぱいだった。
 一つだけ救われたのは司令さんがわざわざ私の席に来られて『家内は倉本さんに入れたんですよ、本当に残念ですが負けずに今後も何かと頑張って下さい。』と言葉をかけて頂き、議員在籍中に司令室に招いて下さり業務隊長、第三地対艦ミサイル連隊隊長さんのお三方と懇談、特別なお膳で歓待して頂く中で評価して下さった事に感激し、尊敬していた方だったのでこの雰囲気の中での心配りに有難くて涙が出た。
 そして以前に読んだ「女性が社会を変える」と言う本の意味を思い返していた。このまま負け犬であってはならない、後に続いてくれる女性を送り出す事が私の使命と感じていたが幸いにも現在、二人の女性議員が活躍してくれている事は、或いは私の布石も無駄ではなかったのだと、心からのエールを送り期待している。女性議員が議会を変え、やがては町をも動かしてくれる事を信じて…。
 「選挙とは悲しくも面白きものかな」。そして矢張り魔物なのだと…。

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一