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ハンターは俺の生きがい

上富良野町旭町一丁目 児玉光明 昭和十三年六月二十七日生(七十五歳)

 【取材】の記載は、郷土をさぐる会編集委員(岡田三一)の取材内容、【児玉】は取材に対する児玉光明さんのお答え内容を、話し言葉で記載しています。
【取材】  児玉さんの家は、祖父の代から猟銃を持っていたと存じますが、祖父や父親のことについて分かっていることからお聞きしたいのですが…。
【児玉】  そうだなー。祖父は日露戦争に従軍し、勲章を貰って帰って来ていたので、鉄砲の扱いには慣れていたと思うよ。その当時は「村田銃」で、どこで入手したのか分かっていないが、松前藩の刻印があったようで古いものだったと思う。
 祖父が江幌に入植し、開拓の鍬をふるったのが明治四十年頃だったので、熊の巣に直接入ったようなもので、家の周りをよくうろついていたと言っていた。だから護身用として持っていたと思う。
 秋のある日、家の周りで麦やソバなどを脱穀して俵物を作って積み上げているのに、どういうわけか減っているように思えたので、裏に廻ってみると熊が俵ごと引っ張っていき食っていたと言うから、相当いたものと思う。しかし、祖父が熊を撃っている場面は私はまだ小さかったから、見たことがない。
 父親の代になると、キツネが放し飼いのニワトリを襲うことが頻繁にあったみたい。ニワトリは夜になると高い止まり木で寝るが、早朝には地面に飛び降りてくる。そこをキツネが狙うので、簡単にキツネの餌食になってしまう。親父は頭にきてキツネをやっつけていた。その頃のことは知っている。
 私は小学校卒業後すぐに従兄弟からもらった空気銃でスズメやカラスを撃っていた。その頃は警察に届けるだけでよかったが、その後、猟銃の免許証がいることになり、面倒くさくなって、銃から離れていた。
 昭和三十年の中頃になると、ビートの栽培方法に変化がみられ、畑にビートの種を直接まくやり方が、ビニールハウスで苗を育ててから畑に移植する時代になった。その当時、私が試験的に取り入れた方法なので、上富良野では早いほうだった。ペーパーポット仕立てだが、ビートの苗は一本ずつ手で植えていかなければならなかったので、重労働だった。
 ある日のこと、ビート苗の移植中に腰を伸ばして後ろを振り返ってみると、紙にくるまったビートの苗が、カラスには何か旨いものと見えたのか、嘴で強く引っこ抜くもんだから、後ろに尻餅をつくようにパタパタとひっくり返って、それを何度もしているのヨ。それを見たとき、おかしいやら、腹立つやら、そんなことだったので、カラスをやっつけなくちゃと思い、それがハンター始まりのキッカケだった。
【取材】  光明さんは、ハンターになる前に、冬は山子(やまご:きこり)として働いていましたね。その時のご様子を伺いたいのですが…。
【児玉】  あの時は、美瑛町の二股地区に行っていたナ。北沢と南沢があり、造材現場で働いていました。カバやナラ、マツなどの大木に挑むのですが、倒木の際に木が裂けると価値が下がるので、ウケ(注1)をマサカリで掘ってから倒すんだ。
 その木のひっくり返しが、おもしろいんだナ。直径一メートルぐらいの木を倒すときの爽快さといったら、たまらんネ。やみつきになった。
 こんなこともあったナ。当時十八歳か、十九歳だった。飯場ではてこ(注2)というやつよ。厳冬の夜はとっても寒いので、薪ストーブをドンドン燃やして寝るの。縦煙突の半分くらいまで赤々となっているんだ。屋根の上まで火の粉を撒き散らして燃えていたんだナ。そのうち、先輩が「おーい、てこ、火事だ!!火消せ!!」と言った。屋根が燃えているんで、おれ、びっくりこいチャッテヨ。でも先輩は平気ヨ。慣れているんだ。寝ていた布団を丸けて持って逃げるんだ。それで済むんだヨ。飯場は木が豊富だから、すぐ建てればいい。こんな調子ヨ。こんなことを経験した者は、そんなにいないと思う。
 冬の農家のアルバイトだった山子も、一台十万円以上もするチェンソーが登場してからは辞めた。ちょうど鉄砲を始めた頃でもあったんだ。
【取材】  児玉さんは、農業をしているハンターだったので、冬になると道内各地に出かけて行ったと思うが、おもしろかったこと、印象深く残っていることなどがありましたら…。
【児玉】  ハンターになろうとしていた頃は、先輩に来いと言われたからではなく、おもしろいもんだったから、俺の方から勝手に好きでついて行ったもんサ。
 熊猟は、夏から秋までは農業が忙しいからダメで、三月から四月の農業が忙しくなるまでの期間だけだったが、その当時は上川一円どこにでも行けた。でも俺らのグループは、上川南部の金山、落合、幾寅、占冠まで出かけて行った。
 当時、鹿はこの辺りには居なかったので、北見、白糠、足寄などあっちの方までいっていた。
 熊の足跡をつけて行って、山並みや地形を読み、熊の動向を予測し、目と耳と鼻の神経をとがらせて追跡していく。その醍醐味といったらたまんないネ。この気持ちがわかっている人、俺らより若い人で何人いるのかな。
 鹿猟は、あっちへ行っても鹿の数、少なかったナ。一日オス鹿一頭しか獲れなかったこともある。勢子(注3)猟でマチかけて待っていると、鹿は追われて縁までくるが、出てこない。シビレ切らしてチョットこっちが動くと、全速力で逃げていく。鹿は動くものにとっても敏感なんだ。鹿ばかりでなく、熊も敏感だ。
 セコ(勢子)猟でマチ(待ち)掛けて、「オーイ、配置したからな!!」と言って、木の陰でコーヒーを飲んでいたら、熊がこっちにブッ飛んで来た。[熊は、セコ猟をすると、追い込まれてどこへでもブッ飛んで来る。高さ七〜八メートルの崖なんか飛び降りてくる。それぐらい馬力がある。]
 「熊は登りは速いが、下りは遅い」と言われているようだけど、それはウソ。登りも速ければくだりも速い。下りのほうが三倍も速いんだ。楽しいなんてもんではない。こちらも大木に身を隠した時もある。
  山部町(現富良野市山部)から入った時のこと。デッカイ足跡だったんだワ。ドンドコ、ドンドコ山深く五人で追跡していって、下りになったんでスキーで滑って行ったら、何か感じたんだナ。二十メートルほど前に大きな熊が、陰からニューと出たサ。熊は、グーッと頭を横に動かしたが、俺も動かなかった。一発で仕留めたが、その時の写真がこれだ。

掲載省略:写真「仕留めたクマと5人のハンター。前列左が本人」
掲載省略:写真「大きなクマだったので、川の流れを利用して運び出した」

 次は誤射のことだが…。俺が鉄砲を始めた頃だが、先輩からこんなことを言われた。
 「お前な!!たまに、よく確認しないで誤射して人を殺したという記事があるだろう。人を撃ったら終わりだヨ。獲物を逃がしても、またチャンスはあるんだから。それだけは絶対に確認して撃てよ」
 しみじみと語ってくれたことは、今でも頭にこびりついている。しかしナー。ヒャッとしたことは、俺にもあるんだよ。
 一回目は、確かに居る気配で、銃を構えてジーッと待っていたけど、動かない。動こうとしないんだ。シビレを切らして一息入れようとした瞬間、木と笹の間から逃げて行った。大きな鹿ヨ。
 これは残念なことだけで済んだが、もう一回は、危うくという目にあったヨ。
 あれは、春の残雪がまだあった頃、落葉林(カラマツ林)に居たんだヨ。鹿だなナーと思ったら鹿に見えるんだよナ。それでもはっきりしない。鉄砲の照準器は合わせてあるんだから、引き金を引けば、一発飛んでいく。五分間くらい、いやもっと見ていたんだ。そうしたら、農家の親父よ。
 ビックリこいて帰ってきた。自分の畑で、春先なんで木の枝打ちをしていたんだナ。
 鹿打ちに行って一番おもしろく印象に残っているのは、トムラウシだナ。年に一回か二回行くんだけど、トムラウシに行ったら、農家の離れ部屋に何日も泊って、メシ代を払っていたものヨ。こんなことがあった。
 十勝清水のハンターが、夜八時になっても帰ってこないと言って、奥さんと隣の二人で俺らの所に来たわけヨ。車で来たと言ったから、絶対に車があるはずだからと、車二台で探しに出た。俺のグループは、五人で行っていたから、手分けして沢に入った。車のライトがおかしい所で光っているものを発見!!そして、トントコ、トントコ行ってみると、運転席に伸びているのヨ。後から聴いたんだが、沢の終点まで行って車をUターンしようとしたところ、道幅が狭くてスリップして車ごと崖から落ち、ドアと大木の間に挟まったという。鉄砲を杖にして歩いたが、寒くてダメで、また車へ戻ってよじ登って乗っていたという。
 「いつ頃からヨ」と聞くと、昼頃からだったと言う。よく辛抱強く待っていたさナァ。ハンター仲間として救助できた事は、本当に良かったと思う。
 タヌキも獲ったよ。キツネの毛皮が高く売れた時だったので、タヌキも高く売れるだろうって皮をむいたものヨ。昔話でタヌキ汁ってあったから、どんなものか食ってみようと言うことになり、お母ちゃんに頼んでタヌキ汁を作ってもらったのヨ。そうしたら、マズイなんてもんでない。臭くて臭くて食べれたものでなかったサ。その頃が一番おもしろかった。俺が三十歳チョットぐらいかな。
 今、春先の熊撃ちは町内に限られているため、ほとんど出来ないワ。上富良野は、熊の移動の通過地区になっている。中富良野の本幸で大きな二頭の熊の足跡を見つけたので追跡することにした。熊が通る場所は、吹上温泉道路を横切り、日新・清富の奥を通過するとわかっていたので、急いで車を飛ばした。清富まで行ってみると、もうすでに白金温泉方面にぬけていった後ヨ。清富の奥まで一日にそんなに移動するんだから、まず追跡は不可能だとさとったヨ。
 鹿は、春先にボッカケル(注4)と、一時は速いがすぐに息切れして口開けてヒィヒィーとなるから素手でも捕えることができるぐらい。しかし、熊は持久力がある。だから鹿は熊の餌食になってしまう。ある時、「オーイ!!熊が鹿を倒したばかりだぞ概」と叫んで、二頭を横取りして仲間と食べたこともあるサ。

掲載省略:写真「平成6年東大演習林で仕留めたエゾシカと私」
【取材】  雪の中を歩いて鹿撃ちすると思うが、スキーやかんじきとかの用具はどのようなものですか。
【児玉】  俺が始めた頃は、自衛隊が使用しているような革靴を履いていったが、困ったことに川を渡れんのヨ。だから、長靴と皮のパチンコ金具にした。あの金具が一番だ。俺らが小学生の時、スキーで遊んだからスキーは達者ださナ。先輩も感心するぐらい上手にスキー操作ができた。

掲載省略:写真「<皮製のパチンコ金具>長靴にはこれが一番適している」

 春先にアザラシの毛で出来たシール(注5)を張ると堅雪ですり減って勿体ないので、中央がくりぬかれてへこんだスキーを使った。縁にエッジのついたもので、ブッシュが雪面に出ていても平気で滑れた。昔は和寒やあっちこっちで製造していた時だったので、特別注文して作ってもらった。シールは人造シールを張っていた。
 ストックは、沢下りの時二本とも股の間に入れ、その上に腰を掛けるようにしてスピードをコントロールして自由自在に滑り下りることができるので、竹製のほかにアルミ金属のポールも使用している。
 ワックスは要らない。本当のワックスは高価なので使わない。ホーマック店に行くと、ママさんダンプの裏に塗るスプレー缶一本四〇〇円があるんだヨ。それで十分!!
【取材】  児玉さんは、鉄砲撃ちをしていて、身の危険性を感じたことはないのですか。また、素人が熊について気を付けていなければならないことは?
【児玉】  俺らは、九十九パーセント熊が逃げていくので、危険を感じたことはなかった。
 秋口、中富の山で鹿を捜していた時、ザーッという音。人の方に背中を見せると撃たれるので、木の陰に隠れるようにして、熊が木の上から滑り下りてきた。地上七〜八メートルの高さだったが、飛び降りて逃げて行った。その頃は、ショットガンだったから、一五〇メートル以上も離れていたので撃てない。結局、逃してしまった。
 素人が山歩きをするときは、音の出るものを持ち歩くということ。これが一番かな。熊の方から避けてくれる。熊に出合ったときは、背中を見せないことも肝心だ。
【取材】  現在、上富良野にはハンターが何人くらいいるのですか。グループを組んで出かけると思いますが、最近の様子など…。
【児玉】  二十五人程いるが、半分くらいは農家の人だ。「自分の畑に出てくる鹿を捕る」という意識ぐらいしかない。率先して山に行って、山に何日も宿泊して猟をするという俺らの時とは違っている。
 後輩に言っていることだが、「熊撃ちしたかったら、熊に接しなさい。熊になれなさい」ということだ。動物園に行って熊を見てくることでもいい。初めだったら、「熊に出くわすとパニックになり、引き金を引けないヨ」と言っている。

掲載省略:写真「剥製〜4歳くらいの小さな熊だが、大きな雄鹿をたおす力がある」

 次に、「銃の手入れをしっかり概」。熊に出合って、不発だったらヤバイでしょ。
 昔と違って「グループづくり」が難しい。自衛隊OBが二〜三人いるが、アルバイトで勤めているでしょ。だから、グループとしては、年に一回くらいトムラウシ方面に行く程度かナ。熊狩りをするとき、相棒連れで行くでしょ。それが素人であるとき、熊の追っ手であった場合でも、もし何かがあった場合、責任は俺の方にくるんだよ。昔は、自分が好きで付いていったので自己責任だったが、今は違う。こういうこともあったヨ。
 俺の方から「連れて行ってくれ」と言ったら、家族のこともあるから「一筆書いて持ってこい」と言われたことがある。(俺の先輩には言われたことはなかったが…。)だから、今の自分は、俺の方から「付いて来いよ!!」といって無理して誘うことはしない。ハンターの意識は全然変わったと言える。
 「熊撃ちする人が少なくなったから、仕込んでやってくれ!!」といわれたって、どうやって仕込める。「教えてくれ!!」と言って来れば教えてやるが、来ねえ奴に、「お前、来いや!!」とは言えない。
 そういう寂しさが今のハンターにはある。俺が若かった頃のような意識を持ってくれればもっと楽しいはずだが、今はなくなつてしまった。
【取材】  ところで、熊の皮や鹿の皮一枚のお値段は?
【児玉】  今は、只(無料)だ!!昔は熊一頭四〇〜五〇万円、熊の胃(実際は胆のう)だけでも一〇万円していたんだけど…。胆のうは、肝臓から分泌する胆汁を一時貯える袋だが、秋に獲った熊だと消化に使ってしまっているので、胆のうに胆汁はほとんど残っていない。それで価値はない。春先だと胆汁が一杯に詰まっていて、消化を助ける薬になるんだけれど…。
 熊の剥製に一〇万円くらいかけて作っても、誰も買ってくれなかったらどうする?
 また、秋の熊の毛は、あまり良くない。俺も去年一頭獲ったが、破棄した。鹿の皮は、昔から売れない。毛が堅くて敷物にならないからだ。
【取材】  昔、私達が小学生の頃には、エゾユキウサギが沢山いたが、今はほとんど見かけなくなった。なぜなんでしょうね。タヌキはどうなんですか?
【児玉】  キタキツネの増加が原因なんでしょうネ。ウサギの子っこのうちにキツネが食べてしまうんだもの。そして、タヌキも増えているヨ。アライグマが増えたので、作物の被害を減らそうと、農家の人が罠を掛けているが、その罠にタヌキが掛っていたという話もあるぐらいだから、タヌキも間違いなく増えている。
 キツネの増加の原因は、ハンターの側にもある。昔、俺ら若い頃には、キツネを捕って皮むいて持っていくと、一枚一万八千円〜二万二千円で買ってくれたもんだが、今はキツネを捕るハンターはいない。キツネというと、エキノコックス症が有名だが、今はもっと悪い伝染病に罹っているんではないかな。春先になると、五頭中三頭は皮膚病かなんかに罹っていて、毛のないしっぽのキツネもいるよ。そんなのハンターは撃たないよ。撃ったとしても気持ち悪くて、手で触れないしヨ。だから増加したんだ。
 ウサギは少しずつ増えている。ウサギを見たかったら、江花の奥の千望峠の奈江地区に抜けていく旧道と新道の間、そこの落葉林に行ったら沢山足跡があるので、見ることが出来ると思う。
 カラスは、百パーセント減らないな。昔は電柱に止まっているのを撃っていたもんだが、今は禁止になっている。東中にゴミ捨て場があった時は、そこに行って撃っていたが、今は閉鎖になってしまった。電柱に止まっているカラスを撃っていて、携帯ででも通報されたら、ハンター生命は終わりだヨ。だから、カラスを撃つハンターは、今は少ない。
(注1) ウケ:木を倒したい方向に、マサカリやノコギリで切り目を掘りこむこと。木が裂けるのを防ぐこともできる。
(注2) てこ:作業現場で見習いで働く若者。
(注3) 勢子猟:一人ではなく、数人で獲物の追い込みをしながら猟をすること。
(注4) ボッカケル:「追いかける」の北海道方言。
(注5) シール:山岳スキーをする人やスキーを使う猟師が、後ろにスキーがスリップするのを防ぐため、アザラシの毛皮を、板面に張って使うように加工したもの。今は人造のものが多い。

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一