郷土をさぐる会トップページ     第31号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
ふるさとを想う

札幌市清田区 松岡常義(七十七歳)

十勝岳の事
 毎年十一月札幌で「札幌上富良野会」の催しがあり、中澤良隆様と相席となったのが、御縁でこの様な、拙文を寄せる事と相成りました。
 十勝岳については色々と書かれておりますが、其の山麓で生まれ育った自分としては又格別な思いがあります。
 朝日が昇る山、時には噴煙を上げ、頂上に白い綿帽子をかぶり冬将軍の到来を告げてくれます。四季折々の変貌の様は名状し難い光景です。正に上富良野の屏風と呼ぶにふさわしい雄姿ではあります。
 北海道空知郡上富良野村字上富良野十人牧場一六五六番地の一これが私の本籍地です。今は上富良野陸上自衛隊演習地の中にあり、道路も川も切り替えられ、その面影はありません。
 自分の生活の場は、藤井農場(別称藤井の沢)翁の沢とも云われたそうです。村を縦断する一本の道は十勝岳山麓に通じていました。
 その途中には、昔、硫黄の製錬工場の廃屋があり子供達の格好の遊び場でした。良質な硫黄が産出された事で隆盛を究めた時期の名残でしょうか…。
 この道路は冬期間、十勝岳山麓から製材用原木や家庭の暖房用薪としての、原木運搬にも利用されたのです。防寒具等も現在とは比べ物にならない粗末なものだったのに、厳冬の中、動力は馬を相手の過酷な作業に先人達は良く耐えたものです。
藤井農場(藤井の沢)の生活の事
 生活に欠かせない水は、私の家から一q程十勝岳よりの中村さんの庭先から湧き出る「湧き水」で、源流の名も無い一本の川水が生活を支えてくれました。
 下流に行くにつれ水量が増し、人も家畜も潤されたのです。然し火山地帯ですから、少し酸味のある水でした、従って魚類は棲息していません。「ザリガニ」だけは沢山おりました。おやつ代わりによく食したものです。
 藤井農場から学校へ通うには隣の中ノ沢を横断し、更に吹上線道路まで、山や坂を越えて学校到着です。
 夏はともかく、冬の間は想像を絶する難所ばかりでした。特に富良野川には粗末な橋しか無く、滑る足元に全神経を使いました。誰も事故に会う事も無く幸いでした。
 時には、熊の足跡を見たり、昭和二十年の米軍の空襲で艦載機の音に驚き笹薮に隠れたり、様々な思い出は尽きません。
掲載省略: 第31回卒業記念写真〜
  前列左より:深谷恵子さん、川野裕美さん、菊地チエ子さん、小林和夫君、松岡常義(自分)、河内政男君
二列目左より:林財二さん、佐藤勇さん、一永要太郎校長、上川先生、丸藤先生、一永校長の奥様
三列目左より:岡澤美代子さん、高橋弘枝さん、佐川サトリさん、山道春子さん、石澤正志君、田中茂光君、林光男君
旭野国民学校の事
 旭野国民学校に入学し、一永要太郎校長先生、丸藤キミ先生、上川恒郎先生に勉強を習いました。
 校長先生は、大変怖い一面思いやりのある先生でした。決して良い声では無いのに、「仰げば尊し」とか「蛍の光」を一生懸命に教え頂いたのも懐かしい思い出の一つです。
 一永校長先生は冬期間生徒が登校する前に、石炭ストーブに火を入れ教室を暖めてくれました。
 ご子息も共に学んでいたのですが、竹の棒でよく頭をこんこん殴られていました。他の子に対する苛立ちを、自分の子にぶっけているものと、子供心にも緊張したものです。
 太平洋戦争最中の入学でした。一年生〜三年生までが一教室、四年生〜六年生までが一教室で、二教室の混合授業でした。一年生にして、二、三年生の授業を受けていた様なものです。都会から、疎開して来る人も多く、賑やかなものでした。
 然し、戦時中の事ですから授業もそこそこに自分の家の手伝いや、収穫期は援農と称し他の農家のお手伝い等もさせられたものです。「イモ拾い」が主でした。
 或る時は全校生徒で川原へ「イタドリ」を刈り取り、校庭で乾燥させ、雨天になると校内に運び込み適度に乾燥すると、葉を大きな袋に詰め込み、「兵隊さんが吸うたばこを造る」と云う事でトラックで集荷に来ていました。
 学校は、また村人の娯楽の場でもありました。秋祭りで農作業の合い間に、旅芸人が来て芝居を見せてくれました。股旅もの、人情芝居、お笑い、と楽しい一時を過したものです。
 もう一つ忘れられないのが、青年団の方々が他の部落との対抗運動会の為、練習をする風景です。農作業後の疲れもなんのその、「走る・跳ぶ・投げる」等元気そのものでした。皆さん若かったんですね。それが戦後復興の原動量力になつたのは間違いありません。
村の産業の事
  農業が主力であった事のほか、富良野川・中ノ澤川・旭野川・など豊富な水力を利用して澱粉工場が盛んでした。旭野地区だけでも、四・五箇所あったと思います。そこへ「イモ」を運ぶ馬車の列・集荷場所の「イモ」の山は壮観そのものでした。
 そこで働く人々の熱気と気迫に圧倒され、自分の将来を夢みたものです。山ぶどうを取って工場に届けると、ご褒美で澱粉の塊(乾燥前もの)を貰えるので、それが楽しみでしたネ。澱粉工場は、農業・硫黄採掘・木材伐採・と並ぶ主要な産業だったとおもいます。上富良野で旭野地区ほど澱粉工場の多い地区は、聞いた事がありません。
松岡常義氏略歴
昭和二十四年三月  旭野小学校卒業
昭和二十七年三月  上富良野中学校卒業
    同年四月  道立札幌職業補導所所自動車整備科入所
昭和二十八年四月  自動車整備工場就職
昭和二十九年四月  定時制高校入学
昭和四十二年七月  有限会社 共同自動車設立
 所在地:北海道札幌市清田区平岡三条一丁目一番五十号
 事業内容:自動車整備・板金塗装・車検・自動車買取・新車中古車販売・保険代理店・レンタカー事業
 従業員数:10名

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一