郷土をさぐる会トップページ     第31号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
「ふるさとの山々に想う」

札幌市北区 小川清一   昭和二十五年八月九日生(六十四歳)

 この由緒ある本誌を私の拙文で紙面を汚すことになりますが、生まれ育った故郷、上富良野への思いが年を重ねる毎に強くなる心境を表わすことができる機会を与えていただきましたので、そのことを綴らせていただきます。
[生まれ育って]
 私は昭和二十五年に富原の東三線北二十二号で父・好太カと母・キヌの、姉一人、私と弟の三人兄弟の真ん中として生まれ育ちました。父は同じ富原の本家から分家した二代目で、母は江花の畑作農家の出身で旧姓は吉田でした。
 家業は米作農家で富良野盆地の一角において両親は共に山形からの開拓入植農民の子孫として、土と気候と闘いながら米を作っていました。子供の頃は農作業もほとんどが手作業で、子供も貴重な働き手として下校後や休日はよく手伝いをさせられました。
 特に秋の収穫期は迫る寒さと雪に追われるように、夜なべ仕事をした記憶が蘇ってきます。
 農業の他、父は当時炭鉱の坑木などで需要があったカラマツの山林を幾つか所有して、やはり私達子供が休みの日には下草刈りや下枝払いなどの手伝いをさせられました。遊び盛りの時期に山中で厳しい仕事しているときは、遊んでいる他の子供達がうらやましく思えました。
 子供時代は盆地特有の夏は暑く冬は寒い自然環境の中で、春は雪解けを待ちきれずの外遊び。夏は昆虫・魚捕り、夜はカエルの大合唱を聞き蛍が舞い光り、夏休みはホップ摘みのアルバイトをし、秋は赤トンボが自転車で踏んでしまいそうになるぐらい群れていたこと。冬は雪まみれになって遊び、朝はしばれて気温が下がると、学校が休みや始業時間が遅れるのを楽しみにしていたことなどなど。決して豊かではないながらも家族、親戚、近所の人や友人達に囲まれ育まれて、戦後復興期から経済成長期に向かう時代、私が十九歳の年に父が四十八歳で亡くなるまでは平穏な時を過ごしました。
 家は盆地の中の一軒家で周りに遮るものもなく、四方を見渡せば東に十勝岳連峰とそれに連なって北に大雪の山並みが遠望され、西は緩やかな丘や林が連なり、南には険しい芦別岳などの山々を眺めて育ちました。
 特に十勝岳連峰は近くの高山であり、その季節、気候によって変わる山々の様子を毎日見ていました。
 それは景色を眺めるというより、日々生きていく生活の中の当然の一部であったと思います。他の山々も同じように見て過ごしました。夏に山(丘)の部分があちらこちらと紫色に変わると、「あそこはラベンダー畑(当時は香料の原料としての農作物)だ。」と一目で判ったものでした。
 当時は今とは違い、美瑛・富良野を含め観光地としては全く認められていませんでしたが、これらの山を含む風景が子供心に美しいと思いました。ただ、他の景勝地を良く知らないので、この地がもたらす風景の「価値」を計り知ることはできませんでした。
[上富良野を離れて]
 高校卒業後は上富良野で四年間、家業の農業を継いでいましたが、二十二歳の昭和四十七年に北海道庁に勤務することとなり、最初の勤務地の上川支庁がある旭川に転居して、生まれ育った上富良野を離れました。
 旭川には転勤で札幌に異動するまでの九年間過ごしましたが、上富良野とは距離も近く、若かったこともあり故郷としての思いを持つことはあまり無かったのですが、上富良野を特に意識し始める時期となりました。
 それは、上富良野・美瑛の丘を中心とした風景が全国的に広まったことでした。これはラベンダー人気と写真家の故前田真三氏の作品が注目を集めたのが契機でしたが、昭和五十年代前半頃から前田さんの写真を眺めると、今まで私が見てきた景色がプロの手法で一段と魅力的になっていて、私自身が上富良野に住んでいたときに感じていたものが本物であったことが確認されました。
 また、普段何気なく見逃していたものも、構図を含め驚くような視点で撮られていることに感心し、前田氏の審美眼に敬服しました。
 私が旭川で勤務していた近くの行きつけの喫茶店では、写真が趣味のご主人が前田氏と親交があり、そこのお店で前田氏の撮影活動や上富良野・美瑛などの話題を聞いてとても嬉しかったものでした。
 その後、旭川から転勤で道内四ヶ所の土地に住みましたが、ほとんどが山の見えない生活が多く味気なさがありました。ただ一ヶ所、倶知安に三年半住んだときは、どっしりとした羊蹄山とニセコ連峰を眺めて過ごすことができ安心感を得ました。
 上富良野を離れても、中学校の同級・同期生が比較的上富良野に多く住んでいて、クラス会や同期会を度々開催してくれるので、懐かしい友と旧交を温めあっています。郷土をさぐる会の編集委員の岡崎光良氏とは中学の同級でもあり、いろいろとお世話をいただいています。
 上富良野を離れても親戚があり、父・祖父母の墓もあるので年に何度かは訪れてはいましたが、歳月が経つにつれて自分の故郷との思いが強くなり始めました。
[そして今]
 現在私は札幌に住んでいますが、故郷の上富良野に少しでも恩返し的なことができないかと、札幌近郊在住の上富良野出身者・縁故者の方の集まりである札幌上富良野会の役員として、総会・懇親会の開催や上富良野の観光PRなどのお手伝いにささやかではありますが携わっています。
 札幌上富良野会は毎年総会・懇親会を開催していますが、その中で会員の方から「町への提言」をいただいています。以前は観光面において「美瑛や富良野に比べて知名度が低い」、「ピーアール不足では」など、町に対して厳しい言葉がありましたが、昨年の総会時には、テレビや新聞等で上富良野が紹介されて、懐かしいとか嬉しいとの言葉がたくさんありました。私も最近このことを感じています。これも町をはじめ関係の皆様方のご尽力が実を結ばれた結果だと思います。
 町の観光協会の名が「かみふらの十勝岳観光協会」と山の名前が入っているのは山好きな私にとっては嬉しいことです。
 私自身も上富良野に少しでも観光客に来ていただくために、六年前から秋に日の出ラベンダー公園駐車場をお借りして、小規模ながら私の属するキャンピングカー仲間の親睦会が催す一泊の観楓会・収穫祭の催しを招致しました。
 富原の伊藤里美氏のご協力を得て上富良野の美味しい新米や玉葱、ジャガイモなどの農産物などを格安に提供いただき、サガリなども含め産直品として参加者の方に買い求めていただき、上富良野での一泊を楽しんでもらっています。もう一つ取り組んでいるのが、亡父が残した江幌の丘にあるカラマツ林跡地の利用です。
 この地は、昔は山道を辿りながらやっと行き着ける場所でしたが、今は舗装された町道が横付けに整備され、周りの山林もほとんど畑に変わり、見晴らしの良い丘となりました。二十年前にカラマツを皆伐後、植林することもなく放っておいていたために雑木林化してしまいました。近年、この地を広葉樹主体の天然林に育てたいとの思いが芽生えました。
 開拓前のように広葉樹の木々が茂り、周りの農家さんに迷惑がかからなければ、小動物や鳥も生息するそんな里山的山林の夢を描いています。
 ただ、それを完成させるには五十年も百年もかかり私自身では見届けられません。そこで、自分自身が楽しめるものとして、七年前からこの山林にも自生しているエゾヤマザクラの苗を山の片隅に少しずつ植え始めました。山なので、せっかく植えた桜の苗木もネズミ、ウサギそしてエジシカの食害などで枯死するものもあり、順調に根付いても平地に比べ生育は遅れますが、これも自然のなす技と気長に取り組んでいます。
 そんな訳でここ数年は春から秋の休日には、江幌の山で下草刈りや間伐などの山仕事を行っています。山の中では木や周りの景色を眺めながらの作業が楽しく、時には今まで知らなかった動植物と遭遇することもあり、時間を忘れ没頭してしまいます。季節
毎に山菜などの山の恵みをお土産に、帰りに温泉で汗を流すことが至福のときとなりました。子供の時に嫌々ながらも手伝わされた山仕事が、今になって役に立っていると思い返しているところです。
 植樹した桜の一部は知友人に贈ってオーナーになってもらい、六年前からは毎年五月のゴールデンウィークに札幌から日帰りや一泊で、小旅行を行っています。新たにオーナーになる方にはご自身で植えてもらい、既にオーナーの方には木の成長を眺めてもらいながら、近郊で食事や温泉などを楽しんでもらえるように案内しています。
 桜は丈夫に育てば数十年の寿命があります。オーナーや家族の方が今後長い間、桜を見守りに現地に来訪いただけることを期待しています。

掲載省略 写真「江幌のオーナー桜」

 私がお客さんを札幌方面から上富良野に車で案内するときは、中富良野の奈江から江花の西の山頂(千望峠の上)に出るルートを使います。木立の間の道路を抜け江花の山頂で東前方の景色が開けて、運良く十勝岳連峰と丘と街が一望できたときは車内から歓声が上がり、私自身も嬉しくなります。
 現在、丸一山公園に金子隆一氏が中心となられて大規模な桜の植樹をされています。温暖化傾向がこのまま進めば、上富良野でもゴールデンウィークに桜の開花が楽しめるかも知れません。そうなれば、深山峠や丸一山公園などの花見とフットパスを組合せしたりして、上富良野の春の魅力が増えることでしょう。
 特定の施設だけの観光資源では一度観たらそれでおしまいですが、幸いにも上富良野周辺は四季がはっきりしていて、それぞれの季節と気候が織りなす風景と、丘の農作物の作付け種類や成長による景色の変化など、観る度毎に変化のある魅力的な無限の
観光資源と大地がもたらす豊富な農畜産物を有しています。多くの方に一過性ではなく、ゆっくりとこの地全体を味わっていただけることを願っています。

掲載省略 写真「江幌の山林から観た十勝岳連峰」
[終わりに]
 十九世紀のイギリスの評論家・美術評論家であるジョン・ラスキンは「神々は美しさというものの完全な姿を示すために山々を作られた。」という言葉を残しています。高い山がないイギリス生まれのラスキンがアルプスの山を見て表現したと言われています。また、このような言葉も残しています。「山岳はすべての風景の始めであり、終わりである」。
 私は今、上富良野で美しい山々の風景に囲まれて生まれ育ち、またそこに戻ることができる「ふるさと」を持てることの幸せをしみじみと感じています。
 最後に、貴重な紙面を提供いただきましたことに感謝申し上げます。
小川 清一 略歴
 ・昭和二十五年 上富良野町生まれ
学歴
 ・昭和四十一年 上富良野中学校卒業
 ・昭和四十四年 旭川農業高等学校卒業
 ・昭和五十二年 法政大学経済学部卒業(通信課程)
 ・昭和五十八年 中央大学法学部卒業(通信課程)
職歴
 ・昭和四十四年 上富良野町において家業の農業に従事
 ・昭和四十七年 北海道上川支庁(旭川市)に勤務
 ・昭和五十六年 北海道庁出納局に転勤
 ・昭和六十三年 北海道後志支庁[地方部会計課歳入係長](倶知安町)に転勤
 ・平成三年 北海道庁出納局[総務課主査]に転勤
 ・平成十年 北海道根室支庁[総務部会計課長](根室市)に転勤
 ・平成十三年 北海道空知支庁[総務部会計課長](岩見沢市)に転勤
 ・平成十五年 北海道監査委員事務局[監査第三課監査主幹]に勤務
 ・平成十八年 北海道庁出納局[指導審査課・経理課主幹]に勤務
 ・平成二十二年 北海道庁を退職
学校法人札幌静修学園 札幌静修高等学校[事務長]に勤務、現在に至る

機関誌      郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷      2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一