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―石碑[いしぶみ]が語る上富の歴史(その18)―
札幌に建立の上富良野関係の碑
中谷宇吉郎博士『人工雪誕生の地』記念碑

上富良野町本町五丁目 中村有秀 昭和十二年十一月二十八日生(七十五歳)

一、「人工雪誕生の地」記念記建立
●建立年月 昭和五十四年七月四日
●建立場所 札幌市北区北十一条西八丁目 北海道大学構内
二、「人工雪誕生の地」記念碑建立の理由
 世界で初めて人工雪の製作に成功したのは、この地に昭和十年十月に建設された「北海道大学常時低温研究室」で、理学部物理学科中谷宇吉郎教授が昭和十一年三月十二日であった。
 記念碑の建立理由については、「人工雪誕生の地」記念碑の碑文として記念碑裏面に刻銘されているので、ここに碑文を紹介します。
 「人工雪誕生の地」記念碑は、白御影石を雪の結晶のように「六角板結晶」をかたどったもので、建立場所は北十三条門から入り、北大総合博物館の右手前にあるので、北大の名所の一つとして親しまれています。

  掲載省略:石碑写真と碑文「裏に記された碑文の原稿。碑の題字は、初期の
       人工雪実験に貢献した関戸弥太郎による。」

 中谷宇吉郎博士は、雪と氷の研究で先駆的業績を遺し、昭和三十七年四月十一日、享年六十一歳で生涯を終えられましたが、墓碑は生れ故郷の石川県加賀市中島町にありますが、台座は御影石で「角板型」を象[かたど]って、雪の博士に相応[ふさわ]しい墓碑になっています。
三、中谷宇吉郎博士と上富良野とのつながり
 「石碑[いしぶみ]が語る上富の歴史」に、なぜ「人工雪誕生の地」記念碑なのかと、疑問を感じる読者もいらっしゃると思いますので、中谷先生と上富良野のつながりについて、中谷宇吉郎博士の年譜紹介の前に記します。
 中谷先生は、十勝岳「白銀荘」が昭和八年一月竣工を聞き、建物が標高一〇〇〇mにあり、冬の気温は零下十度から十五度前後に達するので、雪の結晶はそのままの姿で舞い落ちてくるので、観察と研究には絶好の地と考え、昭和八年から数回にわたって「白銀荘」に足を運ばれました。(かっこ内の年齢は当時の中谷先生)
○昭和八年(一九三三年・三十三歳)
 ・十二月に、初めて十勝岳の山小屋「白銀荘」に行き、天然雪の観測を行う。(第一回)
○昭和九年(一九三四年・三十四歳)
 ・二月 十勝岳「白銀荘」行き。(第二回)
 ・十二月 十勝岳「白銀荘」へ。(第三回)
○昭和十年(一九三五年・三十五歳)
 ・一月 十勝岳「白銀荘」行き。(第四回)
 ・一月十六日 吉田貞次郎村長に中谷博士から研究論文「雪の結晶に就いて」(一九三三年)と英文の
      「Physical Investigationson Snow.」(雪の物理的研究・一九三四年)の二冊に謹呈と記され
      「中谷宇吉郎」と署名があります。
 ・朝里岳でも二冬撮影し、雪の結晶の分類をほぼ終える。
 ・十月 北大常時低温研究室の建築落成
○昭和十一年(一九三六年・三十六歳)
 ・一月二十二日 常時低温研究室が完成し、人工雪の研究を本格的に推進。
 ・三月十二日 雪の結晶の人工製作に初めて成功する。
 ・十月八日 人工雪の実験を天覧に供する。
○昭和十四年(一九三九年・三十九歳)
 ・三月十五日 映画「雪の結晶」のため、十勝岳で天然雪を撮影する。
○昭和十五年(一九四〇年・四十歳)
 ・二月一日〜五日 十勝岳「白銀荘」で、天然雪の観察を再開す。(第五回)
○昭和三十二年(一九五七年・五十七歳)
 ・十月三十一日 旭川市で「地球上のすばらしい話」として講演。
 ・十二月中旬 上富良野町公民館で、中谷宇吉郎博士、古市二郎博士(後に第八代北大学長)の講演が
       行われた。
 ・古市二郎博士は「これからの科学」、中谷宇吉郎博士は「十勝岳白銀荘での雪の結晶」「グリーンランド
       の人達の生活」で話された。

掲載省略:写真「白銀荘前での中谷先生(右から3人目)―提供中谷芙二子さん―」
掲載省略:写真「十勝岳白銀荘山小屋のヴェランダに顕微鏡をおいて蛇腹カメラ(右側人物の前)で撮影
       ―提供中谷芙二子さん―」
掲載省略:写真「白銀荘内での中谷先生(右端)―提供中谷芙二子さん―」
四、中谷宇吉郎博士の略年譜
 明治三十三年(一九〇〇)、石川県作見村(現加賀市)で呉服商を営む家の長男として生れる。第四高等学校在学中に、田辺元の「最近の自然科学」を読み、物理学を志望する。
 大正十一年(一九二二年)東大理学部物理学科に入学し、寺田寅彦に物理実験の指導を受け、実験物理学を専攻。英国留学を経て、昭和五年(一九三〇年)北大理学部助教授、昭和七年に教授となる。
 昭和七年(一九三二年)雪の結晶の研究を開始し、理学部の廊下で雪の顕微鏡写真を撮る。
 昭和八年(一九三三年)から十勝岳「白銀荘」で天然雪の観察を続け、昭和十一年(一九三六年)に人工雪の製作に成功。
 戦時中は、ニセコで航空機への着氷を防ぐ実験なども行った。
 戦後は主に海外で活躍され、昭和二十七年(一九五二年)に米国雪氷永久凍土研究所の主任研究員になり、グリーンランドなどに遠征した。
 昭和三十七年(一九六二年)四月十一日東大病院にて骨髄炎のため逝去される(享年六十一歳)。正三位勲一等に叙せられる。
五、吉田村長に贈られた中谷博士の論文
 中谷博士の研究年譜を見ると、昭和八年(一九三三年)十二月、十勝岳中腹にある山小屋「白銀荘」に雪の結晶を研究するために訪れている。
 白銀荘は、北海道によって昭和八年一月に、設計は道庁建築部技手会田久二郎氏(凌雲閣創業者会田久左エ門氏の兄)、建設用地選定と材木調達等は道庁林務部技手岡本三男氏(北大出身の登山家であったが、沖縄戦の運玉森にて戦死され、山仲間によって建てられた碑が十勝岳中腹の泥流跡にある)の両氏に担う事が多々あった。
 中谷博士は、白銀荘が昭和八年に完成し、道庁関係者の宿泊施設で一般の人は宿泊できず、標高・気温・風の影響が少なくて、天然雪の結晶はそのままの姿で舞い落ちてくるので観察には絶好の条件であった。その様な自然環境の中で研究をしたく、当時の吉田村長に研究資材の運搬(当時は馬橇)、食糧調達と宿泊(当時は北海道庁林務部の所轄)等の依頼をされたのです。
 十勝岳、白銀荘での雪の結晶の観察研究は、昭和十五年(一九四〇年)頃まで続けられた。
 吉田貞次郎村長にお世話になったお礼と、白銀荘での研究観察の成果報告として、二冊の論文集は「中谷宇吉郎」と著名入りで贈られていた。

  掲載省略:写真「吉田貞次郎氏に謹呈された2冊の論文と送付されて来た封筒
         (昭和10年1月16日消印)」

その論文は、
○「雪の結晶に就いて」(一九三三年九月) 中谷宇吉郎・飯島恒夫共著
○「Physical Investigationson Snow.」日本訳「雪の物理的研究」
               (一九三四年十二月)中谷宇吉郎・橋倉勝治共著
 一九三四年の英文論文に観察データがありました。その内容を見ると、十勝岳と札幌で集中的に観察した事が判ります。
 一九三三年・一九三四年のデータは、札幌北大は十八件、十勝岳白銀荘は七十二件、十勝岳の自然環境での観察が、一九三六年(昭和十一年)三月十二日の「人工雪製作成功」に大きく貢献していると信じています。
 尚、吉田貞次郎氏に謹呈された二冊の論文は、昭和十年から平成二十二年の八十五年間、吉田家・清野家で大切に保存されていることに驚くと共に、心からの感謝の気持で一杯です。
六、十勝岳「白銀荘」での観察
1934年(昭和9年)12月に発表された英文の論文「雪の物理的研究」から集計
観測年\観測地 1933年(昭和8年) 1934年(昭和9年) 合計
Sapporo(北大) 1 17 18
Tokati(白銀荘) 13 59 72
14 76 90
◇中谷宇吉郎集(岩波書店)―より一部抜粋
  ◎雪の十勝―雪の研究の生活  
      『初めは慰み半分に手をつけて見た雪の研究も、段々と深入りして、算[かぞ]えて見ればもう十勝岳[とかちだけ]へは五回も出かけて行ったことになる。落[おち]付く場所は道庁のヒュッテ白銀荘[はくぎんそう]という小屋で、泥流[でいりゅう]コースの近く、吹上[ふきあげ]温泉からは五丁と距[へだ]たっていない所である。此処[ここ]は丁度十勝岳の中腹、森林地帯をそろそろ抜けようとするあたりであって、標高にして
千六十米[メートル]位はある所である。
 雪の研究といっても、今までは主として顕微鏡写真を撮ることが仕事であって、そのためには、顕微鏡は勿論[もちろん]のこと、その写真装置から、現像用具一式、簡単な気象観測装置、それに携帯用の暗室などかなりの荷物を運ぶ必要があった。その外[ほか]に一行の食料品からおやつの準備まで大体一回の滞在期間約十日分を持って行かねばならぬので、その方の準備もまた相当な騒ぎである。全部で百貫位のこれらの荷物を三、四台の馬橇[ばそり]にのせて五時間の雪道を揺られながら、白銀荘へ着くのはいつも日がとっぷり暮れてしまってからである。この雪の行程が一番の難関で、小屋へ着いてさえしまえば、もうすっかり馴染[なじみ]になっている番人のO老人夫妻がすっかり心得ていて何かと世話を焼いてくれるので、急に田舎の親類の家へでも着いたような気になるのである。この白銀荘は山小屋といっても、実は山林監視人であるO老人の家であって、普通には開放していないので、内部は仲々立派に出来ている。廊下が食堂兼居室で、普通の山小屋の体裁に真中[まんなか]に大きい薪ストーヴがあって、二階が寝室になっている。この小屋の附近は不思議と風当りが少ないので、下のストーヴの暖みに気を許して、寝室の毛布にくるまっていると、自分たちにはこの小屋の二階が何処[どこ]よりも安らかな眠りの場所である。着いた翌日は先ず階下の部屋の一隅[ま]に蓆[むしろ]を敷いて隙間風[すきまかぜ]を防ぎ、その上に携帯用暗幕を張って急造の暗室を作る。その中に器械を入れて来た木箱を適当に配置して現像装置だの、乾板[かんぱん]の出し入れの用意などをととのえる。それから食卓を一つ借り切って、これはそのまま実験台とする。雪の結晶の撮影は小屋の入口の白樺[しらかば]造りのヴェランダで行うことにして、此処にも木箱を持ち出して実験台を作る。顕微鏡写真の撮影にはかなり丈夫なちゃんとした実験台が要[い]るのであるが、それには前にも書いたように雪のコンクリートという極めて重宝なものがある。木箱の周囲を雪で固めて、ばけつに一杯の水を流しかけると、五分も経[た]たぬ中[うち]にすっかり凍りついてしまって、立派なコンクリートの実験台が出来る。顕微鏡写真装置も同様にしてこの実験台の上にくっつけてしまうのである。十勝岳のこの附近は、雪の結晶の研究には先ず申分のない所であろう。あるいは世界でも珍しい所ではないかという気もする。第一結晶が極めて美しく、繊細を極めたその枝の端々までが手の切れそうな鮮明な輪廓[りんかく]を持っていることである。自分たちが白銀荘で見たような美しい結晶は世界中のどの観測者の写真にも見られないものであった。』

掲載省略:写真「十勝連峰上富良野から白銀荘に向かう馬橇。中央噴煙のみえるのが十勝岳。」
  ◎冬の華――雪の結晶
 雪の結晶を分類する
 昭和八年(一九三三年)暮と、翌九年二月初め、それぞれ一週間白銀荘に滞在して約二五〇枚の写真を撮った。
 「北大理学部紀要」(一九三五年)に観測回数が表示されている。
 この一冬の観測回数は札幌で三九六回、十勝岳で五七八回。日数では札幌で三十六日、十勝岳は十八日。延べ時間数は札幌で二四時間二〇分、十勝岳で七一時間三〇分となっている。

掲載省略:写真「低温室で二重ガラス管装置中の結晶を写真撮影中―防寒服の中谷宇吉郎先生―」
◇「雪の結晶図鑑」菊地勝弘・梶川正弘共著より
「中谷ダイヤグラム」の項では、一九三三年(昭和八年)から北海道の中央部にある十勝岳中腹の山小屋「白銀荘」にその拠点を移し、合計三〇〇〇枚にものぼる写真を得ました。
これらの写真をもとに、雪の結晶を七つの大分類に分けました。その後、人工雪の生成にとりかかり、ついに一九三六年(昭和十一年)三月十二日に世界で最初の人工雪の成長に成功しました。
七、金子全一家と中谷宇吉郎博士
 「郷土をさぐる誌」第十二号(平成六年二月二十五日発行)に、金子全一氏の実弟で北海道大学名誉教授である金子元三氏が、「十勝岳と中谷宇吉郎博士」と題して寄稿をいただき掲載をしました。
 その文中に、なぜ上富良野町で「中谷宇吉郎博士」と「古市二郎博士」の講演会が実現した発端と、経過が明らかになりました。
〈講演会の発端は〉
 昭和三十二年の夏の頃、上富良野町の学校教職員で組織する「教育研究会」の研修会の講師として、当時、上富良野中学校の中尾之弘先生(後に郷土をさぐる会副会長・編集委員を歴任し、現在は札幌市在住)が、金子全一氏に「科学の研究に携わっていて、上富良野出身である弟さんの北大助教授の金子元三先生に是非お願いしたい」と依頼があったのが発端でありました。元三先生と中尾先生は友人でもあった。

〈講演会終了後の出来事〉
 『講演会が終るのを待ち兼ねるようにして、十勝岳で雪の研究をされていた時に、手伝いや荷物の運搬の世話などされた人達が数人、先生を囲んで口々に当時のことを話し始めた。先生もよく当時を記憶しておられて、再会を楽しまれていた』と、金子元三博士が書かれています。
 ここに、中谷宇吉郎博士の次女、中谷芙二子さんのご好意で、数葉の写真の提供を受けましたので、掲載します。

〈中谷宇吉郎先生を囲んでの懇親会〉
 講演会終了後の夜、金子全一氏宅で、中谷先生、古市二郎先生、金子元三先生を囲んでの懇親会が開催されました。
その時の写真が残されていましたので、ここに掲載します。写っている十四名の皆様は、既に鬼籍に入られていますが、上富良野町の発展に各々の立場で貢献された方々で、懐かしく感慨の念が湧きます。

  掲載省略:集合写真「中谷宇吉郎先生を囲んで(金子全一氏宅で)〜(後列)岡和田正典、金子小二郎、
         広田信一、酒匂佑一、一色正三、藤原利雄、伊多波精一、村上国二、(前列)海江田武信、
         金子元三、古市二郎博士、中谷宇吉郎博士、山本逸太郎、金子全一(敬称略)」
「中谷宇吉郎先生」のこと
                                   金子 隆一
 昭和三十二年十二月初め、中谷先生の講演会が上富良野で開かれることになり、その前日先生と教え子で後の北大学長になられた古市二郎理学部教授が当家にお泊りになり、父と叔父で北大理学部助教授だった金子元三とで、家で宴会になりました。中谷先生はその時父と叔父の元三、それに古市先生の三人にそれぞれ左の様に「一片の……」と揮毫されました。
 後にそれを表装し、掛軸にして床の間にかざりました。叔父の元三の所にもかざってあります。

  掲載省略:中谷先生揮毫の掛軸
       「一片[ひとひら]の 雪の中にも 千古の 秘密がある 
          一粒の 芥子[けし]に 秋三界が 蔵されるやうに」

 叔父の元三と中谷先生の御縁は、遠く元三が旧制一高(東京第一高等学校)から当時北大に後のノーベル賞の湯川博士が居られ、先生にあこがれて、東大へ行かず北大へ来たことからはじまります。湯川博士はまもなく移って行かれ、叔父は同じ理学部の古市教授の教室に入り、高分子―今のプラスチックなどの研究のはじまり―の研究にとりくみました。
 古市先生は、中谷宇吉郎先生の弟子で、その古市先生の教室の弟子である元三叔父が古市先生に可愛がられ、一番弟子として同じ理学部の教授に推して下さった関係から、叔父は中谷宇吉郎先生の孫弟子のようなもので、そんなことから中谷先生がお泊りいただくご縁になったと思います。
 その後北大学長になられた古市二郎先生には、男の子で私と同じ年の古市隆三郎さんが居られ、私も子供の時から先生の家へおじゃまして彼とは良く遊びました。隆三郎さんは後に北大の理学部の教授になられました。
 私は北大の経済学部でしたが、古市二郎先生の一般教養の中に物理の授業があり、夏の暑い日、先生の授業はむずかしくて半分以上の学生は居ねむりしていたことなど、中谷先生、古市先生、それに叔父の元三や父と、皆さん故人になられましたが、今さらのようになつかしく思い出されます。
〈今も続く中谷家・金子家との関わり〉
 金子家には、昭和三十二年の講演会後の金子全一家で、中谷宇吉郎先生が揮毫された掛軸があります。
 この掛軸は、平成二十四年十月北海道大学博物館で開催された「中谷宇吉郎没後五十年」記念事業に、金子隆一氏が持参し、道内の巡回展に展示されました。
 また、孫の金子益三氏と松下力氏が、中谷宇吉郎氏の甥、中谷建太郎氏が経営している大分県由布院温泉「亀の井別荘」に、平成二十二年三月五日に訪問し、中谷家・金子家の関わりの話しをされると共に、東京原宿にあった中谷宇吉郎の書斎を移築した「雪安居[せつあんご]」にも案内をされたのでした。
 中谷家・金子家の関係が深まり、金子隆一氏が進められている「丸一山公園」の桜の植樹にも、中谷建太郎氏が協力され、その木に俳句が添えられています。
取材にご協力をいただいた方々
中谷芙二子さん 中谷宇吉郎氏 次女
山崎敏晴氏 江別市 中谷宇吉郎研究者
神田健三氏 石川県中谷宇吉郎雪の科学館長
金子隆一氏 金子全一氏の子息
金子益三氏 金子全一氏の孫
松下 力氏 郷土をさぐる会副幹事長
――写真提供 石川県 中谷宇吉郎雪の科学館――
参考文献
中谷宇吉郎 随筆選集朝日新聞社
中谷宇吉郎随筆集 岩波書店
雪と氷の科学者 中谷宇吉郎(東晃著) 北大図書刊行会
中谷宇吉郎の年譜 神田健三編
雪の結晶図鑑 菊地勝弘・梶川正弘共著 北海道新聞社

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一