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『十勝岳爆發災害志』を読み解く

三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十三歳)

書 誌
 学術書・研究書など、十勝岳に関する文献収集をしているが、上富良野の歴史上、最も大きな出来事である、「一九二六(大正十五)年十勝岳噴火」について、後世に伝える災害対策の貴重な記録書として、「十勝岳爆發罹災救濟會」が刊行した『十勝岳爆發災害志』を探し求めていた。(文字は歴史資料の重みを考え、発刊当時の旧字体のままとした。)入手はなかなか困難で、数年前、ようやく古書店から入手することができた。
 時期を置いて、一万二千円と一万五千円の二冊を入手したが、価格の違いは、古書店が図書の汚れ、傷[いた]み、希少価値などの本の状態、流通の程度により異なった価格を付けている。『十勝岳爆發災害志』の中にまとめられている防災と復興の記録を繙[ひもと]くことにする。その前に、書誌とは、広辞苑によると図書(書籍)の体裁・材料・成立事情などについての解説、記述とある。『十勝岳爆發災害志』の書誌は次のようになる。
編纂者 元空知支庁社会係主任 片山敬次
発行所 北海道庁学務部社会課内 十勝岳爆發罹災救濟會
発行日 昭和四年三月二十五日
発行数 千五百冊
定 価 非売品
判 型 菊判(縦・二二センチメートル、横・一五センチメートル。)丸背上製みぞつき金箔押文字、
    糸かがり綴じ上製本。箱付。序三頁、目次七頁、本文五二一頁、
    地図一枚、写真一八頁・四七枚、略図二枚。
印刷所 札幌印刷株式会社
  掲載省略:写真「昭和4年3月25日発行の十勝岳爆発災害志」

 この書籍の書誌は、以上のとおりである。まとめられている内容が分かるように、目次を掲げるが、読みやすいよう、一部、原文の旧字体を新字体に改め、誤植と思われる誤字脱字は訂正した。目次中の難解な文字は、浚渫[しゅんせつ]、救恤品[きゅうじゅつひん]、義捐[ぎえん]、官公衙[かんこうが]と読む。
    目  次
第一章 十勝岳について
 第一節 十勝岳連峰…………………………………… 一
 第二節 十勝岳………………………………………… 三
 第三節 十勝岳の生成………………………………… 四
 第四節 十勝岳の地質………………………………… 七
 第五節 十勝岳の植物………………………………… 九
 第六節 硫黄鉱山……………………………………… 九
 第七節 口碑と記録………………………………… 一〇
 第八節 近来活動の経過…………………………… 二一
 第九節 爆発当時の気象状態……………………… 二四
 第十節 惨害惹起の大爆発(大正十五年五月)… 二八
 第十一節 爆発の原因……………………………… 三二
 第十二節 泥流の原因……………………………… 三三
 第十三節 放出物及噴出瓦斯……………………… 三五
 第十四節 爆発後の火口底………………………… 三七
 第十五節 九月の爆発……………………………… 三九
 第十六節 その後の活動…………………………… 四一
   附 記
第二章 災害の状況
 第一節 泥流の惨害………………………………… 四九
 第二節 災害後の混乱……………………………… 五二
 第三節 被害の概況………………………………… 五七
 第四節 絲屋銀行の破綻による損害……………… 六八
第三章 救護組織と計画
 第一節 救護事務所の設置及事務分掌…………… 七〇
 第二節 災害基礎調査……………………………… 七六
 第三節 救護計画…………………………………… 八〇
 第四節 諸会議……………………………………… 九八
 第五節 役場事務の応援………………………… 一〇七
第四章 応急善後施設
 第一節 避難所の設置…………………………… 一一一
 第二節 炊出及食料給与………………………… 一一三
 第三節 被服の給与……………………………… 一一六
 第四節 傷病者救護と一般衛生上の警戒……… 一一七
 第五節 死体の捜索……………………………… 一二〇
 第六節 道路の開設……………………………… 一二四
 第七節 河川の浚渫と橋梁の架設……………… 一二六
 第八節 救護隊の諸作業………………………… 一二八
 第九節 農耕地の被害と農事の指導…………… 一四三
 第十節 甜菜耕作者等に対する善後策………… 一六三
 第十一節 森林の被害と流木の処分…………… 一六五
 第十二節 小学校の罹災と応急処置…………… 一七〇
 第十三節 罹災救助基金法による救助………… 一七三
 第十四節 警務保安施設………………………… 一七五
 第十五節 救恤品の調達及配給………………… 一七八
 第十六節 徴税の減免…………………………… 一八七
 第十七節 村葬及追悼会………………………… 一九三
第五章 御下賜金の伝達頒賜
 第一節 恩賜金…………………………………… 二〇六
 第二節 伏見宮殿下御下賜金…………………… 二一〇
 第三節 御下賜金伝達式………………………… 二一〇
 第六章 義捐金品の募集及処分
 第一節 十勝岳爆発罹災救済会の設立………… 二一二
 第二節 義捐金品の募集状況…………………… 二一九
 第三節 義捐金品の処分状況…………………… 二三二
    附 義捐金処分一覧表
 第四節 謝状の発送……………………………… 二六〇
第七章 復旧復興諸施設
 第一節 復興か放棄か…………………………… 二六三
 第二節 復興資金の融通………………………… 二六五
 第三節 道路橋梁の被害と復旧………………… 三〇三
    附 復旧復興費一覧表
 第四節 河川の被害と復旧……………………… 三一〇
 第五節 農耕地の整理復旧……………………… 三一四
 第六節 灌漑溝の復旧…………………………… 三四一
 第七節 移住地の設定…………………………… 三四九
 第八節 産業組合の復興と生業資金…………… 三五三
 第九節 耕馬の購入と奨励金の下付…………… 三六三
 第十節 住宅の建設……………………………… 三六八
 第十一節 小学校舎の被害と改築……………… 三七七
 第十二節 公共建物の改修築…………………… 三八五
 第十三節 災害予知施設附吹上温泉…………… 三八七
 第十四節 遭難記念碑建立……………………… 三九一
 第十五節 植生連続調査………………………… 四〇二
 第十六節 復興事業に対する反対運動………… 四一一
第八章 交通通信施設
 第一節 鉄道の被害とその復旧………………… 四一五
 第二節 通信機関の被害とその復旧…………… 四二二
第九章 公私諸団体の救援活動
 第一節 中央官庁及各府県庁、道外官公衙…… 四三一
 第二節 道内官公衙……………………………… 四三四
 第三節 罹災村当局及村内諸団体……………… 四四〇
 第四節 その他諸団体…………………………… 四四一
 第五節 諸外国の同情…………………………… 四五四
 第六節 慰問見舞いと挨拶……………………… 四五六
第十章 美談哀話奇談
第十一章 災害余録
 第一節 罹災地の地勢沿革及村勢……………… 四七七
 第二節 災害日誌………………………………… 五〇六
 第三節 罹災地児童の感想文…………………… 五一二
 第四節 三周年忌法要…………………………… 五一九
 第五節 十勝岳研究家の記念碑建立…………… 五二〇
 以上のように、十一章、七十八節から構成された貴重な歴史書と記録書の性格を併せ持っている。
発刊の経緯
 『十勝岳爆發災害志』の二五〇頁に記載されているが、第六章「義捐金品の募集及処分」、第三節「義捐金品の処分状況」の中に、「四、災害志編纂[へんさん]」として発刊の経緯が書かれている。災害志では、旧字体で書かれていることから、できる限り新字体に改めるよう努力したが、新字体に変えるのが難しいものはやむを得ずそのままとして、ルビをつけた。以下にその文章を転記する。
 泥流に因る未曾有の災害に直面し罹災地村当局を初め各方面の協力に依る応急処置、進んでは広汎に亘る復旧状況、さては公私諸団体の活動状況等を記録しておくことは、災厄記念として永久に伝え且[か]つは将来期すべからざる各種災害の参考上多大の意義を有する事は言うまでもない。
 十勝岳爆発罹災救済会に於いては罹災者の切なる希望に基づき内務当局の慫慂[しょうよう]にも鑑み茲[ここ]に「十勝岳爆発災害志」編纂の計画を進め、元空知支庁社会係主任片山敬次を右編纂員として昭和二年六月十三日付を以て嘱託しその任に当らしめた。かくて翌三年三月末に至って稿を終え本書の刊行を見るに至った。右災害志予算は編集費一千五百七十円、印刷費四千五百円、配本費二百六十円、計六千三百三十円にて義捐金中より支出された。製本千五百部は罹災地関係方面、百円以上義捐金品者、各府県、道内各支庁市役所、町村役場、官公衙、中等学校、図書館、新聞社、貴衆両院議員、道会議員、教育会、その他に配布されたのである。
 災害史編纂費以外の共同費支出に関しては既に述べたものもあり、その他に関しては第七章復旧復興諸施設の諸節に於いて述べる事とする。このように、発刊に至る経緯と発行経費などの詳細が記録されている。
序 文
 「災害は忘れた頃にやって来る」と、物理学者の寺田寅彦博士が残している名言がある。この名言に匹敵する警句として、『十勝岳爆發災害志』の序文に趣のある言葉で述べられている。中身は現代に通用する内容の深い文章であり、今では目にする機会がなく、郷土の歴史を知る意味からも、旧仮名遣いの片仮名交じりの全文を、歴史資料として原文のまま転記することにした。

  掲載省略:地図「災害志の付図、十勝岳爆発泥流分布図(一部)浸水域と被害を受けた線路の不通部分が分かる」
         
 天災地變ノ突發ハ、人力ヲ以テ防衛シ難シト雖、千辛萬苦ノ間ニ力戰奮鬪シ、以テ善後ニ處スルハ、所謂人事ヲ盡シテ天命ヲ俟ツ所以ナリ。大正十五年五月二十四日、十勝岳俄然爆發シ、山嶽森林ノ缺潰ト共ニ、未曾有ノ泥流氾濫シ、之カ爲百餘ノ人命ヲ喪失シ、巨萬ノ財物ヲ滅盡シタルハ、實ニ不慮ノ一大災難ニシテ、其ノ慘害ノ激烈ナル、内外ノ人心ヲ震駭セシメタリ。
 事天聽ニ達スルヤ、畏クモ軫念ヲ勞シ給ヒ、特ニ救恤金ヲ下賜セラレ、政府ハ巨額ノ復舊費ヲ支出シ、局ニ當ル官民一致協力、艱苦ヲ冒シテ當面ノ救援ニ從事シ、以テ義勇奉公ノ誠ヲ輸シタルハ、予ノ感激措ク能ハサル所ナリ。
 顧ルニ、遭難以降茲ニ三星霜、コノ間當局者ハ日夜勵精健闘、克ク復舊事業ト改善施設ニ盡瘁シ、道路ノ開修、河川ノ浚渫、橋梁ノ架設、農耕地ノ整理、灌漑溝ノ開鑿、小學校舎及公共建物ヲ新改築スル等、今ヤ慘害ノ痕跡ヲ一掃シテ新生面ヲ開キ、一望ノ田園活氣ノ横溢スルヲ認ムルニ至レルハ、予ノ欣快ニ堪へサル所ナリ。余ハ當局諸氏ノ勞ヲ多トスルト共ニ、地方民ノ今後ニ於ケル活躍ヲ期待シテ止マス。
 十勝岳爆發罹災救濟會ハ曩[さき]ニ義捐金品ノ募集ヲ始メ救護並復興事業ニ力ヲ致セシカ、今ヤ事業ノ完了ト共ニ十勝岳爆發災害志ヲ編纂シ、災禍ノ状況と救濟事業ノ顛末トヲ記録ニ存シ、之ヲ刊行シテ以テ當事者ノ參考ニ資セントス。予ハ、コノ災害志カ、不測ノ變災ニ處スル世人ノ餘師タランコトヲ冀[こいねが]ヒ、所感ノ一端ヲ述ヘテ序言ト爲ス。
             昭和四年三月  十勝岳爆發罹災救濟會長 澤田牛麿
 会長の名をもって、噴火災害と復興事業の記録を将来に残すため、災害志を編纂して、不測の事態に備えることの重要性を後世に伝え、災害に備える意識を涵養するよう、序文に警鐘として述べている。
泥流の原因
 『十勝岳爆發災害志』の三三頁、第一章「十勝岳について」、第十二節「泥流の原因」で、噴火によって起こった泥流が災害をもたらした主な要因で、噴火後に研究者などが唱える泥流発生原因の諸説を取り上げている。
 一、湖水決壊説
 二、硫黄燃焼説
 三、熱湯噴出説
 四、熱泥説
 五、瓦斯噴出説
 六、融雪説
 七、融雪堰止説
 八、崩壊物スキー説
という八通りの考えを挙げている。
泥流発生当日の火山活動
 災害志の四九頁に、第二章「災害の状況」、第一節「泥流の惨害」で、噴火は、大正十五年五月二十四日、正午を過ぎて間もなくの午後零時十一分、一大轟音を伴って噴煙柱が中央火口丘の西斜面で発生したのを硫黄鉱山の従業員が望見したこと。確認できなかったので、噴火としてとらえていないが午後二時頃、鳴動があったこと。そして運命の時間の午後四時十七分、凄まじい鳴動と共に大噴火が起こり、泥流は山麓に向って流れ下り、主要泥流が富良野川沿いに上富良野に至ったことが記録されている。
 前後するが、災害志の二八頁に、第一章「十勝岳に就いて」、第十節「惨害惹起の大爆発」では、第一回の爆発時刻について、旭川測候所の地震計大森式簡単微動計(五十倍)に、十二時十一分十六秒、初期微動約七秒が記録されている。火口より旭川市まで約四十八キロメートル、伝播時間を十五秒弱と見て、この爆発は十二時十一分一秒前後とみられる。
 その振幅は第二回の爆発地震よりも振幅が大きく、爆音も大きかった。表面現象の地変は第二回が著しく大きかったと書かれている。次に午後二時頃にも鳴動噴火があって、この時の泥水は主に美瑛川に流れ、富良野川にも下ったようで、新井牧場の住民が河川の異常な変色に驚いて避難した事実と合致することが書かれている。
 山麓に大惨害を及ぼした泥流は、午後四時十七分の爆発によるものである。(旭川測候所の地震計には午後四時十七分五十五秒に感じているから、伝播時間を除いて午後四時十七分四十秒前後と推定する。)と発生時間について詳細に検討した結果が書かれている。崩壊物が火口から二キロメートルの元山事務所に至る時間は、田中館学士と渡瀬学士共に一分と計算し、東北大学教授中村博士は力学上、五十四秒と計算しているが、大体一致している。崩壊物が上富良野の鉄道線路に達するまでの時間は、諸研究者の研究ではおおよそ約二十五分と推定する(平均毎秒十メートル)。泥流が鉄道線路を乗り越えてから、三重団体に広がって速力は比較的緩やかになり、鉄道線路から上富良野市街に達するまで二十分以上を要したとみられるとしている。災害志の記述から噴火と泥流について要点を抽出した。

  掲載省略:地図「大正13年8月発行の村勢一班、管内全図の一部吉田宅の三棟、
          農産物検査所、日の出青年倶楽部の位置が分かる」
泥流被害のまとめ
 災害志五七頁以下の第三節「被害の概況」に、被災地は、上富良野村、美瑛村、中富良野村の三村に及び。死者及び行方不明者数について、上富良野村は百三十七名、美瑛村が七名の、合計百四十四名であり。その内、死者は百二十三名、行方不明者二十一名とある。
 上富良野の死者と行方不明者の数は、災害志一二三頁、第四章「応急善後施設」の第五節「死体捜索」に、「死体発見の経過表」が掲載されており、昭和二年七月八日に発見された一体を最後として、最終的に上富良野村では、死者一一九名、行方不明一八名の一三七名であったことが分かる。男女別では、男六〇名、女七七名となっている。ほかに人的被害として負傷者一九名があったと記録されている。
 上富良野についてまとめられているのは、罹災戸数、三一五戸。建物被害、三六一棟(内訳は住宅の流出五四棟、半壊一八棟、浸水六七棟、合計一三九棟。非住宅は流出一一二棟、半壊二九棟、浸水八一棟、合計二二二棟)。公共建物被害は日新尋常小学校、上富良野尋常小学校、農産物検査所が流出、草分青年倶楽部半壊、日の出青年倶楽部全壊。建物の損害額は二十万四千二十円である。
 田畑の被害は、水田が被害面積五百六町歩、損害額百十二万七百九十円、畑は二百二十五町歩、十一万二百五十円となっている。その他、道路・橋梁・灌漑溝・河川の損害額を加えた、三村の損害総額は二百四万二千百三十円に達し、その内、上富良野の損害総額は百九十四万七千二十円である。
 このほか、御料林被害(美瑛村)八千四百七十石、二千二百八十円。国有林被害(上富良野村)十九万四千二百二十四石、十二万六千三百十五円。鉄道被害二万六千三百三十二円。電信、電話被害一万三千円。平山硫黄鉱業所(上富良野村)三十五万円を合せた、被害の総損害額合計は、二百五十六万五十七円となっている。

  掲載省略:絵葉書「旭川絵葉書倶楽部発行の絵はがき『十勝岳爆発大惨事の実況』」
鉄道の復旧
 災害志の四一五頁に、第八章「交通通信施設」、第一節「鉄道の被害とその復旧」で、被害の状況と輸送力回復のための迅速な復旧作業について、記録がまとめられている。
 当時、唯一の公共交通機関であった国鉄富良野線の復旧は、最大の被災地である上富良野へ、援助物資の輸送と各地からの救護隊の救援が駆けつけるため、重要な役割を担う最も復旧が急がれるものであった。災害志に書かれている鉄道被害について、旧字体を新字体に改め、一部、ルビを付け転記する。

  掲載省略:写真「絵はがきの一枚〜画面左から泥流が流れたと思われる、枕
         木と線路の曲がり具合から推定。深山峠の下で、西4線北30号、
         当時の鉄道官舎附近。川沿に繁茂する樹木から江幌完別川と思う。
         22マイル54チェーンの位置と推定。」
 大正十五年五月二十四日午後四時五十分頃、鉄道富良野線上富良野、美瑛間二十二哩[マイル]五十四鎖[チェーン]より二十四哩[マイル]十八鎖[チェーン]迄、延長約一哩[マイル]四十四鎖[チェーン]間一帯に亘り、折柄新井牧場方面より猛進し来った泥流の為に、該所の線路は瞬く間に泥土中に埋没し、軌条のある部分は枕木と共に遙か先に押流され、電柱等も悉[ことごと]く倒壊流出し、付近の低地は見渡す限り一面の泥海と化し人畜の死体累々として、見る人々をして戦慄せしめずには置かなかったがさしも惨虐[ざんぎゃく]を擅[ほしいまま]にした泥流も午後九時頃よりは暫時退き始め、午後十一時頃には軌条面約二尺となり、巨木と共に泥土の山を築き鬼哭啾啾[きこくしゅうしゅう]たるものがあった。鉄道当局の調査による鉄道の損害額を見るに、軌条(四〇八本)枕木(二、六六〇挺)二万二千三百三十円。築堤(延長八八五米[メートル])千二百円。溝渠袖石垣(七.二平方米[メートル])百円。諸標(二十本)五十円。柵垣(踏切)五ヶ所二百五十円。電線流出(延長一一哩[マイル]三一町三〇間)二千四百二円。合計二万六千三百三十二円の多額に達した。

  掲載省略:写真「絵はがきの一枚〜日の出青年倶楽部附近、
         24マイル18チェーンの位置と推定。左遠方に吉田
         宅と思われる三棟が写っている。」
 この記録から注目されることは、水が午後九時頃より引きはじめ、午後十一時頃には深さ約六十センチメートル前後であったことが分かる。鉄道路線の距離表示はイギリス方式の哩(マイル=一,六〇九.三四四m)と鎖(チェーン=二〇.一一六八m)で表されており、不通となった場所が旭川駅を起点とした上富良野と美瑛の間、三六.四八四キロメートルから三八.九七八キロメートルの間で、距離二.四九四キロメートルと推定できる。現在の地点で言うと、当時、鉄道官舎があった、深山峠下の西四線北三十号付近と、日の出青年倶楽部の近く、西一線北二十七号付近がその地点と思われる。飛澤温泉の売店で売っていた、旭川絵葉書倶楽部発行の「十勝岳爆発大惨害の実況」に不通区間の手掛かりがある。八枚組のうち五枚が鉄道被害の写真として残っている。列車の運転状況は、午後五時十分旭川発の列車は美瑛、中富良野間を運休し、この列車を救援列車として六時二十分美瑛駅から上富良野に向けたが、美瑛川鉄橋が出水のため通過不可能で引き返した。午後十一時十二分旭川駅を出発した救援列車は、美瑛川の水が減少したので無事通過し、被害地付近まで達した。二十五日から二十八日までは上富良野駅と美瑛駅で各列車を折り返し運転し、線路の復旧に努め、二十八日午前九時半より部分試運転を行い、午後零時十分本試運転で安全を確認。午後一時四十分美瑛発から直通運転が開始された。

  掲載省略:写真「水が引いた吉田宅(三棟)と流れてきた絵はがきの一枚大木」
  掲載省略:写真「絵はがきの一枚〜吉田村長宅と思える住宅と泥流に流された
         線路軌条と枕木が反転している」

 復旧作業の状況は、二十四日午後十一時十二分、旭川駅発の救援列車で線路の被害確認に保線事務所長、運輸事務所長の一行が現場付近に至り、災害の状況を調査した。翌日以後、線路工手四百名、人夫二百名が出動して数尺の泥を取り除き、押流されてきた樹木を築堤から除去する作業を行い。附近一面の泥土中、線路付近のみ泥が取り除かれていることから、罹災者、救護隊、視察者が通行するため作業に支障を来たしたが、昼夜兼行で復旧に全力を注いだ。線路上の巨木と泥土は二十五日中に取り除き、鉄道電話は午後四時過ぎに開通。二十六日は枕木配置と軌条の敷設を行い。二十七日と二十八日は砂利散布と搗[つ]き固めを行い、二十八日午後零時十分試運転列車が現場を通過して上富良野駅に進入し、鉄道が開通した。わずか四日間の短時日で開通したことから、被災者と救護隊から深く感謝された。二十五日から二十七日まで、美瑛駅と災害現場間の救援列車運行には、救援者の同乗を許可し、千八百名を輸送して便宜を図った。復旧資材の軌条、枕木その他約九十両、砂利九百七十両を輸送した。
災害志の四一八頁に輸送状況の表が掲載されている。

  掲載省略:写真「西4線北30号、元鉄道官舎附近(江幌完別川沿いにカーブして
         いる地点)の復旧資材と作業員」
昭和史こぼれ話
 『十勝岳爆發災害志』にまつわる上富良野の出来事として、町で保管する災害志を貸出したが、貸した相手の不注意で紛失したエピソードがある。昭和三七年(一九六二年)噴火によって、富良野川上流に砂防工法の工事が行われる計画が浮上し、事前調査に来町した開発庁の技官に、役場担当者が災害志を貸出したが返却されなかった。このため開発庁の責任的立場にある担当者が、当時、町内で災害志を所有していた人から譲り受け、町に返却した。
 その後、役場に備え付けられることになったこの災害志は、昭和四一年に、ある新聞社が十勝岳関係の書籍を発刊するためであろうか、取材のため上富良野町を訪れて役場から貸出され。上富良野町内の取材中、こともあろうに、車のボディーに災害志を乗せて車を走らせてしまい。途中、どこかで紛失した。届け出を受けた警察官派出所長が、どの小学校かはっきりしないが通った道の近くにある、小学校の全児童に尋ねて調査を実施し、わからない場合は町内の小学校で持っている災害志を、貰い受けることになった紛失の経緯が記録としてある。
 一九八八年から八九年の十勝岳噴火の際、大正噴火の災害志が発刊されていることが、人々の記憶を呼び起こして話題になり。はっきりした数量は分からないが、災害志を所有している上富良野町内の所有者から借りて、コピーされた複製の災害志が作られて出回っている。

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一