郷土をさぐる会トップページ     第30号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
「皆さんの十勝岳は、世界一です」に勇気づけられて

千葉市 赤川 泰司(昭和十七年十月七日生)

今も心に残る嬉しいできごと
 確か私が中学生(昭和三十年代)で、冬の寒い頃だったと思います。北海道大学の教授先生がわざわざ上富良野にお越しになって、ご講演くださったことがありました。お話の冒頭で、「上富良野の方々にはいろいろお世話になったので、今日はささやかな恩返しをさせてください」と、学者ぶらない優しい表情でお話を始められたことが印象深く、その時の親しい雰囲気が今も心に残っています。
 そして、「雪の結晶について」のご研究の成果を、分かりやすくお話くださいました。公民館の冷たい板敷きの床に直に座っていた私たちに、「どうぞ楽な姿勢で、気楽に聞いてください」とのお言葉に甘えて、両膝を抱えた体育座りで、興味深く真剣に聞き入ったことが懐かしく思い出されます。

 先生は、「皆さんには、世界に向かって誇れるものがあります。それは、十勝岳で観察できる雪の結晶の種類は多種多様で、世界一と思ってください」と前置きして、十勝岳の地形や気候と関係づけながら、それまでの研究成果(現地観察結果)を踏まえて、時には溶ける雪の結晶についての苦労話などを交え、具体的に、中学生でも理解できるようにお話くださいました。
 その後、いつも実家の遙か真正面に鎮座していて、無感動で見慣れていた十勝岳の何気ない景色が、疾風怒濤の思春期と相まって、私にとって十勝岳は威容で貴重な存在となりました。そして、その世界一の大自然の中で生まれ育ったことが、自慢と共に大きな誇りになりました。
 後になって、この時ご講演くださった理学博士中谷宇吉郎先生は、物理学者寺田寅彦の愛弟子であり、実験物理学者として雪の研究では世界的な学者であることを知りました。北海道大学の低温実験室で人工雪の製作に世界で初めて成功したことなど、また、恩師寺田寅彦にならって随筆家としても高名で、「雪は天から送られた手紙である」という名言に深い感銘を受けました。
中谷宇吉郎博士の随筆にみる十勝岳
 今となっては遙か昔のことですので、当時のお話の内容について詳細にご紹介することはできませんが、中谷先生の随筆集から、研究フィールドとなった十勝岳との関係をうかがい知ることが出来ます。
『雪の十勝―雪の研究の生活―』では、次のように記述しています。

 初めは慰み半分に手をつけて見た雪の研究も、段々と深入りして、算[かぞ]えて見ればもう十勝岳へは五回も出かけて行ったことになる。落付く場所は道庁のヒュッテ白銀荘[はくぎんそう](※上富小開校一〇〇周年記念誌『希望の光』によると昭和八年二月に新築竣工となっている。)という小屋で、泥流[でいりゅう]コースの近く、吹上[ふきあげ]温泉からは五丁と距[へだ]たっていない所である。此処[ここ]は丁度十勝岳の中腹、森林地帯をそろそろ抜けようとするあたりであって、標高にして千六十米[メートル]位はある所である。
 雪の研究といっても、今までは主として顕微鏡写真を撮ることが仕事であって、そのためには、顕微鏡は勿論[もちろん]のこと、その写真装置から、現像用具一式、簡単な気象観測装置、それに携帯用の暗室などかなり荷物を運ぶ必要があった。その外[ほか]に一行の食料品からお八つの準備まで大体一回の滞在期間約十日分を持っていかねばならぬので、その方の準備もまた相当な騒ぎである。全部で百貫位のこれらの荷物を三、四台の馬橇にのせて五時間の雪道を揺られながら、白銀荘へ着くのはいつも日がとっぷり暮れてしまってからである。
 この雪の行程が一番の難関で、小屋へ着いてさえしまえば、もうすっかり馴染[なじみ]になっている番人のO老人夫婦がすっかり心得ていて何かと世話を焼いてくれるので、急に田舎の親類の家へでも着いたような気になるのである。
※「上富良野の皆さんにお世話になった」とおっしゃったのは、特にこのような準備や移動の時のことでした。
   ―中略―
 十勝岳のこの附近は、雪の結晶の研究には先ず申し分のない所であろう。あるいは世界でも珍しい所ではないかという気もする。第一結晶が極めて美しく、繊細を極めたその枝の端々までが手の切れそうな鮮明な輪郭[りんかく]を持っていることである。自分たちが白銀荘で見たような美しい結晶は世界中のどの観測者の写真にも見られないものであった。それから結晶の種類がまた極めて多い。普通に雪の結晶の代表と思われている六花[ろっか]状のあらゆる種類の結晶は勿論のこと、余り知られていないところの樹枝状の結晶の枝が立体的に伸びているもの、それから稀[めず]らしいとされている角錐[かくすい]状の結晶、鼓型の結晶、それが数段になっている段々鼓型[つづみがた]などの結晶が惜し気[げ]もなく降って来るのである。この二月には針状の結晶がそればかり三十分も続いてかなり激しい降雪となって降って来たこともあった。それから全く世界中の今までの文献に知られていないと思われる側面結晶という不思議な雪も数回観測することが出来た。
   ―後略―       (昭和十年十二月一日)

 また、『雪を作る話』では、次のように記述しています。
   ―前略―
やはり雪のようなものは天然にこそ全く無造作に出来るものであるが、人工的に作ることはなかなか困難な仕事であろうという気がしてきた。それには実験室内での失敗ということ以外に、その頃から行き始めた十勝岳での体験も原因するのである。十勝岳の中腹で見られる雪の結晶は、札幌などで知られる結晶とはまた一段の精緻[せいち]さを見せているのであった。
そしてその種類がまた実に多岐を極めていて、夢にも思い掛けなかったような不思議な形の結晶がいくらでも降って来るようなこともあった。
水晶の結晶のような六角の柱などは勿論[もちろん]のこと、北極探検の際初めて発見されたというピラミッド型のものも再三見られた。時にはこれらの角柱の両端に六華の花が咲いて鼓[つづみ]のような形になったもの、それが段々に重[かさな]って昔の複葉[ふくよう]飛行機のような形をしたものなどが全山を埋[うず]め尽くすようなことも稀[まれ]ではなかった。こんな結晶を見暮していると、何時の間にか自然の神秘に圧倒されてしまって、こんな物を人工的に作ろうとする企てすら、何だか自然に対する冒涜[ぼうとく]のような気がして来るのであった。
   ―後略―      (昭和十一年三月十二日)
掲載省略:写真「昭和20年代の白銀荘」

※この年、中谷博士は人工雪の製作に世界で初めて成功し、さらに気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明しました。
 講演会当日の中谷先生のお話も、概ねこのような内容であったかと思い起こしています。
 また、この日は、中谷先生とご一緒に古市二郎教授(後に第八代北海道大学長に就任)、金子元三助教授(当時)も来町され、人工衛星についてご講演くださいました。その頃、旧ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク一号」の打ち上げに成功し、大きな話題になっていました。重力、無重力、遠心力等々、宇宙空間の様子について解説しながら、人工衛星の飛行の原理を分かりやすく説明してくださいました。
 金子元三先生は、金子庫三氏のご三男で、金子全一氏の弟さんということでした。きっと、上富良野教育研究会主催のこの講演会の準備段階から、いろいろとご尽力くださったものと思われます。
 いずれにしてもこの日の講演会は、私にとって新たな感動と衝撃を覚えるものでした。そして、今思うと本当に気恥ずかしいのですが、研究者、学者先生への密かな憧れを抱きました。自分の能力では不可能なことと認識しつつも、その後の人生に大きな励みになりました。(※は筆者)
人生の結晶を求めて
  今回、恐れながら、「活躍している郷土の人達」に推挙されて大変面映ゆいのですが、生まれ育った故郷に感謝しながら、その後のささやかな経過を記述させていただきます。つきましては、定年退職で公職を退く際(平成十五年三月)に、千葉県高等学校長協会の機関誌に掲載された拙文を土台にして、子どもの頃の思い出やその後の動静などを補追しながら(※の文)、次に再録することをお許しください。
『教えることは学ぶこと』
 十勝の岳に 昇る日の
   希望のひかり 野にみてり
  フラヌイ川の 流れには
   つきぬ力の ひびきあり

 進みゆく世は 日に月に
   駒の歩みの 早くして
  学びの道も やゝやゝに
   のぼればいとど 高きかな

 昨年(平成十四年)、創立一〇〇周年を迎えたわが母校、上富良野小学校の校歌の一節です。
 多感な時代を大雪・十勝岳連峰を仰ぎ見ながら、その大自然の中で過ごせたことを、今も望郷の念を抱きながら誇りに思っています。昭和三十七(一九六二)年四月、「内地」への憧れを胸に秘めて千葉駅に降り立ちました。しかし、当時の国鉄千葉駅は要町の現在のJR東千葉駅のところにあり、県都の駅という想像に反して、木造の田舎臭い小さな駅でした。
 爾来[じらい]、千葉県のダイナミックな発展とともに四十年が過ぎました。道産子の心根を持ちながらも、すっかり房総の風土に浸りきり、北国の冬の厳しさを忘れて、温暖な黒潮文化の県民性を身につけてしまいました。初任校は独立二年目の御宿[おんじゅく]家政高校(後の御宿高校)でした。その後、先の校歌に感化されたわけではありませんが、再び学舎に戻って専門教科(経済地理学)の勉強を進める機会を得ました。修了(修士)後、大学時代の恩師からのお誘いで、千葉県議会で「千葉県議会史編さん事業」に携わることになり、県政史の一端を識ることができました。
 大正編が完結し、編纂事業が一区切りしたところで、本来の専門教科を活かすべく教育現場に復帰し、県立千城台[ちしろだい]高校(大学非常勤講師兼務)、県立船橋高校(※野田佳彦前首相の母校)、県立千葉高校などで充実した教員生活を送ることができました。その後、管理職として市立習志野、県立八千代高校で教頭職を、県立野田、県立磯辺[いそべ]高校で校長職を仰せ付かりました。
 立場は異なっても教育界に身を置くかぎり、「教えることは学ぶこと」であることを肝に銘じて、四苦八苦しながら何とか職責を果たしてまいりました。
 定年退職を機に来し方を素直に反省してみますと、皆さんに生かされてきたという感慨を一層強くしています。多くの先輩や同僚の皆さんから、さまざまな場面であたたかいご指導、ご支援をいただきました。また、生徒・学生諸君からはいつも共に学び続けることの大切さ、楽しさを教えられ、励まされました。「生きているから、生かされているから、あなたに会えて幸せです」という味わい深い言葉の意味を、教職を去る今ほど感謝の気持ちとともに痛感する時はありません。お陰様で、教員生活での喜怒哀楽のすべてが、終演の幕引きとともに楽しい余韻を残しながら、素晴らしい思い出に変わりつつあります。お世話になりました皆様に、心からお礼を申し上げます。
 これからも先の校歌とともに、「少[わか]くして学ばば壮[そう]にして為すあり。壮にして学ばば老いて衰えず。老いて学ばば死して朽[く]ちず。」(佐藤一斎『言志四録』)の言葉に励まされて第二幕を演じたいと思っています。さて、どんな出来映えになることか、この先が楽しくもあり、また不安でもあります。
しかし、私にとって最も嬉しいことは、郷里の上富良野小学校、上富良野中学校、富良野高等学校でお世話になりました恩師(担任)の先生方皆さんが、今もご壮健で過ごされていることです。出来の良くない教え子でしたので、失敗を心配して、きっとはらはらされていたことでしょう。何時もお心にかけていただき、恩師であると同時に教育界の大先輩として、遠隔の地から叱咤激励くださいました。
 今、無事に定年退職を迎えるにあたって、「よく勤まったな!」と安堵されているに違いありません。終[つい]の住処[すみか]になった千葉へお招きするか、さもなければこれから報告とお礼の行脚[あんぎゃ]に出かけたいと考えています。そして、またまた頭を垂れて教えを乞う至福の時を楽しみにしています。
※退職二年後に諸先生をお訪ねして、懐かしく歓談させていただきました。最後に、県高等学校教育研究会地理部会や、素人ながら県高等学校体育連盟ソフトボール専門部(※現在、千葉県ソフトボール協会顧問)、同ヨット専門部などの会長や部長として、微力ながらそれぞれの運営に関わりました。
 また、定時制通信制教育研究部会では教頭時代と合わせて五年間にわたって、その課程における課題や将来像などについて検討を重ねてきました。それぞれの分野の活動と向き合うなかで、その都度、教育の領域の広さと奥深さを再認識させられました。生涯でまたとない貴重な経験をさせていただき、心から感謝しています。
 新世紀の教育の理想に向かって、千葉県高等学校長協会のますますのご活躍とご発展を、心からお祈り申し上げます。  (了)
※ソフトボールといえば、子どもの頃、旧馬市場[うまいちば]の空き地で短い夏を惜しむかのように、近隣の仲間と頻繁に対戦して遊びました。その都度チームのメンバーが入れ替わるのですが、勝ち誇ったり負けて悔しがったり、時にはお互いの判定に言い争ったりしながら睦み合ったことが思い出されます。皆さんに迷惑をかけながら、無邪気でやんちゃだった当時が本当に懐かしく思います。
 また、仲間の皆さんとはよく網や笊[ざる]を持って魚すくいに出かけたり、秋になれば山葡萄や茸採りに出かけました。収穫の喜びもさることながら、同年齢や異年齢の皆さんと山河の大自然の中で、一喜一憂しながら楽しんだことが大きな喜びでもありました。

 ところでこの際、こどもの頃の思い出として、特筆させていただきたいことがあります。それは、当時、故高橋寅吉様が“早起き会”と称して近所の子どもたちを集って、早朝の新鮮な空気を吸いながら、近くの田園を散策することがありました。「高橋のおじさん」を囲んで、空で舞う雲雀[ひばり]のさえずりを聞きながら、皆で賑やかに楽しく歩きました。愉快に過ごしたあの一時[ひととき]が懐かしく、また、途中休憩時にいただいたあめ玉の味は格別でした。その後、東中[ひがしなか]に転居されてからも、ご自宅前の農業用溜池[ためいけ]で夏のボート、冬のスケートを楽しませていただきました。
 ご家族の皆様にも、いろいろと大変お世話になりました。今は、天国で安らかにお休みになっている「おじさん」(失礼ながら、当時の親しみのまま、そう呼ばせていただきます。)に感謝し、筆舌に尽し難いのですが、改めて心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 さて、先のヨットについてはボートとは異なり、山国育ちの私には全く無縁の世界で、広い海や湖を前にして戸惑うばかりでした。何せ、私が初めて海を見たのは、「海水浴場行き特別列車」を利用した小学校三年生の校外行事の時でした。日本海に面した留萌の荒波の恐ろしさが心の深層にあり、海に恵まれた房総半島にいながら、太平洋の大海原になかなか馴染めませんでした。また、帰省のたびに乗船した青函連絡船ではたびたび船酔いに苦しみましたので、ヨット競技という楽しいマリンスポーツのはずが、あれやこれや少々暗い気持ちになりました。
 とはいえ、高体連や国体の全国大会出場常連校として、その名のとおり伝統ある磯辺[いそべ]高校に赴任したことが運の尽きで、潔く挑戦することにしました。
 東京湾を舞台にヨット部員から恐る恐る指導を受け、勇気づけられました。そして、足手まといになりながら生徒と早く溶け込むことができ、そのうえ海の爽快な気分を味わえるまでになりました。ヨット部の生徒に感謝、感謝でした。(写真)

  掲載省略:写真「ヨット部の生徒と練習中の私」
  掲載省略:写真「磯辺高校ヨット部の練習風景(千葉市・稲毛ヨットハーバー)」

 他方、管理職として赴任した学校の中には、定時制が併置されていた学校があり、県定時制通信制教育研究部会では、多様な生徒に対応すべくさまざまな課題と対峙してきました。将来の明るい展望を見据えながら、教育環境の整備や教育内容の充実に努めましたが、学校教育の理想と現実のはざまで悪戦苦闘の連続でした。蛇足ですが、この課程での功績に対して、退職の年に札幌での全国大会で表彰され、身に余る光栄でした。しかし何よりも、当時共に頑張った先生方や生徒諸君とのあたたかい交流が、退職後の今も続いており、当時のお互いの活動と苦労が報われた思いがしています。

 その後、定年退職と同時に、県教育庁の紹介で千葉科学大学(学校法人加計[かけ]学園、銚子市)の創設に参画し、微力ながら何とか軌道に乗せることができました。
 現在は、大学の教員になった教え子や研究(学会)仲間からのお誘いで、東京(大崎、茗荷谷)、埼玉(新座市)、神奈川(鎌倉市)、千葉市内などにある四大学の兼任講師として、文字通り東奔西走しています。若い学生諸君を相手に「老害」を発生しないように、細心の注意を払いながら頑張っています。
 また、先の千葉県議会史編さん事業はその後も継続中で、現在、第十巻(昭和編五、平成二十五年度刊行予定)の執筆委員として、若かりし頃の恩返しと思ってお手伝いしています。
十勝岳の平穏を念[おも]いつつ
 過日、NHKの「ラジオ深夜便」で、十勝岳の噴火が激しくなったとの速報があり心配しましたが、兄の話では硫黄火災の火柱であったとのことで、ひとまず安心しました。
 十勝岳など北海道の大自然は世界一の「雪の結晶」とともに、私には掛け替えのない懐かしく大切な自然環境です。しかし、人間と自然の関係を素直に見直してみますと、新期造山帯という最も不安定な地体構造にある日本列島では、「地球大変動の時代」と言われている昨今、何時、何が起きてもおかしくないのかもしれません。
 「3・11」の東日本大震災は、わが国にとって戦後最大の試練と言われています。ともかく、原発事故ともども一刻も早い復旧、復興を願って止みません。『郷土をさぐる』第二十九号では、町役場、消防署、自衛隊の方々の積極的な支援活動が報告されていました。僭越ですが、敬意を表するとともに、心からご慰労申し上げます。

 「天災は忘れた頃にやって来る」と言って警鐘を鳴らしたのは、先の寺田寅彦博士といわれています。最近、京都大学の鎌田浩毅教授が『次に来る自然災害』(PHP新書)で、今後予測される災害として、(1)東北地方の太平洋沖で起きる「余震」、(2)陸域で起きる「直下型地震」、(3)活火山の噴火が誘発される現象、(4)今から二〇年ほどのちに起きる「西日本大地震」、の四つをあげています。差し迫って十勝岳に関係する現象として、(2)と(3)が該当することになるのでしょうか。
 どうか十勝岳がいつまでも平穏で、その雄大で美しい自然景観が故郷の人々の心を和ませたり、訪れる人々を楽しませ、そして、時には勇気をわかせ、時には心を癒してくれることを切に願っています。

 わが故郷、上富良野町の平穏と、ますますのご発展を心からお祈りしています。第三十号の節目の記念すべき時に、編集委員の方から執筆のご依頼があり、披瀝するに値しない拙い内容に恥じながら、光栄のこととして受けとめて、勇気をふるってお引き受けしました。私は今年(平成二十四年)、幸いにして無事に古稀を迎えることができました。生まれ育った故郷を想いつつ、改めて辿ってきた生き様を振り返るよい機会になりました。心からお礼を申し上げます。
 結びにあたって、私ごとで大変恐縮ですが、働き詰めの生涯であった今は亡き両親、姉兄弟、そしてここ房総の地で苦楽を共にしてきた家族に感謝し、この拙文を閉じさせていただきます。    合掌
謝 辞
 掲載写真「昭和年代の白銀荘」は、編集委員長20野尻巳知雄様のお手配によるものです。文意に適う、素晴しい景観の写真をご用意くださいました。
また、編集委員の岡崎光良様には、上富良野教育研究会主催講演会時の調査など、大変お世話になりました。
編集委員皆様のご厚意に感謝し、心からお礼を申し上げます。
引用・参考文献
・「中谷宇吉郎随筆集」 樋口敬二編、岩波文庫、一九八八年
・「研究紀要」第三十一号 千葉県高等学校長協会、平成十五年
・「開校百周年記念誌 希望の光」上富良野小学校、二〇〇二年
・「帆走」十四号 千葉県立磯辺高等学校ヨット部、二〇〇二年
・「上富良野百年史」 上富良野百年史編纂委員会、平成十年
・「郷土をさぐる」第二十九号 郷土をさぐる会、二〇一二年
・「次に来る自然災害」 鎌田浩毅著、PHP新書、二〇一二年
略 歴
一九四二年(昭和十七年) 上富良野町生まれ
一九五五年(昭和三十年) 上富良野小学校卒業
一九五八年(昭和三十三年) 上富良野中学校卒業
一九六一年(昭和三十六年) 富良野高等学校卒業
一九六六年(昭和四十一年) 千葉大学卒業
千葉県立御宿家政高等学校教諭
一九七〇年(昭和四十五年) 大学院(修士)修了
千葉県議会事務局主任主事
一九七七年(昭和五十二年) 千葉県立千城台高等学校教諭
以 後 千葉県立船橋高等学校教諭
県立千葉高等学校教諭
市立習志野高等学校教頭
県立八千代高等学校教頭
県立野田高等学校長
県立磯辺高等学校長
二〇〇三年(平成十五年) 千葉科学大学参与(平成十八年まで)
現 在
四大学の兼任講師
千葉県議会史編纂執筆委員
専 門
経済地理学(農業地理学・山村地理学)、地誌学、社会科・地理歴史科教育
主な著書
『千葉県地名大辞典』(共著、角川書店)
『千葉県風土記―風土と文化』(大杉書店)
『ヨーロッパアルプス山地の土地利用』(共著、山村研究会)
『インドネシア農村地域の変貌』(共著、山村研究会)
『千葉県の歴史』(全36巻)(地誌編T、共著、千葉県)
『千葉県議会史』(第三、四、九、十巻)(共著、千葉県議会)
『心を揺さぶる地理教材2』(共著、古今書院)
その他(論文、教育、各市町史関係等省略)
受 賞
一九八九年(平成元年) 日本商工会議所主催
 「東南アジア経済援助に関する懸賞論文」入賞(現地視察)
二〇〇二年(平成十四年) 千葉県教育委員会
 「千葉県教育功労者表彰」受賞
二〇〇二年(平成十四年) 全国高等学校定時制通信制教育振興会
 「全国高等学校定時制通信制教育功労者表彰」受賞
その他(学会、各市町史、体育関係等省略)

掲載省略:写真「著作物(県内関係)の一部」

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一