郷土をさぐる会トップページ     第30号目次

二代会長 高橋寅吉について語る

札幌市 高橋 直勝(長男)

「父の思いで」
 父は単身で上富に来ていた。昭和三十二年春に母以下子供三人が旭川から引越しをして家族全員がそろって上富生活のスタートをしたのは当時の東町(今の宮町)の公営住宅である。公営住宅は道を隔てた自衛隊官舎側(今の旭町)にもあった。東町は二軒棟・四軒棟・四軒棟の平屋が続きで一列、前後二列が並んで玄関を出ると十勝岳の山並みと田中山(今の日の出公園)が正面にあった。

 父がブロック造りの住宅を「これは夏が涼しく冬は暖かいのだ」と言っていた言葉が残っている。
 私の家は二列に並んだ前の方で田中山よりであった。家の前は背丈の低い熊笹で覆われた原っぱであったが、遊ぶには熊笹が邪魔をしていた。近所の小学生の遊び仲間はHさんTさんなど男だけでも十人くらいはゆうにいた。
 「走り高跳びをやろう」という事になり熊笹を刈り頑固な根を掘り起こして、まがりなりにチッチャな砂場じみたものを作った。熊笹を刈りこんでいる時に黒い矢じり(その石を十勝石と呼んでいた)がポロポロ出てくるではないか、これはすごい発見と思い驚いた。驚いたのは私だけで他の連中には、ごくごく普通のことであったようだ。
 後年、町史によってこれら石器がいたる所に出ているのを知ったのだが、そのようなことは全然分からない子供時代、まして初めて見た矢じりである。何百年前か?何千年前か?アイヌ人か先住民族が、この熊笹のある地で、獲物を追い矢を放ち跳梁跋扈[チョウリョウバッコ]していたのを想像するだけでも少年心には何だか悠遠な気分になったものである。

 やはり小学四・五年生の頃である。公営住宅の二軒棟と四軒棟との間にキャッチボールができるくらいの広場があった。そのあたりで遊んでいた時「今、鉄砲で撃った熊がくるぞ」という声が上がり、広場には私ら子供連中が群れをなして待っていた。近所の大人なのか猟友会の人なのか分からないが、四〜五人の男の人が熊を丸太に吊るして担いできた。十勝岳で射止めた熊を、その広場におろして解体を始めた。皮をはぎ肉を削ぎ、当然、熊の肝は丁寧に取り除かれた。
 「オイ、肉をもっていかないか」と声をかけられたが、尻込みをして手を出す勇気はなかった。当時の十勝岳山麓にはヒグマが生息して熊の出没などは、ごく自然の出来事だったような気がする。旭川の小学校時代、社会科見学で近文アイヌ部落の小熊を見たことはあったが、体長は二bはあろうか、体重は二〇〇〜三〇〇キロくらい、このような大きな熊を見、なおかつ解体までも見たのは小学生にとっては物珍しさと衝撃が入り混じっていた。

 去年(平成二十三年)札幌でも住宅地に熊が出没したニュースを耳にした。十勝岳の熊さんはどこでどうしているのやら?!。

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一