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培本農場−開拓時代とアイヌ−

奥田  司  昭和二年四月八日生(八十四歳)

  未開地の無償払下げ
 明治三十年に北海道国有未開地の処分法ができ、それまでは有償で貸し下げていた未開地を規定に基づいた農場として開拓すると、その土地は只[ただ]で貰える制度ができました。(主として農場主又は団体移住の場合)こんな耳寄りな話しを聞きつけた本州や道内でもお金や実力のある人が、大面積の貸し下げを受け、農場主として開拓者を募集し、できる限りその小作人を優遇しながら、やがては自分の所有となる農場の開拓を進めていきました。
 培本農場はこの翌年、情報に速い政治家によって貸し下げが行われたのです。
 只[ただ]とは言っても幾つかの制約があって、面積によって申請の十町歩(千アール)までは六年以内、二町歩以下は四年間で開拓を完了しなければなりませんでした。
 培本は二戸分を五町(五百アール)で申請していたので、この内の一割に当る五反歩は薪炭林として未開地のままで残せましたが、後の九割に当る四町五反歩は、五年以内に農地として開拓を完了しなければなりませんでした。四町五反を五年で開拓するには、年間九反歩を開拓することになります。大木に笹と蔓[つる]が絡み合う大自然の未開地を、一軒の開拓者が人力だけでこの地積を開拓しなければなりませんでした。
 開墾に着手すると、毎年、道庁の役人が来て状況を調査していたので、家族の中に病人が出たり、体力の劣る人にとってそれはそれは過酷な重労働でした。従って今も『開拓精神』と言う言葉が生きづいているのです。
 開拓が始まって五年目には、成功検査が行われます。この時までに所定の面積を開拓できなかった人は、開拓した分も含めてすべてを国に返し、開拓落伍者となって何処かへ落ち延びていくことになります。培本の古い書類を見ますと、それまでに聞いたこともない人の名が多く載っていて、開拓者の移動が激しく、それがいかに過酷な重労働であったかが窺われます。
 農場主から培本が広大な面積で、いくら入植しても余すことはないので、郷里の知人や親類などにも知らせてほしいと言われ、開拓者は岐阜県や滋賀県の人と文通して開拓者を呼び寄せました。従って、開拓時代の培本には岐阜県や滋賀県の人が多かったのです。
  培本農場の開拓
 培本農場の最初の申請は明治三十三年で、小作による開拓者を募集したが一向に集まらず、農場としての資格検査が行われる二年目に入っても開拓は刻[とき]として進すまなかったので、三十四年には検査の結果返還命令を受け道庁にすべて返却することになりました。
 さらに、農場の中央部の平地で最も有望視される所は石礫[せきれき]と小川の氾濫する湿地帯で、今(平成)も開闢[かいぴゃく]以来林地のまま残っています。加えて富良野岳からの風の吹き下ろしも鮮烈で、砂塵を上空に巻き上げる旋風が培本の沢だけで発生することがあります。
 これ等とは対象的に温暖な平野部では、道内で不適と言われていた米作が収量的にも次第に安定してくると、山麓周辺に住む開拓者の視点は「白いめし」で羨望される豊かな食生活に憧れ、密かに水田圃場へと傾倒しだしてきたことなどが挙げられます。
 こうしたなかにも、開拓者個々の立場では成功者も居たのですが、培本農場としては成功検査を受けるには程遠いものでした。従って、申請から五年を経過した明治三十五年に、農場の最も奥地の方で、その一部が開放され森農場が開設された。
 この農場は現在(平成二十年)の演習地内で着弾地の南方に当る所です。この辺り一帯は、拓殖以前から上川アイヌが十勝と交流していた通行ルートで、笹の生い茂る薮で帰り道を容易にするため、晴れた日は野火を放って行ったと言われています。従って、和人が入植した頃もあまり大きな木はなく、広々として見通しの良い所だったと言われていました (現在の演習地です)。元は培本農場の一部とは雖[いえど]も二百四十四町歩の広大な地積で、この農場の発足に伴い発展と将来性が嘱望され後々の車社会を想定したほどの立派な道路も作られていました。つるはしとスコップとモッコの人力作業で、膨大な土量を移動させた明治時代の工法としては、あまりにも大規模な開削の跡で今も演習地内に史跡となって残っています。

    掲載省略:写真〜培本農場土地台帳

 この頃、鉄道が道内の各地へと延びていき、それまでは開拓の邪魔物として焼却していた木が商品として売れ出してきました。こうなると、農地を作るために貸し下げを受けた土地の立木を切り倒しては用材として売りとばし、裸山になったら開墾もしないで道庁に返す心がけの良くない人も出てきたので、明治四十年から国は未開地を只で貸与する制度に改めました。森農場も、開設当初から炭焼きや石材の切り出しでこんな気配もあったようです。
 大正三年に始まった欧州大戦のとき、農産物移出で「豆成り金」と言われた時、焼き畑にえん豆、手亡、そば、菜種など無耕地にばら蒔きして、一時そこは畑地が急激に広がったときもあったが、この辺りは石礫[せきれき]が多く水の便も悪い所で、営農で住み付く人はほとんど居ませんでした。
 農場の発展と生活には欠くことのできない水源を確保するため井戸を掘り、百二十尺の地下で水脈を掘り当てたが、浸透性の強い土質で湧水は地下に出て地下を流れ去り、井戸としての役には立たなかった。
 この井戸も後にはまた役立つこともあるだろうとそのまま放置されていたが、積年の風雨や凍上で崩れ落ち。昭和六十年には、演習地内の林の中に赤味を帯びた地肌を晒[さら]し、すり鉢状になって生々しく当時の姿を止めていました。
 井戸を掘っても無駄なことが分かり、ベベルイ川の上流から引水を思い立ち、芋掘りで川工事を始めたが、巨岩、岩盤の密集地で膨大な費用と労力が予想されだして、工事は間もなく中止してしまった。水利には程遠く、開拓には岩石が多く、加えて風害、早害のこの農場にも陰りが見えてきた。
 残る培本農場もさらに分断開放され、橋野、長野、佐藤、向井の各農場及び西谷農場へと奥地の方から次々と他人の手に移り、農場としての検査を受ける地積をなくしていった。
 この頃から培本初代の開拓者は、個人農場として申請する動きが出だした。
 明治三十年の立法は、五百ヘクタールという大面積の林野でも開拓できれば個人でも払下げてもらえたのです。
 汗と泥にまみれ、愛着に満ちた開拓地を我が物にしたい思いは募るばかりで、開拓者にとっての自作農……。それは入植以来願い続けた最大の悲願だった。
 学歴のない明治の開拓農民にとって、個人申請は難しい手続きだが、できる、できないの問題ではなかった。是も非もない是非なのだ。執念となって、培本農場の主である吉植庄一郎氏を頼って札幌に赴き、払い下げに関する手続きを教わりながら、各個人ごとに自分の農場としての申請を始めた。
 これが認可されたのは明治四十一年で、貸し下げを受けたその後の追加申請もあって、その翌年にかけ待望の無償付与が認可された。
 これによって地主対小作者の因縁は消え、培本農場はその実を止めず、その名だけを残す農場となった。この手続きで札幌へ何回か赴くとき、なけなしのゼンコ(岐阜地方の方言で銭[ぜに])も使い果たし、旭川から夜通し歩いて帰ってきたときもあった。その年は一文無しの正月を迎える。年の瀬も迫った頃、門松(枝葉でなく一本木)を切り出して旭川に出荷し、明けて一月の中頃に届いた代金で、正月と共に農地収得を兼ねてお祝いをしたと言われています。
 北海道の開発は、主として港湾など沿岸部から始まり。中央部の富良野地方の開発は比較的後れていたが、前記の未開地処分法の施行で挫折した開拓落伍者も含め、一時この富良野地方へ殺到したため開拓の早さは目を見張るものがあったと言われています。上富良野町史は、
「長い冬籠りで融雪を待ちかねていた高山植物が雪どけと共に一斉に開花したような早さだった」
と記述しています(四十二年史)。
 東中神社にある開拓者顕彰之碑には、明治三十年から四十年に至るこの十年間に、東中の開拓に従事された方々の御芳名が刻まれています。
 平成の現在、培本地区を見渡して農地になっている所はほぼこの十年で開拓は完了していたのです。
  培本とアイヌ
 開拓が始まった頃、培本にはアイヌも住んでいました。住居は東十二線と培本道路の交差する所から辰巳(南東)の方向で、小川の流れているほとりでした。
 開拓者が様子を伺いに話しかけていったが、それまで和人とはまったく接触のない生粋のアイヌ人で言葉は通じませんでした。身振り手まねでなんとか分かったことは、ごく最近までは家族の方も同居していたらしいということでした。その後、八年間、このアイヌは培本に居たが、明治三十九年に忽然と何処かへ転出した。
 開拓者が入地した頃、現在の東十一線橋から南東方向の山裾に、丸太作りの骨組みに腐った茅[かや]が垂れ下がって、ポロポロになったアイヌ小屋があったと祖父は話していた。この辺り一帯からは大量の土器や石器類が出土した所で、東中第五遺跡となっていた。
 往年、上川アイヌが原始ケ原を越え十勝の国と交流していたのは、矢尻や石器類を作るには最も適している十勝石を必要としていたためと思われます。
昭和時代に入っても近文アイヌが開拓者の家に泊り込んで十勝への旅は続いていました。これ等アイヌの中にはハウトムテイ(日本名で門野勘治)とか、ハサアケネ(日本名、間宮軍治)という方も居て、和人の家に泊り込みで熊やまねき猫、竜の彫り物など培本に多くの作品を残しています。
 これ等には作者の刻名が入っていて、減少してゆくアイヌの遺作として、ときと共に希少価値が高まっています。

    掲載省略:写真〜木彫熊=狩りで立ち寄ったアイヌ(ハウトムテイ)が、泊りがけで自分で彫ったという熊を置いていった(奥田 司さんが所蔵)

 ハウトムテイと言う人は、江戸幕府の使者、松浦武四郎が培本を通過して十勝方面に赴くときの道案内をした上川アイヌの酋長でクーチンコロと言う方の孫に当る人です。
 のちには培本と名称される此の地へ最初に足を踏み込んだ和人は、開拓者ではなく両刀を差す松浦武四郎でした。ここで松浦武四郎が、富良野盆地の一角を踏破したときの記録に残る一片について転記しておきたいと思います。安政三年(一八五六)三月五日、神居古澤方面を通過してきた松浦武四郎一行が十勝の国に向ってゆくとき、富良野平原を初めて目にしたときの感動を次のように記しています。
『ここは東西四十キロあまり、南北二十キロほどに渡る大平原だ。広々とした原野が続き見わたすかぎり目をさえぎるものはなにもない。この平原だけでもひとつのまとまりを見せている。日本内地でいえばりっぱに一国をなすことだろう。』
 そんなことを思いながら、茫然と眺めていると、同行の役人で飯田という男はひとりつぶやいていた。
「これまで歩いてきた山地にくらべれば暖かくとても良い土地だ。開墾すれば作物もよく育つだろうに、うちすてられている。函館や内地に帰ってこの土地のことを話しても、はたしてどれだけの人が信じてくれるだろうか……。蝦夷地にもこんなすばらしい土地があることを」
          吉田武三著《白い大地より》
 明治三十二年に、初めて培本に開拓者が大地したときからさかのぼる四十五年前のことです。
 武四郎が深山峠から、大雪山連峰を展望したときよりも、この富良野平原を初めて目にしたときの感動は大きかったのです。
 上川アイヌが十勝の国と交流していたルートは、カラ川の南側を通って、富良野だけの狭間を原始ケ原へと通って行ったと言われています。
 蔦や笹葉が生い繁るアイヌ道で、帰りは歩きやすい様にと乾燥しているときは野火を放って登って行った。従ってこのあたり(演習地)は大木が育たず拓殖以前から広々として見通しの良い所だった。この道を門野というアイヌが妻を連れて神谷様宅に一泊して十勝へ行ったきり、待てども遂に帰って来ないことがあった。
 昭和に入ったある日、倍本の勇[いさみ]平八さんと神谷和津馬さんが十勝岳の裏へ魚を釣りに行ったことがあった。その時二人は十勝川の上流で白骨化した人骨を見ている。その近くには焚火の跡もあって短刀が落ちていた。門野さんの物とは断定できないがなんとなく結びつくものがある。
 明治が終わるころ、近文から来たというアイヌが、私の祖父の家に一泊して十勝へ行ったことがある。
 時代が変わった今思うと「野獣や寒気に晒[さら]されながら命がけの旅をしたのか……。聞いておけば……。」と、気になることは多いが、開拓者にとってはアイヌがどうあれ開拓一途で、それ以外の事にはあまり関心はなかったらしい。
 このアイヌは数日後に帰ってきて、翌朝、近文に帰るとき、来年も又来るので壷や弓矢など数点預かってほしいと言って置いて行ったが、その後三年経っても音沙汰が無く、預かった物は毒壷や矢などの危険物で薮の中に捨てたと言っていました。
 培本の開拓者とアイヌの関わりはこうして昭和十三年頃まで続いていました。
 私が小学生だった昭和十年代の頃、春耕で畑の土が天地返しになった雨上がりを歩くと、太陽の光で「ピカーッ」と光る物が目に入る。雨に洗い出されたアイヌの遺物で、矢尻や石器類だ。拾い集めて持っていると、買ってくれる人が居て学校から帰ってきた雨上がりの日はわくわくとしてアイヌの遺物を拾い集めた。模様の入った土器片、完全な形をした壷や石斧[せきふ]、また美しい光を放つ曲玉[まがたま]などを拾ったときは踊り上がるほど嬉しかった。
 大人たちは、「そんな物、土人が使った汚い物だから捨てろ」と言っていたが、即、換金できたから、隠れる様にして拾っていた。培本神社を祭る八幡山とその周辺は東中第五遺跡で、培本最大のアイヌ遺物の出土した所です。
   −参考文献−
  上富良野町史 昭和四十二年刊 岸本 翠月 編集
  白い大地            吉田 武三 著
  北海道百年     永井 秀夫、大庭 幸生 編
  先駆者と北海道   黒田 孝郎、遠藤 一夫 著
  北海道の歴史          榎本  守 著
【注】
 明治三十年四月に「北海道移住民規則」が公布され貸付地を受けることができるのは、二十戸以上の団結移住者、小作農場経営者、二十万坪の面積を受けようとする自作農とされた。
 明治四十一年四月に改正された新法による畑地の貸付期間は、五千坪(約一町五反)未満は三年以内、一万五千坪(五町歩)未満は五年以内、三万坪(十町歩)未満は六年以内、六万坪(二十町歩)未満は八年以内、十万坪(約三十三町歩)未満は十年以内とされ、貸付期間内に開墾出来ないと返還または取消処分となった。
 団体移住者の一戸当りの貸付面積は一万五千坪(五町歩)が標準とされた。
 また、開拓に着手した二年目から道庁の調査があり、予定通りの開拓が進められていない場合は、返還命令が下され、すべて没収された外、切り出された樹木についてはその代金が請求された。
 倍本農場の最初の貸下げ申請は、明治三十三年九月十一日で、大島七之助(千葉県)、大木七郎左ヱ門(千葉県)、藤江謙吉郎(千葉県)がベベルイ川上流で百四十三万八千四百坪(四百七十九町歩)の面積を畑地開墾目的で行っていたが、三十四年十月の検査では樹木の伐採のみで、小作による開墾が皆無であったため、立木弁償金十五円九十九銭を請求して三十五年五月に返還命令が出されている。
 三十三年十月には、倍本地区で杉谷宇右衛門(旭川村)が牧場地目的で九十一万三千百四十四坪(三百六町歩)を貸下げ申請したが、三十九年十月の検査で開墾が認められず、立木弁償金九百九十五円を請求されて返還が命じられた。
 同じく三十三年十二月八日には、大畑弘国(東京浅草区)と米山辰五郎が、牧場目的で百四十三万坪(四百七十七町歩)を申請し、同じ三十三年十二月二十日には、廣部弥三吉(滝川村)速水豊次郎(銭函村)が牧場目的で九十万四百九十坪(三百町歩) を申請しているが、何れも三十六年の検査で不合格となり、返還命令を受けている。
 その後も倍本地区には三十六年に斎藤甚之助(札幌)が七十六万七百五十坪を、森田宇吉郎(札幌)が六十七万二百四十二坪を、本間国蔵(札幌)が九十万四百七十坪を、牧場目的で貸下げ申請しているが、何れも取消、又は返還命令を受けて開墾されていない。その後の様子はわからないが個人が自作開墾で付与を受けたのではないかと思われるが詳細は解らない。
 ただ、倍本地区に隣接するベベルイ地区で、明治三十八年に市村相吉(札幌)と辻村直四郎(新得村)が申請し、橋野安太郎(岩見沢)進藤伊左エ門(山形)に譲渡されて一部開墾し、大正七年に西谷元右エ門(中富良野)松岡百之助(東十線九号)が牧場地と小作人四戸による畑地開墾で付与を受けた七十六万七百五十二坪(二十五町歩)があるが、この地区の始めての開墾登録地である。
                                  (編集委員長 野尻記)

機関誌      郷土をさぐる(第29号)
2012年3月31日印刷      2012年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一