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富良野盆地の平原−潅漑溝−

大森 金男  昭和七年四月一日生(八十歳)

  水路と私の生い立ち
 私は隣町の中富良野村伊藤農場の生れで、昭和九年春に上富良野村富原地区に引越して来ました。
 中富良野村在住当時は幾度となく水害にあい被害甚大であったと聞いている。自然河川の渋毛牛川での氾濫である。父母は水害のない所で暮らしたいとの希望から現在地に移転したのである。
 水田二ヘクタール、畑地は約六ヘクタールで当時の水田にはまだ開墾時の木の切株が残っており、畑は傾斜地がかなり多く、農作業の暇々には残っている切り株の木の根を掘り起こして除去し、開墾に精を出し抜取った根は冬期間の薪としたものである。
 私の家の北側には潅漑溝がある。北二十三号道路と並行し、東三線道路のすぐ近くで第一安井農場から流れてくるホロベツナイ川に合流する。
 他方東四線道路と東五線道路の中間地点、私の家の裏側に木造の水門があって、ここで分水され北二十三号方向と二十二号方向に流れる。水量は二十二号方向におよそ六割位いあろうか。

    掲載省略:写真〜東中土地改良区前の碑(昭和55年6月10日除幕)
    掲載省略:図〜東中土地改良区、区域及び用水系統図

 二十三号方向へ流れゆく潅漑溝の川底は砂利で、二十センチ位いの形の石もかなりある。山麓から二十三号道路に向う所は曲りは九十度あり、かなり深くて幼児は泳げない位いだ。
 このカーブの少し上流にある小川が、土管で潅漑溝の下を通っていて五百米位い東方向からの湧水で、先住民が暮らしていたためか黒曜石の鏃(やじり)があちこちに見られた。水は稲の実る頃、お盆過ぎると概ね止水する、そうなると分水門の溜水には岩魚、又少し大きな石の下にはザリガニが沢山いて、子供達は大騒ぎし乍ら竹ザルで獲り、放し飼の鶏にばら撒いて栄養豊かな卵に期待したものだ。
  用水路管理
 この用水路の流れは、二十三号道路渕ではいろいろの早さと浅瀬や深みがあり、付近の子供たちの遊び場になったり、農耕馬等は日々作業後の水中徒歩で足の汚れを洗い落としたものである。子供達も泳いだり堤防に生えている山イチゴ、熊イチゴ等をとって食べ、口の廻りは真っ赤に染め乍ら楽しんだ。
 当時思うことに、この川の水はどこから流れてくるのか疑問に思い、堤防の草刈りに出役の人に付いて途中迄一緒に行ったが、余り遠いので途中で引き返して帰った。
 堤防の草刈りは、水の辺り迄腕をのばしての作業で、刈った草はそのまま水に流し、平原で水からすくい上げ大きな山積みとなっていた。
 川遊びをしていて思っていたことであるが、十勝岳の麓富良野平野の東部に位置するこの潅漑溝の生いたちについて興味をもっていた。そこで土地改良区の資料から知識を得て主に水について文書化してみたいという気になった。
  過去と続く
 人間というものは真に忘れやすいということだ。例ば大東亜戦争のことを殆んどの人が語ろうとしなくなっている、戦時下の苦しい体験ばかりでなく水田農家が水で苦労した思い出も、子供や孫に聞かせようとしない。聞かせても一笑に附されるだけだからか。
 耕排事業も圃場も整備された、近代的農機械が普及する以前は、夜暗くなるまで農耕馬を追った事も忘れようとしている。潅漑溝の素晴らしい大自然工事を、過保護のもとで育った人々にも読んでもらいたい、鍬とスコップで工事し造ったことを。
 富原地区の潅漑溝の工事始めについて現状高齢者の方々に伺っても、「資料は探せど見当ず」であったが、中富良野町にある富良野地区土地改良区に出向き、郷土をさぐる誌に残したい旨説明して資料の貸出しをお願いした。
 大正時代の農家を指導したのは農会でした。その下部組織としてあった農事実行組合を経由し技術的な指導をした。役場には勧業係があって、村内の指導企画を立てたりしていた。
  植民地撰定
 明治十九年の観察による排水のところだけ見ると次のとおりである。
 上富良野町の土地は高畑であり下層土砂礫である。排水を要する草原と河岸の間に在る半湿地帯では小渠[しょうきょ]をフラノ川に開通し、伐木開墾により排水は充分であるかと思われていた。
  明治時代から大正
 自給自足を目的とした造田がいつから営利的な水田に変ったのか、その時点の説明に苦しむのである。開拓の進展も各町村毎にちがっており、色々複雑であるが、他方における用水組合の設立も又異っている。
  用水組合と水利権
 用水組合が発達すると共同の潅漑溝ができ導水門の位置と水源になる河川が決ってくる。
 この水源になる対岸にも用水組合が生れ、また上流から引水する組合と下流から引水する組合等相互の関係が複雑になるに及んで水利権が設定されるがこの点は次にふれる。
 明治四十一年、米は中富良野で生まれ育った。大正二年頃には水田を見ている。当時のやり方は皆苗代に苗をたてて本田に移植する方法だった、苗を本田に移植する間に苗が育ち整地することができたからである、これらの人々の中に本田に直接籾を蒔いている風景を良く見たものだ。
 水田を造るには、(一)排水事業、(二)伐採事業、(三)暗渠排水事業、(四)客土事業、(五)圃場事業など水田を造るには湖水にも等しい湿地に対し大事業を断行、富良野地方の黎明を告げた、富良野土功組合(大正六年創立)の事業であったが、昭和九年解散し施設、経理を土地改良区に引継ぐ。
 潅漑溝の工事始の資料を探せど見当らず、されど富良野地区改良区史によると大正三年から比較的良好な作況とあり、水稲が産業として発達し経済の基礎を得る作物になったのであろう。
 近くに小川や池等のある処はそれを活用し水田に整地したであろうが、高い処から富良野原野を眺めるにヤチダモ、ハンの木の間のあちこちの湿地に水溜りやヨシ原があり川も流れていた。
 私は、職業の関係で知り得たのは湿地ではない山麓地帯で、畑地に開墾し豌豆、手亡等の豆類の作付が全盛時代であったのだが数年で没落した者多く、十勝北見方面へ転出した者も多数出たようだ。耕作適地として水田地帯が今後の富良野原野では益々栄える見込で、大正ひと桁では田造り話題がもっぱら盛んだったと聞く。
  原野の開墾
 平坦な土地の開拓をするには第一に排水から始めなければならない。富良野川、ヌッカクシフラヌイ川への流水である。次には潅漑溝の測量だ。原野の東側のデポツナイ川、ホロベツナイ川の水量に加えてヌッカクシフラヌイ川の水量でも不足であり、富原地区と東中地区のベベルイ川水量では平原の東部山麓地帯の用水流は困難であり、富良野平原を増田していくにはどこかに水源を求めなければならない。
 そこで着目されたのが空知川である、これを富良野市布部に求め東側の山麓に導けば、平原の河川を流れる大自然造化の創造した諸川と逆に流れて、この大平原の至るところに配水できるという「兜谷徳平翁」を筆頭に同志によって、ヌノツペ川、ベベルイ川を水源とし、腕艇蛇行[えんえんだこう]する大幹線用水路及び分水する各支線の完成によって富良野盆地の稲作は頓[にわか]に拡大されたのである。
  潅漑溝の測量
 山の麓から十〜三十メートル位の高台を自然高低差による水が流がれるように正確な測量が必要で、若し水が計画通り流下しなければと、異議も多く数度の会議を開催するもその度喧喧諤諤[けんけんがくがく]が続いた。
 他方では排水や開墾に精を出さざるを得ない。笹、草刈り、ハンの木、サピタ、タモの木等々の伐採、杣入[そまびと]により切り倒し造材人夫により搬出した後、土を耕すのは島田鍬とスコップである、笹薮など根の混雑した所は島田鍬が形や切れ具合を発揮し掘り起こしたそうだ。
 議論を度重ね潅漑溝を掘鑿[くっさく]することとなり、大正三年から大正十五年までの間と見てよいだろうとある。然るに平原の水田開墾は数ヶ年の年月を要したが、潅漑溝の方は猛スピードで工事が進められたものと思う ベベルイ川からの潅漑溝の平原までの距離は三十キロメートルくらいか、ヌノツペ川からだと五十キロメートルもあるだろうか、流水を自然から逆流させることは、現在のように電力や発動機のない時代によくぞこの潅漑溝を考えつき実行された先人の知恵、努力を世代が変わっても引継いでもらいたいと思う。掘鑿の深さは二メートル前後もあろうか、底泥や堤防管理の草刈り或いは決壊の恐れの箇所等は山石を運び補修している。未来にあっても、補修管理は継続が必要な大自然を加工した生物であると思うが、現在に至っての潅漑溝の底面はコンクリートとなり、緑は数段ブロックを重ね堅固な水路となっている。

    掲載省略:写真〜ヌノッペ幹線用水路
 東中土地改良区役員(昭和55年当時、写真は掲載省略)
 (理  事)
  理事長  床 鍋 正 則
  副理事長 岡 山 幸 吉
  理 事  岩 崎 英 晴
   〃   南   米次郎
   〃   幅 崎 要 作
   〃   村 上 富士雄
   〃   松 田 勝 利
 (監  事)
  代表監事 伊 藤 一 馬
  監 事  青 地   繁
   〃   向 山 伊太郎
※東中土地改良区は昭和55年6月10日、道営温水溜池事業、国営付帯道営かん排事業山手支線、同第一用水工事、島津地区かん排事業、道営富原地区圃場整備事業、また、防衛施設周辺整備障害防止事業ではヌノッペ用水路、広巾用水路、倍本用水路工事など、40年以降に施行した事業の完成を祝い、総合完工祝賀式と併せて事務所前庭に建立した「清流の郷」の記念碑除幕式を行った。(上富良野百年史から)

機関誌      郷土をさぐる(第29号)
2012年3月31日印刷      2012年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一